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2013年4月 の投稿

大牟田と与論島

カテゴリー:社会

著者  堀 円治 、 出版  有明新報社
三池炭鉱のあった福岡県大牟田市には沖縄に近い与論島からの移住者の2世・3世が今もたくさん住んでいます。
 93歳になる著者は、世論2世です。その長男は私と同級生ですので、世論3世ということになります。1世は、与論島から集団移住してきて石炭の積み込み作業員をしていました。
 残念ながら、私はまだ与論島に行ったことはありません。奄美大島よりも沖縄本島に近い小さな島です。
 鹿児島空港からプロペラ機で1時間20分。丸いカタツムリに似た形をしている。河川はなく、サンゴ礁が風化した粘土質の土壌。与論島にとってもっとも怖いのは、台風という名の定期便であり、干ばつである。台風で農作物が全滅するとソテツの実で命をつなぐ。ソテツは猛毒なので、毒消し作業が必要である。
 干ばつのため餓死者が出るなか、明治32年から34年まで、3次にわたって合計750人が戸長を先頭に長崎県口之津へ移住した。当時の島の人口は7000人。家族を含めると島民の2割近い1200人が移住した。
 そして、明治43年、有明海を渡って、大牟田へ再移住した。石炭の積み込み作業に従事する。
 現在の三井港倶楽部の北側に三川分教場が置かれ、与論島移住者の子どもが学んだ。そして、昭和11年、川尻小学校に転入した。
 今も、大牟田には与論会があり、与論島との交流も続いているのです。
 堀さん、元気で、さらに長生きしてくださいね。
(2013年2月刊。1715円+税)

ブラックボックス

カテゴリー:社会

著者  篠田 節子 、 出版  朝日新聞出版
恐怖の食卓。サラダ工場のパートタイマー、野菜生産者、学校給食の栄養士は何を見たのか?
 食と環境の崩壊連鎖をあぶりだす、渾身の大型長編サスペンス。この本のオビに書かれているコピーです。週刊朝日に連載されていたとのこと。たしかに野菜を人工的に栽培するなんて、実は危険そのものなんですよね。完全管理型施設栽培のシステムなんて・・・。
太陽の光、土、緑の三点セットをありがたがるのは、農を知らない都会人や、高級住宅地に住んで市民農園を耕している趣味人の発想だ。
露地栽培では、それこそ食っていける農業なんて無理。そうなんですよね。私もちょっとばかり趣味人の野菜づくりをしています。それでも、農業を粗末にしたら生きていけませんよ。ですから、TPPなんて絶対反対です。なんでもお金を出せば買えるというものでは決してありません。額に汗する地道な努力こそ必要です。
 カット野菜。カットした野菜の洗浄殺菌には、次亜塩素酸ソーダを使う。切った野菜をそこに浸けたあと、水道水で洗浄し、さらに鮮度保持剤であるPH調整剤すなわちアスコルビン酸に浸け込む。そのカット野菜を盛りつけてサラダとする。
完全制御型ハイテク農場のなかでは、無数のバクテリアの生息する土は一切使わずセラミックがスポンジなど、作物ごとに異なる人口素材に肥料分を溶け込ませた溶液を用いて、作物がつくられる。空調装置を使い、外気は導入しないので、空気中の雑菌も入らない。考えられる限り、もっとも衛生的な環境でつくられる。無菌状態であるから、病気やムシも寄せつけない。だから、農薬はいらない。異物混入はありえず、出荷の段階で枯葉などが取り除かれるから、下ごしらえもいらない。
 しかし、どれほど厳重な衛生管理をされ、無菌状態で運ばれてきた野菜であっても、カットされた瞬間から、傷みは生じる。切り口から変色し、腐敗がはじまる。
 労働集約型のハイテク農場は地元の雇用創出をうながし、地域の活性化に貢献するはずだった。しかし、現実には地元の人間は働いていない。働いているのは法律で定められた最低賃金をはるかに下回る。研修手当で、事実上の労働をしている外国人ばかりだ。
 研修生のほとんど、アジアから来ていて、日本人はごく少ない。無菌・無農薬でつくられた野菜の味はすかすか。だから、得体の知れないアミノ酸やら合成ビタミンの微粒子をぶっかけられる。
読んでいくうちに、読めば読むほど怖くなる食物の話でした。それでも、今日もマック、ケンタの店も大盛況です。本当に私たちはこれでいいのでしょうか・・・。
(2013年1月刊。2100円+税)

メドベージェフvsプーチン

カテゴリー:ヨーロッパ

著者  木村 汎 、 出版  藤原書店
現代ロシアの政治がどう動いているのかを知りたくて読みました。450頁もある大作ですが、とてもスッキリ明快な語り口なので、よく理解できました。
タンデムのハンドルを握っているのはプーチンであり、メドベージェフは子ども席に座らされている。この実情がよく分かります。
 プーチンが2012年5月に大統領に返り咲くまでに、ロシア政治の基本やその行方を左右する最高指導者をめぐる人事は、一人の人間によって決定された。与党の「統一ロシア」は次期大統領の候補者選びにまったく関与しなかった。同党は討論も票決も一切行うことなく、まるで盲印を捺すかのようにプーチンの決定を承認した。
 ロシアでは、法や制度などフォーマルな取極めが物事を決めているのではない。その代わりに、特定の人間がもっとも重要な決定を行う。別の言葉で言えば、地位(椅子)そのものよりも、そのポスト(椅子)に一体誰が座っているか、このことがロシアではより一層重要な意味をもつ。すなわち、一握りの少数指導者が強力な権力を握る。彼らは、非公式の場(密室)で、彼ら相互間の力関係にしたがい、いわば臨機応変のやり方で決定をくだす。彼ら指導者、とりわけ最高権力指導者がおこった決定は絶対で、「垂直権力」の原則にしたがい、下部へと伝達される。ロシアでは、法律よりも個人による統治がおこなわれている。
メドベージェフは、歴代指導者のなかにあって、けっしてナンバー1と呼べる指導者ではなかった。実質上はナンバー2でしかなかった。しかし、メドベージェフは、プーチン首相のたんなる操り人形に終始することをいさぎよしとしなかった。
メドベージェフはプーチンより13歳も若い、大統領になったとき42歳、辞職時に46歳だった。メドベージェフとは、熊を意味する。身長は162センチしかない。プーチンは168センチである。
 メドベージェフはユダヤ系とみられるが、そのことについて一切口をつぐんでいる。メドベージェフは、両親ともに教授という知識人の家庭に生まれた。プーチンは下層労働者階級の出身者。メドベージェフとプーチンは、ともにレニングラード国立大学法学部を卒業している。プーチンは正真正銘のシロビキ。KGBなど、治安関係の出身者。メドベージェフは、母校で民法を高ずる大学助手だった。
 プーチン首相は2010年10月、若返り効果を狙って顔面の整形手術を受けた。しかし、これは逆効果だった。ロシア人が嫌うアジア人(中国人)のように釣りあがった孤眼になったから。メドベージェフはインターネットが大好き。プーチンは、ケータイさえもっていないテレビ党。
プーチンがメドベージェフを選んだのは、自分と対蹠的なタイプの人間だから。
 メドベージェフは権力基盤、その他の点で脆弱な人物である。だからこそ、プーチンによって便利な中継ぎとして選抜された。メドベージェフの弱みこそ、彼の力になっている。
 プーチン自身がエリツィン前大統領の政策の多くを変更し、また反古にした人物である。だから、メドベージェフが大統領になって同じことをする危険を心配した。
プーチンは、ロシア首相と「統一ロシア」党首という二つの重要ポストを兼任することによってメドベージェフ大統領の行動様式を監視し、操作できる立場にたった。
メドベージェフには側近や部下がいない。メドベージェフは、周囲にいる優秀な同僚や仲間を内閣はもちろん大統領府内にすら登用しえなかった。その人事を主導したのがボスのプーチンだったから。プーチンの作成した人事案を丸呑みする以外の選択肢は与えられなかった。
 メドベージェフは4年間の大統領在任中、最後まで、マスメディアを掌握できなかった、プーチンがマスメディアを独占的に支配していた。テレビで報道されるときのプーチンとメドベージェフの座る位置は、プーチン大統領のときと同じだった。テレビ対話は、大統領との対話から首相との対話に名前を変えただけで、プーチンが4年間そのまま続けた。
 ロシア、グルジア「5日間戦争」はメドベージェフがプーチンと変わらぬ対外強硬論者であることを証明した。「リベラル」というイメージを完全に打ち砕いた。
ロシア・グルジア戦争は、CIS諸国にロシアに対する恐怖感をもたらし、異質感を増大させた。ロシアに逆らうと、深刻なマイナスをこうむる。しかし、だからといってロシアの言いなりになれば、別のマイナスを覚悟せねばならない。
ロシアのグルジア軍事侵攻によって驚かされた欧米諸企業は、ロシア市場へ投下していた資本を一斉に引き揚げた。そのことによってロシア経済がこうむったダメージは、予想外に大きかった。
ロシアはエネルギー資源大国である。石油、天然ガス、金、ダイヤモンド、鉄鉱石などの埋蔵量で世界第一位。
 ロシアは世界規模の経済危機に無関係どころか、そのもっとも深刻な犠牲者だった。なぜか。それはロシア経済がもっぱらエネルギー資源の輸出の大きく依存する事実上の「モノカルチャー経済」であることによる。ロシア経済の国際競争力は、上昇しないどころか復退した。航空機事故が多発し、ロシアはコンゴよりも「世界でもっとも危険な国」となっている。
年金生活者は、民主主義的指権利の保障よりも、社会の安定や秩序を望む。プーチン支持層の中核をなしている。
 プーチン主義は、政治や経済の運営を下からの国民のイニシアティブに委ねることなく、「権力の垂直支配」の名のもとに国家による上からの指導でおこなう。とりわけ、ロシアが豊富に所有するエネルギー資源を、軍需産業同様、重要な国の基幹産業とみなして、政府の厳格な監督、管理下におく。そして、その余剰利益(レント)を側近間で分配する。
 現ロシアでは汚職は歴然として存在している。いや、それどころか、ソビエト時代に比べてさらに増大する勢いである。
 プーチンは、KGB勤務によってつちかったフレキシブルな思考法のおかげで、数々の難局や危機を乗りこえてきた。
 大変わかりやすく、ロシアの現状を鋭く分析した本でした。
(2012年12月刊。6500円+税)

権力vs調査報道

カテゴリー:社会

著者  高田昌幸・小里純 、 出版  旬報社
たまにある新聞のスクープは、時の日本社会に大変なショックを与えるものです。最近は、そんな報道がめっきり少なくなりました。それどことか、安倍首相がマスコミ(新聞、テレビ)のトップ(社長ほか)と、そして編集部長クラスまで個別に高級レストランなどで2時間も会食していることが曝露されました。日本のマスコミが、ますます権力機構の一員と化しつつあるようで残念です。でも、第一線の記者まで、すべてがそうではないでしょうから、その自浄努力にひたすら期待するばかりです。
 今から20年前、朝日新聞の広告年間収入は2000億円あった。読売新聞は1500億円。読売1000万部、朝日800万部の時代に朝日の広告単価が読売より非常に高いことから逆転現象がおきていた。それが、ついに朝日は逆転され、苦境に陥っている。
ニュースソースの秘匿とオフレコは守る。これは二大原則である。ニュースソースの対象が自ら名乗ったとしても、それにあわせて認めるようなことはしない。アメリカの有名な記者(ボブ・ウッドワード)がそれを破ったが、許されないこと。
 取材するときに録音するのは当然。了解をとらず、隠してテープを取っても非難されるべきことではない。私も弁護士として、隠しどり録音をいつも勧めています。問題になるのは内容だけなのです。
日本の朝日新聞に限らず、アメリカでも調査報道はまったく衰退している。
 ネット広告は紙の広告の10分1しかない。広告収入が200億円だと、記者が2000人いたら、人件費で全部消えてしまう。
 貴重な資料を入手したときにはコピーをそのまま発表することはない。文書の汚れ、染み、書き込みがあったら、情報源が特定されてしまう。だから、入手した文書の打ち直しは必須。文字の欠け文字ずれがあれば、そこから特定できる。入手して発表するまでに8年かかることもある。
 調査報道に欠かせないものは人間力。自分の興味本位だけで調査報道するのは、とても危険なこと。報道の質を上げていくためには、質問力の向上が絶対に欠かせない。本当は分かっていないことを見抜く力。それが調査報道のスタートである。
 私は活字大好き人間ですから、ネットよりも新聞を愛好したいのです。その意味でも、調査報道の健闘に期待しているところです。
(2012年10月刊。2000円+税)
 春らんまんの候です。わが家の庭のチューリップ500本は全開状態を少し過ぎたところです。私個人のブログで写真を大公開しています。ぜひ眺いてみてください。色も形もとりどりのチューリップが、心をなごましてくれます。
 このところ、娘から全身にお灸をしてもらっています。アッチッチというほどの熱さなのですが、翌朝の目覚めが何とも言えず爽快です。身体に気力がみなぎり、頭が冴えわたった気分です。血行がよくなるのでしょうか。お灸さまさまです。

蒋介石の外交戦略と日中戦争

カテゴリー:中国

著者  家近 亮子 、 出版  岩波書店
国民政府は、日本の政界の動向にきわめて敏感であった。日本の選挙の結果は必ず国民党の機関紙に掲載された。蒋介石が日本の政治家のなかでもっとも期待し、信頼していたのは犬養毅だった。犬養は孫文の革命に援助を与え、蒋介石とも蒋の日本留学時代から親密な関係にあった。
 蒋介石は、中国において自分ほどの日本通はいないという自負を抱いていた。蒋介石は日本語に堪能だった。東京の振武学校に留学し、新潟の高田連帯に入隊した。
 1927年秋の40日におよぶ日本旅行まで、蒋はひんぱんに日本を訪れ、温泉に入り、日本食を好み、多くの知人・友人と交流していた。日中戦争期でも、蒋介石は国家としての日本国を敵としたが、決して日本人を敵とすることはなかった。
 蒋介石は、軍部の台頭は日本政治の一時的歪みであり、日本の天皇は決定権がなく、責任は軍閥にあるという主張を捨てることはなかった。日本政界に犬養毅がいる限り、軍部の台頭は押さえられるという強い信頼を寄せていた。
 1923年8月、蒋介石は訪ソの旅に出発する。帰国までの4ヶ月のあいだ、蒋介石はロシア語を学び、マルクスの著作を読んだ。そして訪ソのあいだに蒋介石はソ連人嫌いになった。社会主義革命に対する潜在的不信感は訪ソによって深まっていった。
蒋介石は宋美齢との再婚を宋家の資金援助を背景として自らの力で国民革命を完成させ、国民政府内での権力を確立しようと企図した。
 1935年、蒋介石は行政院長になると重要ポストに側近を起用して権力基盤を固めていった。そして、外交権の中央外交部への集中、実質的には蒋介石個人への集中を図っていった。
 汪精衛は蒋介石より4歳年上、胡漢民は8才年上であった。二人とも広東省の知識階級の出身でともに科拳に合格し、日本の法政大学に留学し、密接な関係にあった。
 彼らは蒋介石の軍事力を必要としたが、蒋介石が個人独裁をおこなう事には強い拒否反応を示し、集団で反蒋運動を起こしていった。
 蒋介石は、来たる日本との戦争に備えて、四川を防衛の要とする体制の準備を1935年半ばから本格化していた。蒋介石はイタリアから精力的に魚雷快艇を購入し、長江に配備していた。このため、日中戦争の勃発後、日本海軍の遡江攻撃を阻み、「不可能」とさせるほどであった。
 1936年12月、西安事件が起きた。蒋介石は張学良軍に包囲・幽閉された。このとき、蒋介石は死を覚悟し、遺言を書いていた。12月24日、張学良と周恩来とのあいだに「一致抗日」の協定が成立し、蒋介石は解放された。そのかげには妻・宋美齢の活躍があった。そのため蒋介石は、命をかけて自分を救出してきた美齢に、その後、深い信頼を寄せた。
 1937年11月、蒋介石は国民政府の首都を南京から重慶に移転した。蒋介石は、南京で徹底抗戦をおこなえばマドリードのように長期戦になり、共産党勢力が拡大することになると怖れていた。蒋介石は、日本との戦争を持久戦に持ち込めば必ずや国際世論を見方にできると信じていたため、最終的には勝利できると予測していた。そのため、一時的に撤退し、南京を日本軍の手に落としても、それは共産党の手に落とすよりは取り戻しやすいと判断したのだった。
 1938年の徐州会戦は互角の戦いとなった。徐州において、蒋介石はドイツ人軍事顧問の戦術である堅固な要塞づくりに専念した。日本軍は、空から中国軍へ「猛爆」を加えた。海軍航空隊70機による徐州大空襲が勝敗を決定づけた。ドイツ人軍事顧問国は1938年6月、ヒトラーの命令によって帰国していった。蒋介石は、フランスとソ連へ軍事顧問の派遣を要請した。
 1938年5月ころ、蒋介石は毛沢東と同じく持久戦論を展開していた。
1938年、蒋介石は、ソ連、イギリス、フランスに対して援助を得るため、新彊や雲南の利権を自ら譲る密約を結んだ。これは、あとで中国に矛盾をもたらし、蒋介石を苦しめた。
 1938年に発表された日本の近衛声明によって蒋介石は次第に追いつめられ、中国内部で孤立化していった。日本は、日本との戦争を望まず、中国の共産化および蒋介石の個人独裁化に危機感をもつ中国人達に接近し、国民政府から離脱させ、内部崩壊を図るという「以華制華」政策を露骨に推進していった。
 1939年1月、共産党は重慶に正式に中共中央南方局を設立し、周恩来を中心に国民政府への参加を積極的におこなった。この時期、共産党は公的に蒋介石支持を表明した。
 1940年7月、日本に第二次近衛内閣が設立した。このとき蒋介石は、「近衛は本当に虚名だけで、決断ができず、八方美人で中心となる思想もなければ、闘争の経験もなく、とうてい持久力もない。近衛には定見がない」と手厳しく見ていた。
 1940年9月、日独伊の三国同盟は、日米開戦を悲願とし、そこに向けての努力をたゆまなくおこなってきた蒋介石にとって願ってもかえられないほどの政治的効果をもたらした。
 蒋介石は、1943年の日米開戦と同時に抗日戦争の勝利を確信し、具体的な戦後構想を提起した。
 1944年、ソ連とイギリスは共産党とともに蒋介石と国民政府に対するネガティブ・キャンペーンをはり、蒋介石を独裁者として批判していく。蒋介石と連合軍との矛盾拡大に反して、欧米各国における毛沢東の評価は次第に上がっていった。
 蒋介石は抗日戦中、一度も日本国民を敵とする発言はしなかった。それどころか、常に深い同情の念を見せていた。
 1945年8月15日、蒋介石は自らラジオのスピーカーに向かった。「我々は報復してはならず、まして敵国の無辜の人民に汚染を加えてはならない。彼らが自ら誤りと罪悪から脱出できるように・・・我々は慈愛をもって接する」必要があると説いた。
 日本国民は終戦と同時に「無辜の民」として、長年侵略してきた中国の総司令から戦争責任を「免責」されたのである。蒋介石にとって、それはあくまでも自らが大陸中国の支配を維持するための戦略であった。
対日戦争より共産党撲滅に狂奔していたとされる蒋介石について、その戦略を解明した本です。なるほど、こういう見方が必要だったのかと目を見開かされました。
(2012年10月刊。2800円+税)

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