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2013年2月 の投稿

幕末維新変革史(下)

カテゴリー:日本史(江戸)

著者  宮地 正人 、 出版  岩波新書
幕末、ハリスは老中首座の堀田正睦(まさよし)に次のように警告した。
 「平和の外交使節に対して拒否したものを艦隊に対して屈服的に譲歩することは、日本の全国民の眼前に政府の威信を失墜し、その力を実際に弱めることになる」
 これは、9ヵ月後、現実に転化した。第二次アヘン戦争に大勝した英仏連合艦隊の江戸湾来襲の恐怖は、何とか回避しようとした公武合体の分裂を幕府と井伊大老に余儀なくさせ、無勅許開港路線の軌道に進入せざるをえなくさせた。外を立てれば、内は立たず。征夷大将軍は国内のみならず対外的にもその実を示さないならば、何が「武職」だとの孝明天皇と朝廷の怒りはサムライと民衆の不満の期せざる受け皿となった。
 慶応元年(1865年)ころ、日本の一般民衆は、薩英戦争・下関戦争・条約勅許という三度の欧米列強による軍事的威圧への屈従のなかで、幕府と朝廷への不信感を募らせていき、国内の一致団結、内戦回避を求め、正義藩長州へ熱烈な声援と支持をおくった。このころ、朝廷に権威はなくなった。第二次長州征伐の慶応2年(1866年)夏は、未曾有の都市打毀しとし世直し一揆のときであった。戦争と民衆蜂起は表裏一体の関係をもっていた。
 ペリーが来航したとき、旗本だけで5000家以上あった幕臣のなかでオランダ語原書を読めたのは、ほとんど皆無だった。そのなかに自らすすんで蘭学を学ぼうとしたのが勝麟太郎であった。勝の能力と見識を見抜いたのは上役ではなく、商人たちであった。商人は勝のパトロンとなった。
 勝は、商人たちとの交流のなかで日本の全国的まとまり、日本民族と民族的利害というのを、幕府とは別のものとして認識するようになった。勝は長崎での5年におよぶ海軍修練のなかで、オランダ語ができるおかげで教師のオランダ海軍士官たちと差しで人間的につきあうことができ、そのなかで市民革命を経て市民社会に生活するヨーロッパ人の人間としての豊かさと幅の広さを痛感した。「西洋人は人間が広く、日本人は人間が狭い」という日本人論は死ぬまで変わらなかった。そのうえ、勝は、島津斉彬と親交し、それが貴重な財産となった。
 アヘン戦争(1840~1842年)における大清帝国の大敗と香港割譲は、朱子学に対する日本知識人の確信を大きく動揺させた。しかも、仏教の祖国、西方浄土の地とされたインド全域がイギリスの植民地となってしまったことも、この時期までに日本人の共有知識となっていた。
 軍事的威圧を受けての無勅許開港という異常な歴史段階に入った日本において、朝廷と幕府のどちらが国家の最終意思を決定するのか、という国家論の問題が日本人全体の前につき出された。サムライ階級だけの問題にとどまらなくなったのである。
 ガーン。このような視点で幕末を考えるべきなのですね。著者は、歴史過程は決して結果から見てはならないと強調しています。そうなんですよね。でも、ついつい結果から見てしまいますよね・・・。
 幕末の戊辰戦争のなかで会津藩とともに徹底抗戦を貫き、一度の敗北もしないまま最後に降伏した庄内藩は、まったく削封のないまま東北戦争後の戦後処理を乗り切った。戦闘に強いことは、なによりも戦う相手の将兵に感銘を与え賞賛の気持ちを生じさせる。恩義の念をいだいた庄内士族のなかに西郷崇拝者が続出したことも、サムライの世界にあっては何ら不思議なことではない。
 新政権の成立とともに攘夷がおこなわれるだろうとの圧倒的多数の日本人の思いを前提条件として外交の舵取りをしなければならない立場の新政権は、なによりも旧幕府と同じだ、という非難を恐れた。
 江戸無血開城後は新政権のもとで全国統治ができるだろうという新政府の楽観的見通しは、早くも4月段階で崩れてしまった。東北に至る地方で内戦が拡大し、内戦での勝利が至上命題とならざるをえず、積極的な外交展開が不可能となった。外交の試みが開戦されるのは、12月に入ってからであった。
 幕末・維新期の日本の動きを重層的にとらえた本です。この時期の視野を広く深くするものとして、関心ある人に一読をおすすめします。
(2012年10月刊。3200円+税)

江戸の読書会

カテゴリー:日本史(江戸)

著者  前田 勉 、 出版  平凡社
日本人は本を読むとき、明治時代初期までは声に出して読む(音読)が普通だったそうです。ですから、江戸次第も当然のことながら音読です。
 そして、それを何人かで集まってやり、手分けしてその意味を質疑・討論するのでした。これを会読といいます。この本は、その会読の意義を究明しています。
 会読は、定期的に集まって、複数の参加者があらかじめ決めておいた一冊のテキストを、討論しながら読みあう共同読書の方法であって、江戸時代に全国各地の藩校や私塾などで広く行われていた、ごく一般的なものだった。
 会読は、上から下への一方的な教授方法ではなく、基本的には生徒たちが対等の立場で、相互に討論しながらテキストを読みあうもの。そこでは先生は生徒たちの討論を見守り、判定する第三者的な立場にいることが通例だった。
 明治の自由民権運動の時代は、「学習熱の時代」であった。政治的なテーマを議論・討論する学習結社が、全国各地に生まれた。
江戸時代、儒学を学んでも、何の物質的利益もあるわけではなかった。しかし、逆説的だが、だからこそ、純粋に朱子学や陽明学を学び、聖人を目ざした。
漢学塾での読書会読においては、上士も下士もなく、勝負して勝ち負けがはっきりする。
 会読には三つの原理があった。相互コミュニケーション性、対等性、結社性というもの。会読の場では、沈黙せずに、口を開いて討論することが勧められていた。そして、討論においては、参加者の貴賤尊卑の別なく、平等な関係のもとですすめられた(対等性)。
 幕末の佐賀藩が江藤新平、大隈重信、副島種臣、久米邦武などの優秀な藩士を生み出すことができたのは、英明な藩主・鍋島閑叟のもと、藩校弘道館で全国諸藩のなかでもっとも激しい会読において競争させたことに起因する。藩校での成績の悪いものには職が与えられないほどの厳しさだった。
日田で広瀬淡窓が創設した咸宜園では、会読が教育の中心におかれ、徹底した実力主義をとった。
広瀬淡窓は、三奪法と月旦表を創案した。三奪法とは入門時に、年齢、学歴、門地をいったん白紙に戻すこと。咸宜園の入門者2915人のうち、武士が165人(16%)、僧侶は983人(34%)、庶民は1707人(61%)で、圧倒的に町人・百姓の出身が多い。
 江戸の後期になると、各藩で優秀な藩士を遊学させるようになる。各藩の藩校は自藩の藩士しか入学を許していなかったので、遊学先のほとんどは私塾だった。19世紀に入ると、武士たちは、藩士教育機関である藩校に強制的に入学させられ、会読を行うようになった。そして、各地の藩校で、国政を論ずることの禁止令が頻発した。
やっぱり、人は議論することによって目覚め、実力を伸ばすものですよね。 
(2012年10月刊。3200円+税)

検証・尖閣問題

カテゴリー:社会

著者  孫崎 享 、 出版  岩波書店
無責任なマスコミと評論家が日本と中国が今戦争したらどちらが勝つか、などの特集を組んだりして放言しています。そして、日本の自衛隊が勝つと断言する人までいて、呆れてモノが言えません。
 日本と中国が戦争するなんて、大変なことです。本当に戦争になれば島をめぐっての局地戦ですむはずもありませんし、日本が勝てるなんて、ありうるわけではないでしょう。アメリカが日本を応援してくれるはずだという幻想に浸っている人が多いのにも困ります。
 アメリカは「日中戦争」をある意味でけしかけ、また、「仲裁」には乗り出すでしょうが、それはあくまでアメリカの国益にそった行動でしかありえません。アメリカが日本を無条件に応援するというのは、まるで考えられないことです。
 多くの日本人は中国軍が弱体だと思っている。しかし、戦闘機とミサイルをかけあわせたとき、日本側が中国に勝つというシナリオはない。同じく、在日アメリカ軍も中国と戦争して勝てるという状況ではない。現時点で軍事費は日本1対中国3くらいの差がある。
 戦闘が起これば、海軍対海軍では終わらない。空軍が出る。ミサイル部隊が出てくる。そのとき、日本の勝ち目はない。
 まったく、そのとおりでしょう。なにしろ、物量に圧倒的な差があるのです。日本が尖閣諸島周辺で軍事行動をとれば、中国は必ずそれに呼応する。軍事力勝負で日本が長期的に勝てるというシナリオはない。
 こちらが軍備を増せば、相手国は当然増す。今日の国際政治では、紛争を避けることに多くの国は利益を見出している。国連憲章には集団的自衛権の規定がある。しかし、自民党の提起する集団的自衛権はそれとは異質なものだ。
 集団的自衛権を推進・主張する人は、国連で認められた権利であり、これを行使できないのはおかしいと主張する。しかし、これは間違いだ。
 国連憲章は、武力行使を相手国が軍事的攻撃をしたときに限定しようとしている。
 自民党などの主張する集団的自衛権は、先制攻撃の一部なのである。両者はまったく違うもの。
 尖閣諸島をめぐる領土紛争は棚上げすべきだと著者は強調しています。
棚上げは、双方が主権を主張するなか、互いの主権主張を認めつつ、軍事紛争への発展を阻止するために、両国では現状を凍結することを目ざしている。
 尖閣諸島を棚上げするのは、日本に有利である。
 まず第一に武力紛争を避けられる。日本の実効支配を中国が認めることになる。この実効支配が長期化すれば、国際法下で、日本の領有権が確定する。
著者は尖閣諸島が日本固有の領土と見ることができるのか、懐疑的です。それには、ポツダム宣言と、カイロ宣言を抜きには考えられないという意見です。
 無主の地であったこと、そして先占の法理が成り立つという主張にも疑問を投げかけています。いずれにせよ、領土紛争が武力紛争に発展しないような知恵と工夫が今求められていると思います。大変タイムリーな本です。
3月1日(金)夜6時から、福岡・天神の都久志会館で著者を招いた弁護士会主催の講演会が開かれます。ぜひ、ご参加ください。
(2012年12月刊。1600円+税)

ヒトラーの国民国家

カテゴリー:ヨーロッパ

著者  ゲッツ・アリー 、 出版  岩波書店
経済的側面からみた、ヒトラーとドイツ国民の「共犯関係」の歴史、というサブタイトルがついています。
 この本を読むと、ヒトラー・ドイツが多くの国民の支持を集めていた理由がよく分かります。ユダヤ人の財産を奪って国家の収入とし、それを一般国民に還元していたのです。そして、対外侵略戦争によって獲得した資産もドイツ兵士が故郷の自宅へ送り、多くのドイツ国民がそれを受けとり、楽しみにしていたというのです。
 1933年にナチスが政権を掌握したとき、ヨーゼフ・ゲッペルスは35歳、ラインハルト・ハイドリヒは28歳、アルベルト・シュペーアは27歳、アードルフ・アイヒマンは26歳、ヨーゼフ・メンゲレは21歳、ハインリヒ・ヒムラーとハンス・フランクは同い年の32歳だった。ヘルマン・ゲーリンクが40歳だ。
戦争の最中、ゲッペルスは、指導的面々の平均年齢はナチ党の中堅層で34歳、国家中枢で44歳。ドイツは、今日まさに、若い人々によって指導されていると言えると断言した。
 多くの若いドイツ人にとって、国民社会主義・ナチズムとは、独裁、言論封殺・抑圧を意味したのではなく、解放と冒険を意味していた。若い人々は、ナチズムを青年運動の延長とみなし、肉体的・精神的な反エイジング(老化対抗)を進めるものとみていた。
 1935年、ナチス党のなかで指導的な役割をしていた20代、30代は、石橋を叩いても渡らないような慎重な人間を軽蔑しながら、自らを近代的・反個人主義的な行動型人間とみなしていた。「偉大な明日は我々のもの」と信じていた。
 ヒトラーは、以前から侵犯を「たいした問題ではない」としていた。たちまち、あらゆる犯罪を受け入れさせてしまう原則、すなわち、「勝ってしまえば誰もそれを問題にしない」という原則を、ヒトラーは腹心の部下から次第に国民へと拡大浸透させていった。
 ナチ指導部は、国民のあいだでの自動車の普及にはじめて手をつけた。そして、それまでなじみのなかった「休暇」概念を導入して休日を倍に増やし、さらに大衆観光旅行熱の発展の先鞭をつけた。
 ユダヤ人などを除く、人種的に一体と定義された大集団に数えられたドイツ人の95%の人々にとって、国内をみる限り差別は減少していった。
 ナチス・ドイツの宣伝において、戦争は攻撃を続ける「世界ユダヤ人」に対する「アーリア人の抵抗」として一貫して示された。「世界ユダヤ人」とは、まず第一にユダヤ人、第二にユダヤ人の縁戚者たる金権政治家、第三にユダヤ・ボルシエヴイキという、三重の姿形をとって世界支配を追求している。
 1933年、失業者600万人という状況に直面したヒトラーがドイツ国民に約束したのは、一にも二にも「職」であり、とにかく働ける場の確保ということであった。
 ドイツの税収は1933年から1935年に25%、金額にして20億マルク増加した。それと並行して失業対策支出が18億マルクも減少した。このとき、軍備景気でもうけた会社を対象とする税率が20%から40%に引き上げられた。
 ナチス・ドイツ国家の崩壊瀬戸際の国家財政状態を、ユダヤ人の財産没収、強制移送、大量虐殺が支えた。ユダヤ人財産の正式な国有化は1938年からであった。
 ドイツの国庫は、お金を必要としていた。政府はいかなる犠牲を払ってでも、国家の破産を国民に見透かされないように躍起になった。少しでも立ち止まったら、たちまち問題は顕わになったに違いない。
 ドイツの大銀行の幹部たちは、強盗の主犯として働いていたわけではない。しかし、もっとも効果的な没収手続を保障する契約者、不可欠のオルガナイザーとして機能し、さらには隠匿犯にもなった。
 ドイツ軍将兵は、ヨーロッパ占領地から、何百万という小包を故郷に送った。荷受人は女性である。北アフリカ産の靴、フランス産のビロードと絹製品、ギリシア産のリキュール、コーヒー、タバコ、ロシア産の蜂蜜とベーコン、ノルウェー産の大量のにしん、ルーマニア・ハンガリーそしてイタリアからの豊かな贈り物がドイツ国内に送られてきた。ドイツの食生活の高水準で維持するため、ユダヤ人の大量殺戮が促進していった。国家の収入となった家財道具とは、絶滅収容所へ強制移送されたユダヤ人のものだった。
 ナチ政権は、最初はいかがわしく、やがて犯罪的になっていく手口の財政政策を展開することによって内政への支持を獲得した。1935年、ヒトラーは国家予算を公にするのを禁止した。
 恐るべき真実だと思いました。しかし、この真実から目をそらすわけにはいきません。
(2012年6月刊。8000円+税)

金曜、官邸前抗議

カテゴリー:社会

著者  野間 易通 、 出版  河出書房新社
残念ながら、私はまだ金曜日夜の首相官邸前の抗議行動に参加したことはありません。霞ヶ関と日比谷公園には毎月行っているのですが・・・。
 そして、金曜夜の官邸前抗議行動をテレビも新聞もほとんど取りあげず、報道しないという真実に怒っています。芸能人の動きを一面トップで紹介する一方で、日本の将来を左右する原発反対の国民的大運動を無視するなんて、「社会の公器」が泣いてしまいますよね。
 この本は、金曜夜の官邸前抗議を主催する首都圏反原発連合の主要スタッフによる内側からの苦労話です。なるほど、ケガ人も逮捕者も出さずに、毎週、何万人もの人々の行動を「統制」するって、大変なんだろうなと思ったことでした。
 あまり参加人数が多すぎて危険な状態になったときには、警察の指揮官車のマイクとスピーカーを使った。もちろん、反原発メンバーが、です。とても考えられない事態です。
 それを警察権力との馴れあいすぎだと批判する人もいますが・・・。
この官邸前行動を報道するのは東京新聞と赤旗しんぶんだけ。なんということでしょうか・・・。テレビは、ずっとずっと無視するばかりでした。
 一番最初は300人しか集まらなかった(2012年3月29日)。いや、それだって、300人も集まったというべきだった。
 官邸前抗議は、公安条例にもとづく「デモ」ではない。デモ申請を出さず、歩道上で行われる。歩道には、必ず人が通れるスペースを残しておくのが「許可条件」。
 官邸に向けての抗議の声を上げる場であって、参加者に向けて語りかける集会の場ではない。話は1分以内。テーマは反原発のみ。
 参加者の半数は、ツイッターとフェイスブックを見て来る。しかし、団体から来る人も少なくない。そして、団体旗は、労組の旗をふくめて遠慮してもらう。これが軋轢も生んだ。個人参加を原則としているので、当然なのだが・・・。
 それでは、日の丸を掲げて参加するのは、どうなのか?
 いつまでも、日の丸をお上の象徴として忌避し続けるだけでは、自分たちの手で民主主義を実現するのは難しいのではないか。社会運動が日本の大衆の心情と乖離
しないように心がける必要があるのではないのか・・・。うむむ、なるほどと思わせる指摘ですね。
 警察はなぜ抗議運動を弾圧しないのか。子どもをふくんだ家族連れの参加者が多く、これを弾圧するのは得策ではないという判断が働いているのだろう。
 この人数じゃあ、機動隊は負ける。抑えきれない。
 ある刑事がホンネを語った。恐らく、そういうことだろう。
 見守り弁護団も40名をこえた。そして、ついに首都圏反原発連合の主要スタッフは野田首相と官邸内で会って、直接抗議の声を伝えた。私もこれは、とても大きな意義があるものだと思います。
 デモも世の中を動かすのです。従来の左翼的な大衆行動とは別の国民的なうねりを感じる新しい行動を見る思いがしました。これとは別に、労働組合が反原発運動は生存権に関わる課題として集会し、デモをし、さらにはストライキをしてもいい国民的課題だと思うのですが、いま残念ながら労働組合にその力がありませんね。
 ぜひ、一度この官邸前行動に参加したいものです。
(2012年12月刊。1700円+税)

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