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2012年8月 の投稿

なぜ男は女より多く産まれるのか

カテゴリー:人間

著者    吉村 仁 、 出版    ちくまプリマー新書 
 アメリカには、13年とか15年に一度、セミが大量発生する地域があります。どうして、そんなことが起きるのか?
 セミの幼虫は、木の根っこから葉っぱに水を運ぶ導管というパイプに口を突っ込み、本の根が吸い上げた水を分けてもらって、その吸い上げ量に比例して成長する。植物はある程度以下の気温になると休眠するので、冬に木の根が休んでいるあいだはセミも冬眠する。そして、春になって木が水を吸い上げ出すと、セミたちもその水分をもらう。温度が高くなると、それに比例して水分の吸い上げ量が増加する。セミの成長は、植物の水分を吸い上げ量に比例している。だから、気温が高くなると、セミの幼虫の成長がどんどん早くなり、アブラゼミなら成虫まで7年かかるのが、2年とか3年に短縮してしまう。
 氷河期になって気温がどんどん下がってしまった。成長できない冬が長く、短い夏もあまり暖かくないので、5年で成虫になっていたセミが10年たってもまだ成虫になれなくなった。
 そして、13年とか17年という素数周期は絶滅の出会いをうまく避けていた。このように、変動する環境への対応の本質は、「絶滅の回避」なのである。
モンシロチョウの雌はキャベツ畑で卵を生み付けると、近くにあるアブラナ科の野草にも卵を生みつける。なぜか?
 キャベツ畑は効率はよいが、モンシロチョウにとっては、殺虫剤散布の危険、そして人間が収穫して絶滅してしまうリスクがある。そこで。絶滅のリスクを分散させるため、野生のイヌガラシにも卵を生み付ける。
 なーるほど、モンシロチョウの絶滅回避作戦って、すごいですね。
人間の性比は、男子がわずかに多く、55対45の比になっている。これは日本だけでなく、多くの社会で共通の普遍的な現象である。そして、幼児に限らず、あらゆる年代で男子の死亡率は高く、寿命やがんの死亡率にも、その違いが反映されている。
オスがメスに比べて死にやすいということは、人間だけでなく、広く動物にみられる現象である。なぜなら、オスは種付けで役割が終わるが、メスは出産・子育てと長生きが必要だからである。
 つまり、男子の死亡率が高いときには、いくらか男子を余計に生むと、全員が女性となって絶滅してしまう可能性(確率)を最小にできる。
 人間がモンシロチョウほどは賢くないのではないかという指摘もあり、なるほど、そうかもしれないと思わされたことでした。面白い本です。
(2012年4月刊。780円+税)

リハビリの夜

カテゴリー:人間

著者   熊谷 晋一郎 、 出版    医学書院 
 出産のときの酸欠から脳性マヒとなり、手足が不自由のなったにもかかわらず、ナントあの超難関の東大理Ⅲに入学し、東大医学部を無事に卒業して、今では小児科医としてフツーに働いている著者が書いた本です。
 すごいね、すごいなと思いつつ読みすすめました。自己分析力が、すごいのです。感嘆してしまいました。
 図解もされているのでたいへんわかりやすいのですが、意思という主観的な体験に先行して、脳の中ではすでに無意識のうちに運動プログラムが進行している。自らの意志は、実は無意識のかなたで事前につくられており、それが意識へと転送される。著者は発声器官の障害がないため、言葉でのやりとりには大きな支障がない。ところが、首から下の筋肉が常に緊張状態にある。
 いったん目標をもった運動を始めようとすると、とたんに背中から肩、腕に至るまでが、かちっと一体化してこわばる。背中から腰、足にいたるまでも同時に硬くなっている。つまり、身体が過剰な身体内協応構造をもっている。
 パソコンをうつにしても全身全霊で打つ。手首、ひじ、指の関節などの末端にある部分だけが動くということはない。ところが、夢のなかでは自由に歩いたり走ったりしている。風を切って走っているときの身体の躍動や弾むような爽快な気分も夢の中では味わっている。
 著者は大学に入った18歳のときに一人暮らしを始めた。トイレに行くのも、着替えをするのも、風呂に入るのも、車いすに乗るのも、みんな自分ひとりでできないのに・・・。
 いつか、これを始めなければ、両親亡きあと、生きていかれないのではないかという不安からだった。すごいことですよね。これって。
まずはひとりでトイレに行くことから始まりました。そして、物の見事に失敗したのです。でも、そこでくじけなかったのですね。えらいです。さすが、ですね。トイレは改装してもらいました。さらに電動車いすによって外出が自由にできるようになったのです。
電動車いすという身体を手にすることによって、地を這っていたときには触れることもできなかった本棚や、冷蔵庫や、自動販売機にも手が届くようになった。電動車いすは、つながれる世界を二次元から三次元へぐんと広げてくれた。
 今では、車いすから降りたとたんそれまで近くにあったモノが急に遠くへ離れていってしまうような感覚がある。
人間は、他の多くの生き物と違って、外界に対して不適応な状態で生まれ落ちる。この不適応期間があるからこそ、人間は世界との関係のとり結び方や動きのレパートリーを多様に分化させることができた。無力さや不適応こそが、人間の最大の強みでもあるのだ。
この本では、脳性マヒによって身体が思うように動かないということの意味が図解され、同時に人間をふくめた外界との関わり方が考察されています。そして、トイレ・トレーニングというか、不意の便意への具体的な対処法まで紹介されています。
 リハビリ、トレーニングの意義についてもたいへん勉強になりました。世の中には、これほどの身体的ハンディにも屈せずにがんばっている人がいるのですね。私も、もう少しがんばろうと思いました。
(2010年10月刊。2000円+税)

教育の豊かさ、学校のチカラ

カテゴリー:社会

著者   瀬川 正仁 、 出版    岩波書店 
 橋下「教育改革」は、要するにエリート教育を重視しようというものです。グローバル化社会に勝ち抜く人材を養成しようというのですが、早くから差別と選別を教育分野に取り入れていいことは何ひとつないと私は思います。
 文部省の「日の丸」・「君が代」による教員統制は、子どもの学力を全体として伸ばそうというものではなく、国家にとって必要な人材を確保するために、教師を画一化し、強力に有無を言わさず統制しようとするものです。
 でも、現実の子どもたちは大半がそんなエリート養成教育からはみ出しています。そして、そのはみ出した子どもたちと格闘している教師集団がこの本で紹介されています。
 まずは静岡県の南伊豆町にある「健康学園」です。ここは、東京都中央区立の上東小学校の分校です。全校児童31名が、寮生活をしながら学んでいる。生徒は中央区に住民票のある小学3年生から6年生まで。教員は6名。ここでは心身の健康の回復を第一にしているため、学力を身につけることは期待されていない。だから、授業は伸び伸びした学びの場になっている。好奇心旺盛な小学生時代に、生きた知識や興味をどのように伝えるかに苦心がある。
 教師は一人ひとりに目配りできるし、しないわけにはいかない。
寮にテレビは一台のみ。そして、1時間だけ。テレビゲームもなし。公衆電話はなく、ケータイは禁止。だから手紙を書くしかない。寮生活を支えるのは、保育士の資格をもつ16人というスタッフ。中には発達障害児もいる。そして、この学園で自己肯定感を育てて子どもたちは伸びていく。
児童自立支援施設、そして海外にある日本人学校の様子も紹介されています。世界各地にある日本学校は88校。
 福島県三春町の学校も登場します。3.11の前のことです。
 沖縄には70代生徒の通う夜間中学校があります。そう言えば、山田洋次監督の映画『学校』は東京の夜間中学を舞台とする感動的な映画でしたね。
 さらに、長野県松本市にある刑務所のなかの中学校(桐分校)の今も紹介されています。いまでは、在日中国人が生徒の大半を占めるというのです。また、中学校を出ていても学力のないものを聴講生として受け入れているとのこと。世相の移り変わりを知りました。
『世界』で連載されていたものが本になりました。エリート偏重教育では決して日本は良くならないということを痛感させられる本でもありました。
(2012年7月刊。1700円+税)

日本近現代史のなかの救援運動

カテゴリー:司法

著者   山田 善二郎 、 出版    学習の友社 
 交通事故のひき逃げを疑われている人から相談を受けて、警察をそんなに信用しすぎてはいけません、ときに罪なき人を警察官は有罪にしてしまうことだってあるのですからねと助言することがあります。すると、警察官がひどいことをするなんて、今の今まで思ってもみませんでしたという反応がかえってきます。警察は正義を実現するところ、悪い人を捕まえるところという思い込みをほとんどの市民が思っています。私だって、弁護士になる前は、もちろん、そう思っていました。でも、弁護士になってからは、警察はときとしてとんでもない間違いをおかし、そのことに気がついても容易に誤りを認めようとしない鉄面皮のところがあると考えています。
 ですから、ぬれぎぬ(冤罪)で泣く人が生まれます。そのときに役立つのが国民救援会です。私も、救援会には少しだけ関わっています。この本は救援会の会長をつとめた著者が戦後日本の救援運動が果たしてきた役割をざっと紹介してくれるものです。著者自身が戦後まもなくの冤罪事件で、「犯人」の逃亡を手助けしてアメリカ軍からにらまれたという体験の持ち主です。そして、その事件のあとは、ずっと救援運動に関わってきました。
 最近有名なのは、布川(ふかわ)事件、そして、その前の足利事件です。いずれも再審で無罪となりました。それに至るまでの苦労がなんと長く困難だったことか・・・。救援会が無罪を獲得するのに大きく下支えをしました。
 それはともかく、2001年にパソコンから流出した愛媛県警察本部の被疑者取り調べ要領の一部を次に紹介します。
○粘りと執念をもって「絶対に落とす」という気迫が必要。調べ官の「絶対に落とす」という、自信と執念にみちた気迫が必要である。
○ 調べ室に入ったら、自供させるまで出るな。
被疑者の言うことが正しいのではないかという疑問を持ったり、調べが行き詰まったりすると逃げ出したくなるが、そのときに調べ室から出たら負け。お互いに苦しいのだから、逃げたら絶対ダメ。
○ 取り調べ中は被疑者から目を離すな。取り調べは被疑者の目を見て調べよ。絶対に目をそらすな。相手を呑んでかかれ。呑まれたら負け。
○ 被疑者はできる限り取調室に出せ。自供しないからといって留置場から出さなかったら、よけい話さない。
どんな被疑者でも、話をしているうちに読めてくるし、被疑者も打ちとけてくるので、できる限り多く接すること。否認被疑者は、朝から晩まで取調室に出して調べよ。
戦前、13歳の少女が、与謝野晶子の『みだれ髪』(歌集)を買って寄宿舎に置いていたところ、特高警察に知られて拷問されたというケースが紹介されています。その少女は、拷問されたあと帰されて寄宿舎の寮長に「茶わんいじほうって何のこと?」と尋ねたそうです。治安維持法という悪法も知らない13歳の少女を拷問していたぶった特高警察の非道さに思わず涙が抑えきれませんでした。
 また、戦後の一大謀略事件として有名な松川事件の起きた直後、「米日反動の陰謀だ」とか言葉だけ激烈に訴えても、誰の心にも動かさなかった。そうではなくて、具体的な事実と、率直な心情を自分自身の言葉で語りはじめたとき、広津和郎をはじめとする世間の人々の心に訴えが届いた。
 これは、今に生かされるべき教訓ですよね。
 日本民主主義がどの程度根づいていると言えるのか、この救援運動の歴史を知らずして語ることはできないと私は確信しています。
(2012年6月刊。1429円+税)

それでも、読書をやめない理由

カテゴリー:アメリカ

著者   デヴィット・L・ユーリン 、 出版    柏書房 
 1946年2月、ナチス・ドイツのヘルマン・ゲーリングはニュルンベルグ裁判のときに裁判官に向かってこう言った。
 もちろん、民衆は戦争など望んではいない。しかし、政治的な判断を下すのは、結局のところ国の幹部であり、国民を引きずりこむのはどんな国でも造作のないことだ。民主主義政権であれ、ファシズムの独裁政権であれ、議会統治であれ、共産主義独裁政権であれ、やり方に変わりはない。国が攻撃を受けそうだと国民に告げ、平和主義者を非国民呼ばわりして国を危険にさらすものだと非難する。これだけでいい。これは、どんな国でも効き目がある。
 なーるほど、今の日本でも通用している手法ですね。尖閣諸島を守れ、北方領土を守れ、北朝鮮のテポドンが脅威だと言いつのるマスコミには、本当にうんざりしています。
本を読むとき、初読と再読の違いは、次のようなもの。初読は疾走、再読は深化。初読は世界を閉め出して集中し、再読はストーリーを熟考する。初読は甘く、再読は苦い。しかし、再読のすばらしい点は、初読をふくんでいることである。
うむむ、そうも言ええるのでしょうね・・・。
読書には、余裕が必要だ。読書は、瞬間を身上とする生き方から私たちを引き戻し、私たちに本来的な時間を返してくれる。今という時の中だけで本を読むことはできない。本は、いくつもの時間の中に存在する。まず、私たちが本と向きあう直接的な時間経験がある。そして、物語が進行する時間がある。登場人物や作家にも、それぞれの人生の時間が進行している。誰しもが、時間との独自の関係を背負っている。
 本に集中することで、私たちは知らずしらずに内面生活という領域へ戻っていけるのだ。有史以来、今日ほど人の脳が多くの情報を処理しなければならない時代はなかった。現代人は、あらゆる方角から飛び込んでいる情報処理に忙しく、考えたり感じたりする習性を失いつつある。現代人が触れる情報の多くは表面的なものばかりだ。人々は深い思考や感情を犠牲にしており、次第に孤立して他者とのつながりを失いつつある。
 人と人との心の内面に結びつくようなふれあいは、たしかに少なくなっていますよね。
読書とは没頭すること。読書は、もっとも深いレベルで私たちを結びつける。それは、早く終わらせるものではなく、時間をかけるものだ。それこそが読書の美しさであり、難しさでもある。なぜなら、一瞬のうちの情報が手に入るこの文化の中で、読書するには、自分のペースで進むことが求められるからだ。
読書の最中には、私たちは辛抱強くならざるを得ない。一つひとつのことを読むたびに受け入れ、物語るに身をゆだねるのだ。
さらに私たちは気づかされる。この瞬間を、この場面を、この行を、ていねいに味わうことが重要なのだと。
世界からほんの少し離れ、その騒音や混乱から一歩退いて見ることによって私たちは世界そのものを取り戻し、他者の精神にうつる自分の姿を発見する。そのとき、私たちは、より広い対話に加わっている、その対話によって自分自身を超越し、より大きな自分を得るのだ。
 インターネットが万能であるかのような現代でも、活字による書物を読むことの意義はとても大きいと主張する本です。スマホに無縁な私にとって、共鳴するところの多い本でした。
(2012年3月刊。1600円+税)

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