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2014年8月 の投稿

記憶力の正体

カテゴリー:人間

著者  高橋 雅延 、 出版  ちくま新書
 私は、他人(ひと)からは記憶力がいい奴だと思われているようです。でも、自分では、記憶力がいいのか悪いのか、よく分からないというのが正直なところです。
 記憶力がいいという意味では、私は高校生だったころ、歴史は日本史も世界史も得意中の得意でした。年代も人名もよく覚えていたものです。記憶力が悪いという点では、歌詞はまったく覚えることができません。人の名前も、すぐに忘れてしまいます。
 好きこそモノの上手なれ、というとおり、歴史は大好きでしたから、その論理的帰結を理解すると、忘れることがありませんでした。歌のほうは、小学生のころから苦手意識があり、今でもカラオケと聞くとすぐに逃げ出してしまいます。人の名前は、好きな人だと一生忘れることがありません。要するに、人間の記憶というのは、感情と深く結びついているのですよね。
 この本を読んで、人間の記憶力について、本当に勉強になりました。
 人間は自然にそなわった忘却力のおかげで、次々に起きる新しいことを覚えたり、自分の考えを先に進めていくことができる。
 ありがたいことに、どれほど辛い記憶であっても、時間の経過とともに次第に忘れられ、その辛さが軽減していく。バルザックは、「多くの忘却なくして、人生を暮らしてはいけない」と語った。つまり、忘却力がなければ、いつまでも辛い記憶にとらわれ、人生を前に進めることができないのだ。
 忘れるといっても、二つの意味がある。一つは、記憶が消滅してしまうこと。もう一つは、どこかに記憶としては残るけれど、それをうまく引き出せないケース。
 長期間にわたって細部まで鮮明なまま保存されると思われていたフラッシュバブル記憶にも、多くの記憶違いが起こることが判明している。
 感情的ストレスの強さは、ある適切なレベルまでは記憶を欲するが、その最適レベルを超えると、今度は逆に記憶が悪化してしまう。
 後悔にも二つある。「やったこと」に対する後悔と、「やらなかったこと」に対する後悔。年齢に関係なく、同じ後悔でも、「やったこと」の後悔よりも、「やらなかったこと」の後悔のほうが、いつまでも記憶にとどまる。
 完了した行動よりも、未完了の行動の方が記憶によく残る。これをツァイガルニク効果と呼ぶ。
 未完了課題のほうは、やり終えることができなかったという「心残り」があるため、自然に、何度もその課題を考えてしまう。この反芻が未完了課題の記憶を長く記憶にとどめることになる。
 本人の意識のなかから、トラウマ体験が切り離され(解離)、もはやその体験を意識的には思い出せなくなってしまう。これを解離性健忘という。
 解離になることによって、耐えられない破局的な苦痛を切り離すことができる解離状態になることができる。解離状態になることで、妥協できない葛藤を解消する。つまり、現実の強制から逃れることが可能になる。
 3歳より前の自分の記憶を思い出せる人はいない。なぜか?
 子どもは、1歳前後でことばを話せるようになるが、3歳前後で過去の出来事について断片的なものから、構造をもったものへ劇的に変わる。子どもの過去についての語り方が激変し、そのことによって、その体験が長く記憶に留まるようになって、幼児期健忘は終わる。
 要するに、構造的な話し方ができるようになると、その前の断片的な話し方は追いやられてしまい、構造的な話し方にみられる記憶こそが繰り返し頭のなかに定着してしまうということなのでしょう。やっと、私の長年の謎の一つが解けました。
 不快なことを忘れ去るためにはどうしたらよいか?
 嫌なことであっても一度だけは他者に語るべきだ。語るためには話を組み立てなければならず、そのためには、自分と他者が理解できるように構造化しなければならない。理解可能な語りとして加工することで、理解できない理不尽な細部は消え去る。
 他者に語る作業では、相手が理解できるように、その内容を整理し、首尾一貫性をもたせなければならない。このことによって解離した身体記憶の断片が一貫性をもつようになり、自らの記憶として統合される。忘れたければ、二度と語らないでおけばよい。
他者に語る作業こそが、私たちの記憶に対して大きな影響を与える。
記憶の定着に重要なのは、思い出す回数を増やすこと。だから、同じ時間だけ勉強するのなら、やみくもに何度も参考書を読むよりも、何度も問題集を解いた方が記憶にとって有効なのだ。
 私たちの記憶は、決して生のまま丸覚えされるものではない。必ず、何らかの解釈を通して変容されてしまうものなのだ。
 「現在の呪縛から解放される」ため、知らないうちに、記憶をつくり変えてしまうこともある。
 人間の記憶とは、必ずしも正確な再現ばかりではない。
 とても納得できる記憶力の本でした。みなさんに、一読されることを強くおすすめします。
 ちなみに、私はフランス語の単語もよく覚えられません。でも、長年やっているうちに、どうにか聞きとれるようにはなりました。うまく話せないもどかしさを痛感しつつ、毎朝、CDを聞いて聞きとりしています。
(2014年6月刊。840円+税)

黒部の山賊

カテゴリー:社会

著者  伊藤 正一 、 出版  山と渓谷社
 昭和39年(1964年)に刊行された本の復刻本です。ですから、この本で最近とか現在とあるのは、1960年代前半のことになります。つまり、今から50年も前の日本アルプスの山々の情景が描かれているのです。
 山小屋をつくり、道をつくり、熊に出会い、山賊のような人々がアルプスの山々を歩いている時代です。大勢の凍死者も出しています。救援活動も命がけでした(これは今も同じなんでしょうが・・・)。
 そして、モノノケに驚き、脅かされます。死んだ人が山小屋に顔を出すのです。
 北アルプスの尾根筋は、真夏でも最高14~18度。朝には氷が張ることがある。高度3000メートル。晴れた日でも秒速30メートルの風が吹く。荒れると秒速70メートルにもなって、小屋が土台ごと舞い上がって空中分解してしまう。
 人体の感じる温度は、風速1メートルにつき、1度下がったのと同じ。雨で身体が濡れていると、気化熱のために体温が奪われるので、その何倍にもなる。こうして、体温が28度ほど下がって、真夏でも簡単に凍死してしまう。
 凍傷の場合は急激に温めてはいけない。しかし、凍死寸前の場合には、一刻も早く温めるのがよい。温まると、忘れたように治ってしまう。
 ゴアテックスが発明される前は、山で雨が降ると、凍死寸前の人々が2~30人も山小屋に飛び込んできた。うへーっ、こ、こわいですね。
 熊は耳と鼻は非常に敏感だが、目はあまりよくない。したがって、風下から、音を立てないようにして近づくのが熊狩りのコツである。熊を殺して、大きな鍋で肉を煮て食べる。熊の腸を鍋の中に入れる。腸の中には、排泄寸前の糞がぎっしり詰まっている。これを入れなければ味が出ない。これが山賊たちの食事だ。うへーっ、こ、これはなんとも食べたくありませんよね・・・。最後に、熊の足の裏を薄く切って焼いたのを食べる。どんな味がするのでしょうか。
 健全な者でも、山小屋に入って20日間もすると、ぐっと能率が低下する。忘れっぽくなり、計算も出来なくなる。最盛期を過ぎてひまになってくると、ボケかたがひどくなり、しまいには気力がおとろえてくる。そして、山々が新雪におおわれることになると、底知れない孤独感と人間社会に対する限りない郷愁におそわれる。これは、奥地の小屋ほど、人数が少ないほど、そして未経験者ほど、強くあらわれる。
 山で熊に出会ったら、恐れずににらみあっていること。背中を見せて逃げてはいけない。背中を見せたら、飛びかかってこられる。ピッケルで殴ったりしても熊に致命傷を与えられず、かえって熊を怒らせてしまう。身をかわしているうちに、熊のほうがやめてしまうだろう。
戦後まもなくの、のどかな時代でもあったようです。写真もあって、当時の雰囲気をよく忍ぶことができます。貴重な山の本だと思いました。
(2014年4月刊。1200円+税)

校閲ガール

カテゴリー:社会

著者  宮本 あや子 、 出版  メディアファクトリー
 とても面白い本でした。『舟を編む』のパロディー本かと錯覚してしまいました。あちらは辞書を編集する現場の変人たちの話でしたが、こちらは編集の下に位置づけられる校閲部の変人たちのオンパレードです。
 校閲(こうえつ)とは、文書や原稿などの誤りや不備な点を調べ、検討し、訂正したり、構成したりすること。
 私はモノ書きを自称すると同時に、編集も業としてきました。他人の書いた文章を反復継続して手直ししてきたということです。ほとんどペイしていませんので、「対価」がなければ「業」とは言えない・・・。それでも他人の変な文章を見ると、すぐに赤ペンを入れたくなります。
カギカッコの直前に句読点はつけないという不文律があります。しかし、このことは意外に、多くの人が知りません。そして、エッセーの小見出しに数字を付すのもやめてほしいです。
 まあ、それはともかくとして、好きでもない校閲部にまわされ、泣く泣く嫌な校閲の仕事をしている独身女性の悦子が主人公です。
 平凡でお気楽な女子大生だった悦子は、気合いと根性だけで難関の景凡社の入社試験を乗り切った。ファッション雑誌の編集者になることを夢見て入社した悦子が配属されたのは、地味な裏方仕事の校閲部。がーん。・・・・。
通常、仕事に慣れた校閲者が一日で完璧にできるのは、1日25頁ほどだとされている。
 私も、他人のあらを探すのは得意なのですが、自分の書いた準備書面を裁判所に提出したあとに読み返すと、たくさんのボロを見つけてしまい、赤面の至りです。そうなんです。思い込んでしまうと、あらは見えなくなるものなのです。
 表に出ないはずの閲覧部の悦子がなぜか作家本人と直接話すようになり、果てはその作家が「逃亡」すると、その所在探しにまで駆り出されるのでした。そのあたりには謎解きも入って、ちょっとしたミステリー小説の気分を味わうことが出来ます。
 今どきの女性の乱暴な男言葉が、話の展開を軽快なものにしています。
 軽いタッチでテンポよく話が展開していきますから、ふむふむ、この次はどうなるのかなと、おもわず話に引きずりこまれてしまいました。軽い気持ちで読める、うさ晴らしにもってこいの本です。
(2014年3月刊。1200円+税)

高齢者が働くということ

カテゴリー:アメリカ

著者  ケイトリン・リンチ 、 出版  ダイヤモンド社
 アメリカはマサチューセッツ州のボストン郊外に針を製造する小さな会社がある。従業員40人は全員パートタイム。その従業員の2人に1人が74歳以上。従業員は10代から90代まで。30代、40代、50代の従業員もいる。
 従業員には医療給付も退職給付も支給されない。時給は9ドルからのスタート。勤務時間は従業員自身が決める。午前3時半から7時間はたらく従業員もいれば、午後3時にやってきて、4時間だけ働く人もいる。
 工場は2階にある。階段が19段ある。この階段をのぼること(のぼれること)が、ここで働くための暗黙の前提条件になっている。
ここでは互いに協力しようという意識、力をあわせて働き、共通の目標を目ざそうという意識が広く行きわたっている。
 かつて社会的地位の高いホワイトカラーの仕事をしていた従業員たちが、現在の自分の立場を単なる労働者だと認識している。
 ただし、大企業で長く働いてきた人は採用しにくい。
この会社は、2008年制作の映画「年年生活者株式会社」で紹介された。
 これだけ高齢者が多いのに、作業がちゃんと行われて業績もよい。低賃金にもかかわらず、誰もが社長を慕い、とても熱心に働いている。
 そうですよね。定年後も、自分の好きな時間に、思うように働きたいという気持ちは私にもよく理解できます。特殊な針を製造しているという有利な面もあることでしょう。それにしても、99歳の超老婦人が生産現場で働いているなんて、とても信じられません。
働くことの意味、そして、高齢者にとって働くことは人生を意義あるものにすることなんだと思わせる良書でした。
(2014年4月刊。2400円+税)

弁護士の失敗学

カテゴリー:司法

著者  高中 正彦・市川 充 、 出版  ぎょうせい
 つい最近、恥ずかしながら弁護士賠償責任保険の適用を申請しました。控訴状のなかに当事者の表示が抜けているところがあったのです。もちろん私のミスだったのですが、運悪く年末年始の時期だったので、控訴期間内の補正が間にあわなかったのでした。私の方は上告したのですが、身内をかばう習性の強い高裁は棄却してしまいました(簡裁が一審だったのです)。
 弁護士過誤を避けるための5ヶ条。①受任事件を吟味する。②依頼者とのコミュニケーションに万全を期する。③ケアフルな執務を実践する。④知識・技能をアップする。⑤誰に対しても誠実に執務する。
弁護過誤を防ぐ7ヶ条。
 ①むやみに人を信用しない。
 ②こまめに報告する。
 ③常に冷静であれ。
 ④説明の腕を磨け。
 ⑤すべての事件で手を抜かない。
 ⑥おカネに魂を売らない。
 ⑦謙虚であれ。
 依頼を断る勇気をもつ。弁護士という職業は、どこから弾が飛んでくるかもしれない、危険一杯の職業である。
 依頼者は、えてして移り気なもの。そのような依頼者からの報酬で事務所を維持して生計を立てていかなければならないのが弁護士の宿命。
直感で、「あれ?」と思ったら、必ず、六法全書や基本書にあたること。この直感はかなりあたる。
裁判官は国家からの給与で生計を立てるのに対して、弁護士は依頼者からもらう弁護士報酬で生計を立てる。
ミスを防ぐには、多重の防止策が有用。事務員と連携して防止策を重ねる。場合によっては、複数の事務員に確認させる。
 「現場百回」、一度でも現場に足を運んでいると強い。
弁護士は、他人(ひと)の失敗でメシを食っている職業なのだから、弁護士が失敗しては、話にならない。性善説では、弁護士は生きていけない。
 いつでも、何年たっても、「思い込むな。初心に返れ」が必要である。
時間管理ができない人は、それだけでその人の評価を下げてしまう。
 必要でない原本は、なるべく預からないこと。
 依頼者層は、その弁護士の人格を写す鏡である。スジの悪い事件は、スジの悪い弁護士に自ずと集まってくる。
 「すべて先生(弁護士)におまかせします」というタイプは要注意。そんなことをいう依頼者は、決してすべてを弁護士に任せる気などない。
 弁護士のなかには、自分の依頼者はすべて正しく、相手方はすべて悪だと思い込み、断言するタイプがいる。
 本当に困ったタイプの弁護士がいます。一見すると、依頼者にとって「頼もしい」存在なのですが、適正・妥当な解決を遠ざけてしまって、紛争の泥沼のなかで、もがくばかりという危険もあるのです。その見きわめは、大変困難です。
 依頼者に、こまめに報告書を送るのが大切。できるだけ、その日のうちに送る。
私は、この報告書は、FAXとかメールでしてはいけないと考えています。あくまで郵送です。この間に、別の事件処理ができるからです。メールではレスポンスが早すぎます。
若いときには、小手先だけで要領よくやろうとするのではなく、徹底的に考え、調べて書面をつくるべき。若いときに努力しなかったら、弁護士としての成長はありえない。
事件ファイルは、弁護士の命である。きちんと整理しておくこと。
去っていった依頼者は追わない。
依頼者とのトラブルが生じたときには、気心の知れた弁護士に相談すべきである。
 依頼者に共感することはあっても、この依頼者は自分が絶対に幸せにしなければならないと思い詰めてはいけない。依頼者と手を取り合って泣いたりしてはいけないのだ。
 この40年間、私も思い返せば恥ずかしきことの数々でした。それでも、なんとか仕事を続けることができています。ありがたいことです。初心に立ち返ることの大切さを改めて認識することのできた本です。多くの若手弁護士に読んでほしいと思いました。
(2014年7月刊。3000円+税)

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