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2013年3月 の投稿

幸せに暮らす集落

カテゴリー:社会

著者  ジェフリー・S・アイリッシュ 、 出版  南方新社
鹿児島の限界集落に日本語ペラペラのアメリカ人が住んでみた体験記です。
 時間がゆったりと流れ、お年寄りが幸せに暮らしているさまがよく伝わってきます。文章もほのぼのとしていて幸福感がじんわりと伝わってきます。そして写真がまたいいのです。こぼれんばかりの笑みがあふれ、幸せそのものの美しい顔に心がなんとも惹かれます。
 ところは、薩摩半島の山奥。そこに土喰(つちくれ)という小さな集落がある。20軒の家と、たった27人が生活する。65歳以下は3人のみ。平均年齢は77歳。
 集落には有線放送がある。公民館に行って、チャイムを鳴らしてから放送する。各戸の「箱」から声がでる仕掛けだ。
土喰集落は江戸時代の半ば少なくとも240年前から存在している。7代前のこと。
 そして、アメリカ人の著者は薩摩川内市出身の彼女と結婚した。
 土喰集落には女性19人に対して男性は8人しかいない。
 著者は『忘れられた日本人』の著者である宮本常一の翻訳者でもあります。ハーバード大学そして京都大学で学び、現在は鹿児島国際大学の准教授です。
 南日本新聞に連載されて好評だったそうです。限界集落に住む老人は今や忘れられた存在となっていますが、実は、そこにも人間の豊かな営みがあったこと、人々が生き生きと活動していること、そして、人々はそこで枯れるようにして亡くなっていくことを教えてくれます。本当に大切な本だと思いました。
 こんないい本にめぐり会えると、ついうれしくなってしまいます。
(2013年1月刊。1800円+税)

鷲たちの盟約(上)(下)

カテゴリー:アメリカ

著者  アラン・グレン 、 出版  新潮文庫
舞台は第二次世界大戦直後のアメリカです。
 失業者がたくさんいて、ナチス・ドイツからゲシュタポが乗り込んできて、大威張りしています。知られざる不気味なアメリカ社会が描かれています。アカ攻撃が激しくなり、ハーバード大学の教授も職場から追放され、貧しい下宿人です。
 そして、主人公の警察官の自宅がいつのまにか地下鉄道の「駅」になっています。夫である警察官の了解なく妻が手助けをしているのです。もちろん、南北戦争のときの地下鉄道ではありませんから、脱走した黒人を北部に逃亡させるというのではありません。政府ににらまれた人々をカナダへ逃亡させようというのです。警察官の兄は労働組合の結成をはかろうとして逮捕され、強制収容所に入れられています。
 戦中に日系人の強制的収容所があったことは知っていましたが、労働組合活動家などを入れる強制収容所がアメリカにあったというのは、私には初耳でした。本当のことなのでしょうか・・・。
 まだ、アメリカはドイツと宣戦布告していません。ドイツとソ連がスターリングラードで市街戦をたたかっているという時代です。FBIがナチス・ドイツゲシュタポに協力して動いています。信じられませんが、これは恐らく本当のことなのでしょう。FBIの長官がフーバーだったころのことです。日頃はゲイを口汚くののしっていながら、実は自らゲイだったというフーバー長官です。
 ナチス・ドイツが逮捕・収容していたユダヤ人をアメリカ政府が買い受け、強制収容所でひそかに働かせていたという話が登場します。本当にそんなことがあったのでしょうか・・・。アメリカの闇世界ですね、これは。シカも、そこで働くユダヤ人は、ヨーロッパで抹殺されるよりも良いと満足していたと言います。
 アメリカは今カネを必要としている。アメリカは10年以上、この大恐慌から抜け出せずにいる。そういうときに、あのユダヤ人たちの労働力が輸出で稼いでいる。
 ナチスはユダヤ人なきヨーロッパを手に入れ、アメリカは格安の労働力を手に入れたのだった。
 下巻にたどり着き、その解説を読んで、ようやく、この本が歴史的事実をふまえつつ、それを改案した小説だということを知り、安心もしました。なんだ、なんだ、そういうことだったのか・・・。すっかりだまされてしまいました。人騒がせな小説です。
(2012年11月刊。1500円+税)

原発報道

カテゴリー:社会

著者  東京新聞編集局 、 出版  東京新聞
購読しているわけではありませんが、ときどきインターネットで記事を読んでいますが、世の中の動きを真正面から取りあげ、鋭く切り込んでいる記事が多くて、とても勇気づけられます。今や大手全国紙は、どれもこれも政府の広報誌になりさがってしまった感があります。消費税にしろ、TPPにしろ、また国会定数削減にしろ、声をそろえて政府の言っていることと同じですし、その後押しをするばかりです。
 原発報道もそうですよね。まだ「収束」したとはほど遠い実情にあるのに、それを知ったうえで、政府の「収束」宣言に加担してしまいました。
 マスコミは「原子力村」の有力な一員なのです。その状況下で、東京新聞は一人がんばっています。九州のブロック紙にも、もっとがんばってほしいと思いますが、九電の影響力が依然として強いようで残念です。
 この本は東京新聞の原発記事が総まとめにされています。問題の所在が一冊にまとまっていますので、本当に便利です。しかも、記事を再編成し、カラー図版を多用していますので、本当に分かりやすいのです。
 東電は原発について「絶対安全」なのだから、余計な対策はとる必要がない、このように高をくくっていたのでした。だから、今回の大災害はまさしく人災なのです。東電の経営者に刑事罰が課されるべきは当然です。
 そして、福島第一原発の1~3号炉のどれも今なお内部に接近することができません。あまりにも放射能が高すぎるからです。
 そして、放射性廃棄物質を収納する場所がありません。わずか何十年間しか使われない(使えない)私たちが、これから何万年ものあいだ日本列島に住む人々に、とんでもない置きみやげを残していくなんて許されないことだと思います。
 そんな経緯がとても分かりやすく一冊にまとまっています。360頁の大型の本ですが、3.11原発事故とは何だったのか、これからどうなるのかを考えるときに不可欠な資料集です。ぜひ手にとって読んでみてください。
(2012年12月刊。1800円+税)
 東京で長い会議を終えて、みんなで六本木の夜桜見物に出かけました。地下鉄の駅から地上に出ると、ライトアップされた桜並木が目の前にありました。その名も桜坂と言います。道の両側に満々開の桜が切れ目なく続いています。たくさんの見物客が歩いています。途中にあるレストランはオープンな庭にテーブルを並べ、飲食しながら夜桜見物ができるようになっていました。下から見上げると黒々とした空に華やかなピンク色の桜が満点の星のように大きく広がっていて、これは素晴らしいと思わず唸ってしまいました。

加藤拓川

カテゴリー:日本史(明治)

著者  成澤 栄寿 、 出版  高文研
原敬(後の首相。暗殺されました)とともに司法省法学校に学び、ストライキをして放遂された人物が主人公です。朝鮮で外交官として活動し、伊藤博文を激怒させたことで有名なのでそうです。私は知らなかった人です。
中江兆民は大久保利通に直訴して政府派遣留学生に加えてもらい、1872年2月からフランスに留学した、フランス語の読解は抜群だったが、会話のほうは上手ではなかった。
 兆民のフランス留学は、1871年3月にパリ・コミューンが成立し、5月に政府軍から鎮圧されて間もないころのこと。「レ・ミゼラブル」の時代ですね。
 兆民は、3つの政治体制、すなわち王制、ブルジョア共和制、社会主義体制の存在を深慮しつつ、帰国したのである。
 兆民の学僕となったのは幸徳秋水。あの大逆事件で処刑された幸徳秋水が兆民の学僕だったとは驚きです。
中江兆民は、衆議院議員選挙に大阪4区から立候補し、定員2名1位で当選した。
 兆民が被選挙人に必要な条件をみたすために、収入も財産も乏しい兆民に資産などの名義を貸したのは末解放部落の業者だった。兆民は未解放部落の代弁をもする代議士になったのである。
秋山好古はフランスに4年あまり留学した。軍人として異例の長さであった。好古は騎兵についてはドイツよりフランスのほうがはるかに優秀であると学んで帰国した。
 兆民は1901年12月に食道がんで死亡した。その前、医師から余命1年半と告知されたあと、「生前の遺稿」と題する『1年有半』を執筆した。現実の政治批判を加えた随想集は20数万部も売れ、福沢諭吉の『学問のすすめ』以来のベストセラーになった。兆民の葬儀は、兆民の遺言どおり、一切の宗教的儀式を伴わない、わが国最初の告別式が参列者1000人のもとに拳行された。遺言によってお墓も建てられていない。ただし、友人による碑は建っている。
 宗教的儀式を伴わない葬儀と言えば、故池永満弁護士(福岡県弁護士会の元会長)の葬儀も遺言によって、そのようになされました。私はお通夜だけしか参加できませんでしたが、関係者が思い出を語るのを聞いて献花して終了となりました。故人らしいお通夜で、さすがだと思いました。
 日本海海戦で、日本海軍が大勝利したのは、敵前で180度回頭して同航戦(併行して走り戦う)を展開した初戦の砲撃戦術にあると強調されている。しかし、実は、この完勝を決定づけたのは、秋山真之・参謀も後に指摘しているとおり、多数の駆逐艦、ことに水雷艇の活躍だった。ええーっ、そうだったんですか。知りませんでした。
 伊藤博文は韓国を植民地同様に扱い、韓国を無視した。拓川は、赤十字条約改正会議における韓国の外交権を認める立場で外交官として行動しようとして、帰国を命じられた。伊藤博文の逆鱗に触れたのであった。
 外交官拓川は、盗賊主義の外交政策に従いながらも、最後の段階で、これに露骨にくみすることができなかった。
 日本国内の矛盾のあらわれだと受けとめました。知らなかった日本の外交官の存在を認識しました。
(2012年11月刊。3000円+税)

兵士たちがみた日露戦争

カテゴリー:日本史(明治)

著者  横山篤夫・西川寿勝 、 出版  雄山閣
日本人は、まことに昔から日記を書くのが大好きな民族です。
日露戦争のとき、個々の兵士は戦場に筆記用具を持ち込み、日記や手紙を自ら記し、見聞記録をつけることが常態化していた。
 本書は、その日記などにもとづいて、日露戦争の知られざる実情をことこまかく具体的に明らかにしています。
 日本軍は沙河の戦いのころ、大変な事態に陥っていた。遼陽の戦いで、日本軍は銃弾・砲弾を撃ち尽くし、これから生産する分も旅順要塞攻略用に手いっぱいで、補給の目途がたたなくなっていた。しかし、戦地の兵站倉庫に弾薬がないことは前線には知らされなかった。戦意喪失どころか、陣地防御も不可能だったからである。
 そこで、日本軍はロシア軍から奪った大砲で盛んに攻撃を仕掛け、砲弾の致命的欠乏をロシア軍に悟られずにすんだ。
 日本は日露戦争に17億円の戦費を投入した。このうち12億円は外国債にたよった。
大連から350キロも戦線がのびた奉天会戦では、大部隊が急速な行軍を行い、各部隊は常に前線で弾幕にさらされた。そうすると、兵站基地からの供給が途絶えてしまった。しかも、平原の前線では炊飯のために火をおこすと狙い撃ちされ、米が届いても炊くことができなかった。これに対して、ロシア軍は東清鉄道を使って開戦前から大量の食糧などを輸送して、各拠点に兵站基地をもっていた。
 日露戦争で、60万の兵が出征し、その兵站は重要な問題となった。しかし、満州軍に兵站組織はなく、場当たり的な対応だった。そのため、食料調達の不公平や遅滞が問題になった。輸送した総運搬量の3分の2は食糧だった。
 日露戦争は世界史上初めての国民総動員の戦争だった。日露戦争の特徴として、多数の後備聯隊が偏された。その主役は32歳までの後備の兵卒。現役は将校と下士官だけで、兵卒は30歳前後だった。
 私は旅順にツアーで行ったことがあります。有名な203高地にのぼりましたし、東鶏冠山と盤龍山のロシア軍堡塁跡地も見学しました。203高地の上からは、なるほど旅順港は真下によく眺めることができました。
 旅順戦の惨状は将兵の戦意低下を増幅させた。うまく負傷して戦列を離れることが「第一の幸福」と認識されていた。
 与謝野晶子の詩「君死にたまうことなかれ」は有名ですが、その弟が本当に旅順戦に参加して戦っていたのか疑問視する声もあるそうです。本書は、晶子の弟は宇品港(広島)から出航して旅順港戦に参加したとしています。それも前線兵士ではなく、輜重兵として、つまり兵站部隊の一員だったのです。
 1905年3月の10日間、奉天会戦が激しくたたかわれた。60万の将兵が東西100キロ、南北40キロにわたる満州の平原で激闘を繰り広げた世界史上空前の大会戦である。奉天会戦に参加した日本軍兵力は25万人、死傷者は7万人。ロシア軍のほうは総数31万人、死傷者6万人、行方不明7千人、捕虜2万人。この過程で及木第三軍は危機的状況に陥っていた。
 しかし、ロシア軍が奉天城から撃退していった。このとき、奉天には、中立である清国民が普通に日常の暮らしを営んでいた。ロシア軍が籠城していたわけではない。
 そして、ロシア軍の大半が撃退したあと、日本軍が入ってきた。
日露戦争に従軍した兵士の陣中日記などをもとにしていますので、その実情がリアルに分かる本になっています。
(2012年11月刊。2600円+税)

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