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2016年10月 の投稿

未来ダイアリー

カテゴリー:司法

(霧山昴)
著者 内山 宙 、 出版  金曜日
 もしも、自民党改憲草案が実現したら?
 静岡の若手弁護士によるイメージあふれる本です。自民党改憲草案の本質が、その不気味さが余すところなく紹介されていて、心底からゾクゾク悪寒を覚えてしまいます。
 さしずめ寅さん映画で、タコ社長が、ああ、気分が悪くなってきた、まくら、サクラをくれ(「サクラ、枕をくれ」の言い間違い)を起こしてしまいます。
 安倍首相は、今国会で憲法改正論議を始めると宣言しました。おっと待ってください。首相も国会議員も、憲法を守り尊重する義務があるのを忘れてはいけませんよ・・・。
著者に面識はありませんが、「あすわか」に所属して、最近メキメキと売出し中です。「宙」って、なんと読むのかと思うと、「ひろし」だそうです。
「あすわか」って、何ですか・・・。「明日の自由を守る若手弁護士の会」の略称です。ですから、私には残念ながら加入資格がありません。「あすわか」の作成した「司法芝居」も良く出来ていますよ。私も小さな学習会で活用させてもらいました。
この本は、自民党改憲草案が草案でなくなり、現実のものになったとき、日本はどうなっているのかをリアルに再現(?)しています。いやあ、実にソラ恐ろしい世の中です。
 まるで、戦前の域詰まる日本の再来です。
 「改正前の日本国憲法を学ぶことは、今の新憲法の秩序を破壊しようとする行為に該当する」
 「以前の憲法を学ぶことすら、公の秩序違反と言われるようになってしまった」
 「いろいろ政府に文句を言っていると、内乱予備罪の疑いをかけられてしまう」
 「たしかに国民投票があったけれど、まさか、こんなに変わってしまうなんて、思ってもみなかったもんで、投票には行かなかった・・・」
 「憲法なんて、よく分からない。難しくて、考えるのが面倒。自分には関係がない。収入が少ないから目の前の生活で手一杯で、考える余裕なんてない。まじめに投票に行くなんて、カッコ悪いし・・・」
 「NHKなんて、ひたすら政府をよいしょしてて、気持ち悪いです・・・」
 いまの日本は、憲法改正するかどうかの瀬戸際にある。そして、すでに安倍政権は国会で3分の2の議席を占めている。ところが、国民の多くは、まだまだ憲法が自分たちの生活と平和を守ってくれるという自覚が薄いようです。そのスキを安倍政権はついているのです。
 この本は、その隙をつかれたあげく改憲が現実化したときの日本の恐ろしい状況を、とても分かりやすく示しています。
 私も、著者のような若手弁護士と一緒に、日本の平和と世界の平和を願って、すこしずつでも引き続き声をあげていくつもりです。
 いい本をありがとうございました。ぜひ、みなさん、手にとってお読みください。
 
(2016年8月刊。1000円+税)

戦争まで

カテゴリー:日本史(戦前・戦中)

(霧山昴)
著者 加藤 陽子、 出版  朝日出版社
 30人ほどの中高年に向けて、大学教授が日本が対米戦争に踏み切るまでの経緯を問答形式をとり入れながら語っている面白い本です。心と頭の若くて柔らかい中高生時代をとっくに過ぎた私ですが、最後まで面白く読み通しました。
話を聴いていて、ときにある著者からの問いかけに対する中高生の答えの素晴らしさは声も出ませんでした。これって、ヤラセじゃないのと、つい頭の固いおじさんは疑いたくなるほど見事な回答なのです。
戦争とは、相手方の権力の正統性原理である憲法を攻撃目標とする。
戦争は、相手国と自国とのあいだで、必ず不退転の決意で守らなければならないような原則をめぐって争われている。相手国の社会の基本を成り立たせてる基本的な秩序=憲法にまで手を突っ込んで、それを書き換えるのが戦争だ。
天皇は2015年8月15日の全国戦没者追悼式の式辞において、戦後の日本の平和と繁栄を築いたものは、「平和の存続を切望する」国民意識と国民の努力によると語った。
この点、私もまったく同感です。安倍首相の言葉には、まったく欠落している視点です。
1931年9月の満州事変のあと、国際連盟は現地にリットン調査団を派遣した。そして、翌1932年10月にリットン報告を発表した。
日本側は、中国国内の国共対立、日本製品ボイコットの実情をリットン調査団に見せようとした。必ずしも日本の不利になるとは考えていなかった。
リットン報告書は、日本軍の軍事行為は自衛の措置とは認められない。満州国は日本のカイライ国家であり、現地の人々の支持を受けていない。日本製品ボイコットは国民党政府が組織したもの。この三つが持論だった。
リットン報告書は、十分過ぎるほど、日本側に配慮していた。そして、中国側はこの報告書に不満だった。つまり、リットン報告書は、日中両国が話し合うための前提条件をさまざま工夫したものだった。
戦前の日本の外交・軍事の暗号がアメリカ軍にあって解読されていたことは、有名です。山本五十六元帥も、そのため撃墜されてしまいました。ところが、この本によると、日本側もアメリカの外交電報の9割は解読していたというのです。
アメリカほどではないにしても、かなり高い解読能力を有していた。これは、ちっとも知りませんでした。
戦争が、相手国の権力の正統性原理への攻撃であったとすれば、その攻撃の為に敗北し、憲法を書き換えられることとなった当事者である日本人として、戦争それ自体の全貌をちゃんと分かっていなければならない。しかし、沖縄を例外として、戦場が主として海外であったこと、戦争の最終盤があまりにも悲惨だったことで、日本人は戦争を正視するのが、なかなか難しかった。
飛耳長目の道。あたかも耳に翼が生え、遠くに飛んでいって聞いているように、自国にいながら他国のことを理解することであり、また、あたかも望遠鏡のように遠くを見通せる「長い目」で眺めるように、現在に生きながら昔のことを理解できること、という意味。つまり、自国にいながら他国にことを理解し、現在に生きながら昔のことを理解するのが学問であり、その極めつけが歴史なのだ。
中高生を目の前にして戦前の日本を振り返ると、話すほうにも得られるものが大きい。このように書かれています。なるほど、そのとおりだろうと、この本を読んで思いました。
巻末に参加した中高生全員の氏名が学校名とともに紹介されています。すごい子たちです。日本も、まだまだ見捨てたものではありません。
(2016年8月刊。1700円+税)

大本営発表

カテゴリー:日本史(戦前・戦中)

(霧山昴)
著者  辻田 真佐憲 、 出版  幻冬舎新書
 いい加減な政府当局の発表を今でも大本営発表と言いますよね。安倍首相は、いくつも大本営発表しています。たとえば、オリンピックを東京に誘致するとき、原発事故は完全にコントロールしていますなんて、真っ赤な大嘘を高言しました。また、アベノミクスで国民生活が豊かになる(なっている)かのような幻想を今なお振りまいています。
 この本を読んで、堂々たる嘘を戦争中ずっと高言してきた大本営発表の本質を知ることができました。それは、一言でいうと、軍部と報道機関の一体化にある。でしたら、今の日本のマスコミも、NHKをはじめとして、権力にすり寄ってアベノミクス礼賛がほとんどですから、似たような状況にあるってことじゃないですか・・・。恐ろしいです。
 大本営発表は1941年12月8日からと一般に言われ、846回の発表がなされた。しかし、実は、その前の1937年12月の南京攻略のときにもあった。
昭和の大本営は、敗戦の年まで首相の参加を認めていなかった。その実態は陸海軍の寄合所帯にすぎなかった。参謀本部が大本営陸軍部を名乗り、軍令部が大本営海軍部と名乗っていた。統合されたのは、1945年5月のこと。敗戦の3ヶ月前だった。
 当初は陸軍が熱心で、海軍将校は報道を無用なおしゃべりとみなし、チンドン屋と呼んでバカにしていた。
当初は、軍当局は新聞をよくコントロールできていなかった。それは新聞各社の部数拡大をめぐる熾烈な競争があったから。そして、報道合戦に勝ち抜くためには、軍部との協力が不可欠だった。
新聞はジャーナリズムの使命感というより、単なる時局便乗ビジネスに乗っていただけ。これは毒まんじゅうだった。軍の報道部と新聞は、いつのまにか持ちつ持たれつの関係になっていた。
 1941年12月8日からの大本営発表は戦争報道を一変させた。新聞に代わってラジオが全国に速報する役目を担った。聴く大本営発表の時代が到来した。同時に軍歌が流された。
「ソロモン海戦に関する大本営発表は実にでたらめであり、ねつぞう記事である」
これは、昭和天皇の弟である高松宮(海軍中佐)が日記にかいた文章。
日本軍は情報を軽視していた。事実を確認することなく(確認できず)、戦果を誇張して発表し、それに自ら騙され、しばられていった。
 ミッドウェーでの敗北を発表すると、国民の士気が衰えることを心配した。大本営は国民を騙しただけでなく、海軍にも正確な情報を伝えなかった。
サボ島沖海戦で手痛い敗北を受けると、作戦そのものをなかったことにしてしまった。
国民は三重に目隠しされた。日本軍の情報軽視により、戦果の誇張がおきる。そして、損害の隠蔽が起きる。さらに、ジャーナリズムの機能不全に陥る。
軍部の感覚はマヒしていた。前回もやったことだから、今回も損害を隠蔽してしまおう。これも士気高揚のためだ。いまさら嘘を覆すわけにもいかない。マスコミは自由自在に動かせるから、どうせ国民にばれることもない。
「玉砕」という言葉は、大本営から反省する機会を奪った。ただし、「玉砕」という言葉のごまかしは1年間のみ。戦局があまりに悪化したため、美辞麗句ではもうごまかせず、「全員戦死」とストレートに表現されるようになった。
 ジャーナリズムが軍部当局、ときの権力にすり寄り、一体化してしまうと大変な不幸を日本にもたらすのですね。最近、アメリカのF35戦闘機を購入するというニュース映像が流れましたが、一機いくらするのか、何のために日本がこんな戦闘機を購入するのか、欠陥があるとの指摘はまったくありませんでした。ひどいニュースは、もう始まっています。
(2016年8月刊。860円+税)

漂うままに島に着き

カテゴリー:社会

(霧山昴)
著者  内澤 旬子 、 出版  朝日新聞出版
 この著者の『飼い喰い、三匹の豚とわたし』には圧倒されました。だって、みるみる巨体になっていく3頭の豚を自分で飼って最後まで面倒みたあげく、その豚肉を美味しくいただいたという話なのです。エサをきちんと与え、運動させた豚の肉は素晴らしく美味しかったとのことです。たしかに、そうなんだろうなと思います。というのも、私も最高ランクの牛肉を食べたことがあります。すると、いつもの牛肉の味とはまるで違うのです。やっぱり、エサと運動、健康管理が味にきちっと反映されるのですね・・・。
 この本は、乳がんになり、離婚もして一人で生活する40代の独身女性が東京を捨てて、何と小豆島に単身移住するという話です。
ガンを抑えるためのホルモン療法中に起きた副作用をきっかけとして、狭い場所や騒音が苦手となり、自分の居住空間のゆとり部分を広げるべく、蔵書を半分以上も処分し、仕事で書いてきたイラスト原画や収集してきた古書も手放した。別居を経て離婚し配偶者に去っていただいた。すっからかんの、何もない、静かな部屋で暮らしたい・・・。
これは、私もまったく同感です。子どもの情操教育に必要だと思って小さなピアノを置いていたのを、まず処分しました。すると、隣にあった背の高い本棚が邪魔だと思うようになりました。幸い引き取り手を得て、私にとって不要な本を次々に放出していき、今では12畳もあろうかという広い板張りの居間には何もありません。座卓と背筋トレーニング・マシーンがあるだけ。そして、昔は大きなステレオセットがありましたが、今では小さなステレオセットは本棚に埋め込んでいます。テレビはないので、夜は、虫の音しか聞こえてきません。静かなものです。じっと坐っていると、夏の夜には夜香木の香りが漂ってきます。といっても、一方の壁は、天井まで全面が本棚になっていて、縦にも横にも本が積み重なっています。そして、その本の背表紙を眺めるのが私の寝る前のささやかな楽しみなのです。
 小豆島での借家探しの苦労話が詳細に語られますが、それ自体を楽しんでいる風情なのです。そして、決め手は、月と海と暖かさと収納、ということ。トイレはもちろん水洗ではありません。それでも臭いが気にならない、うまい仕掛けになっているのでした。
 そして、小豆島では、豚ではなく、ヤギを飼ったのです。ヤギを飼うって、意外にも大変そうです。心配していた近所つきあいもなんとかなっているようです。
驚いたのは、よそ者の女性が一人で小豆島に流れ着いて定住する人が多いということ、そしてまた、ふらっと去っていく人も多いというのです。日本の女性って、今も昔も勇気がありますね・・・。
(2016年8月刊。1500円+税)

日本で初めて労働組合をつくった男

カテゴリー:日本史(明治)

(霧山昴)
著者  牧 民雄 、 出版  同時代社
 今の日本ではストライキという言葉は、まるで死語同然です。ところが、江戸時代が終わって10数年たったばかりの明治の日本で、ストライキが起こり始めました。これも、江戸時代の「オカミ」に盾つく百姓一揆の伝統を受け継いでいたからなのでしょうか・・・。
 日本人が、昔から皆、従順で、モノ言わぬヒツジだったというのは、真っ赤な嘘です。それは江戸時代の一揆の規模・回数をまったく知らない人の言う妄言にすぎません。
 明治19年10月に靴職工のストライキは、日本初だった。この靴職工たちは、士族上りが多く、他の職工とは品性を異にし、気質温和、恥を知る美風があった。
 城(じょう)常太郎は、明治21年9月、25歳のとき、アメリカへ向けて旅だった。常太郎はアメリカはサンフランシスコに定着し、ホテルの客引きをしていた高野房太郎と出会った。
 アメリカで日本人のできる仕事で最も有望なのは、靴工業だった。靴が生活必需品であるアメリカでは、手先の器用な日本人靴工による靴の修理は大好評だった。
 明治22年11月、日本人靴職人14人がアメリカに集団移民した。日本人靴職人は修理費が格安で、納期をきちんと守ったことから顧客が増えた。
 1886年1月、サンフランシスコ市内の靴工は7000人いた。その多くを中国人靴工が占め、白人靴工は2割、1000人ほどだった。しかし、白人靴工の日給手当は2ドル、中国人靴工は1ドルだった。
 明治19年以降、東京や関西の靴工場で、工員たちによる労働争議が頻繁に起こり始めていた。
 明治25年12月、300人もの靴工たちが日比谷公園に集まり、衆議院に向かって堂々のデモ行進を遂行した。日比谷公園は、日本におけるデモ行進の発祥の地なのである。
 弁護士会も安保法制法案の成立反対を叫んで、日比谷公園から国会に向けて何回となくデモ行進をしました。もっとも、今は、パレードと呼ぶことが多いのですが・・・。
 明治20年1月、カリフォルニア市内で、城常太郎の音頭のもと、「加州日本人靴工同盟会」が発足した。白人靴工に対抗するとき、非暴力で相手の怒りを鎮めようとする平和的な道を選んだ。このころサンフランシスコ市内の日本人靴店は20店、靴工は60名いた。
 明治42年になると、会員数327人にまで膨れあがった。日本人靴店も76店あった。当時、ゲルマン人の食料品、フランス人の洗濯屋、イタリア人の魚商、中国人の薬舗、日本人の靴工と言われていた。
 明治29年の末、城常太郎は、ストライキに反対する者たちから袋叩きにあい、重傷を負った。
 明治30年6月、東京・神田の青年会館において職工義友会の主催する演説会が開催された。1200名の聴衆を前に、学歴のない城常太郎が一番に演説した。
労働組合期成会は、明治30年にわずか71名でスタートしたが、翌31年7月には2500人の会員を擁するまでに発展していた。初期の労働運動のピークは明治32年夏だった。
 城常太郎は、その後、中国大陸に渡ったが、明治38年7月に、42歳で肺結核のために死亡した。
明治29年に高野房太郎よりも早く日本に帰国し、日本の労働運動を大きく盛り上げたのが城常太郎だったことを初めて知りました。
 それにしても明治20年代ころのカリフォルニアに日本人靴店がたくさんあったことを知り、目を開かされました。今では、町に靴を修理してくれる店なんて、とんと見かけませんね・・・。
 歴史の掘り起こしは大切だと痛感した本でもありました。
(2015年6月刊。3200円+税)

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