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2016年1月 の投稿

古代の日本と東アジアの新研究

カテゴリー:日本史(古代史)

(霧山昴)
著者  上田 正昭 、 出版  藤原書店
 古代の天皇制と中世そして現代の天皇制とを同じものと捉えることは出来ないという指摘に目を見開かされる思いがしました。当代一の歴史学者の指摘には思わず驚嘆されるばかりです。さすが、さすがの内容です。
 そもそも天皇制という用語は、1931年(昭和6年)のコミンテルンの「31年テーゼ」草案で初めて登場したもの。これに絶対君主制という概念規定を与えたのは、翌年「32年テーゼ」だった。ええっ、そ、そうだったんですか・・・。
 近代日本に創出された天皇制が、古来の伝統にもとづくものであるといっても、天皇制が古代から連綿と受け継がれてきたというのは、歴史の実相とは大いに異なる。
 大宝元年(701年)の大宝令は、対外的には「明神御宇日本天皇」といい、対内的には「明神御大八洲天皇」と称した。古代天皇制は、神祗・太政官八省のトップに天皇が君臨していた。
 中世と近世の王道としてのありようと、律令性や明治憲法下の王道イコール覇道であった時代の天皇制とを混同するのは歴史的ではない。
 ヤマトにも二つある。九州の山門郡(築後)のヤマトは山の入り口や外側の意味。
 しかし、畿内のヤマトは、山の入り口とか山の外側という意味ではなく、山々に囲まれたところ、山の間、山のふもとの意味だ。
 日本という国号は、7世紀後半から使われているもの。天平9年(737年)までは、大倭国が正式なヤマト国名だった。
 大王を称していた倭国の王者が天皇と呼ばれるようになった早い例は、天智天皇7年(668年)の船王後の墓誌銘。その前の5世紀の中葉の倭国の王者は「大王」と称していた。
スメラミコトというとき、「統(す)べる」が語源ではなく、モンゴル語で、最高の山を意味する「スメル」という同源の言葉であり、至高を意味する。「最高のミコト」が天皇だった。なんとなんと、モンゴル語起源の言葉だったとは・・・。
女性が古代の王者だったのは、女王・卑弥呼とその宗族の台与の女王二代に確認できる。
 奈良時代は、7代の天皇のうち4代が女帝だった。奈良時代は女帝の世紀とも呼ばれる。
 平安朝の桓武朝廷において、百済王氏は有力な氏族だった。百済王氏が桓武朝廷と深いまじわりをもっていたことは、百済王氏出身の女人で、桓武朝廷の後宮に入ったものが少なくとも9人いることからも分かる。
 唐使が来日したのは、わずか9回のみ。これに対して、遣渤海使は15回だった。
 平安京には、渡来系の氏族が多数居住していた。
さすが学者の考えは深いものがあります。日本と朝鮮半島の国々、そして中国とは古代のむかしから切っても切り離せない密接な関係があったことがよく分りました。古代の文明は日本発祥ではなく、日本は中国・朝鮮から伝来してきたものを受け入れ、消化してきたのですよね。
(2015年10月刊。3600円+税)

日露戦争と大韓帝国

カテゴリー:日本史(明治)

(霧山昴)
著者  金 文子 、 出版  高文研
1904年に始まった日露戦争ですが、正確には、いつ、どこで戦争が始まったのか、はっきり知りたいところです。
1897年10月12日、朝鮮第26代国王・高宗は自ら皇帝に即位し、国号を「大韓」と宣布した。それから1910年8月の「併合条約」によって滅亡するまでの13年間を大韓帝国と呼ぶ。
日清戦争は、1894年(明治27年)7月23日、日本軍による朝鮮の王宮・景福宮の占領から開始された。
日本は、朝鮮から鉄道敷設権を奪った。これは日露戦争で活用された。また、朝鮮の電話線も日本軍の統制・管理の下に置いた。
1895年10月、日本軍は王宮に侵攻して朝鮮王妃(閔妃)を虐殺した。なぜ、王妃を殺す必要があったのか?
日本に対して電話線の返還と日本軍の撤兵を要求する朝鮮の国権回復運動の中心に王妃がおり、ロシアに接近しようとしていると、日本政府・軍首脳が見ていたから。
王妃(閔妃)殺害事件は、大本営と日本政府の意を受けた特命全権大使(三浦梧楼)が企てた謀略・謀殺事件だった。その結果は、朝鮮国王をロシアの保護下に追い込むことになり、日本はロシアと朝鮮における権益を分けあわなければならなくなった。
日露戦争は、日本のロシアとの戦争であるのみならず、日本が大韓帝国の利権をひとつひとつ奪っていくための侵略戦争であった。
日露戦争は、日清戦争と同じように、日本軍によるソウル占領から開始された。そして、この日本の軍事行動の開始はすぐにはロシアに伝わらないように細工された。つまり、韓国や中国からロシアに通じる電話線は日本軍の諜報員によって切断された。
伊藤博文は、たとえロシアが日本の主張をすべて受けいれたとしても、今、つまりロシアの開戦準備が整わないうちにロシアと戦争しなければならないと率先して主張した。決して伊藤は対露協調論者でも、平和主義者でもない。むしろ、ロシアのほうは当時、日本と戦争までしようとは考えていなかった。
1904年1月、日本の最高首脳部(伊藤、山県、桂、山本、小村)は、ロシアの譲歩が通知される前に開戦しなければならないと合意した。
1904年2月8日、ロシアの小型砲艦「コレーツ」が日本の軍艦を砲撃したことから戦争が始まったというのは正しくない。「コレーツ」には、まったく戦意はなかった。日本軍が水雷を発射したので、「コレーツ」はやむなく応戦しただけ。ところが、日本軍は事実を書きかえてまで、「コレーツ」が先に砲撃したと発表し、これによって世界に誤報が広まった。
日本軍は、旅順と、仁川奇襲作戦を成功させるために、開戦前に日本の通信線を違法に敷設し、ロシアの通信線を違法に切断していた。
日露戦争における日本軍の最初の武力行使は、1904年2月6日未明より開始された第三艦隊による韓国の占領と馬山電信局の占拠であった。しかし、これは公言できることではなかったので、鎮海湾の占領と馬山電信局の占拠は公刊戦史から消され、なかったことにされた。
「勝った、勝った」とされることの多い日露戦争ですが、実は、日本軍はあとがない状況だったのです。弾薬も人員もなかったのでした。
日露戦争の真実を明らかにした本として一読の価値があります。
(2014年10月刊。4800円+税)

日航機事故の謎は解けたか

カテゴリー:社会

(霧山昴)
著者  北村行孝・鶴岡憲一 、 出版  花伝社
 30年も前の夏の悪夢のような出来事でした。520人が乗ったジャンボジェット機が墜落して、助かったのは女性ばかり4人のみ。
 月に1回以上、飛行機に乗っている私にとって、とても他人事とは思えない惨事でした。
 アメリカ軍のミサイルに追撃されたという説に私も心が惹かれた時期があります。それほど、謎に満ちた事故でした。そして、今でも救出が遅れたことには大いなる疑問があります。
 本書は、ボーイング社の修理ミスによって発生した大事故だったことを論証しています。
 それにしても、アメリカ言いなりに動く日本政府に腹立たしさを覚えてなりません。
 このジャンボジェット機が迷走している様子を奥多摩でカメラで撮った人がいた。その写真をもとに画像を解析すると、垂直尾翼面積の58%を失った状態で飛んでいたことが判明した。
 修理ミス部分の隔壁破断面に披露亀裂が発生した。かろうじて持ちこたえていたリベット接合部が、事故発生の8月12日午後6時24分すぎ、客室与圧と外気圧の差が0.59気圧にまで高まった段階で耐え切れずに一気につながって、長大な亀裂となった。
 尻もち事故後の修理において、直径4.5メートルのドーム状をしたアルミ合金製の圧力隔壁の下半分に損傷が目立ったため、上半分は既存のものを使い、下半分を新しいものに取り換えた。このとき、本来なら一枚板でつながらなければならない修理箇所を2枚にしてしまった。
 圧力隔壁の修理において、気密性が強く求められることから、強度よりも気密性を優先させて、1枚の板をわざわざ2枚に切りわけて1枚を隙間埋めに使った。
3年間の調査のなかで、275機の機体から1054件の亀裂が発見された。このうち事故機と同じB747の亀裂が714件と68%も占めた。与圧による疲労亀裂に弱い機種であることが明らかになった。
 そして、航空機整備が「金のかからない整備」になっていった。
 B747は、機首部を2階建てにしたため洋ナシ状の断面となり、不均等な複雑な力を受けがちである。
 私も2階部分の座席にすわったことがありますが、あまり乗り心地のいいものではありませんでした。やはり、洋ナシ型よりも真円形のほうが強度があるのですね・・・。
 それにしても、「格安」で飛んでいる飛行機の安全性はどうなっているんでしょうか。安かろう、悪かろうでは困りますよね。乗り物は、快適性の前に安全性です。心配性の私はいつも祈る思いで飛行機を利用しています。
 なんでも安ければいいという社会風潮は、ぜひ改めてほしいと痛切に思います。
(2015年8月刊。2500円+税)

山と河が僕の仕事場

カテゴリー:生物

(霧山昴)
著者  牧 浩之 、 出版  フライの雑誌社
  宮崎県高原(たかはる)町で、猟師であり毛鉤釣り職人として生活する著者の素敵な日々を写真とともに紹介する本です。とても面白く、一心に読みふけりました。
  神奈川県川崎市に生まれ育ったシティボーイが南九州の山地でシカやイノシシを狩り(ワナと鉄砲)、川や海で釣りをし、また、フライフィッシングの毛鉤を手づくりするのです。
  都会っ子なのに、すごい才能があるんですね、驚嘆しました。
  フライフィッシング用の毛鉤の材料としては、キユウシュウシカの毛皮が大変良い。
  罠にかかったシカを殺すとき・・・。いざ止め刺しをしようというとき、ものすごい罪悪感に襲われた。生きている獣を自らの手で殺そうとしているのだ。それでも意を決し、長柄の剣鉈を構えてシカとの間合いを始める。シカの胸元に狙いを定め心臓を一刺ししようとした瞬間、シカは殺気を感じて激しく逃げ回った。油断すると、こちらが怪我をする。「ごめん」シカの心臓に狙いを定めて剣鉈で一気に突いた。
  シカは足をばたつかせたかと思いと、そのまま眠るように動かなくなった。剣鉈を抜くと、真っ赤な血が湯気を立てながら流れ出した。
  捕獲した獲物は素早く適切な処理を施さないと、肉に臭みが生じて美味しくいただけなくなる。血液は時間とともに凝固するので、仕留めた獲物はすぐに血抜きする。血抜き処理が遅れると、肉の中に血液が残留し、臭みが残って、鉄臭い味が出てしまう。血抜きが終われば、自宅の作業場へ運んで、内臓の摘出にとりかかる。
  シカは作業場の梁から頭を下にして吊るし、内臓が傷つかないように注意しながら腹部を開いていく。肛門と膀胱を剥離するときは、とくに慎重に行う。内臓を摘出したら、腹腔内を冷たい水道水で冷やしながら、血液などの汚れをしっかり落とす。
  血抜きから内臓摘出までは30分以内、遅くても1時間以内には終わらせる。
  肉を食べるというのは、本来、このようにとても大変なことなのだ。しっかり、血抜きしたシカの心臓を、にんにくと一緒に炒めたハツ焼き。猟師の特権とも言うべく、酒のあてに最高。
  ストーブの上で、イノシシのカシラを焼く。これだけは誰にもあげたことがない。
  カラー写真があります。本当においしそうです。
  シカもイノシシも畑を荒らす害獣なのです。一定の駆除はやむえません。
  山と川を駆けめぐる生活は、とても充実していて、うらやましい限りです。でも、私にはとてもマネできそうにもありません。それで、本を読み、写真を眺めて想像に浸ることにします。
  山と川と人がつながる暮らし。それは、人生で今が一番楽しいと思える毎日。
  著者のこの言葉が素直にうなずけます。奥さんの弘子さんが写真に登場してこないのが残念でした。
  山と川好きのみなさんに、ぜひ読んでほしい本です。
  
(2015年12月刊。1600円+税)

人間・始皇帝

カテゴリー:中国

(霧山昴)
著者  鶴間 和幸 、 出版  岩波新書
 西安郊外にある兵馬俑博物館に二度行くことができました。その壮大なスケールは、まさに度肝を抜くものがあります。
 日本の博物館にやってくるのはせいぜい数十個の立像です。それでも相当の迫力はありますが、現地で8000もの立像に接すると、そのものすごい物量には思わず息を呑んでしまいます。まさしく地下に大軍団が勢揃いしているのです。
 どうして、こんな大軍団を地下につくったのか、またつくれたのか、世界の七不思議のひとつではないのでしょうか。この本は、秦の始皇帝の実像に迫っています。
 始皇帝は、その名を趙正といい、13歳にして即位した。まだ小男子と呼ばれる子どもにすぎなかったから、国事は大臣に委ねられた。
 秦では、庶民においては、子どもか大人かの判断は実年齢よりも身長を基準にした。男子は150センチ、女子は140センチ以下が子どもであった。また、17歳になったら一人前の男子として扱われた。
 始皇帝陵の地下宮殿の深さは30メートルある。ところが15メートルも掘ると地下水が浸透してくる。そこで、地下深くに排水溝を設けた。そして地下宮殿が完成すると、この排水溝は埋めて地下ダムとした。
 すごく高度な水利技術が発達していたのですね。それにしても、ユンボなどの重機がない時代に、どうやって地下30メートルまで掘り下げることが出来たのでしょうか・・・。
 始皇帝が親政を始めるきっかけとなった内乱の起きたころ、ハレー彗星があらわれていた。
 始皇帝が33歳のとき暗殺未遂事件が起きた。暗殺者は荊軻である。
 秦の法律では、戦場で逃げた兵士の歩数の違いが処罰に反映し、異なっていた。
 湖南省にある古井戸から15万枚という大量の木簡が発見された。
 皇も帝と同じく、天を意味している。大臣たちは帝より皇を選んだ。秦王はそれに対して帝号にこだわり、皇と帝を組み合わせて皇帝という称号を自ら選んだ。
 秦は軍事ではなく、祭祀を通して統一事業を浸透させていこうとする立場だった。中央で統一を宣言するだけでは、とうてい治まりきれないほど秦帝国の領域は広大だった。そこで、始皇帝は自ら何度も地方を巡行していたのだ。始皇帝は全国を統一したあと、5回も地方巡行している。
 始皇帝は、秦帝国の周縁に 夷を置き、中華と蛮夷の世界を対置させた帝国を築き上げようとした。
 秦皇帝では、行政文書、度量衡、車軸の規格の一元化などが進められ、違反した官吏は法で厳しく罰せられた。
 始皇帝は天文の動きをかなり重視していた。皇帝も庶民も変わらず、古代の人々にとって、天文は日常の生活と結びついていた。
 始皇帝陵は、3キロ離れた驪山(りざん)の乙地点を中心とした視界に入る連峰と一体化した景観をもっていた。2200年前の北極星の位置が真北だった。
 偉大な始皇帝の業績を最新の研究成果をもとにしてたどることのできる新書です。
(2015年10月刊。800円+税)

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