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2014年1月 の投稿

新・検察捜査

カテゴリー:司法

著者  中嶋 博行 、 出版  講談社
 14年ぶりの書き下ろし小説とのことです。
 横浜の弁護士が江戸川乱歩賞を受賞(『検察捜査』1994年)したのには驚きました。弁護士会の内情を多少とも知るものにとってはいささかの無理もありましたが、読ませるストーリーではありました。
 今回もまた、かなりの無理はあるものの、官僚機構、そして精神医療の問題点も考えさせるストーリーとして、緊迫した展開が続いていきます。弁護士は大没落の時代を迎えている。超難関だった司法試験が骨抜きになり、弁護士人口のビッグバンが起きた。
 生き残るには競争相手を蹴落とし、限られたパイから収入を確保しなければならない。
 大手法律事務所は、依頼人をごっそり取り込むためにマスメディアを利用した派手な広告合戦をくり広げている。法律家の世界が、今や家電の格安量販店なみに、客寄せにしのぎを削っている。
 広告資金を捻出できない個人弁護士が手っ取り早く有名になるには目立つ事件の弁護士を担当すればいい。なかでも、異常犯罪は世間の注目を集めるには再興だ。
法テラスと目される「法ロビー」が登場します。
 法ロビーは、もともと法律上の紛争をかかえた市民に向けて、敷居の高い弁護士へのアクセスと手助けする公的制度だった。若手弁護士の多くは、「法ロビー」から依頼人の紹介をうけてささやかな報酬にありつき、事務所経費を工面していた。
 弁護士人口が過剰になって、いまや逆転現象が起きている。「法ロビー」は、仕事のない貧乏弁護士に依頼人を斡旋する「弁護士の職安」へと変貌している。
女性検事と警察官のコンビのようなスタイルで捜査が展開していきます。
 官僚機関のなかに特殊な部隊があるという設定です。自衛隊になら、ありうるのかなという印象をもちました。
 ハードボイルド小説として読めば面白いと思います。
(2013年10月刊。1600円+税)

裏切り淳山

カテゴリー:日本史(戦国)

著者  中路 啓太 、 出版  講談社
 裏切り者というと、いやなイメージですよね。私も、裏切り者とは呼ばれたくありません。
 戦国時代は、主君を裏切ることが横行していた時代でもあります。下克上の世界です。
一年をこす兵糧攻めでも落ちない難攻不落の三木城。業を煮やした秀吉が送り込んだ、最後の使者。
 それが、この本の主人公です。朝倉義景が本拠地の一乗谷を織田信長より攻め滅ぼされ、浅井長政も自害したころのことです。
 秀吉は信長に命じられて中国道に進出するのですが、なかなか思うように成果が上がらず焦っていました。尼子氏の再興を願う山中鹿介ら尼子十勇士も結局、見捨ててしまうのです。
 竹中半兵衛そして黒田勘兵衛が脇役のように登場します。秀吉も、ちょい役でしかありません。
 戦国時代にタイムスリップ気分に浸ることのできた本でした。
(2007年12月刊。1700円+税)

砂川事件と田中最高裁長官

カテゴリー:司法

著者  布川 玲子・新原 昭治 、 出版  日本評論社
 日本に司法権の独立なんて、実はなかったということを暴露した本です。
 ときは1959年3月の東京地裁・伊達判決のあとに起きたことですから、今から50年以上も前の話ではあります。ときの最高裁長官(田中耕太郎)が最高裁の合議状況を実質的な当事者であるアメリカ政府にすべて報告し、その指示どおりに動いていたのでした。そのことを知っても、今の最高裁は何の行動も起こそうとしませんので、結局、同罪なわけです。
 この本は、まず、そのことが明らかになった経過を明らかにしています。
 砂川事件に関するアメリカ政府の解禁文書が日本で明らかにされたのは、新原昭治がアメリカ国立公文書館(NARA)で2008年に発見した14通の資料に始まる。その後、2012年に末浪靖司が同じくNARAで2通の資料を発見し、2013年に布川玲子がアメリカ情報自由法にもとづく開示請求で入手した資料1通によって、一審の伊達判決が日本とアメリカ両政府に与えた衝撃、安保改定交渉に与えた影響、そして跳躍上告に至る経緯をリアルタイムに知る手がかりが得られた。このなかに、田中耕太郎・最高裁長官が自らアメリカへ最高裁内部の情報を提供していたことを明らかにする資料がふくまれていた。
 ダグラス・マッカーサー駐日大使が本国へ送った電報が紹介されています。このマッカーサー大使は、かの有名なマッカーサー将軍の甥にあたります。よくぞ、こんなマル秘電報が開示されたものです。このたび成立した日本の特定秘密保護法では、このようなマル秘電報の電文が将来、開示されるという保障は残念ながらありません。
 「内密の話し合いで、田中長官は、日本の手続きでは審理が始まったあと、判決に至るまでに少なくとも数ヶ月かかると語った」(1959.4.24)
 「共通の友人宅での会話のなかで、田中耕太郎裁判長は、砂川事件の判決はおそらく12月であろうと考えていると語った。
 裁判長は、争点を事実問題ではなく、法的問題に閉じ込める決心を固めていると語った。
 彼の14人の同僚裁判官たちの多くは、それぞれの見解を長々と弁じたがる。
 裁判長は、結審後の評議は実質的な全員一致を生み出し、世論をゆさぶる素になる少数意見を回避するようなやり方で運ばれることを願っていると付言した」(1959.8.3)
 「田中裁判長は、時期はまだ決まっていないが、最高裁が来年の初めまでには判決を出せるようにしたいと語った。
 裁判官のいく人かは、手続き上の観点から事件に接近しているが、他の裁判官たちは法律上の観点からみており、また他の裁判官たちは憲法上の観点から問題を考えていることを田中裁判長は示唆した」(1959.11.5)
 ところが、厚かましいことに田中耕太郎は1959年12月16日の判決後の記者会見において、「判決は政治的意図をもって下したものではない。アカデミックに判決を下した。裁判官の身分は保障されており、政府におもねる必要はない」、などと高言したのです。
 田中耕太郎にとって、「秘密の漏洩」は問題ではなかった。なぜなら、アメリカと共同関係にあるのだから・・・。この田中耕太郎は、「裁判所時報」において「ソ連・中共は恐るべき国際ギャングと公言していた。
 しかし、このような田中耕太郎の言動は裁判所法75条などに明らかに反するものであり、即刻、罷免すべきものであることは明らかです。そして、少なくとも最高裁長官としてふさわしくなかった人物だとして、裁判所の公式文書に明記すべきです。
 そんなこともできない日本の最高裁であれば、司法権の独立を主張する資格なんてありません。日本の司法の実態を知るうえで欠かせない貴重な本として、一読を強くおすすめします。
(2013年12月刊。2680円+税)

魂の経営

カテゴリー:社会

著者  古森 重隆 、 出版  東洋経済新報社
 フジ・フィルムがコダックを抜いたかと思うと、写真の現像はなくなり、コダックはついに倒産してしまいました。そして、富士フィルムとして、見事に経営を立て直した社長が力強く経営哲学を展開しています。その指摘には共感できるところが多く、勉強になりました。ただ、あまりにも自信満々の社長(CEO)のようで、従業員の受けとめはどうなのだろうか、その評価を聞いてみたくなりました。また、日本のTPP参加を当然とし、農業の在り方を変えろという主張は、実は、足が地に着いていない主張なのではないか、メーカー側の経営者として、あまりにも勝手なことを言っているという気がしました。安倍首相のお気に入りの経営者だそうで、少しガッカリもしました。
 写真フィルム市場は、10年間で世界の総需要が10分の1以下にまで落ち込んだ。
 かつて、カラーフィルムなど写真感光材料は富士フィルムの売上げの6割、利益の3分の2を占めていた。
 かつては、2700億円の売上げがあったのが、750億円と4分の1になった(2007年)。印画紙をふくめた写真事業全体で6800億円あったのが、380億円にまで激減した。
そうなんですよね。私はまだフィルムカメラも使うのですが、フィルムが店で買えなくなってしまいました。本当に不便です。でも、安心したのは、富士フィルムはこれからもフィルムは作り続けるということです。よかった、よかった、です。
2012年、長年のライバルであったコダック社は、アメリカ連邦破産法11条の適用を申請した。
世界で最初に、フル・デジタルカメラを開発したのは富士フィルムである。これは知りませんでした・・・。
 どれほど業績が良くても、来るべき危険性を予測し、それに備えなければならない。
 これは、私にとっても少しばかり耳の痛い話でした。私の事務所も、ひところ過払いバブルで「恩恵」をこうむっていました。ですから、バブルがいずれ終わるのが分かっていたのですが、それなのに何も手をうっていなかったのです。今、大いに反省しています。
 富士フィルムは、デジタル・ミニラボを写真店に設置して、デジカメの現像を引き受けている。自宅のプリンターでプリントするよりも、はるかに美しく、ハイクオリティで保存性の高いプリントができる。
 3.11の被災地の写真復旧についても、しっかり再生できるのは、水でインクが流れてしまう家庭用インクジェットプリンターで印刷した写真ではなく、表面にコーティングが施されている銀塩写真であり、写真店でプリントされた写真だった。なーるほど、ですね・・・。
 富士フィルムは写真文化を守り続けることを宣言した。企業は算盤勘定だけで存在しているわけではない。写真文化を守ることは富士フィルムの便命である。もうかる、もうからないの話ではない。頼もしい宣言です。
経営者が最終的な判断を外部の人材の助言に頼ろうとしているのであれば、そんな経営者はすぐ辞めたほうがいい。
 富士フィルムは年間2000億円を研究開発費に充てている。先進研究所には、1000人近い研究者が一堂に会して研究している。
円高がもたらした一番深刻な影響は、大多数の日本人経営者や社員から、仕事に向かう気迫をかなり奪ってしまったことにある。
会社の史上最大の危機に直面したとき、社長が学級委員のように、「多数決で決めましょう」などとやることは、ありえない。悠長に民主的に議論している場合ではない。誰かが皆を引っ張っていくしかない。それがリーダーの役割であり、リーダーシップの本質なのだ。
 決断すべきときがきたなら、たとえ、まだ迷っていたとしても、とにかく決断するのだ。そして決断したなら、選んだ道で成功すればいい。たとえ、はっきり答えが見えなくても、決断し、それを成功させるのだと確信し、皆を引っ張っていく。そして実際に成功させる。それがリーダーの力量であり、仕事なのだ。すごい迫力です。
いくら本能、直感が備わっていても、健康でなければ機能しない。いくら体力、気力があっても、精神的に疲れていれば、やはり判断に支障をきたす。
 だから、リーダーは、日々、リフレッシュにつとめ、活力を養い続ける必要がある。
 基盤になる力とは、人間の根本の力とも言える。物事に誠実に向き合う力であり、感じる力であり、考える力であり、実行する力である。
 基盤になる力は、どのようにすれば身につくのか。一つは、社会や会社で体験するあらゆる機会を学びにすることだ。そして、もう一つの方法が、哲学、歴史あるいは文学などの教養書を読むことだ。これらは、歴史観や大局観、価値観を養ってくれる。大事な決断をするときには、これがなければ出来ないのだ。
 部下に役割を与え、悪かったときは、「ここが悪かった」と必ず厳しい評価を与えなければならない。そうすることが、人が育つうえでは欠かせない。叱らない上司は無責任なのだ。ほめるところはきちんとほめる。しかし、ほめてばかりでは、やはり成長はない。
 著者は、ニーチェの著作をほとんど読んだそうです。これには参りました。降参です・・・。
(2013年11月刊。1600円+税)

シベリア抑留全史

カテゴリー:日本史(戦後)

著者  長勢 了治 、 出版  原書房
 終戦直後、中国東北部(満州)にいた日本軍将兵がソ連軍によってシベリアに連行され、極寒の地で捕虜として働かされたシベリア抑留について、あますところなく明らかにした教科書的な全史です。600頁もの大作なので、読み通すのに骨が折れてしまいました。ともかく、大変な労作です。シベリア抑留を知りたい人にとっては欠かせない一冊だと思います。これを読んだら、あとは香月泰男や宮崎静夫・山下静夫などの画文集でイメージをつかむ必要もあるように思います。飢えと寒さと重労働というシベリア三重苦は想像をこえる辛さだったことでしょう。今の私たちには、ほんの少しだけ想像できるにとどまるのでしょうが・・・。
満州にいた日本人は、建国時の1932年に24万人、1936年に52万人、敗戦時には155万人だった。それにも増して毎年100万人もの漢人が流入し、3000万人に達していた。だから、終戦後は満州人は大量の漢人にのみこまれて、民族としてはほとんど消滅するに至った。
 実際のところ、どうなのでしょうか。満州族は消滅してしまったと言ってよいのでしょうか・・・。
 スターリンは、最終的に対日参戦を決意した段階で、日本兵のソ連領への連行を決めていたと思われる。ソ連は5年にわたる苛烈な独ソ戦を戦って、国土が荒廃し、経済が疲弊していた。2500万人といわれる膨大な犠牲者を出し、とりわけ若い男性労働力が決定的に不足していた。戦後の国民経済復興には、新たな労働力を必要としていた。
日本軍の将兵を1000名単位の作業大隊に再編成したのは、将官や上級将校を分離し、旧軍組織を解体することで日本兵の団結や抵抗を防ぐためだった。
ソ連は日本兵を一貫して「戦争捕虜」として取り扱った。シベリアに抑留された日本人にとって不幸だったのは、弾圧機関NKVDに管理された捕虜収容所に入れられたことだった。
 冷戦が始まり、米ソの対立が深まるなかで、捕虜が冷戦の人質となった。これが捕虜の本国送還が10年以上も遅れた要因の一つである。最初に本国送還されたのは、アメリカ人、フランス人、ルーマニア人であり、祖国への道が最も遠かったのがドイツ人と日本人だった。
 寒さに強い体質のロシア人が平気で耐えるシベリアの酷寒も、温暖な気候で育った日本人には殺人的な寒さとなる。日本人に凍傷が多かったのは、粗末な衣服と相まって体質に一因がある。ソ連人は、自分たちと同等もしくはそれ以上に食料を支給し、同じ酷寒で働いているのに、なぜ日本人に犠牲者が多いかといぶかった。
 ソ連の調査によると1946年(昭和21年)1、2月は、ドイツ兵に比べて日本兵の死亡率は3倍近かった。
 ソ連のノルマの大きな特徴の一つは、多少とも技術的な作業のノルマは低く、単純作業は高いことにある。
収容所では、日本人は、酷寒、飢餓、重労働の三重苦に耐えて、よく働いた。
 ドイツ人捕虜は、対照的に、出来るだけ仕事をサボろうとし、決して無理な労働はしなかった。収容所では、小さな配給食(パン)ではなく、大きな配給食が死をもたらす。少しでもパンを多くもらうために費やす体力は、増配されるパンのカロリーより大きく、かえって体力を消耗して死を早める。
 ラーゲリではパンを減らされようとも、なるべく働かないこと。空腹に耐えるほうが生きのびる確率は高い。
体格検査ではパンツをおろさせ、お尻の肉づきを見る。お尻の肉を手でひっぱってみる。体力のあるものの肉には弾力とつやがある。衰弱している者のお尻はたるんでいて、空気の抜けた風船のようにだらっと、たれている。
 日本人は、収容所のなかのないない尽くしの生活で、創意工夫と器用さを発揮した。最盛期には35ほどの劇団があった。
巻末の参考文献を見ると、シベリア抑留に関しては体験記をふくめて、たくさんの文献が出ていることに目を見張ります。『夢顔さんよろしく』(文春文庫)もその一つです。かの瀬島龍三の闇も知りたいところです。
(2013年10月刊。6800円+税)

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