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2016年12月 の投稿

オリンピックの身代金

カテゴリー:社会

(霧山昴)
著者 奥田 英明 、 出版  講談社文庫
舞台は昭和39年(1964年)8月の東京に始まります。東京オリンピックの開幕が目前に迫っている東京です。
私は、この年の4月に高校に入りました。秋の文化祭でゲゲゲの鬼太郎のはりボテをつくった記憶があります。田舎の県立高校ですが、一学年で東大に4人入るという、それなりの進学校でした。
この本は、当時の日本と東京の雰囲気をよく再現しています。
東京オリンピックまであと二ヶ月。道端にいた物乞いたちは、疎開を余儀なくされた。そして、銀座から赤坂にかけて遊んでいるチンピラ連中も街から追い出された。テキ屋団体の東声会の町井会長がオリンピック開催期間中は、東京から出て、海か山で肉体と精神の鍛練をするように命令した。
全国のマイカーが百万台に達し、有楽町あたりでは朝夕に渋滞が起きるようになっている。この夏、東京は未曾有の水不足に見舞われた。給水制限、7時間断水などから、「東京砂漠」と呼ばれた。
そして、そのオリンピックの開催を妨害するという予告の手紙が警察に届いた。警察学校で爆破事件が起き、予告が単なる冗談ではないことが証明された。
犯人は誰か。このころ草加次郎を名乗る男が騒ぎを起こしていた。同一人物か・・・。
これ以上、アラスジを書くのはネタバレになりますし、読む楽しさを奪いますので、止めておきます。昭和39年10月の東京オリンピックに向けて、東京が大改造されていったこと、それを実際に担っていた工事現場では何層もの下請がいて、末端で働く人々は、まるで人間らしい扱いを受けていなかったこと、そこには暴力団が暗躍していたことが上手に織り込まれていて、とても読ませます。
上下2冊、460頁、400頁という長編ですが、飽きさせることなく読みすすめることができました。
2020年の東京オリンピックって本当にできるのでしょうか。海外には、東京の放射能汚染を心配している声も上がっています。実際、これだけ地震が多発していますから、オリンピック期間中に大地震が起きないという保証は誰もできないのです。
一部の人はオリンピックでボロもうけすることになるのでしょうが、もっと他に、オリンピックよりも先に国としてやるべきことがある気がしてなりません。
(2014年11月刊。1400円+税)
 仏検(準一級)の結果を知らせるハガキが届きました。合格です。基準点73点に対して78点でした(120点満点)。つまり6割で合格です。今回は5点だけ上回っていました。ちなみに自己採点は76点でした。
 1月末に口頭試問を受けます。これが鬼門なのです。読んで分かるというのではなく、フランス語で3分間まとまったことを話さなくてはいけません。それも3分前にテーマを与えられて、それについて語るのです。
 ですから、時事ネタについて起承転結をつけて話す訓練をする必要があります。でも、これが難しいのです。
 毎朝、NHKのフランス語講座(応用編)を書き取りして、なるべく暗記するように努めています。
 これが目下の最大のボケ防止対策になっています。

モンゴル帝国と長いその後

カテゴリー:中国

(霧山昴)
著者 杉山 正明 、 出版  講談社学術文庫
チンギス汗の建てたモンゴル帝国は短い帝国だったようで、実は、その影響は実に息の長いものだったことを示している文庫本です。
中国の元朝、大清国は、その後の大発展をふくめて、一貫して名実ともに満蒙連合政権であり続けた。
チムール帝国のあとに第二次チムール朝たるムガル帝国が誕生した。このムガルとはモンゴルのこと。タージ・マハルは第5代ムガル皇帝が17世紀に造営した宮殿。
チンギス・カンの風姿を伝える記録は、なぜか、まことに少ない。孫のフビライの肖像画を下敷きにして今あるチンギス・カンの肖像画が描かれたのではないか。
小柄な人が多かったモンゴル遊牧民のなかで、チンギス・カンは並みはずれた巨軀だった。そして猫のような目をしていて、ただものでは全くなかった。
モンゴル騎馬軍団は、耐久力はあるがスピードの出ない小型のモンゴル馬に乗る。よく飛ぶ短弓で短矢を射る。長弓も大小の弩(ど)も使い、馬上で槍を操る部隊もあった。馬と弓矢の軍団にすぎなかった。
モンゴル遊牧民たちは、きわめて淳朴にして、勇敢で、命令・規律によく従った。モンゴルの第一の強みは、その組織力・結束力にあった。次に、周到すぎるほど周到な計画性がある。外征に先立ち、チンギス・カンこと周辺は、自軍に対しては徹底した準備と意思統一、敵方については、これまた徹底した調査と調略工作をおこなった。たいてい、2年をかけた。できれば、戦う前に敵が崩れるか、自然のうちになびいてくれるように仕向けた。逆に、敵方への下工作や現地での根回しが不十分なまま敵軍と向かいあったときには、しばしば敗れた。
チンギス・カンは猪突猛進のアレクサンドロスのような戦場の勇者ではなかった。見切りの良さと、ころんでも動じない冷静さをもっていた。沈着・平静な組織者であり、戦略眼のたしかな老練の指導者だった。質朴・従順で、騎射の技倆にすぐれた機動軍団を率いていた。
モンゴルは、チンギス・カンの高原統一のころから、既に、どちらかというと戦わない軍隊だった。情報戦と組織戦を重視して、なるべく実戦しない。世にいう大量虐殺や恐怖の無敵軍団のイメージは、モンゴル自身が演出し、あおりたてていた戦略だった。誰であれ、自分たちと同じ「仲間」になれば、それでもう敵も味方もない。
モンゴル軍は、実は、それほど強くもなく、自分たちでも、そのことをよく知っていた。モンゴル西征軍は、ほとんど自損も消耗もせずに西征を続けた。
モンゴルは、モンゴルたる人の命を徹底して大切にした。モンゴル軍における自軍の戦死者をできるだけ回避しようとする態度の徹底ぶりには、驚くものがある。
モンゴル帝国には、あからさまな人種差別はほとんどなかった。能力、実力、パワー、識見、人脈、文才など人にまさる何かがあれば、どんどん用いられた。まことに風通しのよい時代だった。モンゴルは、さまざまな人々が共生する「開かれた帝国」だった。
「モンゴル」なるかたまりが多重構造であっただけでなく、システムとしての帝国も、大カアンの中央ウルスとその他の一族ウルスからなる多元の複合体だった。
イラクのバグダードとは、ペルシア語のバグ(神)がダード(与えた)地だった。アラビア語では「平安の都」と呼んだ。モンゴルのバグダード・イラク統治は、基本的に間接支配をつらぬいた。
チンギス・カンのモンゴル帝国の内実と、ヨーロッパに向けた西征の実態を再認識させられ、大変勉強になりました。
(2016年4月刊。1150円+税)

がん(上)(下)

カテゴリー:人間

(霧山昴)
著者 シッダールタ・ムカジー 、 出版  ハヤカワ・ノンフィクション文庫
癌についての分厚い上下2冊の文庫本です。
今では多くの癌が死に直結するものではなくなりました。人類の英知の結晶です。この本は、現在に至るまでの医学の進歩をたどっています。
私は、この本を読みながら、人間の身体の神秘性をつくづく実感しました。なにしろ、人間の身体では、いろんな化学的成分がつくられているのです。それを現代科学が少しずつ解明しているわけですが、その対象は、なんと私たち人間の身体の奥深いところでつくられている各種成分なのです。
がんは単一の疾患ではなく、多くの疾患の集まりである。それをひとまとめにして「がん」と呼ぶのは、そこに細胞の異常増殖という共通の特徴があるから。
白血病は、がんのなかでも特別だ。その増殖の激しさと、息を吞むほど容赦のない急速な進行を示す。白血病は、ほかのすべてのタイプのがんと異なっている。白血病にとって、6ヶ月生存したというのは、6ヶ月はまさに永遠とも言うべき長い期間だ。1934年7月、マリーキューリーは白血病で亡くなった。
がん細胞は、正常細胞の驚異的な異形であり、がんは目を見張るほど巧みな侵略者かつ移住者だ。がんでは、無制御の増殖が次々と新しい世代の細胞を生み出していく。
がんは、今日、クローン性の疾患だということが判明している。しかし、がんは単なるクローン性疾患ではない。クローン性に進化する疾患なのだ。変異から淘汰、そして異常増殖という、この冷酷で気の滅入るようなサイクルが、より生存能力の高い、より増殖能力の高い細胞を生み出していく。
平均寿命ののびは、たしかに20世紀初頭にがんの罹患率が増加したもっとも大きな要因だった。
近代的な冷蔵庫が普及し、衛生状態が改善して集団的な感染が減少したため、胃がんの流行は見られなくなった。
がんの全身治療は、あらゆる肉眼所見が消えたあとも、長期間にわたって続けなければならないのが原則だ。
乳がんについて、根治的乳房切除術を受けた患者グループは、重い身体的代償を支払ったにもかかわらず、予後に関してなんの利益も得られていないことが1981年に判明した。今日、根治的乳房切除術の施行は、ほとんどない。
前立腺は、恐ろしいまでのがんの好発部位だ。前立腺がんは、男性のがんの3分の1を占める。これは白血病とリンパ腺の6倍だ。60歳以上の男性の剖検では、3人に1人の割合でなんらかの前立腺の悪性所見が発見される。進行はとても遅く、高齢男性は、前立腺がんで亡くなるのではなく、前立腺がんとともに亡くなることがほとんどである。
たばこと肺がん発症は30年近くも開くことがある。たばこメーカーは、新たな市場として発展途上国を標的にしており、今では、インドと中国における主要な死因はたばこである。
ヘリコバクター・ピロリの除菌は、若い男女で胃がんの罹患率を減少させたが、慢性胃炎が数十年も続いている高齢患者では、除菌療法の効果はほとんどなかった。
エジプト古代王国の時代から、まさしく4000年の歴史をもつ癌治療進化する状況の到達点が実に刻明に紹介されています。
(2016年7月刊。920円+税)
韓国映画『弁護人』をみました。盧武鉉(ノ・ムヒョン)元大統領が釜山(プサン)で弁護士として活躍していたときを描いた映画です。韓国では1000万人がみたとのことですが、大変な迫力があり、あっというまに2時間がたっていました。
 主人公のソン・ガンホは、まさしく法廷で不条理を許さないと吠えまくります。見習いたいド迫力でした。
 アイドル・グループのメンバーが拷問を受ける大学生役として登場してきます。彼がやったのは、女子工員を集めた、ささやかな読書会です。私も大学生のころセツルメント活動のなかで、「グラフわかもの」という雑誌の読者会をしていたことがあります。職場の話がどんどん出てきて、大学生の私のほうが聞き役でした。そんな活動をしていると、アカだとして拷問され、国家保安法違反だというのです。
 法廷の内外で裁判官と検察官は仲間として親しく交流しています。憲法も刑事訴訟法もそっちのけで、権力の忠実な番犬としての役割を競って果たしているのです。これって、日本でも同じようなものですよね。
 権力に真向から対決できる弁護人の存在が欠かせないことを明らかにした映画です。ぜひご覧ください。

池田屋事件の研究

カテゴリー:日本史(江戸)

(霧山昴)
著者 中村 武生 、 出版  講談社現代新書
 幕末の京都に起きた有名な池田屋事件の顛末とその背景について、豊富な資料をもとにぐっと掘り下げた本格的な研究書です。400頁をこす新書ですから、ずっしりとした手応えがありますが、内容も重さに負けていません。
 池田屋事件は元治元年(1864年)6月5日に起きた。そのころ、各地で攘夷浪士による挙兵が相次いでいた。大和の天誅組の乱、但馬生野の変、水戸の天狗党の乱、長州毛利家の率兵状況(禁門の変、蛤御門の変)。
 池田屋事件のきっかけとなったのは、京都・四条小橋西詰真町の桝屋喜右衛門こと古高(ふるたか)俊太郎の逮捕だった。その6月5日の朝、古高(当時36歳)は自宅で新撰組に捕えられた。それを知った長州毛利屋敷は激しく動揺し、新選組の壬生屋敷を襲って、暴力に訴えてでも古高を奪還しようとなった。池田屋に新長州浪士たちが集まったのは、その具体化のためだった。
 なぜ町の一介の商人を毛利家中が見殺しにせず、救出しようとしたのか・・・。それほど、古高は重要人物だった。
新撰組は文久3年(1863年)3月に創立された、京都守護職会津松平容保所属の浪士集団。畿内で暗躍する新長州の浪士集団に対抗するため、会津松平家は同じく浪士集団の必要性を感じていた。
 古高は、皇族・堂上・長州毛利家をはじめとして広く交流しており、情報が集中し、面談場所として解放されていた。したがって、その存在を新撰組を気づくのは必然でもあった。
新撰組が古高を拷問にかけたとしても、その具体的供述によって初めて池田屋襲撃がなされていたというものではない。新撰組は古高の逮捕前から、浪士の潜伏場所として、20カ所あまりを確認していた。そこで、新撰組は、会津藩、一橋家、桑名藩に応援を頼んだから、応援組が遅れたので、待ちきれずに新撰組は行動を開始した。
 桂小五郎も新撰組が池田屋を襲撃した当時、その場にいて、すぐさま脱出して屋根伝いに逃げて対馬屋敷へ入った。
新撰組に襲われて池田屋内で戦死した者が7人か8人いるのは確実だが、それが誰なのか、今なお確定していない。
池田屋事件の直前、近藤勇は新撰組の解放を請願していた。近藤勇は、自分たちを攘夷を行う「尽忠報国」の士と位置づけていた。攘夷が実行されず、京都の市中見回りに配属されるのをよしとしなかった。しかし、禁門の変のあと、変化した。禁門の変のあと、近藤勇は攘夷よりまず長州征討を行うべきだと主張するようになった。そして、一・会・桑(いっかいそう)が近藤勇と新撰組を手離さなかった。薩長にとって政局打開の最前線の敵は、一・会・桑だった。その一・会・桑の最重要軍事力こそ新撰組だった。ここで、たかが150名程度の兵士と考えてはいけない。150名というのは決して少なくないし、軍事的精鋭によって構成されている。
 池田屋事件からまもなく起きた禁門の変で、長州は惨敗する。ところが禁門の変で反長州の立場をとった薩摩が、こんどは一・会・桑とことなり長州の社会復帰を助けた。あくまで毛利家の羽体化を望む一・会・桑との決戦を覚悟したのが、薩長同盟。それが長州征討の失敗につながる、会津が長州と全面戦争を行う覚悟を決めた事件として池田屋事件は位置づけられる。
 5年前に刊行された本です。絶版になっていたので、ネットで古本を入手しました。その後、研究はさらに進んでいるのでしょうか・・・。
(2011年10月刊。1200円+税)

使用人たちが見たホワイトハウス

カテゴリー:アメリカ

(霧山昴)
著者 ケイト・アンダーセン・ブラウワー 、 出版  光文社
アメリカの大統領宮殿はフランスにある古城とそっくりなのだそうです。
この本では、ホワイトハウスの建築デザインのもとになったのは、ダブリンに建つ18世紀のジョージアン様式の邸宅であり、現在はアイルランド議会議事堂として使われているレンスター・ハウスだとされています。どちらが本当なのでしょうか・・・。
そのホワイトハウスの仕組みと、そこに住んでいた大統領ファミリーの実情の一端が明かされています。
ホワイトハウスには132の部屋、147の窓、28の暖炉、4つの階段に3基のエレベーターがある。外からは3階建てに見えるけれど、実はふたつの中三階があり、6つのフロアーから成る。三階と四階がレジデンスと呼ばれ、大統領とその家族の居住スペースになっている。そこに総勢100人ものスタッフが働いている。
アッシャーは、案内係とか門衛と訳されるが、招待客や訪問客を案内する。チーフアッシャーの下で各部門の監督にあたる。メイドや執事(食事の給仕や銀食器の管理などを行う)がいる。ホワイトハウスには、96人の正規スタッフと250人の臨時スタッフが働いている。
スタッフ用のキッチンや貯蔵庫は地階に位置する。
大統領ファミリーのための食材は、身分を隠したレジデンスのスタッフが直接、食材を購入して安全を期す。何よりも匿名性が重要だ。ファーストファミリーのための食材だと誰も知らなければ、食材に毒を盛ろう考える者はいない。
レジデンス内で毒味役はいない。スタッフ自身が毒味役を兼ねる。そして、外で大統領が食事をするときには陸軍の担当者が厨房で監視し、準備や調理に目を光らせ、必ず毒味する。
クリントン大統領夫妻ほど感情的なカップルはいなかった。スタッフは、その激しい感情の起伏をたびたび目撃した。ホワイトハウスに働くことはローラースケートに乗っているようなものだった。
ジョンソン大統領はめったに満足せず、常に怒鳴り声を響かせていた。その気の荒さとあからさまな弱い者いじめのため、ジョンソン大統領と顔を合わせるのを避けるスタッフが多かった。
クリントン大統領が不倫騒動を起こしていたころ、クリントン大統領は、頭を数針も縫うケガをした。ヒラリーが、大統領を本で殴ったのは間違いない。
これって、有名な話ですよね・・・。ヒラリーは、よくカンシャクを起こした。この本にも、そう書かれています。
レーガン大統領は、任期中の75歳ころからアルツハイマー病の兆候が認められていた。そして、大勢のスタッフに囲まれて育っていく子どもたちがいました。思春期の難しい年頃をホワイトハウスで過ごすのは本人にとっても大変なことが多かったようです。
現在のキャロライン・ケネディ駐日大使もその一人です。いろいろ不祥事もあったようですが、すべては闇のなかです。口の固い人のみの職場なのです。
トランプ大統領が、子どもの学校の関係で、しばらくホワイトハウスでは単身赴任生活というニュースが流れていますが、当然なのでしょうね。
(2016年10月刊。2000円+税)

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