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2015年11月 の投稿

トレブリンカ叛乱

カテゴリー:ヨーロッパ

(霧山昴)
著者  サムエル・ヴィレンベルク 、 出版  みすず書房
ナチス・ドイツの絶滅収容所の一つであるトレンブリンカ収容所で1943年8月2日に叛乱が起き、100人ほどが収容所からの脱走に成功した。その一人が語った内容が本書になっています。よくぞ生きのびたものです。
ここは効率よく、よどみなく動く最高級の死の工場なんだ。衣服を脱ぐと、男たちは隣接する収容所に連れていかれる。砂の土手を走り抜く。そこはもうすでに、死の収容所だ。そこで彼らはガス室に詰め込まれる。ガスで息絶えると、屍体は深く掘った窪みに投げ込まれる。そこがいっぱいになるとすぐ、次の窪みを掘る。屍体は、町ごとに一緒に埋められていく。
著者は他の囚人から次のように言われた。
「おまえはアーリア人に見える。話し方も大丈夫だ。絶対にユダヤ人らしくない。ここから逃亡し、おまえが見たこと、まだ見てはいないことを世界に知らせなければけない。それが、おまえの務めだ」
この言葉を著者は実行したのです。
「身体検査をするので、服を脱ぐように」、「野戦病院」という標識こそが、トレブリンカの謀略に抵抗しようとする人々を欺く仕掛けなのである。          
収容所一帯には、腐敗した屍体から出る、きつい刺激的な吐き気をもようしそうな臭いが漂っており、それが鼻孔から浸透し、肺を満たし、唇をつつむように広がっていく。
歯医者と呼ばれる囚人たちは、屍体の口をあけ、金歯を引き抜く。
ユダヤ人の最後の家財を整理する仕事がある限り、担当する囚人の生命を延ばす。
そして、カポは、ドイツ兵に仕事を急いでやっているように思わせた。囚人たちは、SSがいなければ、どんな場合も、過度にスピードを出して働こうとはしなかった。カポは耳をそばだてて、SSが近づいてくるのをいつも注意していた。
  20歳くらいの可愛い女性がいた。名前は、ルート・ドルフマン。大学の入学許可を得たばかり。自分を待ち受けていることが何か、ちゃんと気がついていて、隠そうともしない。彼女の美しい目は、恐怖も、苦悩も一切、示していない。ただ悲嘆、無限の悲哀を表していた。  
「どのくらい苦しまなければいけないの?」
「ほんのちょっと、一瞬だよ」
重たい石が彼女の心からころがり落ちたようだ。われわれ二人の目から涙があふれた。
青酸カリの錠剤をもっていて、いざというときにはそれを使おうと考えている人でも、最後に自分を待ち受けるものが何かを信じようとしなかった人がいることを知らなくてはいけない。素裸になってガス室まで死の道をSSの棒でたたかれ走ってきたとき、青酸カリは衣類の中に入ったまま広場に置かれている。つまり、毒をのみ干そうという精神力も勇気も出せなかったのだ。
うむむ、なんと重い決断でしょうか・・・。
このにおいは、われわれの体、存在そのものの一部になってしまっていた。それは、我々家族、我々の愛した者たちが残したすべてであり、ガス室で虐殺されたユダヤ人の最後の形見である。ひとたび我々の身につくにおいとなると、松の枝のからまった鉄条網を通り、周囲数十キロを流れて、収容所の存在や、そこからもれてくるものを説明していた。
著者はトレブリンカ収容所の脱走に成功したあと、1949年8月のワルシャワ蜂起に参加します。ワルシャワの人々がナチス・ドイツ軍に抵抗して立ちあがったのです。ソ連軍はワルシャワ市の対岸まで来ていたのですが、ポーランド軍を見殺しにしています。
蜂起軍は降伏するのですが、著者は生還してイスラエルに渡ることができたのでした。手に汗を握る話が続いていきます。よくぞ生きのびたものです。
(2015年7月刊。3800円+税)

ヴァイマル憲法とヒトラー

カテゴリー:ヨーロッパ

(霧山昴)
著者  池田 浩士 、 出版  岩波書店
 ヒトラー・ドイツと向きあうことは、「第三帝国」の12年3か月間とだけ向きあうのではなく、そのあとに来た歴史と向きあうことでもある。
 ナチス・ドイツが行った残虐行為や侵略戦争は、ヒトラーとナチスという、一人の独裁政治家と一部の「狂信者」たちとによってなされたものというのは、間違った歴史観である。
ヒトラーは、クーデターや暴動によって政権を奪取したのではない。首相を任命する権限を持つヒンデンブルク大統領を威嚇して指名を取り付けたのでも、政界その他の有力者を強制あるいは買収して首相の座に就いたのでもなかった。ヒンデンブルク大統領から合法的に首相として指名を受けた。
  ヒトラーは、合法的に、民意によって政権の座に就いた。これは歴史的事実である。
ヴァイマル憲法下のドイツの国会議員選挙は、有権者の意思をできるだけ的確に反映することを重視した仕組みになっていた。20歳以上のすべての国民が有権者で、男女の差別はなかった。ちなみに、日本では女性の参政権は戦後はじめて与えられた。
ヴァイマル時代の国会選挙の投票率は高く、低くても70%台後半、高いときには80%台半ばだった。
  1932年3月の大統領選挙では、現職のヒンデンブルクが1865万票、次いでヒトラーが
1134万票、共産党のテールマンは498万票だった。
1928年から1933年までのドイツでは、失業率の上昇とナチ党の得票率の増大はぴったり対応している。1932年の国会選挙では、それまで投票に行かなかった無党派層がナチ党に投票している。失業者の票を吸収したのはナチ党ではなく共産党だった。失業率のむしろ低い地域でナチ党は躍進した。それは自営業の人々が、明日は我が身という心配からだった。いま失業者となって飢えている工業プロレタリアートではなく、同じ道をたどるだろう中間層と職人階層、そして自営農民たちが、迫りくるものについての不安や危機感からナチスを支持して投票した。共和国の民主主義政治そのものへの不信と反感を、この現実にもっとも激しい攻撃を浴びせるナチスへの支持として表現した。
 ヒトラーが首相になったとき(1933年1月30日)、7歳から32歳までの世代は、ナチ党の誕生から「第三帝国」の崩壊までの時代に、観客ではなく、もっとも中心的な共演者だった。
 1933年3月の国会選挙で、ナチ党は得票率44%、288議席にとどまった。しかし、当選した81人の共産党議員を除外した。そして、社会民主党の120人の議員のうち94人しか国会には出席できなかった。そして、「全権委任法」が成立した。この法律は、国会から立法権を奪い、行政府であるはずの政府が立法権をもつとした。
 国会での審議抜きで、すべての法律が政府によって決定された。ヴァイマル憲法の制約からヒトラー政府は解放されてしまった。
ヒトラー政権下では死刑が横行した。1942年から44年までの2年間だけで4951人に死刑判決が下った。軍事裁判によって死刑を執行された人は2万人にのぼる。ナチス・ドイツの死刑は軍国日本のそれより70倍以上も多かった。
ヒトラー時代は良かったという人がいる。しかし、現実にはヒトラーは社会的差別をなくしてはいない。労働者の賃金は下がり、職員の給与は上がっている。
 ヴァイマル憲法とヒトラーとの関係について、日本人である我々も正しく認識すべきだと改めて思いました。
(2015年6月刊。2500円+税)

民主主義ってなんだ?

カテゴリー:社会

(霧山昴)
著者  高橋源一郎、シールズ 、 出版  河出書房新社
  シールズの自己紹介から始まっています。
  シールズの奥田くんの父親は北九州の牧師で、ホームレス支援している。NHKの「プロフェッショナル」でも紹介された。その息子として、奥田くんは中学生のときから自宅を出て、沖縄の島で生活し、高校も島根県の小さな町に通っている。たしかに立派すぎる父親をもつと、子どもにとっては息苦しい、息が詰まってしまうのかもしれませんね。
  シールズの前の反原発の運動のときには、ICUと明治学院大学が多かった。
  実は、私の娘もICUの卒業生なのです。ICUって、ちょっと変わった個性をもつ人材を輩出していますよね。
  高橋源一郎は、作家であり、教授です。私より少しだけ年下になりますが、激しかった学生運動のなかで活動していたようです。
  私たちのころは、個人の言葉がなかった。これは、私もまったく同感です。あのころは「我々は・・・、たたかうぞ」と、リーダーが叫ぶのに唱和するだけでした。
  今は、「私は、○○大学の○○です」と名乗りをあげて話し出します。まったく違います。だから、卑劣な個人攻撃も受けやすくなるのです。「ネトウヨ」って本当に嫌な人種ですよね・・・。
  「昔の左翼は、権威を嫌いすぎた。国家権威を忌避しすぎた」 
  これって、どうなんでしょうか・・・・。だって、今の沖縄の状況をみたら翁長知事は県民の総意を受けて正当な職務権限の行使をしていますが、安倍や菅という連中は、権力と税金を私物化していますよね。こんな現実を直視したとき、権威とかが国家権威を嫌ったり、警戒したり、反発するのは当然ではないでしょうか・・・。
  シールズって、組織的なことを何もしていない、あくまでも自然発生的な運動体かと思っていました。ところが、その組織には、たくさんの班があるのですね・・・。デザイン班、デモ班、サロン(イベント)班、コンテンツ班、インターナショナル班、広報班、出版班、物販班、映像班、コールセンター、会計、あとは副司会官。
  私が大学生のころには、学内の集会やデモ行進となると、何千人も集まっていました。全都集会となると、軽く1万人をこしました。それが、その規模までにはいきませんが、今、ようやく近い人数にまで発展してきました。その中心にすわっているシールズの面々の話は、今どきの大学生の気分を知るうえで、大変参考になりました。
(2015年11月刊。1200円+税)
14日(土)午前中、いつものようにフランス語教室に顔を出しました。フランス人講師から何が起きたか知っているかと訊かれました。朝刊を読んでいましたから、地震があったことですかと答えました。鹿児島と佐賀で震度4の地震が早朝にあったのです。いやそんなことじゃないとフランス人講師はネットニュースをみせてくれました。そこで初めてパリで同時多発テロが起きたことを知りました。私もパリは何度も行ったことがあります。娘もしばらく留学していました。そのパリで、レストランや劇場、そして、サッカースタジアムが襲われたというのです。その恐ろしさに声も出ませんでした。これは戦争だと、フランス講師は繰り返していました。シリアからヨーロッパに戦争が拡大してしまったのですね、、、。
アベ首相が余計なことを再び言ってテロリスト集団を無用に刺激しないことを心から願っています。
テロリスト集団は絶対に許せません。でも、私は空爆にも反対です。そして無人機をつかってテロリストを暗殺しても、ほとんど何の解決にもならないでしょう。単に暴力の連鎖を生むだけです。
51ヶ所もの原発をかかえる日本です。テロリストが自爆攻撃したら、もう日本は破滅です。テロリスト絶滅と称して軍事行動をエスカレートさせることのないよう、心から願っています。まわり道のようではあっても、九条の精神で、本格的な民生支援しか国際社会が生きのびる道はないと確信しています。今度、この問題をフランス語で発表することになっています。

カテゴリー:日本史(戦後)

日本占領史 1945-1952
(霧山昴)
著者  福永文夫 、 出版  中公新書
  本書は、戦後体制がつくられた7年間を濃密な7年間と呼んでいます。本当に、そうなのでしょうか・・・。
  1945年7月26日、アメリカ、イギリス、中国の3ヶ国はポツダム宣言を発した。このとき、トルーマンは、ソ連をはずした。
  ポツダム宣言の内容は、軍事主義の排除。日本の領土を本州・北海道・九州・四国そして周辺小島に限定する。日本軍の武装解除の民主主義的傾向を復活強化する。言論・宗教・思想の自由と基本的人権を尊重する。
7月27日、最高戦争指導会議は、黙殺することにした。連合国は、黙殺を拒否と受けとった。8月6日の広島そして9日の長崎への原爆投下につながった。
  マッカーサーは、1951年4月に解任されるまで、東京を離れることはほとんどなかった。そして、日本人の目の前に姿を現すことも、直接語りかけることもなかった。
  マッカーサーは自分の部下たちに絶対的な忠誠を要求した。
  そして、日本人自身の問題に介入することを嫌い、日本人自身によって処理させる方針を貫いた。
  日本の占領は、マッカーサーの占領となった。アメリカ政府は、もともと交戦中の直接軍政を前提に、日本進駐を考えていた。しかし、ポツダム宣言では、日本政府を通じての間接統治をうたっていた。日本の降伏が予想よりかなり早かったため、ポツダム宣言を受けて日本本土の間接統治以外に方針がないまま、連合国の占領は始まった。
  ホイットニー民政局長は、GHQでもただ一人、マッカーサーと約束なしに面会でき、2人は、毎夕5時から1時間ほど話すのを常とした。ホイットニーは、マッカーサーの非常に複雑多様な思考を正確に読みとることのできる才能をもち、いかなる問題についても、マッカーサーの考えを正確に表現でき、筆跡までも似ていた。
  GHQは、決して一枚岩ではなかった。
  日本の敗戦により、沖縄の占領目的があいまいになり、ワシントンでも、沖縄の処理が定まっていなかった。沖縄の現地アメリカ軍は、本国政府から明確な統治方針や予算を得られないまま、統治にのぞむことになった。そこで、その政策は、計画性を欠き、場当たり的なものとなった。
  憲法制定前に、主権在民を唱えたのは共産党のみだった。政府と進歩党は天皇に、自由・社会の両党は主権は国家にあるとしていた。
  マッカーサーは、天皇の存在が占領を円滑に進めるために必要と考え、明確に天皇擁護へと動き出した。
  民生局は、GHQの他のセクションを排して憲法草案をつくることで、マッカーサーの「政治的参謀」としての位置を確立した。以後、日本の「民主化のエンジン」として機能し、改革の旗手にふさわしい維識再編を行っていった。
3月6日の憲法草案の公表は、アメリカ国務省にとって、寝耳に水だった。草案の実物は国務省になかった。しかし、内容自体は、ワシントンをあわてさせるものではなかった。
  公職追放をめぐって、軍諜報部の代表(ウィロビー)を先鋒に、軍関係の4局はかたく結託して追放に反対した。しかし、追放を民生局が指示した。ホイットニーは、他局を排して、公務追放、選挙法改正問題を解決したことでGHQ内部での民政局の立場を強化した。
  1952年4月28日、サンフランシスコ講和条約が発効し、6年8ヶ月に及ぶ占領が終結した。
  日本の戦後の実際がコンパクトによくまとめられた新書です。
(2014年12月刊。900円+税)
日曜日、早起きして仏検(準一級)を受けてきました。年に2回の苦行です。これまでは単語中心にしていましたが、今年は文章を書いて覚えることに重点を置きました。動詞を名詞に、名詞を動詞に置き換えるというときに、単語だけでなく、文章として覚えようというのです。やはりコトバは単語ではなくて文章なのです。基本文型を覚えるときに、覚えた単語を増やしていきます。
昨年は安保法の講師を引き受けたために受験できませんでした。実は、1997年度から欠かさず(昨年の1回だけ抜けていますが)、受験してきたのです。ですから、過去問を復習するといっても一週間はかかってしまいます。
土曜日と日曜日に早朝からフランス語文章を書いた成果でしょうか。自己採点で87点でした。120点満点ですから、7割とったことになります。書きとりなんて、もうバッチリです。なにしろ、NHKラジオ講座(CD)で毎朝かきとりしているのですから、準一級の書きとりなんて、やさしいものです。

「サル学」の系譜

カテゴリー:生物

(霧山昴)
著者  中村美知夫 、 出版  中公叢書
 アフリカでチンパンジー研究を日本人が初めて50年。1965年10月に始まり、今なお調査は継続されている。
 これって、とてもすごいことですよね。大変な苦労があったし、あると思いますが、関係者のご苦労に対して心から敬意を表します。
 そして、対象となるチンパンジーが今や絶滅するかもしれないというのです。アフリカの森がなくなり、自然が破壊され、また観光客が知らず知らずに人間の病気に感染させているそうです。本当に人間はもっと反省する必要がありますよね。
 チンパンジーは、ゴリラと違って、「政治をするサル」として、政治的駆け引きに長け、ときに殺し合いまでします。その点、本当に人間そっくりなのです。
 そのため、チンパンジーを観察していた長谷川眞理子先生は、チンパンジーが嫌いになってしまったとのこと。
 日本サル学には独自の方法論がある。餌づけ、個体識別、歴史的方法そして共感法である。個体識別は、たとえば100頭のチンパンジーがいたとして、そのすべてを見分けて、名前をつけ、親子関係も特定していくのです。
 ええっ、チンパンジーってどれも似たような顔をしているから、見分けられるはずがないでしょ。そう思うのは素人で、プロは微妙な顔の違いを素早く見分けて、ノートに記入していくのです。すごい名人芸です。
共感法こそ、もっとも日本的なユニークさをもつ。サルの生活にとけこみ、一体化し、相互に通じあう感情的チャンネルをもつことによって、かれらの生活を実感的に感知する。
 チンパンジーのすぐ身近にまで接近しても逃げられないという関係を確立するのです。これって、すごく根気のいる仕事もありますよね・・・。
 ゴリラは、より草食の傾向が強く、チンパンジーは果実食の傾向が強い。
 伊谷教授は、森の中を1日40キロ歩いた。食料を担いでのサファリでは1日10キロも歩けたらいいほうなのに・・・。1日40キロだなんて、まさしく超人的ですね。
 チンパンジーは、サルと違って雌が集団を抜け出て、他の集団へ移っていく。それも発情が可能な雌だけ。性的に受け入れ可能な状態であることが集団を動く際の条件となる。
 人間と同じく、チンパンジーでも年寄りは保守的だ。年配の雌ほど臆病な傾向が強い。
 チンパンジーは3歳までに母親が死ぬと生き残ることができない。そして、離乳後であっても、母親を失くすと、生存上不利になることが調査して判明した。
 チンパンジーは、50歳以上まで生きる。
 「サル学」とありますが、ニホンザルではなくて、アフリカにおける日本人によるチンパンジー研究の歴史をコンパクトにまとめた本です。
 その苦労をしのびつつ、一気に読了しました。
(2015年9月刊。1900円+税)

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