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2012年8月 の投稿

灰色の地平線のかなたに

カテゴリー:ヨーロッパ

著者   ルータ・セペティス 、 出版   岩波書店
 第二次世界大戦の最中のことです。スターリン・ソ連の命令によってリトアニアの人々がいきなりシベリア送りになるのでした。私はそんなことがあったとは知りませんでした。スターリンが、気にくわない民族を勝手に動かしていたことは知っていましたが、そのなかにリトアニアの人々も対象になっていたのでした。
 この本はシベリアに送られたリトアニア人の苦難の日々が語られ、読みすすめられるのは辛いものがありました。多くの日本兵が戦後、シベリアに連行され、強制労働させられたのとまるで同じだと思いながら読みすすめていきました。
 1940年、ソ連はリトアニア、ラトヴィア、エストニアのバルト三国を占領した。そして、反ソビエト的と考えられる人々の名簿をつくり、殺すか、刑務所へ送るか、シベリアに追放して重労働に従事させるかした。人口の3分の1もの人々が亡くなった。
 追放されたリトアニア人は、シベリアで10年から15年間を過ごした。1953年にスターリンが亡くなり、1956年ころまでに故郷に戻ることができた。しかし、故郷にはソ連の人々が住みついていた。そして、シベリアでの辛い経験を口外することは許されなかった。
1991年、ようやくバルト三国は独立を取り戻した。50年間もソ連の残酷な占領下にあった。
本の表紙に書かれている一節を紹介します。
第二次世界大戦中のリトアニア。画家を目指していたら15歳のリナは、ある晩、ソ連の秘密警察に捕まり、シベリアの強制労働収容所へ送られる。
極寒の地で、過酷な労働と飢え、仲間の死に耐えながら、リナは、離ればなれになった大好きな父親のために、そして、いつか自由になれる日を信じて、絵を描きためていく。
不幸な時代を懸命に生きぬいた、少女と家族の物語。
作者は、父親がリトアニアからの亡命者だというアメリカ人です。取材して書きあげたというわけですが、実体験がそのまま紹介されていると思わせるほど迫真の描写です。
(2012年1月刊。2100円+税)

霖雨

カテゴリー:日本史(江戸)

著者   葉室 麟 、 出版  PHP研究所
 豊後日田にあった咸宜園(かんぎえん)を主宰していた広瀬淡窓とその弟・久兵衛の生き方を描いた小説です。しっとり読ませてくれる時代小説でした。
 咸宜園は私塾といっても、今の公立大学のようなものだったのでしょうね。心ある若者たちが入門して勉強にいそしんでいました。
 咸宜園では、毎朝5時に起きて清掃し、6時から7時まで輪読する。朝食のあと8時から正午まで学習し、昼食をとったあと1時から5時までが輪読と試業で夕方6時に夕食となる。夜7時から9時まで夜学して、夜10時に就寝する。
咸宜園では、女性の門人も受け入れていた。
 広瀬淡窓の実家は屋号を博多屋と称し、淡窓の8歳下の弟が家業を継いでいる。そして、この博多屋は、日田代官所出入りの御用達(ごようたし)商人として財をなしてきた。
 日田は幕府直轄地の天領である。北部九州の中央に位置し、筑前、筑後、豊前、肥後と日田を結ぶ日田街道が通る交通の要衡だ。美しい山系に囲まれ、河川の多い風光明媚な水郷であり、豊後(ぶんご)の小京都とも呼ばれる。
日田の代官所にいる西国郡代は九州の天領15万石を差配すると同時に、諸大名にもにらみをきかせる、いわば幕府の九州探題であった。
 広瀬淡窓が咸宜園を開いたのは文化14年(1817年)。この年、日田に新しい代官として塩谷大四郎が着任した。この年、49歳。それまで幕府の勘定吟味方(かんじょうぎんみがた)をつとめ、日光東照宮の造営などにあたっていた。
 塩谷大四郎は、日田代官所に着して4年後に西国郡代に昇格し、布衣(ほい)を許された。そして、塩谷君代によって咸宜園への干渉はさらに強まった。
広瀬淡窓は、16歳のとき、福岡の亀井昭陽の父である亀井南冥(なんめい)の塾に入門して萩尾徂徠学を3年にわたって学んだ。しかし、淡窓は徂徠の考え方に批判があった。徂徠学は、ややもすれば政治学に傾き、聖人君子の道である儒教から遠ざかることへの不満だった。
 淡窓は、塾の運営において、入門者に対してまず「三奪」を行った。入門するにあたっては、年齢、学歴、身分の三つを奪って平等とし、同じことから出発させる。これは、武士、農民、町人の身分差のつきまとう社会にあっては、容易に成しがたいことであった。月旦評(げったんひょう)とは、月初めに塾生の前月の評価を行い、これによって4等級(あとでは9等級)に分けること。さらに、成績によって、塾内の都講(とこう)、講師、舎長、司計などの役職を分掌した。成績至上主義のようだが、淡窓の評価は厳正であり、学問だけでなく、日頃の素行も評価の対象とした。身分制にしばられないなかで月旦評は、一人ひとりを平等に評価することであり、塾生たちを発奮させた。
 日田の商人のうち、代官所御用達の富商は、7、8軒あり、七軒衆とか八軒士などと呼ばれた。広瀬家も、その中に数えられるが、日田地生え(じばえ)の商人ではなく、初代が筑前福岡から移住して田畑を耕し、かたわら小さな商いを行った。四代目が岡、杵築、府内三藩の御用達となり、大名貸しなど、金融業も行うようになった。五代目は、鹿島藩、大村藩の御用達もつとめるようになった。
 六代目の久兵衛は、日田代官所の年貢米の集荷、江戸、大坂への回漕、さらには納入された金銀を預かる掛屋となった。掛屋は、代官所から公金を見利息で預かり、大名や町人、農民に貸し付けることが認められていた。これを日田金(ひたがね)と呼ぶ。
 日田金は代官所の公金であることから、借りた大名が踏み倒すとは考えられない。そのため、掛屋には、社寺、公家、富豪から資金が流れ込んだ。日田金は総額2百万両に及び、このうち百万両が大名貸しにまわった。
 淡窓の咸宜園と同じころ、大阪では大塩平八郎が洗心洞という私塾を起こして盛んだった。
 このあと、小説は大塩平八郎の乱との関わりが語られていきます。
大変勉強になる本でした。男女の心理の機微についても学ぶところ大でした。
(2012年6月刊。1700円+税)

インカ帝国

カテゴリー:アメリカ

著者   島田 泉・篠田 謙一 、 出版   東海大学出版会
 私もふくめて、多くの日本人が一度は行ってみたいと思っているのが、インカ帝国最後の都、マチュピチュでしょう。とは言っても、はるか彼方にあって、遠すぎます。そこで、せめて活字の上でインカ帝国をしのびたいと思って読みはじめました。
悪らつなスペイン人侵略者たちによってたちまち崩壊されたインカ帝国。文字がなく、キープというひもを使った記録がどの程度有効なものだったのか、謎は深まるばかりのインカ帝国の実相を少しだけ知った気分になりました。
インカ帝国は、自然環境の面でも社会文化的な面でも、モザイクのような性格をもっていた。
インカ道は軍事遠征の途上で敷設され、広大な帝国のほぼ全域に通じており、その統延長は2万5千キロメートル、海岸部と高地に2本の幹線道路が並行して走り、その間は何十本もの横道で結ばれている。それらの道路上に設置された行政センターや倉庫その他の帝国の施設が、インカ帝国のインフラ設備の基盤となっていた。
 キープの情報の解読は難しい。文字で書かれた使用説明書は今もってひとつも見つかっていない。インカ時代に存在した組織に関する生きた知識や技術は、植民地化で消え去ってしまった。
 1533年まで、神の地位をもつ一族がアンデスを支配していた。首都には、インカすなわち「太陽の子たち」が君臨していた。
南北アメリカ大陸の先住民は、全体としての遺伝的多様性は小さいが、地域集団同士の間の遺伝的な違いは大きい。
 インカの外交は、表面上は寛容であったが、厳格で無慈悲な支配が裏に存在した。進んで独立をインカに明けて渡さず、インカが太陽の子であることを認めなかった人々は軍によって壊滅させられ、貢納に従事させられた。
 インカは、征服した社会から何人かを戦争捕虜とし、その他多くをクスコへと連れて行き、恒久的な使用人ないし、奴隷として用いた。
インカ帝国の3分の2が3000メートル以上の高度に居住し、青銅器時代に相当する技術を用い、効率的な水上輸送手段や車輪をもつ運輸具がない状況で、困難は計り知れないものがあった。
基本的な納税単位は結婚した夫婦だった。一般的には、召集されると、世帯あたり1回2~3ヵ月の労働奉仕を負担した。軍事奉仕だと、長いあいだ家を離れる必要があった。
 インカにとって、農地と同じように重要だったのが、リャマとアルパカの群れだった。
 インカは、民族集団の特殊技能を利用して、それぞれ特殊な任務を与えた。たとえば、ルカナス族は輿の担い手、コリャ族は石工、チュンビビルカ族は踊り手として取り立てられた。また、チャチャボヤ族、カニャリ族、チュイェス族、チャルカス族は兵士として傑出していた。チリャシンガス族は食人の習慣をもっていたことから重宝された。
 近年、キープの記録能力については、多くのことが分かってきた。
 クスコは、インカ帝国における最高権力、権威の中心だった。ここで、「唯一のインカ」(サパ・インカ)であるインカ王が后であるコヤと王宮で統治した。クスコにおける行政装置に配置されたのは、10人から12人いたインカ王の直系の、あるいは傍系の子孫だった。インカ王はクスコで統治したが、帝国の広大さのわりには、その期間は驚くほど短い。
十進法による労働税システムがあった。労役は、双分制と五分組織に従って十進法の集団単位で組織化された。つまり、各地の共同体での10人の労働者が5つ集まると、50人の労働者集団となり、同規模の集団と組になって100人の労働集団となる。
 インカの王は、娯楽や儀礼のための施設だけではなく、自分が休息に訪れるための宮殿を王領につくった。
 この本を読むと、ますますインカ帝国をこの目で見て偲びたいと思ったことでした。でも、やっぱりやめておきましょう。
(2012年3月刊。3500円+税)

人生と運命(1)

カテゴリー:ヨーロッパ

著者  ワシーリー・グロスマン  、 出版   みすず書房
 ソ連赤軍の従軍記者として名高いグロスマンのスターリングラード攻防戦を舞台とする長編小説です。グロスマンはユダヤ人の作家でしたから、必ずしも身の安全は保障されていませんでした。それを文才で乗り切ったのです。
 グロスマンのスターリングラードの従軍記事は、戦時中もっとも読まれた赤軍の週刊誌である『赤い星』に定期的に連載され、グロスマンの名前は軍においても銃後においても広く知られるところとなった。そのため、スターリンはグロスマンが好きではなかったにもかかわらず、それを『プラウダ』に転載するように命じた。
 グロスマンは好ましいソヴィエト作家というわけではなかった。戦時中から、グロスマンの作品のいくつかは党の精神にまったくそぐわないものだった。グロスマンはユダヤ人であり、しかも非党員のユダヤ人であった。グロスマンの作品は出版されなくなった。活字にするのがますます困難になっていくにもかかわらず、グロスマンは仕事をやめなかった。
 グロスマンの書いたものは1953年、スターリンの死後に初めて刊行された。しかし、それはまったく別の作品になっていた。そして、1961年に家宅捜索され、小説は没収された。1962年、グロスマンはフルシチョフに手紙を書いて訴えた。
 1962年、ソ連共産党の幹部であったスースロフがグロスマンを引見し、あなたの本を出版するのは不可能だと言い渡した。
 1964年9月、グロスマンは病死した。その直前、外国でもよいから出版してほしいと友人たちに最後の頼みをした。そして、ついに1988年、本書は出版された。
 本書はスターリングラード戦を舞台としているのに、戦闘場面は読者の期待を大きく裏切ってほとんど出てこない。グロスマンにとっての告白の書でもある本書には、多くの自伝的要素が率直に書かれている。
グロスマンの小説においては、運命は人々を非人間化したり従順な大衆に変えたりはするが、運命は自覚的な人間の選択なのである。
人間は際限のない暴力の前では従順になることを明確に知ったうえで、人間と人間の未来の理解のために意義のある最終結論を出す必要がある。
自由に対する人間の自然な希求は根強く、弾圧はできるが、根絶はできない。
全体主義は暴力を手放すことができない。暴力を手放せば、全体主義は死ぬのである。直接的あるいは偽装されたかたちで永遠に続く絶えざる圧倒的暴力が全体主義の基礎である。
人間は自らの意志で自由を放棄することはない。この結論のなかにこそ、われわれの時代の光、未来の光がある。
3巻本のうちの1巻で、ぎっしり500頁という大作です。
(2012年1月刊。4300円+税)
愛されている実感に乏しい子どもたち
 稚内の校長先生は、今の子どもたちは淋しい、愛されているという実感に乏しいと、何回も繰り返していました。
 また、最近は子どもたちが荒れない。それがかえって心配だといいます。そんな荒れる力まで失っているのではないか・・・。本当だったら、心配ですね。
 久しぶりに校舎に落書きがあり、トイレットペーパーが詰まらせた。あの子たちだなと見当がつく。その子たちへの指導のきっかけにしよう。非行のサインを見落とさず、しめしめと手ぐすねひいている校長。先生の話を聞いて、いかにも頼もしい教師集団だと思いました。
 人材育成なんていう、エリート養成ではなく、子どもたちをまるごと受けとめる教育実践が稚内にあるのを知って、心からうれしくなりました。教育委員が、それを上からの統制ではなく、下から支えているのです。

ひさし伝

カテゴリー:社会

著者   笹沢 信 、 出版    新潮社 
 井上ひさしは、私のもっとも尊敬する作家の一人です。憲法9条を守れという九条の会の呼びかけ人であったのもすごいと思いますし、「ひょっこりひょうたん島」には、今なおお世話になっています。というのも、弁護士会の役員を一緒にやった仲間の集いは「ひょうたん島」グループと命名されているのです。博士もガバチョも、そして村長もいます。
 この本を読むと、その「ひょうたん島」が実は、死んだ子どもたちの新しい世界が舞台になっているという、実に衝撃的な裏話が紹介されているのです。ええーっ、ま、まさか、とのけぞりそうになりました。
 人形劇「ひょうたん島」がNHKで放映されたのは、昭和39年(1964年)4月から。昭和44年(1969年)まで、5年間続いた。私が高校生のときから大学2年生までのことです。夕方に15分間だけでしたが、この人形劇は本当によく出来ていました。「ひょうたん島」について、食糧問題を考えていないと非難した人に対する弁明として、井上ひさしは平成12年に次のように弁明したのでした。
 「あの登場人物は、みな死んだ人たち、死んだ子どもたちなのだ。死んでいるからこそどこにでも自由に行ける。死んだけれど、死にきれないでさ迷っている人たち。いわば、お化け集団なのだ。だから、ひょうたん島には食料問題はない。あの番組のなかで親たちの生き方を根本から批判して、新しい時代の人間関係をつくるというルールを考えていた。議論はするけれど、ケンカはしないのが、これからの時代だ。意見が合わなくても、一つの目標が共通なら、一緒になれるんじゃないかというのが『ひょうたん島』のテーマだ。
 『ひょうたん島』の明るさは、実のところ、絶望の果ての明るさ、死後の明るさなのだ」
ええーっ、そ、そんなバカな・・・と私は思いました。底抜けの明るさの背景には、こんな絶望があったんですね。ここにも著者の非凡な発想と才能がみちあふれているのでした。
 『吉里吉里人』(新潮社)は、昼寝の枕代わりになるとも言われた分厚い本です。東北の一地方が独立国家をつくるという、奇想天外のストーリーです。東京オリンピック開催のころ(1964年)、NHKラジオで放送されたところ、「冗談にしてもひどすぎる」と批判された。このあとNHK芸能部から声がかからなくなったというのですから、冗談話ではなかったのでした。
 井上ひさしは、東北地方の孤児院に弟とともに3年ほどいたのでした。父親が早く死に、母親も苦労していたからです。この孤児院の神父たちは自ら汗を流して子どもたちを励ましていたようで、偉いものです。これが、後に上智大学に入って出会った神父たちの「墜落」になじめなかった原因をつくり出したのでした。
一家離散の悲しくも厳しい生活を思春期にしたことが井上ひさしの作品の原点になったようです。希望や愛を語るひさしではなく、絶望を語るひさしがいる。
ひさしは、4年のあいだ住み込みの倉庫番をしながら、脚本懸賞に応募していた。145回の応募のうち、入選18回、佳作39回。3割9分3厘の打率。獲得した賞金は34万6千円。これを上回ったのが藤本義一だった。うひゃあ、上には上がいるのですね。
 井上ひさしの難は、とにかく原稿が遅いこと。並の遅さとはわけが違う。ギリギリまで出来あがらない。むろん、原稿の出来は、ディレクターの思惑をこえて、いつも及第点だった。井上ひさしは、可能な限り資料を渋猟し、資料の表裏を徹底的に分析してからの執筆だから、遅筆は避けられなかった。井上ひさしの考証は徹底している。
なかなかマネできませんね。ともかく、神田の古書店から関係図書がごっそりなくなってしまうほど買い漁るのです。
井上ひさしのユーモアは、過剰なまでの言葉選びによっている。笑いは娯楽であると同時に人々を救うものであるというのが、井上ひさしの思想である。
 井上ひさしは努力の人でもあったのですね。まだまだ読んでいない作品がたくさんあることを思い知りました。さあ、読みましょう。あなたも、いかがですか?
(2012年4月刊。3000円+税)
地域ぐるみの子育て
 稚内そして宗谷というと、今までは南中ソーラン節で全国に有名です、非行に荒れる中学校をたて直していったという背景があります。
 私が稚内に行ったのは、稚内をふくむ宗谷が、地域ぐるみの子育てに取り組んでいることを知ったからです。学校と教育委員会と地域が、文字どおり一丸となって子育てに取り組んでいるのを知って、感動的でした。
 たとえば、小学校の学校だよりが全戸配布されています。サマーフェスタは地域のお祭り。子どもたちも主体的に参加。小中一貫教育もすすんでいます。いえ、施設一体というのではなく、相互に授業内容を公開しあうのです。
 子どもが気軽に校長室に顔を出します。学年だより、学級通信も2日に一度。クラスには市費負担の教員がおかれたり、支援委員というおばあちゃんたちがクラスの「問題児」の対応にあたります。手厚く人が配置されているのです。教育はやっぱり人ですね。そして、それを支えるお金が必要になります。
教育委員会に子ども課
 タテ割り行政で相互連携するというのではなく、子どもに必要なことはなんでもやれる子ども課があります。
 子どもが家を出て帰ってこない、何日もごはんを食べていない。そんな情報が寄せられると、子ども課の出番です。学校よりも機動性があり、保護の必要なときには、すぐ手が打てる。
 大変気骨のある教育長さんの話を聞いて、教育行政の原点を知った思いでした。

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