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2013年1月 の投稿

北朝鮮現代史

カテゴリー:朝鮮・韓国

著者  和田 春樹 、 出版  岩波新書
北朝鮮とは、いかなる国なのかを知る、コンパクトな新書です。
 1942年、ソ連領内に抗日連軍があった。みなソ連軍の軍服を着ていた。崔康健も金日成も、みな大尉だった。軍事指導は中国人、党は朝鮮人という分業があった。そして、朝鮮人としてはトップは崔康健であり、金日成はその下だった。
 1942年、金日成の妻である金貞淑は男の子をソ連領内で産んだ。金正日である。
 ソ連は戦後の朝鮮占領に対する準備をほとんどしていなかった。かつてコミンテルンで働いていた朝鮮人の共産主義者のほとんどは、1930年代にスターリンの指令によって日本のスパイとして処刑されていた。
 中国では党の軍隊だから、中共党の軍事委員会が中国人民解放軍を管理している。北朝鮮の場合には、党とは別個に軍が組織された。
 1948年2月、朝鮮人民軍の創建が公表された。北朝鮮人民軍ではなかった。
 朝鮮民主主義人民共和国の首都は憲法ではソウルとなっており、平壌は仮首都である。
 1949年3月、金日成、朴憲永らは北朝鮮政府代表団としてソ連を訪問し、スターリンと秘密に会見した。金と朴は「国土完整」の希望を伝えたが、スターリンはこれを許さなかった。
 1949年4月、中国人民解放軍が南京を陥落させた。北朝鮮の士気はますます上がった。スターリンのソ連は、1948年末まで、朝鮮の米ソ分割を前提とする政策を改める気配をみせなかった。
 1949年10月、毛沢東が天安門の上で中華人民共和国の建国を宣言した。
 1950年4月、金日成と朴憲永らは、モスクワでスターリンと会見した。スターリンは最終的にOKしたが、中国に行き、毛沢東の意見をきいて決定するよう求めた。
 1950年5月13日、金と朴は北京に到着し、毛沢東に会見した。毛沢東はアメリカ軍が参戦する可能性があるとみていて、そのときには中国は軍隊を派遣すると述べた。
 1950年6月25日未明、38度線の前線で北朝鮮軍による軍事行動が開始された。このとき、北朝鮮にはT34戦車が258台あったが、韓国側には1台もなかった。
 スターリンにとって、ソ連が支持して北朝鮮が南に攻めたということは絶対に世間に知られてはならないことだった。
 6月30日、アメリカ政府は東京のマッカーサーに地上軍の派遣を許す決定を下した。これはスターリンと金日成の予想に反していた。
 10月19日、中国人民志願軍12個師団が鴨縁江を超えた。18万人を超える大兵力は静かに米韓軍に接近し、重大な打撃を与えた。うろたえたアメリカのトルーマン大統領は原爆のしようもありうるとしたが、イギリスのアトソー首相にいさめられて、思いとどまった。
 1950年12月、金日成は戦争の作戦指導から完全に排除された。金日成にとって、これは屈辱的な事態だった。戦争は、組織的にもアメリカ軍と中国軍との戦争になった。
 アメリカは、李承晩大統領の意見は聞きもしないし、説得もしなかった。
 朝鮮を統一民族国家として再建したいという民族主義者の願望を実現しようとしてはじめられた朝鮮戦争は、北の共産主義者の側からみても、南の反共産主義者の側からみても失敗に終わった。朝鮮戦争は朝鮮の統一をもたらしえず、失敗した。この失敗の責任を誰にとらせるかがスターリンの関心事だった。
 1953年1月から、平壌で、朴憲永ら南労党系が逮捕された。朝鮮戦争は、金日成の軍事的失敗を意味したが、結果は金日成の政治的勝利だった。
 停戦の時点で北朝鮮にいた中国人民志願軍は120万人だった。
 1956年2月、スターリン個人崇拝批判が始まった。このとき、北朝鮮では、個人崇拝とは朴憲永崇拝のことだとされた。金日成崇拝は「個人崇拝」ではないという論法で対処された。
 今の北朝鮮は「先軍政治」をとっている。これは、正規軍国家ということ、つまり党国家というより、軍国家体制なのである。
血なまぐさい権力闘争を経て成り立っている北朝鮮の政治体制の内実が実にコンパクトに分かりやすくまとめられた新書です。
(2012年4月刊。820円+税)
 東京でデンマーク映画『アルマジロ』をみました。アフガニスタンに派遣されたデンマーク軍の兵士たちの活動を紹介する映画です。アルマジロというのは、農村地帯にある前線基地で、そこから兵士たちがパトロールに出かけ、タリバンと戦います。デンマーク軍が村民に対して「あなたたちを守ってやっているから、情報を知らせてくれ」と頼むと、村民たちは拒否します。「そんなことをしたら、タリバンに殺されてしまう」。子どもたちも口々に、「家に帰れ」と兵士に言います。
 タリバンとの戦闘場面が生々しく(フィクションではありません)、軍隊は結局、人々の生活も平和も守ることは出来ないことを実感させます。デンマークで公開されたら、アフガニスタンへの派遣支持が一挙に低下したそうです。当然だと思いました。

治安維持法

カテゴリー:日本史(戦後)

著者  中澤 俊輔 、 出版  中公新書
稀代の悪法と言われる治安維持法は戦前の軍部独裁政治のなかで規制されたものではなく、実は護憲三派内閣のときに成立したものでした。なぜ、そんなことになったのかを考えてみた本です。
ファシズムは、初めのうちはフツーの人間の顔をして近寄ってくるものなんですね。そして、その仮面の下のホンモノの怖い顔が現れたときには、もう手遅れなのです。
 治安維持法は、1925年、護憲三派の連立政権である加藤高明内閣のとき、「結社」を取り締まる法として成立した。なぜなのか?
 治安維持法の主管官庁は、内務省と司法省だった。内務省は、行政処分と重複する新しい取締法を設けることに消極的だった。内務官僚は、貧困や労働問題といった社会の矛盾を柔軟に受けとめようとした。
 明治政府の元勲・伊藤博文は1900年、立憲政友会を組織した。政友会は「万年与党」だったが、その成長の裏には原敬の内務省支配と利益誘導政治があった。
 ところが、1921年(大正10年)11月、原敬が暗殺され、政友会は突然にリーダーを失ってしまった。カリスマ亡きあとの政友会は内紛をかかえた。
 憲政会は「思想善導」を政策として打ち出し、内務官僚に人脈を築いていた。しかし、司法省には独自の人脈を築けなかった。
 立憲国民党は、犬養毅を総理として1910年に結成された。弁護士やジャーナリストが集まる、リベラルな性格を持っていた、犬養は、言論・出版・集会の自由を主張した。1922年に解党して革新倶楽部として再出発した。
 治安維持法を制定した加藤高明の護憲三派内閣は、政友会・憲政会・革新倶楽部の連立政権として誕生した。
 1900年の治安警察法は万能であったが、結社の禁止処分はあくまで行政処分であって罰則ではないという限界があった。
 1922年(大正11年)、政友会を与党とする高橋是清内閣は過激社会運動取締法案を閣議決定して国会に提出した。しかし、廃案となった。第一に、学者・新聞・言論人が反対した。第二に、与党が反対した。政友会の内紛も無視できない。第三に、主管官庁の司法省と内務省の歩調があわなかった。第四に、貴族院が反発した。司法省は、宣伝ではなく、結社を罰することで個人の言論活動には深く立ち入らないというスタンスを示そうとした。内務省は、ソ連とコミンテルンを警戒したことから、治安維持法の制定に賛成した。
国会での審議を通じて、治安維持法が「宣伝」取締法ではなく、「結社」取締法として成立したことには言論の自由を重視する憲政会の意向が反映されていた。
 成立した治安維持法の問題点は次のとおり。
 第一に、文言があまりにも漠然としている。「団体変革」は、融通無碍(むげ)に拡大適用された。
 第二に、暴力や不法行為の実態がなくても処罰の対象となることは、結社の自由な活動を萎縮させた。
 第三に、法成立時に「団体変革」を目的とする結社は存在していなかった。その結果、治安維持法は、次第に本来は対象外である「宣伝」へ適用を広げた。
 1928年3月15日、共産党員への一斉検挙が行われた。全国で1000名が逮捕されたが、起訴されたのは488名だった。押収された党員名簿によると、逮捕された党員は409名のみで、検挙者の4分の1にすぎなかった。
 1928年4月、治安維持法が改正された。目的遂行罪を導入し、死刑を法定刑の上限にふくめた。
 1929年4月16日、共産党への一斉検挙で700名が検挙された。
 1928年10月から始まった陪審制では、治安維持法違反事件は対象外とされた。陪審員が共産党の影響を受けることを恐れたためである。
 治安維持法違反の検挙者は1928年から40年までに6万5000人をこえた。1931年から33年までに3万9000人であった。そして、そのうち起訴されたのは5400人ほど。検挙者の9割は起訴されなかった。
 若手の学者によって治安維持法の実態を知ることのできる本でした。
(2012年9月刊。860円+税)

暴走する地方自治

カテゴリー:社会

著者  田村 秀 、 出版  ちくま新書
先の衆議院総選挙において、市長や知事が本来の仕事を放り出して国政選挙に奔走し、それをマスコミも当然視していました。本当に問題ないのでしょうか・・・?
 ほとんど市長としての仕事をしないのに給料は全額もらっていたようです(少なくとも返上したというニュースは私の知る限りありませんでした)。部下の市職員に対しては口やかましく職務専念義務を強調していたのに、まったく矛盾しているとしか思えません。こんな口先だけの政治家って、いやですよね。
 暴走する首長たちがいる。東京・名古屋・大阪。そして、かつては鹿児島、阿久根市にも・・・。彼らは、国や地方議会、公務員などを抵抗勢力に位置づけ、単身、地方自治体の本丸に乗り込んで改革を進めているように演出する。そして有権者からの拍手喝采を受ける。こんな地方政治の劇場化は、いったい住民に何をもたらすのか、よくよく考えてみる必要がある。まことに同感な指摘です。
 大阪の抱えている問題は、果たして地方自治体の構造をいじったくらいで、大阪経済が再生の道に向かうのか、根本的な疑問がある。大阪都市構想は、大阪を一つにすると言いながら、その中身は、大阪を解体することにある。もし道州制が導入されたら、大阪都構想は大阪を破壊するための単なる一里塚でしかない。これでは、「するする詐欺」ではないか。関西州が誕生したとき、神戸市や京都市はあっても、大阪都はなく、大阪は人口30万人から50万人に分割・再編され、大阪を代表する自治体は存在しなくなる。大阪そのものの解体である。いやはや、とんだことですよね。まるで詐欺商法でしょう。
 名古屋市の減税プランによると、所得の低い層40万人には減税の恩恵はない。恩恵を受けるのは高所得の人のみ。
改革派首長は、たびたびマスコミに登場している。マスコミの側が積極的に取りあげている。視聴率を上げるためだ。抵抗勢力を明確にして対決姿勢を強めることは、マスコミに恰好のネタを提供することになる。
 そして、彼らは外部からの人材登用に積極的である。ところが、政治的任用を乱発すると、組織のなかで軋轢を招きやすい。
 テレビ局がワイドショーなどで好意的に扱ってきたのを改める必要がある。
 ポピュリズムは、地方を、そして日本という国を滅ぼす。
 東京大学工学部を卒業してキャリア官僚になり、いまでは新潟大学の教授になっている著者の話には説得力があると思いました。
(2012年5月刊。780円+税)

日本人は、なぜ世界一押しが弱いのか?

カテゴリー:社会

著者  齋藤 孝 、 出版  祥伝社新書
私は一般的な日本人論を読むのを好みません。聖徳太子の「和をもって貴となす」というのは、当時あまりに紛争(裁判)が多かったので、日本人よ、もめごともほどほどにせよと諭したということなのです。ところが、今ではまったく逆に昔から日本人はもめごとを好まなかっただなんて、とんでもない使い方がされています。
 また、イザヤ・ベンダサンにも一時期ころっと騙されてしまいました。なあんだ、正体は日本人だったのか、よくぞなりすましてくれたものだと思いました。とは言っても、この本には得るところがありましたので、紹介します。
 テレビのワイドショーでは、思いついたことの8割は言えない、言ってはいけない。なぜなら、本当のことは、ほとんど人を怒らせることだから。日本のテレビでは、人を怒らせることや傷つけることを言う人は、だんだん出演が減っていく。
 私も、30年ほど前にNHKの朝「おはようニッポン」の全国生中継番組に出演したことがあります。事前の打ち合わせのとき、たとえば国内の先物取引業者を悪く言ってはいけないと釘をきつく刺されました。同じようなだましの手口を使っても、政府公認の業者は許せということです。
 日本人は大陸から渡ってきた民族だ。つまり、押しが弱いために土地を追われ、大陸から押し出されてしまった人々の末裔なのではないか。
 ええっ、これって、ホントでしょうか・・・。信じられません。
 中国人や朝鮮人に比べて日本人は肉食が向いていない。肉は日本人の弱い胃腸には適さない。同じように、胃腸の弱い日本人は量をたくさん食べることもできない。
 日本人は、超肥満になれない。超肥満になるには、それだけインシュリンを多く分泌する能力があるということ。内臓の弱い日本人は、インシュリンもたくさんは出ない。そのため、超肥満になる前に糖尿病になってしまう。
 日本人には「個」が弱いから、一人では生きていけない。集団でなければ生きていけないので、集団で生きるために忍耐力と協調性が必要となった。
 日本は、場の空気を読むことが常に求められる社会である。
 葦原(あしはら)の瑞穂(みずほ)の国は神(かむ)ながら、言挙(ことあ)げせぬ国
 これは『万葉集』におさめられた柿本人麻呂の歌。日本は太古から「言葉にしてはっきり言わないこと」をよしとしてきた。それをしてしまうと争いになるからだ。
 日本人の微笑(ほほえ)みは、人間関係を穏やかにするための相手の配慮である。
 セックスは全身的な行為なので非常に疲れるうえに、気を遣うので、精神的にも負担を感じてしまう。セックスは対人行為なので、ストレスが生じるが、自慰はストレスがないから気が楽だ。
 日本人の学校好きは筋金入りだ。その証拠に日本人は同窓会が大好きだ。
 日本の古文は、世界に誇るべき奇跡の文章だ。古文は、誰が、誰にというのがほとんど書かれていない。読み手が、それらをすべて補わなければならない。古文は、すべてが曖昧である。
日本の文化には、お笑いと温泉と食べ物という三つの世界に誇るべきものがある。
 日本人は押しが弱いけれど、その分穏やかという特性をもっている。性格は、明るくまじめ、几帳面で粘り強い。
 今どきの学生は、ケータイ(スマホ)がネットしか使っていない。一人ひとりが自分の見たいときの自分の見たい情報しか見ないようになっている。これは、とても危険なこと。情報の共有ができなくなっている。
 多くの人が同時に情報を共有していることは、それ自体がとても大切なこと。なぜなら、みんなが知っていることで初めから話がすすむということがあるから・・・。
 弁護士の中にも口頭での討論を不得意とする人が増えてきて、心配です。
(2012年6月刊。780円+税)

蒙古合戦と鎌倉幕府の滅亡

カテゴリー:日本史(鎌倉)

著者  湯浅 治久 、 出版  吉川弘文館
ムクリ、コクリという言葉が、私の脳裡にかすかな記憶として残っています。恐ろしいものという意味です。つまり、ムクリ、コクリに襲われたら大変だということです。
 ムクリとは、モンゴル(蒙古)、コクリとは(高麗)。つまり、蒙古襲来の悪夢が現代日本人にも微かに伝わっていたということです。
 この本を読んで、西方の中国そして朝鮮半島から中国・モンゴル軍が来襲してきたとき、実は北方からも日本を襲う動きがあったことを知りました。
 蒙古は、同じころサハリンのアイヌを改め、20年後に元が再びサハリンのアイヌを攻撃した。蒙古からの攻撃がアイヌの反乱と連動していた可能性は高い。
 鎌倉幕府は、弘安の蒙古合戦に大勝したことで気を良くして、高麗派兵を企図した。そして、元のフビライは、日本遠征をあきらめず、戦艦の建造をすすめた。フビライが永仁2年(1294年)に死ぬまで、蒙古襲来の危険は続いていた。
 フビライが高麗や日本への軍事行動を始めたのも、実は南宋を孤立させるための布石であった。
 文永11年(1274年)10月、第一次蒙古合戦が始まった。来襲した兵員は、蒙古軍と高麗軍を併せて3万余人。兵船は900艘に達した。
 10月20日、蒙古軍は、百道原や今津から上陸して、日本の武士と激戦を繰り広げた。蒙古軍は、この日、筥崎宮を焼き払った。そして、混成軍の統制がとれず、思わぬ日本武士の抵抗に気後れした蒙古軍が撤退する途中に暴風に遭遇した。合浦に帰還した蒙古軍は1万3000人あまりを失っていた。
 この合戦の状況が有名な「蒙古襲来絵詞」に描かれている。
 弘安4年(1281年)、蒙古人・漢軍・高麗軍の計4万人が日本に襲来した。別に江南軍は10万人、船舶3500艘。しかも、江南軍は、鋤・鍬を所持し、日本へ移住して、大地と人民を支配することをもくろんでいた。
 この14万人の集団が平戸近くの鹿島になぜか1ヵ月も滞留していたとき、折からの台風によって壊滅的な打撃を受けた。
 蒙古との合戦直後、北条時宗が34歳で急死した。
鎌倉幕府の内部状況は目まぐるしく変遷していきます。人臭いドラマの連続です。
(2012年11月刊。2800円+税)

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