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2013年8月 の投稿

正義のセ(その1)

カテゴリー:司法

著者  阿川 佐和子 、 出版  角川書店
豆腐屋の娘、25歳・独身が検察官になった・・・。
 あのアガワの小説です。しかも、独身女性検事が主人公とあっては、読まないわけにはいきません。
 私はじつは、アガワのエッセイをいくつも読んでいますが、小説は初めてでした。「ウメ子」とか、いろいろ賞をとった小説があることも初めて知りました。
アガワのお父さんの本はいつも驚嘆しながら読んでいましたが、司法界に挑戦するアガワの小説はどれほどのものなのか、まずはお手並み拝見、というくらいの軽い気持ちで読みはじめたのでした。ところが、意外や意外(実は、小説だから当然のことです・・・)、とてもすんなり感情移入して読みやすいのです。またたくまに、主人公の独身女性検事に、「そんなことをしてはいけないだろう」というツッコミをいれながら、読みふけっている自分を発見してしまったのでした・・・。
検察官ですから、コロシもありますし、取調べにおける「犯人」(被疑者)との微妙な駆け引きも求められます。
 ところが、デビュタン(初心者)は、ベテランにもがわれる(可愛がられる)のです。これはどこの世界でも同じですよね。
 取調べのとき、被疑者にからかわれ、憤然として怒鳴りちらし、泣き叫んでしまう主人公に、つい同情してしまいます。実際のところは知りませんが、ありそうな展開です。
 まだ1巻を読んだだけですが、次なる展開が待ち遠しい第一巻ではありました。
(2013年2月刊。1200円+税)

軌跡

カテゴリー:日本史(戦後)

著者  宮崎 静夫 、 出版  熊本日日新聞社
前にシベリアでの収容所生活を描いた著者の本を紹介しました。
 満蒙開拓青年義勇軍に熊本(小国町)から参加し、関東軍に志願して兵隊となり、敗戦後はソ連軍によってシベリアに連行され、そこできびしい収容所生活を過ごしたという過酷な体験記です。
 それでも、芸は身を助けるということで、うまく絵を描けるということで収容所生活がなんとか過ごせた面もあるようです。
 著者の絵は、無言のうちにも悲痛な叫びに満ちていますよね。
 8人兄弟の中の6番目でしたから、満蒙開拓青年義勇軍に志願したのも分かりますよね。
 教科書は、ススメ、ススメ、ヘイタイススメというもので、軍国少年そのものだったのです。
満州の現地に着いたのは昭和17年の6月のこと。辛い毎日を過ごすことになります。そして、昭和20年5月に関東軍に志願して、兵隊になるのでした。ドイツが降伏し、沖縄戦が終末期のころです。そして、2等兵のまま終戦を迎えます。
 それから、4年間のシベリアでの捕虜生活を過ごすのでした。よくぞ、生き残ったものと思いますが、やはり若さでしょうね。
帰国してから絵を本格的に描きはじめるのでした。
 一度、本物の絵を拝見したいものです。熊本県立美術館には飾ってあるのでしょうか・・・。
(2013年3月刊。1000円+税)

昭和30年代演習

カテゴリー:日本史(戦後)

著者  関川 夏央 、 出版  岩波書店
昭和30年代とは、貧乏くさくて可憐で、恨みがましい。そんな複雑で面白い時代だった。
 私は昭和42年に大学に入学していますので、昭和30年代というと、大半が小・中学生のころになります。たしかに貧乏くさい生活でした。まだ初めのうちは、テレビ見たさに近くの銭湯に入ったりしていました。どこにも子どもがうじゃうじゃいて、群れをなして遊んでいた時代です。空き地には紙芝居のおじさんがやってきました。お小遣いをもらっていない私は、すぐ近くで紙芝居は見ることができません。だって、水アメなどを買う子だけが、すぐそばで見れるのです・・・。
 松本清張が流行していました。本来、能力に恵まれているはずの自分が不遇なのは、努力不足のせいではない。生まれ育ちの不利と、それによる学歴不足、そして学歴不足を理由として職場での不当な差別のせいだ。それは一つの信念だった。自分の責任ではない。めぐりあわせの悪さのせい、もっと言えば「他者」のせいだ。そして、その背後には社会を繰り、大衆を支配する「巨悪」がいる。自分に日が当たらないのは、その「巨悪」のせいではないか・・・。なーるほど、たしかに、そういう怨念が感じられる本が多いですよね。
 「イムジン河」というフォークソングについて語られています。初めて歌われたのは昭和41年のこと。「水鳥は自由に越える、あの川を、人間はなぜ渡れないのか」
 この歌詞は、帰国運動によって不運にも日本から北朝鮮に帰国してしまった在日コリアンの青年が、昭和36年ころにつくったもの。水鳥が「自由に越える」のは臨津江ではなく、実は日本海。つくり手は、故郷の日本や大阪への思いを託した。それを知った朝鮮総連が、この歌のレコードを販売中止に追い込んだ。なーるほど、そういうことがあったんですね。
 「帰国運動」は昭和35年が最高潮だったとのこと。ちょうど、大牟田で三池争議が高揚し、安保条約改正に反対する運動が盛りあがっていたころのことです。
三島由紀夫は、「日本の文学」に松本清張作品を入れることに強硬に反対しました。
 三島由紀夫は「社会派」を本人が自称していたのだそうです。ちっとも知りませんでした。
 「社会小説」のジャーナルを開拓したと自負する三島由紀夫には、高級官僚の墜落と保身を指摘するだけで、「社会派」と呼ばれる松本清張の作品は笑止と映ったはずだ。
 三島由紀夫の運動神経は「不器用の一語」だった。それにもかかわらず、途方もなく運動に熱心だった。
 昭和37年8月に、堀江謙一少年が太平洋を一人ヨット横断に成功した。日本の新聞の第一報は、非難する調子だった。ところが、アメリカはまったく逆に大きく称揚した。これを知って、日本の新聞のトーンが一変した。
 なぜ、アメリカが称揚したのか?
実は、その前日に、ソ連の人工衛星の打ち上げが成功し、アメリカが宇宙技術でソ連に再び遅れをとったことがはっきりした。そんなニュースを大きく扱いたくなくて、たまたま西海岸の各紙が堀江青年の冒険をトップ記事にしたというもの。
 なるほど、こんな偶然が作用していたのですか・・・。
 「キューポラのある街」とか「にあんちゃん」の背景にある北朝鮮への「帰国運動」の暗部を今は明確に批判できます。でも、当時は恐らく多くの人に真実が見えなかったのでしょうね。気の毒という言葉で簡単に片づけられないほどの不幸をもたらした「運動」でした。
 私の今に至るあこがれの吉永小百合について、両親とは結局、和解には至らなかったとのこと。「生活能力の欠けた父親」と断定されています。親子関係は、どこでも難しいものです。それでも、私は今なおサユリストなのです。原発とか戦争に反対して行動する彼女の勇気をたたえます。ついでに言うと、水泳という共通の趣味があるのですよ・・・。
 昭和30年代とは、どういう年代か少し分かりました。では昭和40年代はどうなのでしょうか・・・。続編をよろしく。
(2013年5月刊。1500円+税)

イスラムと近代化

カテゴリー:アラブ

著者  新井 政美 、 出版  講談社選書メチエ
共和国トルコの苦闘、というサブタイトルのついた本です。現代トルコの悩み多き歩みが語られています。
 紀元前5世紀に起きたペルシア戦争において、ペルシア軍のなかには多くのギリシア人傭兵が存在していた。そして、11世紀のマラーズギルトの戦いは、ギリシア(キリスト教)対トルコ(イスラム)の決戦のように言われるが、東ローマ軍の重要な部分を占めていたのはトルコ系の傭兵たちだった。
 スルタンの血筋にはギリシア人の血がたくさん混じり、ビザンツ皇帝の親類には、セルジュク王家と婚姻関係を結んで、イスラムに改宗するものもいた。
 トルコのノーベル賞作家であるオルハン・パムクの書いた『わたしの名は紅(あか)』は、16世紀のトプカプ宮殿のあった時代を描いている。
 スルタン直属の精鋭軍イェニチェリは、オスマンの軍事的発展を支えていたが、17世紀から、その性格が大きく変わっていた。イェニチェリが世襲されるという、本来ありえない事態が日常化していた。市中で副業を営み、在地化し、無頼化していった。そして、あらゆる改革の動きに抵抗する存在になった。
 音楽はイスラムに反するものとされ、また反しないものとされた。これは「判例の積み重ね」としてのイスラム法の特色をよく示している。
18世紀末のセリム3世はイェニチェリに代えようと新たな西洋式歩兵軍団を創設した。しかし、イェニチェリの反乱に直面して、退位を余儀なくされた。
 次のマフムート2世は、砲兵隊を強化し、改革派の官僚を要職につけ、15年かけて中央集権化を実現した。そして、イェニチェリを蜂起させて、一挙にせん滅して、新しい軍隊を創設した。
ムスタファ・ケマル(のちのアタチュルク)は、北ギリシア・マケドニアのテッサロニキに生まれた。このテッサロニキは、オスマン領内でも、屈指のコスモポリタン的な環境の町だった。19世紀末、4万9000人のユダヤ教徒、2万5500人のイスラム教徒、1万1000人のギリシア正教人口をかかえていた。そのうえ、英仏伊露西の国籍をもつ外国人が7000人ほど暮らしていた。
 ケマルは、文明の基盤が家庭生活にあると公言していたが、その家庭生活がイスラムにもとづいて営まれるのは、時代に逆行するものと考えた。1929年にミスコンテストが始まり、1930年には地方選挙で婦人参政権が認められ、34年には国政選挙に拡大した。28年にはアラビア文字が禁止され、ローマ字が採用された。そして、ケマルは、すべての原語がトルコ語から派生していったという「太陽原語説」を採用して、大々的に喧伝した。
 ケマルは、西洋文明を受け入れて近代化=世俗化を目ざしたが、同時に西洋文明はトルコ民族の影響下でつくり出されたものだと強調することによって、西洋化とナショナリズムを「調和」させた。
 1938年11月に、マタチュルク大統領が亡くなると、前年に失脚していたイノニュが第二代大統領に就任した。
 その後、トルコは、さまざまな苦難の道をたどります。
軍部は、共和国の歴史を通じて、まずアタチュルクの熱烈な信奉者であり、その改革の支持者である。したがって、軍事的天才でもあったアタチュルクが創設し、その副官でもあったイノニュが党首となっていた共和人民党の強力な支持基盤でもあった。
 そこで、軍部が世俗主義の守護者を自認し、世俗主義=共和国の根幹を守るために、軍が何度となく政治に介入する動機ともなった。
 そして、イスラム的価値を重視する「イスラム派」が、たとえ、近代的科学技術の摂取を重視していても、共和国の世俗主義にしたがっていないために「反動」と位置づけられ、軍部は、クーデターを起こしても世俗派であるゆえ進歩的だと自らを位置づけ、それが欧米を中心とする世界に受け入れられるという構図を生んだ。
 いま、建国80年をすぎて、トルコは「イスラム政党」が議会で安定多数を維持している。公正発展党は、自ら「保守的民主主義者」を名乗っているから、これを「イスラム政党」と規定するのは問題があるかもしれない。しかし、大統領も首相も、その妻はスカーフで頭部を被っている。建国の父アタチュルクがこの後継をみたら卒倒するだろう。ところが、アタチュルクが憤激しても、現代トルコが発展していることは事実であり、その発展振ぶりは、アタチュルクの方針に忠実であることを自認する世俗派が政権を握っていたころよりも明らかに目ざましい。軍部と司法当局とは互いに牽制しあいながらも、イスラム派を追い落とそうとする意思を決して捨ててはいない。現政権が、その扱いを誤れば、権力はいつまた世俗派に戻らないとも限らない。
 現代トルコにおける「イスラム派」なるものの実体、そして、世俗派との葛藤の複雑怪奇さの一端が少しだけ分かったような気のする本でした。
(2013年1月刊。1600円+税)

アメリカ黒人の歴史

カテゴリー:アメリカ

著者  上杉 忍 、 出版  中公新書
2010年にアメリカの全人口3億9000万人のうち白人は2億人近く(64%)、ヒスパニック系は5000万人(16%)、黒人は3900万人(13%)、アジア系は1500万人(5%)となっている。
ヒスパニック系が黒人を上まわったのは1990年の調査からだった。しかも、統計に出てこないヒスパニック系住民(不法入国者)が1000万人いると推測されている。
オバマ大統領はアフリカから連れてこられた黒人奴隷の子孫ではない。ケニア出身の黒人留学生とカンザス出身の白人女性との間に生まれ、継父とともにインドネシアで育ち、思春期はハワイの白人社会の中で過ごした。オバマは黒人社会で生活したことがなかった。そして、大学を卒業してから、シカゴの黒人コミュニティーで地域活動を開始した。
 いま、アメリカでは貧しい人を中心とする犯罪経歴者500万人は選挙権を剥奪されていて、200万人以上の受刑者は投票できない。
 アメリカの「独立宣言」を起草したジェファーソンは数百人もの奴隷を所有していた。そして、ほとんどの奴隷を解放することがなかった。黒人は生まれつき劣った存在であることを「科学的」に論証した。
 合衆国憲法は、奴隷制と奴隷所有階級の支配権を保障したものだった。1860年のリンカーン大統領のまえの大統領の大半は奴隷主だった。
奴隷主は、家族もちの奴隷のほうが従順であることを知っていたから、奴隷財産をふやすためにも、奴隷の結婚を奨励した。
 奴隷は、自らの意志で相手を選んで結婚することが多く、そこには奴隷の主体性が表れた。
奴隷たちは、さまざまな形で抵抗した。主人が見分けにくい抵抗は「ふり」をすることだった。愚純さを装ったり、主人を喜ばせる幸せな表情を装ったり・・・。
 南北戦争の前までに「地下鉄道」などを通じて、南部の奴隷7~10万人が北部に脱出したと推定されている。
 1861年、南北戦争が始まった。南部の利点は、職業軍人の多くが南部出身で、早くから準備を進めていたこと、イギリスの支援を期待できること。しかし、南部は海外からの補給なしには生活物資や武器の調達が困難だったし、人口の38%を奴隷が占めるという深刻な弱点があった。北部の連邦軍は、途中から黒人を受け入れはじめ、合計40万人が連邦軍に入った。
奴隷解放宣言は、南部社会の基盤を揺さぶり、イギリスの介入を阻止することを狙ったものだった。
 イギリスは既に植民地奴隷制を廃止しており、奴隷制擁護を掲げる南部を支持するのは世論の反発が予測された。しかも、戦況は南部に有利に動く気配がなかった。
 1900年ころ、南部で白人支配層は裁判所を握り、罰せられることを心配せずに反抗的な黒人に暴力を振るった。「人種エチケット」を守らない黒人はリンチの対象となった。
 1889年から1932年までに記録されたリンチ被害者は3745人で、その処刑儀式には白人の指導的人物が加わっていた。特別列車を仕立ててやった2000人の群衆による公開リンチがあった(1899年、ジョージア州)。
 リンチは、白人共同体を白人男性のもとに結束させる儀式でもあった。
1920年代に労働運動が厳しく弾圧され、1921年に500万人だった組合員数は1933年に300万人以下になった。しかし、大恐慌のもとで回顧反対運動やストライキを闘い、反撃体制に入った。そして、ニューディール政策のもとで、労働者の団結権と労働組合の団体交渉権が認められると、労働者は大挙して労働組合に入った。
 CIOには黒人や女性を受け入れる組合が多く、1938年には、AFLよりも多い370万人を組織していた。CIOの運動には、当時、勢力を拡大しつつあった共産党が参加し、彼らの戦闘的反人種主義は黒人労働者をひきつけ、CIOの中に反人種差別的政策をもちこんだ。
 第二次大戦中、100万人の黒人が軍隊に入り、海兵隊や沿岸警備隊にも黒人は配置された。黒人にとって、軍隊での生活の法が一般社会での生活よりもましだった。衣食住を確保したうえ、技術や知識も獲得できた。そのうえ、賃金も定期的に支給された。多くの黒人にとって、人生初めての安定した生活だった。
 黒人新聞は、黒人兵に対する不当な取り扱いを曝露し、糾弾した。軍隊での職業訓練や教育、そして戦闘経験を通じて、黒人はかつてなく誇り高くなった。
アメリカの「監獄通過人口」は年間1000万人。監獄内での暴力的支配関係の形成があり、ギャング組織メンバーを増やして一般社会に流出している。監獄内で暴力化することにより、再び監獄に戻る率が高まっている。
 人口に応じて割り当てられる国からの補助金について囚人には選挙権がないので、白人が人口に不釣りあいに大きな代表権を得る。そして、彼らは、厳罰化を主張する候補に投票し、厳罰主義が政治の世界で大きな影響力をもつようになる。
 カリフォルニア州では、刑務所予算が州立大学予算を上回って久しい。
 大量収監は、「社会を安全にする」というよりは、家庭崩壊を推進し、社会を腐朽させ、貧しい人々から政治的発言権を奪い、貧しい地域を一生さびれさせ、社会をより危険にさせている。しかし、政治家がこの問題に立ち向かうにはあまりに危険であり、政治的な展望もない。
 アメリカにおける黒人の苦しく厳しい課題の一端を知ることができました。
(2013年3月刊。820円+税)

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