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2012年8月 の投稿

弁護士たちの国鉄闘争

カテゴリー:司法

著者    刊行委員会 、 出版    岡田尚法律事務所 
 JRの前は日本国有鉄道でした。そこには国労という強大な労働組合があったのです。その国労つぶしのための高等戦術が国鉄の民営・分割でした。
 私が大学生のころには、日本でも、労働者も学生も、なにかといえばストライキをして、街頭でデモ行進していました。今や、ストライキという言葉は死語と化してしまいました。デモ行進も滅多にお目にかかりません。首相官邸の周辺を何万人の市民が取り囲んでも、テレビや大新聞はまったく報道しませんので、デモや集会までもが日本ではないも同然になってしまいました。
 この本は、国労つぶしに抗して闘った国労、そして争議団を支えていた弁護士たちの奮闘記が集められています。私の同期、同世代が何人もいますが、弁護士になって5ヵ月から取り組み、今では弁護私生活30年をすぎたと語る人までいます。それほど長期の集団的なたたかいでした。したがって、この本を通じて、日本社会の一断面を認識することができます。また、読んで面白い本です。
 弁護士は、権利闘争において脇役であり、サポーターであり、アドバイザーであるが、国鉄闘争においては、弁護士に闘争への参加意識は強かった。『弁護士たちの国鉄闘争』という本書のタイトルには、その思いが込められている。
 昔の京都地労委の驚くべき審理状況が報告されています。なんと、証人尋問の途中であっても、証人も代理人もタバコを吸うことができて、そのため、JP側代理人もタイミングをはずされることがあった。信じられない光景です。
国鉄・JR側の法務課に裁判官出身の専門家(江見弘武)がいて、労務対策の抜け道を指南していたという指摘を読んで、私は許せないことだと思いました。
 裁判でたたかうか、地労委でたたかうかという選択を迫られたとき、神奈川の弁護団は体験にもとづき地労委を舞台としてたたかうべきだと主張し、議論をリードしていったようです。なるほど、さすがだと思いました。
 地労委の救済命令は柔軟で裁量性があるからです。私も神奈川県で弁護士生活をスタートさせたとき、同期の岡田弁護士に頼み込んで地労委の審問にかかわらせてもらいました。福岡に戻ってきてから地労委にかかわったことは残念ながら一度もありません。
裁判所で争うことは、「敵の土俵」で戦うようなものだ。不当労働行為の救済機関として労働委員会があるのだから、この土俵に敵(国鉄・JR)を引っぱり込んで勝利を勝ちとろうと神奈川の弁護団はこぞって主張した。
 刑事裁判では、あくまでも証拠と論理に基づいて事実を究明し、事件の本質を明らかにすることが大切である。これを十分に行わず、単に被告人の人間像を描くことのみに力を注ぐことは、お涙ちょうだい式の人情論か、せいぜい情状論でしかないだろう。
 検察側が提出したテープをよく聞くと、「奴らにやらせるようにしむけますから、よってたかって現認して」とあった。同じ国鉄の労働者を「奴ら」と呼んだうえで、謀略をこらしていたのだ。そして、この助役が隠し取りしていた録音テープのなかに、この場面が録音されているのを発見したのは、あのオウムに殺された阪本堤弁護士でした。
坂本弁護士と最後に会っていた岡田弁護士は、坂本さちよさんの依頼で変わり果てた坂本弁護士の遺体と対面します。すると、そこには5年10ヵ月も山の中に埋められていたけれど、変わらぬ坂本弁護士の身体だったというのです。オウムの連中は、本当にむごいことをしたものです。許せません。坂本弁護士の無念さは、いかばかりだったでしょうか。
 国労組合員の採用差別事件で東京高裁の村上敬一裁判長は、「分割民営化という国是に反対したのだから、差別されて当然」という判決を下した。とんでもない裁判官です。今、この人は、どこで何をしているのでしょうか・・・。国是だったら、何でも許されるのですか。裁判所は一体、何をするところなんですか。そもそも国是とは何なのですか・・・。
JR東海の葛西敬之会長の尋問を担当した加藤要介弁護士は尋問の準備の過程で緊張のあまりに眠れなくなり、ワインを1日1~2本明けても、1日3時間以上は眠れず、苦しい思いをした。尋問が終わってからも2週間ほどなお緊張が解けずに苦労した。大変なプレッシャーだったことがよく伝わってきます。それにしても、ワインを毎晩1~2本とはよくぞ飲んだものですね。私なんか、せいぜい2晩に1本ですし、それも滅多にしません。
 国鉄改革は、中曽根康弘の企画・立案にもとづくもの。その実行上の戦略は元大本営参謀の瀬島龍三の作戦による。現場指揮官として葛西が辣腕を振るい、その法律顧問は裁判所から出港していた江見武弘が担当した。
 江見武弘は、「団交については、方針を変えることを前提に交渉する必要はない。聞き流しておけば足りる」と助言し、国労との国交をまったく形骸化させた。
 400頁もの部厚い証言集ですが、とても読みごたえがありました。国鉄闘争のみならず、戦後日本の労働運動に関心のある人には必読の文献だと思います。
(2012年4月刊。非売品)

対米従属の正体

カテゴリー:司法

著者    末浪 靖司 、 出版    高文研 
 驚き、かつ呆れ、ついには背筋の凍る思いをしました。
 最高裁長官が大法廷に従属中の事件について、一方当事者でもあるアメリカ大使に評議内容を漏らしていたのです。なんということでしょうか。もちろん、古い話ではありますがアメリカ公文書館で公開されている米国側資料に明記されていた事実です。ときの最高裁長官は田中耕太郎、1959年11月のことです。
この田中耕太郎の行為はもちろん罷免事由に該当します。今からでも遅くないと思います。叙勲を取り消し、最高裁は弾劾相当であったことを明確にして、一切の顕賞措置を撤回したうえ、もし顔写真等を飾っていたら、直ちに最高裁の建物から撤去すべきです。
田中耕太郎・最高裁長官がマッカーサー駐日大使と会ったのは、砂川事件について大法廷が審理している最中のことです。そこでは、アメリカ軍の日本駐留は憲法違反だという一審の伊達判決を受けて、違憲か合憲かを審理中でした。
 マッカーサー大使は、伊達判決の翌日に藤山愛一郎外相と密談して、最高裁に跳躍上告することを勧めた。そのうえで1959年4月22日に田中耕太郎最高裁判官と会った。そのとき、田中長官、時期はまだ決まっていないが、来年の初めまでには判決を出せるようにしたいと述べたうえで次のように語った。
できれば、裁判官全員が一致して適切で現実的な基盤に立って事件に取り組むことが重要だ。最高裁の裁判官の幾人かは手続き上の観点から事件にアプローチしているが、他の裁判官は法律上の観点からみており、また他の裁判官は憲法上の観点から問題を考えていることを示唆した。
 重要なのは、15人の最高裁判事のうち、できるだけ多くの裁判官が憲法問題にかかわって裁定することだと考えているという印象を与えた。
 これはマッカーサー大使が、アメリカの国務長官あての電報に記載されていることなのです。評議の秘密を一方当事者に洩らすなんて、およそ裁判官にあるまじき行為です。古い話だとすませていいことだとはとても思えません。ひどすぎます。
ところで、アメリカ政府が長官と直接接触する機会をどうやってつくったのかまで明らかにされています。ロックフェラー財団が日本の最高裁に法律書を寄贈することにして、最高裁は駐日大使を贈呈式に招待したのです。こうやって表向きの口実をつかって、裏では裁判の内情を知らせ「意見交換」したというわけなのです。涙がこぼれ落ちてくるほど情けない話でもあります。最高裁長官の椅子って、こんなにも軽いものだったんですね、トホホ・・・・。
 次に最高裁長官になった横田喜三郎も同じようなものでした。東大教授だったころは、外国の軍隊を日本に駐留させることは憲法9条に反するとしていたのに、突如としてアメリカ軍の基地は日本にとって戦力となるものではないから合憲だと言いはじめ、そのことがアメリカから高く評価されて最高裁長官になることができた。うへーっ、なんとおぞましいことでしょう・・・。
アメリカ兵が日本国内で刑事犯罪をおかしても、その大半は処罰されません。日本は主権国としての刑罰権を行使しない(できない)のです。ところが、それは1960年代までは必ずそうとばかりは言えませんでした。原則として、当然、日本の主権、統治権下にあり、日本の法令が適用されるということだったのです。それが、次第にアメリカの言いなりなっていくのでした。まさに逆コースですよね。
 今回のオスプレイにしてもそうですね。アメリカ軍の言いなりで、日本政府は何も言わない(言えない)なんて、情けない限りです。これで愛国心教育を国民に押し付けようというのですから、どこか間違っていますよね。
 為政者たる者、愛するに足る国づくりを本気でしてほしいものです。自らの努力を怠っていながら、国民にばかり押しつけるなんて、間違っています。広く読まれてほしい、画期的な本です。
(2012年6月刊。2200円+税)

米軍基地の歴史

カテゴリー:日本史(江戸)

著者   林 博史 、 出版    吉川弘文館 
 日本全国に戦後65年もたつのにアメリカ軍基地があります。首都に外国軍基地がある独立国は日本くらいだというのですが、考えてみれば異常な事態が続いていますね。オスプレイを岩国基地に配備する問題も、日本政府がアメリカの言いなりで、主権がどこにあるのか改めて疑わせました。
 この本はアメリカ軍基地が世界のどこにあり、日本はどんな位置を占めているのかを明らかにしています。私は、フィリピンにならってアメリカ軍基地を一刻も早く日本から追い出し、そこを広大な商業、住宅地として再生すべきと思います。日本の景気回復に役立つのは明らかです。
 世界各地にアメリカ軍は展開しているのが、1万人以上のアメリカ兵がいるのは、ドイツと日本そして、韓国のみ。
アメリカのメア元日本部長は沖縄の人々を「ゆすりとたかりの名人」と中傷したが、思いやり予算をみたら、その言葉は、そっくりアメリカ政府にあてはまる。そうなんですよね。アメリカ軍ほど、日本人の税金によって恩恵をこうむっているものはありません。盗っ人、猛々しいとはメア元部長のことです。
 アメリカは対ソ連との戦争を予想して、そのとき大量の核兵器をつかう計画を立てていた。1949年12月、オフタックルという戦争計画は、292発の核兵器と2万発近くの通常爆弾をソ連に投下するものだった。それを実行する部隊は、アメリカ本土だけでなく、沖縄からも出撃することになっていた。
 イタリアは、今日にいたるまで旗艦1隻を母港として受けいれてはいるが、空母は受けいれていない。日本は空母をふくめて10数隻の艦船を母港として受け入れている。
 アメリカはトルコに核ミサイルを配備し、ソ連はキューバに核ミサイルを配置していた。アメリカは、冷戦期には、アメリカのほか18ヶ国に、海外領土19ヶ所に核兵器を配備していた。沖縄には、17種類の核兵器が1954年から1972年6月まで配備されていた。そして、日本本土には、1954年12月より1965年7月まで配備されていた。
 1960年ころのアジア太平洋地域におけるアメリカ軍の核兵器配備数は沖縄800発、韓国600発、グアム225発、フィリピン60発、台湾12発、合計1700発だった。
 1967年には、沖縄に1300発、韓国900発、グアム600発、その他あわせて3200発が、アジア太平洋に配備されていた。アメリカ軍にとって、沖縄は核の貯蔵と核兵器作戦を沖縄から展開する自由が確保された場所だった。
 沖縄に1000発前後の核兵器があっただなんて、そら恐ろしくて身震いしてしまいます。その廃棄処分はちゃんとやられたのでしょうか・・・?
アメリカは独裁国家ではなく、自由と民主主義を建前とする国だ。だから、野党がアメリカ軍基地の全面撤去あるいは縮小を公的に揚げて選挙で勝利して政権についたとき、その新政権の要求をまったく拒否することはできない。
 日本保安条約だって、一方的に破棄通告すれば1年後には失効するのです。日本は冷戦の克服に真剣に取り組もうとせず、むしろ冷戦を利用してみずからの戦争責任・植民地責任を棚上げして、経済成長を遂げるなど、自国の利益しか考えてこなかった。
 日本人として耳の痛い指摘もありますが、世界中にあるアメリカ運基地のため、武力紛争が多発しているのも現実ですよね。一刻も早くアメリカ軍基地を日本からすべて撤退させるべきでしょう。
(2012年5月刊。1700円+税)

続・悩む力

カテゴリー:人間

著者   姜 尚中 、 出版   集英社新書  
 『悩む力』は、最新の広告によると100万部も売れたそうです。すごいベストセラーになりました。どうぞ、10月4日(木)午後の佐賀市民会館での姜教授の話を聞きにきてください。「教育の原点をとりもどすために」という内容です。お願いします。
 3.11のあとの日本社会をともに考えようという呼びかけもなされています。
 人間はなぜ生きるのか。生きる意味はどこにあるのか。何が幸福なのか。この問いをギリギリまで問い続け、答えを見出そうとした先駆的な巨人がいる。夏目漱石とマックス・ウェーバーである。漱石やウェーバーが重要なのは、東西でほぼ同時代を生きた2人の巨人が既に100年以上も前に、慧眼にも「幸福の方程式」の限界について、ほかの誰よりも鋭く見抜いていたことにある。
 いまの私たちの日常世界を圧倒的に支配しているのは、幸福の弁神論である。つまり、自由競争のルールに従って優勝劣敗が生じることは当然であり、強者、適者が栄え、弱者、不適応者が滅びることには一定の正当性があるという考え方である。
 そのためか、自殺した人が亡くなるときには、「すみません」という言葉を残して生命を絶つことが多い・・・・・。
近代までは、自然や神といった、実態を反映していると考えられた秩序に慣習的に従っていれば、よくも悪くも人生をまっとうできていた。ところが、近代以降の人々は、自分は何ものなのかとか、自分は何のために生きているのか、といった自我にかかわることを、いちいち自分で考えて、意味づけしていかなければならなくなった。
 しかも、一人ひとりがブツブツと切り離されていて、つながりがなく、共通の理解もない状態なのだから、お互いに何を考えているのか分からない。そのため、それぞれ内面的には妄想肥大となり、対人的には疑心暗鬼となり、神経をすり減らしていくことになる。
 近代文明のなかで個人主義が進行し、人々の孤独が強まり、また自意識がどんどん肥大していくからこそ、逆説的に、宗教は昔よりも自覚的に、かつ熱烈に求められるようになった。
 ホモ・パティエンス(悩む人)である人間は生きている限り悩まずにはおれない。そのほうが人間性の位階において、より高い存在なのだ。
 『吾輩は猫である』のなかに次のような記述がある。気狂いも、孤立しているあいだは、どこまでも気狂いにされてしまう。しかし、団体になって、勢力が出てくると、健全な人間になってしまうかもしれない。大きな気ちがいが金力や威力を濫用して多くの小気ちがいを使って乱暴を働いて、人から立派な男だと言われ続けている例は少なくない。
 100万人のうつ病患者と、年間3万人をこえる自殺者がいて、10人に1人は仕事の状況で、しかもやがて訪れるという年金だけの生活におののきつつ、自分はどう生きていくかという、切羽詰まった自分探しをしている。
 そして、「ホンモノを探せ」と叫び、私たちをあおっているのは、ほかならぬ資本主義なのである。ホンモノ探し、自分らしくありたいという願いが、自分に忠実であろうとする近代的な自我の一つの「徳性」を示しているとしても、それが時には、ナルシズムや神経症的な病気をつくり出しかねないことにもっと注意を払うべきである。
漱石やウェーバーなどの生き方にあやかる意味でも、あの3.11の経験を、どうしても「二度生まれ」の機会にしなければならないと思う。ところが、マスコミの動向は、忘れることの得意な日本人たちは、早々と3.11を忘れ去ろうとしている。
 日本人は、世界のなかでことさら宗教心の乏しい国民というわけでもない。それは、鎌倉時代のころ、12ないし13世紀に登場した、法然、栄西、親鸞、道元、日蓮、一遍といった人々が次々にあらわれ、宗教改革を起こしたことからも分かる。ただ、戦前そして戦中に、政治的エネルギーを一種の宗教のように進行した結果、手痛い敗北をきっしたトラウマはとても大きかった。そのため、政治と宗教については、色をもたないほうがよいという教訓が導かれた。そして、ひいては何事に対しても、無逸透明であることが習い性のようになってしまった。
過去をもっと大切にしよう。いまを大切に生きて、よい過去をつくることだ。幸福というのは、それに答え終わったときの結果にすぎない。幸福は人生の目的ではないし、目的として求めることもできない。よい未来を求めていくというよりも、よい過去を積み重ねていく気持ちで生きていくこと。
恐れる必要もなく、ひるむ必要もなく、ありのままの身の丈でよいということ。いよいよ人生が終焉する1秒前まで、よい人生に転じる可能性がある。何もつくり出さなくても、今そこにいるだけで、あなたは十分あなたらしい。だから、くたくたになるまで自分を探す必要なんてない。心が命じるままに淡々と積み重ねてやっていれば、あとで振り返ったときには、おのずと十分に幸福な人生が達成されているはずだ。
 漱石とウェーバーをこれほど深く読み込むとは、さすがに大学の先生は違いますね。正編が100万部売れたとして、続編のこの本も何万冊と売れるのでしょうね。それはともかくとして、10月4日午後は、ぜひ佐賀市民会館に足を運んでくださいね。私も姜教授のナマの話を楽しみにしています。
(2012年6月刊。740円+税)

それをお金で買いますか

カテゴリー:アメリカ

著者   マイケル・サンデル 、 出版    早川書房 
 価値あるものがすべて売買の対象になるとすれば、お金を持っていることが世界におけるあらゆる違いを生みだすことになる。これが、この数十年間が、貧困家族や中流家庭にとってとりわけ厳しい時代だった理由である。
 貧富の差が拡大しただけではない。あらゆるものが商品となってしまったせいで、お金の重要性が増し、不平等の刺すような痛みがいっそうひどくなった。市場には腐敗を招く傾向がある。
かつては非市場的規範にしたがっていた生活の領域へ、お金と市場がどんどん入り込んできている。たとえば、行列に入りこむ権利だって、お金で買える。ええーっ、行列に割り込む権利をお金で買うですって・・・。ほら、飛行機に乗るとき、ファーストクラスだと優先搭乗できるようなものですよね。
 罰金と料金の違いは何か?罰金は道徳的な非難を表しているのに対し、料金は道徳的な判断を一切ふくんでいない。スピード違反の罰金に収入に応じて上がるシステムをとっている国がある。フィンランドがそうだ。時速40キロの超過の罰金が21万ドル(2100万円)だった金持ちがいる。うひゃあ、すごいですね。
 イスラエルの保育所で実験があった。子どものむかえに遅刻した親から罰金をとることにしたら、遅刻する親は減るどころか、かえって増えてしまった。遅刻の発生率は2倍にもなった。親たちは、罰金をみずから支払う料金とみなしたのだ。お金を払うことで迎えの時間に遅れないという道徳的義務がいったんはずれると、かつての責任感を回復させるのは難しくなった。うむむ、難しいところですよね、これって・・・。
 従業員保険というものがある(これは日本にもあります)。会社が従業員の同意をとらずに(今では同意が必要だと思います)生命保険をかけていて、従業員が死亡すると、その遺族ではなく、会社に死亡保険金が入るというものです。そのとき、遺族には会社規定のわずかな見舞金が交付されます。会社は死亡保険金の一部を遺族に渡すのです。
 この従業員保険は、今ではアメリカの生命保険の全契約高の3割近くを占めている。アメリカの銀行だけで、1220億ドルもの生命保険となった(2008年)。このように、生命保険は、今や遺族のためのセーフティーネットから企業財務の戦略に変質している。つまり、従業員は生きているより、かえって死んだほうが会社にとって価値があることになる。そんな条件をつくり出すのは、従業員をモノとみなすことだ。会社にとって価値が、労働する人々としてではなく、商品先物取引の対象として扱っている。かつては家族にとっての安心の源だったものが、今や企業にとっての節税策になっている。うへーっ、これって許されることでしょうか・・・?
 お金をもらってタバコをすうのを止めようとした人の9割以上が、そのインセンティブがなくなった6ヵ月後にはタバコをすい始めた。金銭的インセンティブでは、一般に長期的な習慣や行動を変えることなく、特定のイベントに参加させることにのみ効果を発揮する。人々にお金を払って健全でいてもらおうとしても、裏目に出る可能性がある。健康を保つ価値観を養えないからだ。
なーるほど、なるほど、さすがは名高いハーバードの教授の話ではありました。
(2012年5月刊。2095円+税)

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