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2013年7月 の投稿

卵子老化の真実

カテゴリー:人間

著者  河合 蘭 、 出版  文春新書
世の中のことについて、本当に知らないことが、こんなにたくさんあるんだってことを実感させてくれる本でした。
 だって、卵子って、女性がまだ胎児のときに700万個つくられて、あとは生まれてから大人になるまで減る一方だ、なんてまったく知りませんでした。ウソでしょ、そんなことが・・・、っていう思いです。
卵子をつくる卵祖細胞は、一気に一生分の卵子をつくりあげて、いなくなってしまう。女性が女の子として初潮を迎えるときには、すでに20万個に減っている。
 卵巣は、何十年も前につくられた卵を大切に寝かせていて、少しずつ起こしてつかっている。卵巣に眠っている卵子は「原始卵胞」といって、とても小さな卵胞。それが間断なく起きてきて、若い人なら1日平均30~40個、つまり月に1000個くらいは新たな原始卵胞が起きて育ちはじめる。
 小さな小さな卵子は、そのほとんどが消えてしまうが、ごく一部のものが生き続ける。3ヶ月目に入るころ、残った1%の卵子のなかから、いよいよ排卵するたった1個の卵子が決まる。一つの卵子が決まると、他の卵子は、すべてしぼんで消えてしまう。
 老化のすすんだ卵子は、数が減るだけでなく、質も低下する。
 卵子は老化すると、減数分裂が苦手となり、若い人より繁繁に、染色体の数が22本とか24本の卵子ができてしまう。
 いま、初めて出産する女性の平均年齢は30.1歳。35歳以上の高齢出産で生まれる子の割合は全国では4人に1人、東京では3人に1人となっている。
 女性の妊娠する力「妊孕(にんよう)」性」は、若いころから下がりはじめる。外見が変わっても、人の卵巣は何も変わらない。
 一度も生まないで年齢を重ねていくと、女性の生殖機能は意外なほど早く弱くなってしまう。
 江戸時代の「おしとね下がり」は30歳、それと同じ年齢が現在では、初産年齢になっている。30代も後半になると、卵巣のなかでは、卵子の老化がどんどん進行している。妊娠力とは、何といっても「若さ」だ。
 精子と卵子が出会っただけでは、妊娠は成立しない。その質、つまり生命の力が問われる。卵子が老化し、質が低下するといっても、母親の年齢と生まれてくる子どもの能力とは何の関係もない。
 高齢出産で生まれた子どもとして、夏目漱石(母は42歳)、羽生善治(母38歳)がいる。
30代後半で妊娠すると、子どもをもうけるのに、20歳の2倍の年月がかかる。
 大正14年、45歳以上の母親から生まれた子が2万人いた。これは、現在の2倍にもなる。50代の母親から生まれた子も、3648人いた。このように、昔は高齢出産が多かった。
 体外受精による出産は、いま日本では年に3万人近い。その費用は、保険の適用がなく、30~80万円ほどかかる。
子どもが3人もいる私なんて、本当に幸せものなんだなと。この本を読んで、しみじみ思ったことでした。とはいっても、今の若い女性に、早く結婚して、子どもを早くつくったほうがいいよ、なんてとても言えませんよね・・・。
(2013年6月刊。850円+税)
 6月に受験したフランス語検定の試験(1級)の結果が分かりました。63点で不合格でした。合格基準点は85点ですから、22点も足りません(150点満点)。実は、自己採点では68点でしたから、5点も自分に甘かったわけです。これは書き取り、仏作文の出来についての評価が甘すぎたということです。
 それでも、ようやく4割台に乗りました。次は5割の得点を目ざします。毎朝、書き取りを続けています。
 今は、梅本洋一氏(故人)によるフランス映画の話をNHKラジオ講座で聞いています。女優の美声が聞けたり、トリュフォー監督も出てくる楽しい講座です。

植田正治の写真と生活

カテゴリー:社会

著者  増谷 和子 、 出版  平凡社
戦前から写真家として有名だった父親の姿を愛娘カコちゃんが親しみを込めて紹介しています。ほのぼのとした情景が目に浮かんできて、読んでいるうちに、じわりと心が和みます。どこかしら憎めない雰囲気の、ほのぼのとした写真が、また実にいいのですね。本当に写真が好きで好きで、たまらない、そんな気分がよく伝わってきます。
 鳥取県は西の端、境港は「ゲゲゲの鬼太郎」の水木しげるで有名ですが、同じ境港に生まれ育った写真家です。
祖父の家は履物屋、年末になると、お正月におろす新しい下駄を買いに客が押し寄せ、朝6時から店の前に行列をつくる。
 12月29日は、お正月の準備は何もしてはいけない日である。
 写真館は、正月は忙しい。家族写真をとろうという人が詰めかける。
 いまの境港はひっそりしているが、戦前までは大いに栄えていた。美保関とあわせて、北前(きたまえ)船の寄港地であり、朝鮮半島を窓口にした大陸貿易の拠点でもあった。だから、新しいものや珍しいものがどんどん集まった。
 父・植田正治は新しいもの好きだった。境港で初物を買って、自慢にしていた。祖父は父が東京の美術学校へ行くのを阻止した。代わりに舶来カメラを買ってやる。それでも、東京の写真学校に入学した。1932年のこと。5.15のあった年ですね。
 そして、19歳で境港に「植田写真場」の看板を揚げて開業したのです。とびきりハイカラな西洋風の写真館でした。日曜日になると、3軒先まで写真を撮ってもらおうという人々の行列ができた。予科練があり、訓練生(水兵)たちがよく来ていた。
徴兵検査で2度も不合格となって命びろいをしました。背が高くて貧弱な身体をしていたためです。不幸が幸いするのですね。終戦になって、ますます元気に写真をとりはじめました。
鳥取・大山(だいせん)の麓に植田正治写真美術館があるそうです。個人名のついた写真美術館は日本初だったそうです。ぜひ行きたいと思いました。なつかしい日本の風景を撮った写真が堪能できそうです。
(2013年3月刊。1800円+税)

改憲と国防

カテゴリー:社会

著者  柳澤協二・半田滋ほか、 出版  旬報社
日本の防衛政策について語るときに必ず登場するアメリカ人として、アーミテージがいます。この本では、次のように指摘されています。
 マーミテージ元アメリカ国務副長官はもう過去の人物だ。そうかもしれませんが、それにしては日本の大手マスコミは依然としてもてはやしていますよね・・・。
 2006年12月の自衛隊法改正によって、海外活動が国防に準じる本来任務に格上げされた。
海外派遣の司令部である「中央即応集団」が2007年3月に誕生した。国際活動教育隊はその支配下にある。
自衛隊の海外活動は国際緊急援助隊を含めると28回、のべ4万人の隊員を派遣した。
 現在、自衛隊の海外活動は、アフリカ大陸の二つの活動のみ。南スーダンに陸上自衛隊、ジブチに拠点を設けて海上自衛隊はソマリア沖の海賊対処に取り組んでいる。
 日米同盟をベースにした自衛隊の任務の拡大は先が見えなくなっている。何のために自衛隊を出すのか、非常に混迷した状況にある。
 アメリカの海兵隊が沖縄に駐留することの利点は、思いやり予算による安上がりの経費にある。海兵隊は機動性にすぐれた即応部隊であり、いざとなればアメリカ本国から世界のどこへでも展開する体制になっている。
 海兵隊は、沖縄にいて日本を守るための存在ではなく、アメリカのアジア戦略にもとづく活動を沖縄から展開している。
 日本がアメリカにいつまでも頼っていていいのか、疑問を深めることができる本です。
(2013年7月刊。1400円+税)

憲法がしゃべった

カテゴリー:司法

著者  木山 泰嗣 、 出版  すばる舎リンケージ
いやあ、これはよく出来たケンポーの本です。たくさんの本を書いている著者は、憲法についても、こんなファンタスティックな、おとぎ話のような本を書いていたのでした。すごいですね、すっかり感服しました。
安倍首相が、なにかというと憲法改正を唱んでいますし、自民党は古くさくなった憲法を変えようと叫んでいます。でも、憲法って何のためにあるのか、どんな役割をもっているのか、いま叫んでいる人たちは知っているのでしょうか・・・。
 この本は、憲法って何のためにあるのか、そんな役割をするものなのかを、本当に分かりやすく、問答式で解明してくれます。ヘタウマな絵(一見すると下手くそのように見えるけれど、本当は味わいのある上手な絵)が添えられていて、とても柔らかい雰囲気に包まれて展開していきます。
 憲法がしゃべった、世界一やさしい憲法の授業は、第1章、けんぽうって、なんだろう?から始まります。登場するキャラクターはライ男(お)とシマ男(お)、この二人が対話して進行していきます。そして、主人公はメガネをかけたけんぽうくんです。シマ男は、いつもライ男に食べられないか、おびえています。
 憲法というのは、国の基本的なルールなんだ。憲法は、日本の国民をしばるものではなくて、国民が自由になれるように、国の活動をしばっているんだ。
 鎖で拘束されるのは、国であって国民ではない。
 国の活動が、憲法のくさりで、グルグルに巻かれているっていうことなんだ。
居住・移転の自由が、どうして経済活動なのか?
 たとえば、そうだな、アイスクリームの話をしよう・・・。
 こんなふうに、とても具体的に、分かりやすく話が展開していきますので、飽きることがありません。楽しみながら憲法の本質がつかめるように工夫がこらされています。
 国民の三大義務。勤労の義務、教育の義務、納税の義務。
 勤労の義務といっても強制労働のことではない。教育の義務というのは、親が子どもに教育を受けさせる義務のこと。納税の義務は社会権と関係がある。国からいろいろしてもらうには、法律で決めた税金は納めてもらうということ。
 こんなに分かりやすい憲法の本も珍しいと思いました。
(2013年3月刊。1300円+税)

チャーチル

カテゴリー:ヨーロッパ

著者  ポール・ジョンソン 、 出版  日経BP社
チャーチルの伝記です。実は、あまり期待せずに読みはじめたのでした。ところが、意外に面白くて、つい一気に読み終えました。
 チャーチルが人生で何度も失敗したことも、率直に語られています。そして、チャーチルが両親に愛されずに育ったこと、それをカバーしてくれる女性(乳母)がいたことは驚きでした。父親はチャーチルをこの子は頭が悪いと決めつけ、母親は社交界に忙しかったのです。
チャーチルの顕著な特徴は、精神的で、冒険好きで、野心的で、複雑な知性をもち、情に厚く、勇気があり、打たれ強く、人生のあらゆる側面に強い情熱をもつといった点は、どちらかといえば母親から受け継いでいる。
 母親は社交界一の華でありたいという強い欲求を実現した。母親は、この地位を10年以上にわたって維持した。
 イギリスの政治家のなかで、英語をチャーチルほど愛した人はいない。またキャリアを築くため、キャリアが傷ついたときに名誉を回復するために英語の言葉の力をここまで一貫して利用した人もいない。チャーチルは生涯にわたって原稿料が主な収入源になった。
 言葉をお金に変える点で、決定的な役割を果たしたのは母親だった。
 若きチャーチルは戦争を探した。特別許可を得て、記者として、あるいは兵士として戦場に赴く。新聞記事を書き、本を執筆する、これがチャーチルの行動パターンになった。チャーチルは26歳で国会議員に当選した(1900年)。急速に名誉と地位を獲得したが、他方で数多くの批判者や敵もつくった。軽率で傲慢で生意気で反抗的で自慢げな跳ね返りものだと言われた。
 チャーチルは下院議員になった。出世が目的であったことは間違いない。チャーチルは、当時もその後も、矛盾の塊だった。
 戦場にいたチャーチルは、捕虜収容所に入れられ、脱走した体験をもっていたので、機会あるごとに戦争の恐ろしさを同僚の下院議員に警告した。
 チャーチルは下院の選挙で6つもの肩書きを変えた。保守党、自由党、連立派、立憲派、挙国一致派、国民保守党。
 チャーチルは、演説原稿を用意し、すべて暗記し、練習し、間合いを計算して、何ごとも偶然には任せないようにした。原稿なしに話していて、突然、次の言葉が出てこなくなるという大失態を演じたからである。これって、よくあるんですよね。いきなり頭のなかが真っ白になってしまうのです・・・・。
海軍の高級将官はチャーチルをとんでもない政治家だと嫌った。しかし、士官や下士官、水兵たちはチャーチルを英雄として歓迎し、給与・待遇を改善したあとは、とくに信奉した。
 チャーチルは生涯にわたってフランスびいきだった。しかし、ドイツ軍の演習を視察すると、フランスよりドイツ軍の方が比べものにならないほど良いことを理解した。
 チャーチルは、ユダヤ社会と密接な関係を築いた。一貫して、ユダヤ人寄りだった。イスラエルの建国にチャーチルは貢献した。
 チャーチルはシャンパンを好んだ。そして、いつも葉巻を手にしていた。吸っていたわけではない。喫煙までの所作が好きだったのだ。
 チャーチルは演説の前に酸素を2缶用意して吸入し、気分を高めた。
 1925年、チャーチルは財務相になったとき、予算演説をするときは、公邸から下院まで歩いた。山高帽をかぶり、襟が毛皮の大きなコートを着て、蝶ネクタイをつけ、家族をしたがえ、笑みを浮かべ、手を振って、自信と成功を発散させる。
 チャーチルは日本がイギリスに敵対することはないと信じ込んでいた。チャーチルのこの間違いはイギリスに悲劇をもたらした。
 日本がイギリスと戦う理由はない。日本との戦争の可能性は、理性的なイギリス政府が考慮しなければならないことではない。
 これは、チャーチルの残念ながら間違った言葉です。日本人として複雑な気持ちです。
 1929年のアメリカ・ウォール街の大暴落によって、チャーチルも元手の大金を失っただけでなく、巨額の借金を負うことになった。そこで、チャーチルは、執筆料を2倍に増やし、新しい契約を交渉し、演説旅行した。
 インドのガンジーについて、重要な人物であることを見抜けず、チャーチルはガンジーを「半裸の乞食僧」にすぎないと切り捨ててしまった。
 そして、1932年12月、チャーチルは交通事故で重傷を負った。
 交通事故によって精神的、肉体的な激しい苦痛を味わった。だが、どれも耐えられないものではない。自分を哀れむ時間はないし、力もない。後悔したり、恐れたりする余地はない。自然は慈悲深く、人間にしろ獣にしろ、その子どもたちにそれぞれの力を超えるような試練を与えることはない。危険な人生を歩み、起こることを受け入れるべきだ。何も恐れることはない。すべてはうまくいくのだ。
 1935年。チャーチルは、午前中を執筆と自宅(別宅)の煉瓦積みですごした。1日に200個の煉瓦を積み、2000語の文章を書いた。チャーチルはヒトラーの『我が闘争』を読み、そこに書かれていることはヒトラーの明確な意図だとみた。
 1930年代のイギリスは、平和主義が大流行していた。武装解除に多くの国民が賛同していた。だからチェンバレン首相は、ヒトラーにころりとだまされたのでした。
 チャーチルは独裁者ではなかった。その命令は一つの例外もなく、文書で行い、明快に指示した。口頭の命令も、すぐに文書で確認した。これに対して、ヒトラーはすべて口頭で命令した。
チャーチルは第二次大戦が始まったとき65歳。終わったとき70歳。1日16時間はたらいた。チャーチルには、優先順位を正しくつかむ特異な能力があった。
 チャーチルの生涯で、絵を描く以上の楽しみはなかった。チャーチルの絵は素人離れしているとのことです。ぜひみてみたいものだと思いました。
 チャーチルは人に対する憎しみをもたなかった。そのため、生涯を通して、大きな喜びを手にすることができた。
 私も、人を憎まないようにすることを心がけています。大切な教訓がたくさん盛り込まれている興味深い本でした。
(2013年4月刊。1800円+税)

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