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2012年11月 の投稿

『清冽の炎』 第7巻

カテゴリー:社会

著者 神水 理一郎  、 出版  花伝社
東大闘争とセルツメント活動について、ついに完結編が刊行されました。まずは、7巻のあらすじを少し詳しく紹介します。
北町セルツメントで活動していた元セツラーたちの同窓会が20年ぶりに北町近くで開かれた。みなまだ現役の教師であり、会社員や大学教授としてがんばっている。学生セルツメントで何をしていたのか、何を話しあっていたのか、20年前を振りかえった。佐助はあこがれのヒナコと元気に再会することができた。振られたという思いから固まっていた佐助の心がゆっくり温められていった。
 さらに9年がたち、卒業して30年目の北町セルツメントの同窓会は、かつて4泊5日の夏合宿をした、奥那須にある山奥の三斗小屋温泉で開かれた。このときは、9年前とは違って、そろそろ定年を意識する年齢になっていた。
 青垣の事件は一郎弁護士が心血を注いで、取り組んだものの、一審では有罪となってしまった。弁護団を拡充して控訴したものの棄却され、最高裁に上告することになった。裁判所は大手メーカーを頭から信用して被告人の言い分に耳を傾けようともしない。
 佐助は経済学部を卒業して定石どおり製造会社に入った。労務課に配属されると、意義の分かりにくい人事管理と接待に明け暮れるようになった。ある日、競合メーカーに入った芳村が来社した。あとで、芳村は佐助のことを隠れ党員だと密告した。労務課の毎日の業務がストレスとなって佐助は危うく病気になりかけた佐助は、ついに転身を決意した。司法試験の勉強を始めたものの、なかなか合格できない。ようやく合格して、佐助は東京・下町で弁護士として働くようになった。
 父を知らない一郎は、何とか父親の素性を知りたいと周囲に真剣に問いかけるが、なぜか皆よそよそしく、取りあおうとしない。
 最高裁が上告を認めず、ついに有罪が確定して、青垣は刑務所に入ることになった。他方、芳村は海外での大型商談がまとまり、ついに取締役の座を射止めることになった。
 大手の法律事務所につとめていた一郎は、人間を扱いたいと考えて、都内に個人事務所を開業した。そして、一緒についてきてくれたパラリーガルの美香に結婚を申し込んだ。美香の母親は元セツラーのヒナコで、一郎の母である美由紀とは都立高校の同級生だった。
 夫を事故でなくしたヒナコは佐助に法律相談をもちかけ、二人だけで話すようになったが、子どもたちの将来を壊してはいけない、そんな思いから一歩先にすすめることができない。佐助も、そんなヒナコの思いを受けとめ、またもやすれ違いに・・・。それでも、上空に清冽の炎が燃えている。
(2012年11月刊。1800円+税)

40代からのガン予防法

カテゴリー:社会

著者   神代 知明 、 出版   花伝社 
 還暦すぎた私が、今さら「40代からの・・・」ではありませんが、健康法も私の関心事の一つです。
 著者は、かつて「マック」に勤めていました。あんなものは、化学薬品を食べているようなものですよね。
かつて勤務していたハンバーガー店で、揚げ物用に1週間ほど使いつづけていた油は、ショートニングだった。ということは、その店のフライドポテトは、酸化油、トランス脂肪酸、過酸化脂質、アクリルアシドという、ガンリスクの四重奏(カルテット)ということ。
赤坂交差点のマックの店にいつも行列をつくっている人々をみるたびに、どうして、がんリスクを考えないのかと私は不思議に思います。
 ガンは予防が可能だ。予防に勝ものはない。
 ガンは遺伝するとよく言われるが、遺伝性のガンは多くてもせいぜい5%。ガンの家系というより、食事、内容や生活習慣、性格など、ガンを発症する原因を2代あるいは3代にわたって共有してしまった可能性の方が高い。
 ガンにも、治療の必要のないガンもある。むしろガン治療の副作用のほうが怖いことがある。日本でガンになる人の3.2%は、医療機関での検査被曝が原因で発ガンしたと推定されている。
 これを知って、人間ドッグのレントゲン検査は年に2回受けていたのをやめて、年に1回にしました。これでも多すぎるのかもしれません。
 沖縄が日本一の長寿県だったとき、その原因の一つが昆布の摂取量が日本一、全国平均の1.5倍というのがあった。ゴーヤーも島豆腐もオキナワモズクもいい。ところが、オキナワの県民が肉を食べ、ハンバーガーを大量に食べるようになると、オキナワの男性の平均寿命はトップから20位に転落してしまった。
 肉を食べたいのなら、食事全体の5%におさえる。そして、野菜を肉の倍ほど食べること。夜は12時までに寝ること。午前0時から2時までは、リンパ球が一番働く時間帯だ。リンパ球はがん細胞を攻撃してくれる。早い時間に眠っている人はそれだけ免疫力も機能して、ガンの予防につながる。
笑いはガンも抑制する。白血球の中のリンパ球にはがん細胞を攻撃する免疫細胞が存在する。その代表格。αNK細胞は、笑うことによって活性化する。そして、笑う以前に明るく楽しい気分を過ごすのが大切だ。
 無理なく、自然体で、明るく、笑いとともに生きること。肉類より野菜衷心の食生活、そして、夜はなるべく早く眠ること。
なんだか昔ながらの当たり前の健康法ですね。まあ、ガン予防と言っても別に目新しいものがあるのではないということなんでしょうね・・・。
(2012年3月刊。1500円+税)

朝鮮人強制連行

カテゴリー:日本史

著者   外村 大 、 出版   岩波新書 
 亡父が「三井」の労務係として戦前、朝鮮から朝鮮人を連行してきたことがあるだけに、この問題には目をそらすわけにはいきません。
戦前の朝鮮では、上からの教化はかなりの困難を伴っていた。ラジオは都市の富裕層が聞くだけ、新聞を読む人も少ないなかでマスメディアによる宣伝の効果はあまり期待できなかった。そこで、朝鮮総督府が主として依拠した情報宣伝の手段は講演会や、警官・官吏の主催する座談会・紙芝居だった。
 翼賛組織が整備されたあとも、朝鮮民衆の総力戦への積極的な協力はなかった。
 日本国内の炭鉱では、労働力不足であり、増産を担うべき十分な労働力を集めることができずにいた。炭鉱の労働条件が重化学工業などに比べて劣っていたからである。
 商工省は当初より朝鮮人の導入に賛成だった。しかし、内務省は1939年4月の時点でも賛成していなかった。戦後における失業問題や民族的葛藤からくる治安への影響を心配していたと推察される。
 朝鮮総督府は、送り出した朝鮮人を炭鉱労働として使うことに不満をもっていた。これは炭鉱の労務管理に不安を抱いたからだろう。しかし、消極論は、日本内地の炭鉱での労働力不足という現実の前に押しきられてしまった。
 朝鮮では、専門的な労務需給の行政機構が貧弱であり、結局、個別の企業が朝鮮総督府から許可を得て、地域社会に入って募集するという方法で動員計画の割当を充足しようとしていた。
これは亡父の語ったことに合致します。「三井」労務係として、まず京城にある総督府に行き、それから現地に行き、労働者を列車で連れてきたということでした。
 1939年度に関しては、積極的に募集に応じようとする朝鮮人が多数いた。これは、未曾有の旱害にあい、多くの離村希望者が出現していたことによる。
 これまた、亡父の語った話と同じです。無理矢理ひっぱってきたのではないと弁解していました。食べられない状況では日本に渡らざるをえなかったのです。
 新聞に広告をのせても、ラジオで宣伝しても、それは大部分の農民には届かない。字の読めない農民がたくさんいた。
 当局の政策を逆手にとって、日本内地に移動しようとする朝鮮人もいた。日本に動員されてきた朝鮮人の逃亡は少なくなかった。そして、労働争議や、日本人との衝突事件が多発した。
朝鮮人労務動員政策は。問題なしに生産力拡充や企業経営にプラスの効果をあげたとは言いがたい。動員計画によって日本内地に送り出された朝鮮人は、炭鉱に多く配置された。炭鉱に62%、金属鉱山に11%、そして、土木建築が18%、工場その他8%となっている。
 1940年9月の調査時点で6万5千人の朝鮮人のうち18.5%、1万2千人が逃走している。結局、70万人の朝鮮人が日本内地に配置された。
 戦後、1959年時点で、21万人が日本に残っていた。
在日の存在を考えるうえで欠かせない本だと思いました。
(2012年3月刊。820円+税)

コムソモリスク第二収容所

カテゴリー:ヨーロッパ

著者   富田 武 、 出版   東洋書店 
 戦後のシベリア抑留の実像に迫ったブックレットです。
 シベリア抑留については、いろんな研究書や体験記が公刊されていますし、映像としても見られるようになりました。このブックレットは、そこに欠けている視点があるのではないかと指摘していて、なるほどと思いました。
 収容所の食事がいかに粗末だったかがいつも語られている。しかし、1946年から47年にかけては、ソ連でも広範な飢饉を体験していた。一般の食事も配給制下で貧弱だった。むしろ、捕虜から大量の死者を出せば国際的威信にかかわるため、地方当局は必至に食糧確保策をとっていたのも事実だった。
 コムソモリスク収容所のあったアムール流域の工業都市の人口は1945年8月に20万人。冬期の寒さは厳しく、12月に入ると零下30度、1~2月の厳冬期には零下40度を下回ることもある。
 1945年8月、ソ連最高機関たる国家防衛委員会は、日本軍捕虜を50万人選別することを決定した。このとき、ソ連はすでに240万人ものドイツ人捕虜を領内に留置・移送して、生産や都市の復興の労働力として使役していた。
 日本の関東軍首脳は、ソ連に対して、対米英戦争和平の仲介を依頼すべく近藤文麿を派遣するための要綱に「賠償として、一部の労力を提供することに同意する」としていた。要するに、関東軍は日本兵の労務提供を申し出ていたというのです。
 労働力としての日本兵捕虜について、ソ連内の各地方州、共和国から追加要請があっていた。
 日本人捕虜の調査対象30万人の19.5%は体力が衰え、6%が病気になった。1945年から46年に冬に酷寒と飢え、重労働で多数の死者が出た。全抑留期間の死亡者6万人の80%にのぼった。
 1946年4月に、極東・シベリアの捕虜5万人を中央アジアに移送する命令が出た。
 同年5月、ソ連領内の病弱な捕虜2万人を北朝鮮内の健康な捕虜2万2千人と交換するという命令が出された。
捕虜収容所の維持費が捕虜による生産高を上回る赤字が続き、黒字になるのはようやく1949年であった。
日本人捕虜収容所では、最初から反ファシスト委員会が存在したのではない。1947年後半から、反動的な将校団の影響力が著しく低下した。将校は労働力が免除され、それでいて給食は質量とも兵士以上だった。
 1950年4月、日本人捕虜51万人の日本への送還が完了した。捕虜総数は64万人(日本人61万人)、うち死者6万2千人だった。最初の冬の半年間で4万6千人が死亡した。
 最後に、ロシア政府はシベリア抑留関連文書を日本政府に引き渡す義務があること、日本政府と外務省は、ロシア政府に対して堂々と要求すべきだと著者は強調しています。まったく同感です。わずか60頁あまりの薄いブックレットですが、シベリア抑留の実情を知るうえで、欠かせないものと思いました。
(2012年10月刊。800円+税)

亀のひみつ

カテゴリー:生物

著者   田中 美穂 、 出版   WAVE出版 
 亀を飼うのも大変のようです。亀って、じっとしているものとばかり思っていましたが、意外にあちこち動きまわる生き物のようです。
 亀は意外なことに、歩くのも泳ぐのも速い、運動量の多い生き物である。
 亀は好奇心旺盛で、遊び好きの生き物だ。
 家に飼っている猫が大好きで、猫の気配を感じると全速力で猫に向かって駆けていく。
亀は意外にかしこくて、愛嬌もある生き物だ。しかし、デリカシーはないため、互いの空気を察しあって生きている猫たちには、あまり好かれていない。だから、容易に猫に気づかれないように、潜んでじっと待っている。猫も機嫌がいいと、しばらくは亀の相手をしてやる。
 亀は迂回はあまりせず、直進するのが基本。しかし、亀は不思議に方向感覚が冴えている。亀ははじめから頭を隠した状態でも動くことができる。
 亀は、薄暗くて狭くて暖かい場所が落ち着く。
 亀はソーラーパワーで動いているような生き物なので、なくてはならないのが太陽のあたる場所。亀にとって、エサと同じか、それ以上に大切なのが日光浴。亀は、この甲羅干しによって紫外線を吸収して必要な栄養分を活性化させている。
亀は、基本的に夜に眠る。水の中でも布団のなかでも眠れる。まぶたは、下から上に向かって閉じる。
亀のあくびは、平和でのんびりした光景の典型。
 亀には歯がなくて、鳥と同じくちばしがある。基本的に丸のみする。亀は雑食性なので、ミミズや小魚、リンゴなどを食べる。ミミズが一番人気。しかし、飼育下では、亀は食べすぎて太りすぎることがあるので要注意。
 多くの亀は、性決定のための性染色体をもたず、卵がかえるまでのある一定時期にさらされる温度によって性別が決まる。生みつけられた場所が日当たりのよいあたたかい場所ならメスが、木陰などの低めの場所ならオスが生まれてくる。
 うひゃあっ、そ、そんなことってあるんですか・・・。おどろきますよね。
 大人の亀なら1週間くらい、いやひと月くらいは何も食べないで生きられる。徹底的に代謝を低くすることで生きのびてきた生き物だからこその技。
 子亀は、1歳になるまで生きのびられる個体はわずか。とても弱くデリケートな生き物。
起きていたら水の中でおぼれることもあるのに、冬眠中は何ヶ月も一度も水面に顔を出さずにおぼれない。
 たくさんの種類の亀を写真で知ることもできる楽しい本です。
(2012年10月刊。1600円+税)

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