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2012年12月 の投稿

日本鍼灸へのまなざし

カテゴリー:人間

著者  松田 博公 、 出版  ヒューマンワード
息子が東京・西国分寺で鍼灸師として働いていますので、少しその世界をのぞいてみようと思って読んだ本です。どの世界も職業の奥は深いわけですが、この鍼灸の世界も歴史と底深さがありますね。私も、ときどき自宅で娘から灸をすえてもらっています。温かくて、ときに熱さも感じますが、とても気持ちのいいもので、心地よい眠りに入れます。
 韓国のテレビの「チャングムの近い」は見ていませんが、それにも鍼灸が出てくるそうですね。同じく「ホジュン」の方は、本だけは読みました。素晴らしい本でした。ぐいぐいと作中の世界に引きずり込まれていきます。
 この本を書いた著者は、私より年長の、元ジャーナリストです。岩波新書『鍼灸の挑戦』も書いているそうですが、そちらはまだ読んでいません。日本と中国、そして韓国の鍼灸治療の現場を比較しているところもあって、大変面白く読み通しました。
 『病家須知』という江戸時代(1832年)の本がある。そのころ、病者の療養や出産、老人介護は、すべて家族の暮らしの一部だった。武士にも「介護休暇」や「産休」が与えられていた。自分と家族の身体と心の健康は自分で守るのが当然で、専門家の支援を仰ぐのは、その後だという自立ケア社会が成立していた。
 うひゃひゃ、江戸時代って、今より進んでいるところもあったんですね・・・。
むやみに薬を使用するな。祈祷を僧侶や修験者に頼むのは、ほとんど無益なことだ。心から祈れば、神仏にも伝わり、感応がある。
 食欲・睡眠欲・色欲の三欲を管理する。
鍼も灸も、生体にとっては極くささやかな刺激、微細な情報である。それ自体が強引に治すというより、不断に働いている体のおのずからなる治癒作用を応援している。つまり、生体に活力があるかないかが、鍼灸の効果を作用する。
 病気を治す自然の力の働きは、心地よい肯定的な過程をとるとは限らない。むしろ逆。病気になると、からだは熱を発し、汗を流し、下痢、腹痛、嘔吐などを繰り返す。この苦しくて悩ましい症状は、第一義的には、細菌やウィルス、有害物質を排除し、無毒化しようとする身体の防御反応、治癒反応である。こんな症状があるからこそ治癒するとヒポクラテスはこう考えた。
 なーるほど、そういうことだったのですね。だから、熱発や下痢があったとき、それを無理して止めるのは身体にかえって良くないわけなんですね・・・。
 1991年にスイス・アルプスの山中で発見された5200年前の「アイスマン」には、右膝などに入れずみがあり、それは鍼治療のあとだと考えられている。シベリアのアルタイ山中の男性ミイラにも、背中と足首に入れずみがある。これも鍼灸のせい・・・。
脳が絶対的な支配者として人体に君臨しているという、脳は至高の帝王であるという身体観は、現代科学と医学のイデオロギーであり、思いこみである可能性がある。
 中国医学の五臓、肝・心・脾・肺・腎は、心の神気のコントロールを受けつつ、それぞれ独自に精神性と機能を分けもち、五行の相生相克の論理に従って、半自立的に他の臓器と関係しながら、全体として統合されている。
 境界たる皮膚のほうが、生命維持機能のみを考えた場合、脳より上位にあることも可能である。
日本鍼灸の蘇生が熱っぽく語られる本でもありました。
(2010年6月刊。3300円+税)

二つの祖国の狭間に生きる

カテゴリー:日本史

著者  長谷川 暁子 、 出版  同時代社
戦前、日本軍が中国へ侵略していたとき、日本人女性が重慶からラジオで日本兵に反戦を呼びかけていました。その日本人女性の名前は長谷川照子。
 日本軍は昭和13年(1938年)、反戦放送の声が長谷川照子であることを突きとめ、「嬌声売国奴」と決めつけ、大きく報道した。
 「お望みとあらば、私を裏切り者と読んで下さってもけっこうです。私はすこしも恐れません。むしろ私は、他民族の国土を侵略するばかりか、なんの罪がない難民の上に、この世の地獄を現出させて平然としている人たちと、同じ民族であることを恥とします」
 この照子の言葉は、まことにそのとおりだと思います。しかし、すごいですよね、これが戦前の若き日本人女性の言葉なのですから・・・。
 長谷川照子は、鹿地亘(かじわたる)が主宰した「在華日本人反戦同盟」の活動にも力を注ぎ、日本語訓練班をつくり、対日宣伝技術指導を担当した。日本兵捕虜教育所にも足を運び、講演したり、捕虜たちと話しあっていた。
 長谷川照子は、山梨県に土木技師の父親の次女として生まれ、奈良女子大(奈良女
高師)国文科に学んだ。そして、エスペラントを学ぶなかで、日本の東北大学に留学していた劉仁と知りあい、結婚した。この劉仁という男性は、写真もありますが、大変なハンサムで成績優秀でした。
 そして、ふたりで中国に渡ったのです。戦後1947年に、長谷川照子は医師のミスから35歳の若さで亡くなり、あとを追うようにして劉仁も死んでしまいました。母が亡くなったとき10ヵ月だった著者は、兄とも生き別れ、苦難の道を歩みます。それでも、革命烈士の子どもとして生活は保障されていました。
 しかし、中国はやがて毛沢東が理不尽な奪権闘争を始め、大動乱の時代に突入します。日本人の子どもとして差別され糾弾されるという苦難を味わいますし、信頼し、頼りにしていた人々が文化大革命のなかで糾弾され、迫害されるのです。
 このなかでも、著者は勉強を続け、中国社会で生きのびていきます。その苦難の歩みを読むと涙がとまりません。
 著者は戦後の日本に長谷川照子の遺児として招待され、やがて日本に留学し、ついには日本の国籍を取得し、日本の大学で教壇に立ち、中国人留学生の世話をする側にまわるのでした。
現代日本と中国史を体現した女性の歩みとして、息つく間もなく一心不乱に読み通し、読了したときには、今日は充実した日だったと朝から思ってしまったことでした。
この本も尊敬する内田雅敏弁護士のすすめで読みました。ありがとうございました。
(2012年10月刊。2800円+税)

法廷弁護士・3

カテゴリー:司法

著者  徙木 信 、 出版  日本評論社
法廷弁護士シリーズ、第3弾です。これまた大変勉強になりました。
 第一話は、労働審判申立に至った事件です。定年退職後、嘱託で勤めていたところ、退職金の請求権が5年で時効消滅したと会社が主張した。まさか、そんな主張を会社がするなんて・・・。と思っていると、なんと、それは顧問弁護士の入れ知恵だった。
ひどい弁護士がいるものですね。たしかに、自分の利益しか考えないような弁護士が実際にいるのは、残念ながら現実です。
 裁判で書く書面の宛先は裁判所だ。だから、裁判所が読んでも不快に感じないような書面でなければならない。不快な書面は誰しも読む気が失せてしまう。
 私は、交渉段階で出す書面も、あとで裁判所が読むものと思って起案するようにしています。
 書面は、依頼者の話をそのまま鵜呑みにしないで、必ず裏を取るべきだ。
これは、実際には難しいものです。事実をもっとも知るのは依頼者ですから・・・。
 第二話は万引き事件です。万引きは摂食障害の症状の一つとみなすことができる。
初めて知りました・・・。
 彼らは手のかからない良い子として育ってきた人が多く、その過剰反応の故にパーソナリティに分裂がみられる。独自の超自我が形成されており内的空虚感を埋めるため、統制感の喪失あるいは放棄として万引きがおこなわれる。そのため、治療においては、この万引きの背景にある内的空虚感や依存について患者自身が自己理解を深めることが必要であり、家族や治療社自身も、患者自身がこの内的空虚感を解消して自己統制感を回復し育てていける見守る態度が必要となる。
万引きのみに着目して犯罪者や非行少年として対処すれば、家族や治療者に支えられながら内的空虚感や依存についての自己理解を深める作業を行っている患者の治療過程が中断されてしまい、治療効果に重大な悪影響を及ぼすことになる。
 再養育療法とは、主として摂食障害の患者のために開発された治療法。母親が一生懸命にまるで赤ん坊を育てるように患者を大切にしているケースは治りが早く、かつきれいに治っている。
摂食障害の患者の7割が万引きする。一番万引きの危険が高いのは、体重が減っているとき。食べ物をとってしまう。
 摂食障害の患者の多くは慢性の低血糖状態にあるので、食べ物をどうしても発作的に盗ってしまう。
摂食障害は心の病気である。母親以上の治療者はいないというのが現実である。
 とても実務的に勉強になりました。ただ、同じ弁護士として気がかりなのは、答弁書を見せながら打ち合わせした(44頁)という点です。これは、私だったら事前に送付しておいて、そのうえで打合せをすすめます。私の読み違いかもしれませんが・・・。
 同じように、第2巻に初回の相談日を1週間以上先に指定するというのも、私はしていません。初回だったら、今日、明日、少なくとも3,4日内には無理してでも入れるようにしています。上得意の客(依頼者)になるかもしれない機会を逃さないためです。
 いずれにしても、この本の贈呈、ありがとうございました。引き続きのご健闘を祈念します。
(2012年11月刊。1300円+税)

私はホロコーストを見た(上)

カテゴリー:ヨーロッパ

著者  ヤン・カルスキ 、 出版  白水社
『ワルシャワ蜂起』を読んで、ポーランド国民の不屈の伝統を知り、大いに見直したばかりです。
 この本は、元ポーランド・レジスタンス機関の密使カルスキが語ったものです。そのすさまじさに圧倒されます。ところが、ヤン・カルスキは自分の任務は失敗したと思い、1945年以来、ずっと沈黙していたのでした。1981年10月になって忘却のなかに埋もれていたヤン・カルスキは再登場したのです。
 1942年夏、トレブリンカ絶滅収容所への大量移送後もまだワルシャワで生きのびていたユダヤ人ゲットー代表者からの要請を受け、カルスキは自分が目撃したユダヤ民族絶滅作戦の実態を連合国首脳に伝えようと、1942年11月末、ワルシャワからロンドンに到着するなり必死に動いた。
 ヤン・カルスキはユダヤ人ではないが、周囲にはユダヤ人家族が多かった。カルスキは予備士官学校に入って、そこを首席で卒業し、外務省に入った。1940年2月、陸軍少尉として初めて密使としてパリへ行った。そのたぐいまれなる記憶力、緻密さ、分析力は、「逸品」と評された。
 1942年10月に密使として出発するときには、カトリックの聖体とともに致死量の青酸カリも手渡された。
 ワルシャワ・ゲットーに対するナチスの「大作戦」と、トレブリンカ、ベウジェツ、ソビボルという名に象徴される絶滅作戦に関するすべての報告書をポーランド地下の国内軍(AK)情報部はマイクロフィルムにおさめていた。それをカルスキはカギの中に隠してパリまで運んだ。そのあと、ロンドンに届けられた。
 1942年12月、カルスキはロンドンでイギリス政府およびユダヤ人代表に口頭で報告した。さらに、1943年7月、アメリカでカルスキはルーズヴェルト大統領に直接報告した。
 つまり、アメリカもイギリスも、その最高首脳部はナチス・ドイツのユダヤ人絶滅作戦が進行中であることを直接きいていたのです。それでも、彼らはユダヤ人救出作戦を発動することはありませんでした。自国の都合を優先させたのです。アメリカ国内のユダヤ人勢力も、その点では似たようなものでした。結局、同朋を見殺しにしてしまったのです。
 ヤン・カルスキは、密使としてワルシャワからパリに行く途中でゲシンタポに捕まり、ひどい拷問を受けます。そして、自殺を図って病院に運び込まれるのでした。その病院は全体がレジスタンスに組み込まれていて、ついにカルスキは救出されました。
 何とも感動的な話です。下巻に続きます。
(2012年9月刊。2800円+税)
 本年もお読みいただきありがとうございました。
 今年よんだ本は560冊ほどです。弁護士会の用事が増えて出張が多くなると、読書タイムがそれだけ増えますので、うれしい面もあります。
 といっても、弁護士会の用事が増えたというのは、自民党が「大勝」して憲法改正の気運が強まっていることによりますので、本当は困ったことだと考えています。
 それはともかく、新年も引き続いて書評を書き続けますので、ご愛読をお願いします。

米軍が恐れた「卑怯な日本軍」

カテゴリー:日本史

著者  一ノ瀬 俊也 、 出版  文芸春秋
アメリカ軍は、日本軍は卑劣な戦法を使うから気をつけろと内部で教えていました。
 おとりの兵士が夜間に忍び寄って軽機関銃を乱射する。物陰から狙撃する。地雷や仕掛け爆弾を死体にまで仕掛ける。さまざまな奸計をつかってアメリカ軍をあざむこうとする。
 日本軍といえども、敵の機関銃には、機関銃で対抗することにしていた。実は、小銃は白兵格闘戦のとき以外には、ほとんど重要視されていなかった。
 実際には、満州事変の時点からすでに、夜襲の難しさは認識されていた。1932年の満州事変の時点で、日本陸軍にも、「装備劣等」な中国軍の陣地に対する夜襲すら難しいのに、装備優秀な外国軍相手のそれが果たして成功するのか、そういう疑問を抱く者がいた。
 1937年の上界戦線では、戦場で技量優秀だったのは中国軍狙撃兵のほうだった。その狙撃兵は優秀で、とくに我が指揮官・監視者の発見・狙撃はいずれも迅速。我が死傷者の多くはこれによるものだった。この狙撃兵は遮蔽が良好で、位置の発見がすこぶる困難であった。
日本軍には、ドイツ軍などのような狙撃兵を特別に養成する学校はなかった。ある日本軍兵士の回想によると、実弾射撃で5発に3発は標的に当たると、狙撃兵になることを上官から勧められた。
 中国の戦場で、中国軍兵士が死んだふりや偽りの降伏、便衣による民間人へのなりすましという行為が横行した。これを日本軍がとりいれて、後にアメリカ軍から卑怯だと非難されるようになったのは歴史の皮肉である。
 1939年に起きたノモンハン事件では、日ソ両軍は当初は同じような歩兵の突撃戦法をとっていた。ところが、不利と分かってソ連軍は即座に戦法を変更するという柔軟性があった。
 1944年4月段階で、日本軍の戦訓マニュアル上では、日本軍の「劣勢かつ火力装備の不足」が公言されており、アメリカ軍基地を突破する「良法」はもはや存在しなかった。つまり、打つ手なし、だった。
何もしないとアメリカ軍の物量に蹂躙される。だから、アメリカ軍の弱点を曝露させることが必要だというものの、実はアメリカ軍には本質的弱点らしき弱点はないことが日本軍にも痛いほど分かっていた。
 当時の日本で唯一豊富に使えた人命という資源の乱費を前提として戦法を組み立てた。
突撃には勇敢な歩兵も地雷を極度に恐れた。なぜか?
 その理由は地雷の残酷さにある。小銃弾の死は眠るがごとく壮烈で神々しい。これに対して、地雷の死は、あまりに酸鼻である。死体の有り様が、銃弾によるそれと比べて、あまりにも無惨である。弾丸に当たって死ぬのはよいが、地雷で死ぬのは嫌だ。
 セブ島の日本軍も後の硫黄島と同じように水際防衛を放棄し、内陸部の地下陣地にこもった徹底抗戦を意図していた。セブ島の山中いたるところに横穴を掘り、貯蔵庫もつくって、補給なしに3年間は大丈夫といわれていた。横穴は、土木機械がないのに、本格的に要寒化されていた。
 第二次大戦における日本軍の戦法の実際を具体的に検証した本でした。
(2012年7月刊。1600円+税)

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