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2013年10月 の投稿

殺す理由

カテゴリー:アメリカ

著者  リチャード・E・ルーベンスタイン 、 出版  紀伊國屋書店
なぜ、アメリカ人は戦争を選ぶのか。このようなサブタイトルのついた本です。
一見すると、人の良さそうなアメリカ人ですが、昔も今も、戦争が大好きな国です。ということは、大人の男は人を殺したことがある人が少なくないということも意味します。そこが、日本人とは決定的に異なります。世界の憲兵をきどって、自国の利益のためには侵略戦争だって平気です。ところが、自国の利益にならないと思えば、「ルワンダの悲劇」のような事態のときには、見て見ぬふりをして動きません。まことに身勝手な国です。そして、日本は戦後ずっと、そんなアメリカの言いなりに動いてきました。本当に情けない話です。
訳者は、あとがきで次のように指摘していますが、まったく同感です。
 近年のアメリカは、経済を浮揚させておくために軍産複合体を維持・拡大し、圧倒的な軍事力を容赦なく使い、「テロに対する戦争」という言葉によって、あらゆる異論や反論を封じこめようとしている。
 そして、この本の著者の結論を、訳者は次のように総括しています。
 本来なら実利にさといはずのアメリカ人が戦争を容認してきたのは、戦争が道徳的に正当化されると納得したときに戦争を選んでいる。そして、道徳的に正しいか否かの判断に、アメリカの市民宗教が大きな影響を及ぼしている。
 では、本文を紹介してみます。
アメリカは、大きな戦争を10回遂行したが、これにはアメリカの市民宗教が大きな影響を及ぼしている。アメリカは先住民諸部族に18回もの大規模な軍事攻撃をしかけ、25回以上も諸外国に軍事介入した。第二次世界大戦以降だけでも、アメリカが本格的に武力を行使したのは150回をこえる。 これほど好戦的な記録をもった近代国家は他に例をみない。
しかも、アメリカのペースは加速している。1950年代以降、アメリカは20年以上もの歳月を戦争に費やしてきた。朝鮮、インドシナ、イラク、アフガニスタンでの軍事戦争によって、10万人以上のアメリカ国民が戦死しその5倍以上が負傷した。そして、数百万人もの外国人が生命を奪われた。
 アメリカ史を特徴づけるものでありながら見落とされやすいのは、戦争が提唱されるたびに非常に強硬な反戦論が生じること、そして、戦争が始まると、この反戦論は弱まり、消えてしまうこと。
 うへーん、そうなんですか・・・。それは驚きですね、たしかに。
 アメリカ人が生まれつき攻撃的だという議論は、戦争が提唱されるたびに、多くの国民が異を唱え、反戦運動が広まっている事実に矛盾する。そして、戦争がはじまると反戦論は弱まり、戦争がうまく行かないと反戦論の勢いは盛り返す。
 9.11の前、アメリカ政府代表はタリバン指導部とビン・ラディンについて何度も協議していた。しかし、このことはアメリカ国民に知らされることはなかった。
 イラクのサダムがイラクで絶対的な権力を握って行使するのをアメリカ政府は支援していた。イランに侵攻し、クルド人などに化学兵器を使ったとき、サダムは、アメリカの信頼できる同盟者だった。サダムは強硬な反共主義者だったので、CIAは資金その他の援助をふんだんにサダムに与えた。
 サダムが数千人ものイラクの共産主義者を処刑したことは、アメリカのスポンサーたちを喜ばせた。そして、1980年にサダムがイラン・イラク戦争を始めたことこそ、アメリカの大義にもっとも貴重な貢献をした。
 今日、アメリカで徴兵制の復活を提案しているのは、議会内の反戦派メンバーである。徴兵制が復活すれば、イラクやアフガニスタンのような国々でのアメリカの軍事行動は再考を余儀なくされるからという考えによる。
 戦争が大好きなアメリカについて、深く分析した面白い本です。
(2013年4月刊。2500円+税)

抗日霧社事件をめぐる人々

カテゴリー:日本史

著者  鄧 相揚 、 出版  日本機関紙出版
1894年の日清戦争で清国は日本に敗れ、翌1895年(明治25年)、台湾は日本に割譲され、台湾は日本帝国主義の植民地になった。
台湾統治の初期、日本人は自信満々で、すごく高ぶっており、横暴な征服者の態度で台湾に君臨し、台湾人や原住民を奴隷か牛や馬のようにみていた。
 1930年、モーナ・ルーダオが人々を率いて「霧社事件」をおこし、日本植民地政府の強権政治に反抗した。モーナ・ルーダオの地位は、暴動を起こして日本人を殺害した事件の首謀者というものから、歴史に名をとどめる「抗日烈士」へと変わった。
 ところが、同じ「霧社事件」で集団自殺をとげた花岡一郎、花岡二郎とその家族の歴史的な地位は、いまだ正視されず、評価もされていない。
 モーナ・ルーダオたちは1911年(明治44年)、日本内地観光に送り出され、4ヶ月にわたって、日本の政治経済そして文化教育の施設を見学した。見学させられたのですね。
 霧社事件のとき、抗日志士たちは、自分たちが学んでいたころの校長や教師を殺しただけでなく、日ごろ慈愛の心で治療してくれた公医の志柿源治郎医師の生命まで奪った。このことは、日本人に対して、抗日の人々がいかに深い恨みをいだいていたかをはっきりと表している。
 セクダッカ人は、祖先は白石山のポソコフニという神木から発祥したと固く信じており、大木で首吊り自殺をすれば、その霊は祖霊の住むところへ帰ることができると信じていた。
 また、死んだときに顔が天を向いていると美霊になれないとも信じていた。だから、花岡二郎以外の20の死体は、みな「蕃布」でおおわれていた。これは二郎が最後に首を吊ったことも示している。
 さらに、花岡一郎夫妻は、和服を着て切腹自殺をしていた。
 この霧社事件のとき、司法の裁きを受けて処罰された「反抗蕃」は一人もいない。みな警察官個人の手で極刑に処せられた。しかも、その死体は、ひそかに埋められてしまった。これらは、いずれも日本人の恥である。本当に、そうですよね。ちっとも知りませんでした。これほどの日本人の悪業を・・・。
 日本人警察官の小嶋源治は霧社事件で次男を失ったが、同時に「反抗蕃」の子ども、中山清を助けた。
 小島は強権統治者の化身であり、冷酷心と残忍な手段をつかう「人殺し」であった。そして、「保護蕃収容所」の襲撃を命じた。同時に、小島に助けられた中山清は勉強に励んで医師となり、ついには台湾省議会の議員にも当選している。そして、この中山清は高永清となり、戦後日本の1979年に小島源治と宮城県で再会した。この小島源治は、1983年(昭和58年)に、宮城県で亡くなった。このとき98歳だった。
 霧社事件では、抗日6部落のセイダッカは、1236人いたのが、最終的にはわずか259人となった。8割もの人々が戦死、自死、逮捕監禁されて亡くなった。そして、強制移住されたあと、210人になってしまった。
 日本の台湾統治における悲劇を調べあげた画期的な3部作が、この本で完結したのです。ぜひ、関心のある人はお読みください。
(2001年11月刊。1714円+税)

ウェブ社会のゆくえ

カテゴリー:社会

著者  鈴木 謙介 、 出版  NHKブックス
彼女(彼)とのデート中に、別の人物とのネットに夢中になるという話が出ています。
 二人で食事をしているときに、テーブルのうえに携帯電話を置くことすらマナー違反だ。二人でいるのに、他の人とも「つながりうる」状態が維持され、それが自分の前に提示されていることが不愉快なのだ。もちろん、そうですよね・・・。
 私の若いころにはありえなかった話です。学生のころ、下宿先の電話はかかってきたら大家さんが呼んでくれるのです。つまり、一家に一台しか電話はなく、間借り人は大家さんから呼ばれて初めて電話に出て会話が出来るのです。ともかく、会って話すことが何より欠かせませんでした。
 ところが今では、人との対面接触はテクノロジーを介したつながりに取って代わられ、生身の人間に対する興味が失われつつあります。
 現実の多孔化(たこうか)。現実空間に情報の出入りする穴がいくつも開いている状態のこと。生理的な距離の近さと親しさの関係が不明瞭になると、ある空間に生きる人々が、ある「社会」の中に生きているという感覚もまた、確かさを欠くものになるのではないか・・・。
 「セカイカメラ」は、画面にうつし出された場所に関する情報(エアタグ)をふわふわと中に浮いているかのように表示するアプリだ。
 テレビ、新聞、雑誌、そしてラジオという、いわゆる「四大媒体」の広告費は、軒並み右肩下がりである。これに対して、インターネット広告費だけが右肩上がりの成長を続け、今では新聞を抜き去る勢いである。
 我々は、ソーシャルメディアを利用させてもらう代わりに、個人情報を売り渡している。
 我々が直面しているのは、我々自身に関する「データ」が監視される社会である。
高級料理店で食事をとるとき、食べる前に写真をとって、それを自分のブログにのせることが流行している。でも、これもマナー違反として、高級料理店では禁止されている。
 ええっ、ちっとも知りませんでした。私の知人で、それをして好評なブログがあるのですが・・・。
 生身の人間同士のぶつかりあいの体験に乏しいと、現実の日本社会において生きていくのはとても難しいことです。それが分からないまま(実感できないまま)、実社会に出ている若者が増えている気がします。恐ろしいことです。
(2013年8月刊。1000円+税)

アリの巣をめぐる冒険

カテゴリー:生物

著者  丸山 宗利 、 出版  東海大学出版会
アリそのものというより、アリと共生している昆虫の話です。アリを食べたり、アリの死骸を食べたり、いろんな昆虫がアリとともに生きているのですね。でも、昆虫ですからとても小さいのです。解剖するといっても、手先が器用じゃないとやれないでしょうね。
 米粒より小さい虫から交尾器を抜き出すのが解剖の作業になる。米粒に字を書くよりもずっと細かい作業である。
 しかし、そのミクロな世界を拡大すると、この世の生きものとはとても思えない奇妙奇天烈な姿と顔をした昆虫のオンパレードなのです。
 マンマルコガネは、カブトムシに似た形をしています。ツノゼミは奇妙な形です。奇想天外としか言いようがありません。
 オサムシの変てこりんな姿は、さすが我らが手塚治虫先生を思い出させるに値します。アリと共生するというより、アリを食べるアリもいるのですね。ヒメサスライアリです。アリを専門に食べるアリなのです。毒針を使って、自分よりはるかに大きなアリを仕留めます。
 この本の最後にある次の言葉が私の心に残りました。ああ、本当に好きでやっているんだな、いいね・・・と思いました。
 私は、これからもアリの巣を求めてあちこちをめぐりめぐるだろう。そして、新しい発見をするたびに、その感動を人に伝えたいと思っている。ああ、なんて楽しみなことだろうか。
 著者が引き続き元気に研究を続けられること、そしてその成果を広く伝えていただくことを期待しています。
(2013年1月刊。2000円+税)

支倉常長・遣欧使節

カテゴリー:日本史(戦国)

著者  太田 尚樹 、 出版  山川出版社
スペインに日本(ハポン)姓の人が800人ほどもいて、それは400年前の仙台藩の支倉常長たちの遣欧使節のヨーロッパ残留組の子孫だという話です。
スペインはセビリア郊外の川岸の町に日本人の子孫が800人ほど住んでいる。それは残留日本人5人の子孫たちだ。400年前、支倉常長一行がここを通過したとき、日本に戻るのを希望しなかった日本人がいた。
 ハポンとは日本のこと。名前にハポンというのをつけているのは、日本との関わりを残すためのもの。本当の名前は別にあったはず。
 「わが家には、ビョウブ、カタナ、ハシ、ワラジという言葉が先祖代々伝わっていた」
 ハポンの人々の多くは、赤ん坊のころ、お尻に蒙古斑が出る。
 ハポン性の人には富豪はいない。無難で、地道な生き方をしていた。漁業や農業、そして最近では公務員、教員、銀行員、医師を輩出している。
 支倉常長が会ったスペイン国王はフェリペ3世(37歳)。6歳のとき、同じ日本(ジパング)から4人の少年たちがスペインの宮殿にあらわれたときにも、立ち会った。
 支倉常長はキリスト教の洗礼を受けた。ただし、主人の伊達政宗は、キリストには関心はなく、ヨーロッパとの通商を考えていた。しかしながら、キリスト教の禁令は厳しさを増していた。
石巻を出発した船には、スペインの船員40人と日本人140人が乗っていた。日本人の多くは交易商人だった。4年後に仙台に帰り着いたのは26人のうち13人。少なくとも8人は日本に帰ってこなかった。
 支倉常長に対する評価は、当時のスペイン側の記録によると、ベタ誉めで、はったりのない、実直な人柄が評価された。
 支倉はスペイン国王やローマ法王の前でも、日本語で堂々と挨拶した。
出発したとき、42歳で、堂々たる腹のすわった人物だったようです。
すごいですね、400年たって、日本人の子孫がスペインにかたまって生活しているとは・・・。
(2013年8月刊。1600円+税)

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