法律相談センター検索 弁護士検索
2015年3月 の投稿

集団的自衛権で日本を滅ぼしていいのか

カテゴリー:社会

著者  半田 滋・川口 創 、 出版  合同出版
 安倍政権の憲法改正に向けた第一弾は、教育基本法の改正だった。これは2006年12月のことです。子どもたちに「愛国心」を強制して、お国のために命を捧げよというのです。そして、教科書統制を一層強化しました。
 第二弾は、防衛庁を防衛省に昇格させたこと。戦前の日本のようなカラ威張りする軍人がふんぞりかえる世の中なんて、サイテーですよね。
 そして、第三弾として憲法改正のための国民投票が定められました。
 航空自衛隊は、イラクでアメリカ軍の兵員と物資を輸送する活動をしていた。しかも、こっそり隠したというだけでなく、嘘までついて国民を欺した。
 航空自衛隊が運んだのは、国連職員が2800人、陸上自衛隊員が1万人。ところが、アメリカ兵は2万人以上だった。そして、アメリカ軍の物資は、ほとんど運んでいない。人道支援と称しながら、人道支援物資は運んでいない。
 この実態は、裁判のなかでようやく明らかにされたが、情報公開請求に対して黒塗り文書のみの公開だった。特定秘密保護法が制定された今日、このような事実は公表されないだろう。
 安倍政権には、人間の判断は誤ることがあるという事への警戒心や謙虚さがまったくない。日本は、ロシアと北朝鮮・中国の軍事通信はかなり正確に傍受している。北朝鮮の通信を傍受して、ミサイル搭載のやりとりまで把握している。しかし、中東について日本はまったく手がかりすらなく、すべてアメリカから情報をもらうしかない。
 官僚とって都合の悪い情報、判断に迷うものは秘密にされる。
 秘密保護法は官僚を肥大化させてしまう。
 日本の官僚は、能力の高いオレたちが国の舵取りをするので、国民は言うことを聞けばよいと考えている。お上(かみ)意識、命令する立場にいたいという意識でこり固まっている。
 安倍首相の元気の源は、フェイスブック。37万人のフォロワー、ネット右翼(ネトウヨ)がほめたたえるので、自分はエライと錯覚し、ますます過激なほうへ行く。
これまで集団的自衛権が行使されてきた例をみると、ベトナムもアフガニスタンも、惨敗している。良いことは何ひとつなかった。
 アメリカは、アフガニスタンとイラク侵略作戦のために150~500兆円もつかった。この膨大な軍事費の支出が、もとからあった貿易赤字と財政赤字という双子の赤字に拍車をかけた。その結果、オバマ政権は福祉や教育、医療という国内分野さらに外交政策で有効な手が打てないことにつながった。
 アメリカが現在、国際社会でリーダーシップを失いつつあるのは、このアフガニスタン、イラク戦争の負の遺産である。
日本の自衛隊は、攻撃的な分野は弱いけれど、防御的にみると世界一強い。
 日本は決して「丸腰」ではない。相手になかなか攻め落とせないという脅威を与えるに足りる軍事力をもっている。
テロとのたたかいは、相手が軍隊ではなく、特定できないために、必然的に無差別殺戮となり、憎しみが憎しみを生み、終わりがない。
 際限なき憎悪が生み出され、際限なき戦争になってしまう。そのような泥沼の戦争に日本がまき込まれてしまいそうだ・・・。
 もともと、尖閣諸島の上は米軍機や自衛隊機のP-3Cが飛んでおり、今もまったく変わらない。安倍首相の一連の言動こそ、日中韓の関係を悪化させている。
 アメリカの戦争戦略は大きく変わっている。かつては若いアメリカ兵を犠牲にしても軍事的介入を優先する方針だった。今や、イギリス、日本そして韓国の衛星国に兵士を出させ、死ぬのは、アメリカ以外の国というシステムに変えようとしている。
 日本がアメリカ言いなりに行動していて、何もいいことはない。そのことを実感させる本でもありました。大変歯切れよく、問題の危険な本質を対談のなかで明らかにしてくれる本です。
(2015年2月刊。1600円+税)

社会脳からみた認知症

カテゴリー:人間

著者  伊古田 俊夫 、 出版  講談社ブルーバックス
 認知症とは、正常に成人になった人が、病気や事故などのために知的能力が低下し、社会生活に支障を来すようになった状態を指す。
64歳以下で発症した認知症を若年性認知症と呼ぶ。その多くは、40~50代で発症する。若年性認知症の患者は全認知症の1%を占める。40~50代で物忘れに深刻に悩む人は、高齢期に認知症になる確率が高い。
 若年性認知症は、症状の進行が早いという特徴がある。異常タンパクの生成が早いためだと考えられる。若年性認知症は周囲の人の気持ちを理解できない。他人への関心が薄くなる。性格の変化が目立つのも特徴。
 日本の認知症患者は460万人をこえ、その予備軍が400万人いる。
 認知症の人には、「配慮を受けている」という自覚が乏しく、同僚に感謝の気持ちを伝えられない。
 認知症の人に最初にあらわれるのは、新しいことを記憶できないこと。そして、物忘れしているという自覚が薄れてくる。
 日課や予定、約束や期限といった緊張感が失われると、人間の記憶力は低下していく。
 認知症の第二の重要な症状は、自分の置かれた状況が分からなくなること。さらに症状がすすむと、自分が病気であることを理解できなくなる。
 人の心の働きのなかで、もっとも重要なのは、他者の心や気持ちを理解するというもので、これは人間特有の働きである。
 認知症の人は、詐欺的商法の相手と長時間にわたって一緒に過ごし、すっかり信用しきってしまう。警戒心がまったくない。
 認知症に陥った人たちからは、苦悩が確実に減少していく。悩まなくなるのだ。
 うつ病が増加している。うつ病にかかった人は、羅患歴のない人に比べて、認知症になる危険性が2~3倍も高い。
 私の同級生も認知症になった人がいます。とても生真面目な性格でした。それと関係があるのでは、と思っています・・・。
(2014年11月刊。900円+税)

小西行長、史料で読む戦国史

カテゴリー:日本史(戦国)

著者  島津 亮二 、 出版  八木書店
 小西行長の実像に触れた思いのする本です。秀吉の有能な部下、キリシタン大名、関ヶ原の戦いで敗れて斬首された武将・・・。
 小西行長は官僚として有能ではあっても武将としては、いまひとつだったというイメージがあります。でも、武将としても、それなりの人物だったことが本書で明らかにされています。
 小西行長の史料は抹殺などされていなかった。
 小西行長の両親、兄弟、子そして血縁関係にある堺の日比屋(ひびや)氏のほとんどが、洗礼名をもつキリシタンである。
 日比屋氏は6世紀の堺で活躍した豪商である。九州と堺を結ぶ海上輸送ルートと資金力をもつ日比屋氏と小西行長の父・立佐は強力なコンビを組んでいた。
小西行長は、青年期のはじめ、宇喜多氏に仕官していた。それまで宇喜多氏に仕官していた行長が、天正8年(1580年)ころから秀吉のもとで活躍しはじめた。ここから行長の立身出世が始まった。
 行長は信長方に、秀吉の配下となった直後から海上交通で活躍し、後に「海の指令官」と称された能力の片鱗を示していた。
 行長は瀬戸内海の海上輸送の一端を担う任務をつとめ、秀吉の家臣の中で頭角をあらわしていった。行長は、小豆島の支配にも関与していた。書状が、それを裏付けている。
 行長が水軍の将として奔走して功績を挙げるのと同時に、父の立佐は秀吉の側近として財政管理能力を発揮して地位を高めていた。
 秀吉は九州攻めをするときに、現地での兵粮徴収ではなく、もっとも確実な大坂からの兵粮輸送という方法を選んだ。そして、この重要な役割を任されたのが行長だった。
 秀吉は、各地の諸大名とのやりとりをするにあたって、大名ごとにその仲介・交渉を担当する人物(取次)を特定し、その人物に命令を詳しく伝達・補足させるという方針をとっていた。
 秀吉のキリシタン弾圧が始まったとき、重要なことは表向きにしろ、行長は「秀吉家臣」としての立場を優先させている。行長の信仰とは、常に政治的立場が優先される「信仰心」であった。秀吉の在世中に、行長が秀吉の命令に背き、自らの「信仰心」を優先させたことは一度もない。
 行長の主たる属性は、「秀吉家臣」であり、行長の第一目標は豊臣政権の発展と安定そして自分自身の地位向上だった。
 強制的な布教さえしなければ、イエズス会宣教師と日本における共存は可能だと行長は予測していたのだろう。行長はイエズス会との関係を維持しつつ、秀吉家臣としてイエズス会の行動を監督する役割を果たしていた。
秀吉は大陸侵攻の「先勢」として小西行長と加藤清正を選んだ。行長には、海上輸送能力や交渉能力が求められ、清正については高い軍事能力が期待されたのだろう。
 文禄の役において、行長は、あくまで交渉による朝鮮国王の服属、そして明との講和交渉の開始を狙った。行長は、「征明の実行不可能」を秀吉にあえて進言した。行長は、明との直接戦争は避けるべきだと考え、秀吉の「唐入り」を「冊封要求」へとすり替えて交渉をはじめた。行長は、平壌から先へは侵攻しようとはしなかった。
 当初は、電撃的に明国に迫ろうとしていた秀吉の戦略は、沿岸部に城塞(倭城)を設置して、じっくり朝鮮を侵略していく方針へと転換した。秀吉自身、それまでの戦況報告によって、明の征服などは非現実的だと悟り、当初の「唐入り」構想は大きく転換していた。
 秀吉は、ある程度は、対明交渉の実情は承知していた。明は、秀吉を日本国王に封じると同時に、日本の大名や武将へ官職を与えることにした。行長による官職要請と授与の結果は、秀吉と諸大名とに受け入れられている。
 この侵略戦争を日本の勝ち戦として終結させなければならない秀吉にとって、朝鮮服属の象徴である朝鮮王子日本への渡海と朝鮮南部四道の割譲だけでは譲れない条件だった。
 行長は、とにかく明勅使による秀吉の日本国王任命と冊封さえ実現すれば、実態は収拾できると見通ししていた。しかし、最終的に朝鮮からの日本軍撤退をめぐる双方の利害の矛盾調整ができないまま、明勅使は日本に渡った。これが講和破綻の主要因となった。
秀吉は、9月1日、大阪城で明勅使と対面し、明皇帝から書面と金印・冠服の進呈を受けた。行長を筆頭とする諸大名にも、明皇帝から官職任命書と衣服が与えられた。このように、秀吉は、はじめから明と冊封を受け入れる方向で行長に交渉させていた。
 秀吉は明の冊封は受け入れつつも、朝鮮皿道の割譲が命じられず、朝鮮要請されたことに激しく抵抗した。これに失敗したとき、秀吉の権威は揺らいで、政権の瓦解につながる芽が出てきてしまう。
 朝鮮からの日本軍撤退と朝鮮王子の日本末渡海の二点が秀吉には受け入れられず、講和は破綻した。
行長が対朝鮮・明との交渉において果たした役割は大きく、厳しい戦況と多大なストレスのなか、戦争終結のため秀吉が求めた明勅使の派遣を実現させた手腕は評価されるべきだろう。明との講和が破綻したあとも、行長は戦争を回避すべく朝鮮王子の日本渡海を条件として、朝鮮との講和を模索していた。行長は、その過程で朝鮮側に清正の朝鮮渡海ルートと日程を知らせて、朝鮮軍に清正を迎撃させようとしたこともある。この行長の行動からは、すでに清正との確執が決定的なものになっていることを意味する。
 清正は、行長によるこれまでの対朝鮮・対明交渉の実態を知り、行長への不信案をさらに募らせた、
 小西行長と石田三成には共通点が多い。行長が2年年上だが、ほとんど同世代。両者とも、父子そろって秀吉に仕えている。三成は、奉行として朝鮮に渡り、日本軍の統括にあたっている。行長は、実質的な朝鮮出兵の現場担当者だった。
江戸時代の前期までは、武将としての行長の才能は積極的に評価されていた。ところが、やがて清正の行動などが強調されるようになったのと反比例して、行長のイメージは低下の一途をたどった。
行長が熊本の宇土にお城を構えていたことを初めて認識しました。小西行長のイメージを一新させてくれる本です。
(2010年7月刊。480円+税)

瞽女 キクイとハル

カテゴリー:社会

著者  川野 楠己 、 出版  みやざき文庫(鉱脈社)
 なぜか宮崎の出版社から出た本ですが、テーマは新潟県で活動していた盲目の女性芸人集団・瞽女(ごぜ)の生きざまです。
 生まれつき、あるいは病気によって失明してしまった女性が何を願ったか・・・。
 次の世に生まれ変わるときには、たとえ虫になっても明るい目をもらいたい。虫になってもいいから、明るい眼がほしいと百歳のときに語ったハル。そこには視覚障害者なるが故に体験しなければならなかった苦難の数々が、いかに耐えがたいものとして、ハルにのしかかっていたかを物語っている。
 鼓の下に目と女を書いて、瞽女・ごぜと読ませる。これは貴人の御前(ごぜん)で鼓を打って曽我物語を語るなどに携わっていたことからくる。元禄時代に三味線が普及してから、彼女たちも鼓を放して三味線を持った。
 旅の途中でも、5月13日の妙音講には必ず出席するために帰宅する。瞽女たちにとっては年に一度の祭典である。髪を整え、似合った着物を着て集まり、仲間と健在をよろこびあう。
 農村では、季節ごとに訪ねてくる瞽女を待っていた。ラジオがやっと始まったことのこと。娯楽としては、瞽女や浪曲語りが回ってくるのを待つ以外に、何もなかった。だから、瞽女の来訪は、村にとって「ハレの日」になる。
 宿は「瞽女宿」と呼んだ無償で泊めてくれる大きな農家があった。その家では代々瞽女の世話を引き受けていた。
 組ごとに決まった旅をもち、一つの村にいくつかの組が時期をずらして訪れていた。高田瞽女は、上越全体に100件もの宿をもっていたようだ。
 瞽女の旅は、通常3人か4人が一組になって歩く。一行のなかで、弱いながらも視力のあるものが先頭に立つ。
 農家の間口の戸を開けて、「ごめんなんしょ」と奥に声をかけて三味線を弾きだし、3分ほどの「門付け唄(かどつけうた)」をうたう。この門付(かどつけ)は、瞽女の一行がこの村に北ことを知らせる役割がある。
 宿の家では、間仕切りの襖を外し、表座敷を開放して臨時の会場をつくる。
 瞽女たちは、口説(くどき)、民謡、段物を次々にうたい続ける。終わるのは、夜10時、11時になることがある。演目は、驚くほど広い。
 ストーリーのある八百屋お七、佐倉宗五郎、小栗判官(おぐりはんがん)、照手姫(てるてひめ)、葛の葉子別れなどの古浄瑠璃を中心として、段物(だんもの)と呼ばれる「瞽女松坂」地震・災害・心中事件などのニュース性のある話題を歌い込んだ口説(くどき)清元、端唄、新内から、民謡や流行りうたなど、あらゆる分野にまたがっている。
 そして、瞽女が途中の村々で仕入れた情報も伝えられる。瞽女は、芸能と情という文化を村人に伝える存在なのだ。
瞽女社会には、男の肌に触れることは、能動的であろうと、受動的であろうと許されないという厳しい掟(おきて)がある。瞽女には、結婚は許されない。結婚すると瞽女仲間から離脱し、二度と戻ることは出来ない。
 文字ではなく、すべて聞いた音で覚え、三味線を弾いて語り、うたうという瞽女の声をぜひ聞いてみたいと思い、この本に紹介してあるのを早速注文してみました。なるほど、80歳とか90歳とは思えない張りのある声でした。
(2014年10月刊。2000円+税)

「カジノで地域経済再生」の幻想

カテゴリー:社会

著者  桜田 照雄 、 出版  自治体研究社
 カジノに頼る経済なんて、そもそも発想が間違っています。
 そして、この本は、カジノに頼って地域経済が再生するなんて、嘘っぱちだと実証しています。アベとかハシモトのインチキ宣伝に乗せられてはいけません。
 「IR型カジノ」の基本的な考え方は、エンターテインメントやショッピングなど、魅力ある「楽しみ」を提供する施設を組み合わせた複合施設を集めることで、観光客の大幅な増加を図ろうとしているもの。そのなかで、カジノ施設が、今までにない「楽しみ」を人々に提供する集客施設として位置づけられている。
 コンベンションを誘致する「切り札」としてカジノが考えられている。
 九州では、カジノに頼ることを北九州、佐世保(ハウステンボス)、別府、宮崎(シーガイア)、沖縄が名乗りをあげている。
 おぞましい、恐るべき事態です。
 賭博はコントロールできるか?現実には、人間の脳への刺激に起因する依存症の発症をコントロールすることは出来ない。
 カジノは、既存のビジネスを共喰い(カニバライズ)する。大阪のUSJの経済波小効果は5900億円だったが、地元の商店街は潤っていたという事実はない。
 カジノのもうけは、「客の負け分」にほかならない。大阪にカジノがオープンしたとしても、すでに飽和状態にある商業施設のなかで、多くの競争相手を向こうにまわしてカジノが生きのびるという保障はまったくない。
 かつて30兆円産業といわれた日本のパチンコ産業も、今では20兆円を大きく下まわっている。4割近く落ち込んだ。パチンコへの参加人口も、1790万人(2004年)から970万人(2014年)へと、半減している。
 そのなかで、マルハンとダイナムの2社で、半分の売上げを占めている。カジノと両立できるパチンコ店というのは考えられない。
 アメリカでは、IR型カジノが次々に閉鎖に追い込まれている。
 カジノは、バクチです。人の心を荒廃させ、まわりに不幸を持ち込むものです。そんなものにたよる社会は不健康ですし、長続きするはずもありません。
 大阪の橋下市長も、安倍首相も狂っているとしか言いようがありません。ところが、そんな彼らが、子どもに道徳教育を強制しようとするのです。世の中は、本当にわけが分かりませんよね。どうなっているのでしょうか。有権者は、一刻も早く目を覚ますべきだと思います。
(2015年1月刊。1100円+税)

福岡県弁護士会 〒810-0044 福岡市中央区六本松4丁目2番5号 TEL:092-741-6416

Copyright©2011-2025 FukuokakenBengoshikai. All rights reserved.