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2012年5月 の投稿

秀吉の朝鮮侵略と民衆・文禄の役(下)

カテゴリー:日本史

著者   中里 紀元 、 出版   文献出版
 この下巻では、秀吉の朝鮮侵略のとき日本軍がいかに残虐なことをしたのか、おぞましい事実が明らかにされています。後の日清戦争(1894年)のときにも明妃虐殺をはじめ非道いことを日本軍はしましたが、その300年前にも同じように日本軍は残虐非道を働いていたのでした。
 文禄の役で、日本軍は朝鮮全道を支配していたのではなく、全羅道には駐留することが出来なかった。これは現地の義兵の抵抗が強かったということです。
 日本軍のなかでも加藤清正の残虐ぶりは軍を抜くようです。
 加藤清正は朝鮮二王子を捕まえていた。朝鮮軍の応援にやってきていた明軍は朝鮮二王子の返還もふくめて講和交渉に来た。その明軍の使者の面前で王子の従者の一人である捕虜の美女をはりつけにして槍で突き殺してしまった。それを見た明の使者や供の者が恐れおののいたと清正の高麗陣覚書に誇らしげに書かれている。朝鮮・明では、この残虐行為によって、清正は鬼と呼ばれた。
 日本軍は朝鮮・明軍と戦うときは兜の下の面当しや背に負った色とりどりの小旗、そして日本刀を日の光にあてギラギラと輝かせて相手を恐怖させる戦術をとった。
 天下様たる秀吉の威光をもってしても、朝鮮に渡る船の水夫・加子の逃亡を止めることは出来なかった。日本民衆の漁民の抵抗と朝鮮民衆の一揆の抵抗とが一致して秀吉の朝鮮侵略は半年あまりで挫折した。
 小西行長、宋、平戸松浦の1万5千の兵が守る平壌城に対して明軍の総大将・李如松は、明軍と金命元の朝鮮軍をあわせる20万の大軍で迫った。日本軍は明軍の攻撃によく耐え奮闘したが、1万5千のうち5千人ほどしか残らなかった。そして、小西軍は平壌から敗走した。このことは、日本軍の将兵に大きな衝撃を与えた。
 明軍が小西軍を敗走させた最大の原因は、食糧不足だった。釜山から兵糧が届かなくなっていた。
秀吉は、徳川家康や前田利家と軍議を重ねたが、家康や利家は名護屋在陣の10万をわけて朝鮮へ渡海させることは出来ないと主張した。それは、薩摩で反乱が起きたように、国内でまた反抗が起きたとき、弾圧する軍事力を残すためだった。秀吉は朝鮮へ将軍を出すことも出来ず、くやし涙を流した。
秀吉は、自分への絶対服従を再確認するため、三名の大名を処罰して、日本軍の士気を引き締めた。この三大名とは、豊後の大友義統(よしむね)、薩摩和泉の島津又太郎、そして、上松浦(唐津)の波多三河守親(ちかし)である。
 フロイスは、日本軍の兵士と輸送員をふくめて15万人が朝鮮に渡り、そのうち3分の1にあたる5万人が死亡したと報告している。この5万人のうち、敵に殺された者はわずかで、大部分は、労苦、飢餓、寒気そして疾病によって亡くなった。
 第一軍の小西行長軍は、65%の人員が減少した。第二軍の加藤軍は1万人が渡海して4千人が消えてしまった。
恐るべき侵略戦争だったわけです。よくぞ調べあげたものです。清鮮での虎退治で有名な加藤清正がこんなに残虐なことをしていたとは、知りませんでした。
(平成5年3月刊。15000円+税)

巨大戦艦「大和」全軌跡

カテゴリー:日本史

著者   原 勝洋 、 出版   学研
 大艦巨砲主義の頂点に立つ「大和」は、巨大主砲9門、発砲時の衝撃に耐え、船体の53.5%の主要部のみに防御を集中する「集中防御」を採用した。艦幅が広く、喫水の浅い、速力を出すには不利な船型をした船艦だった。それでも、「大和」は最高時速50キロを発揮した。「大和」型戦艦の建造について山本五十六・航空本部長は次のように反対した。
 「巨艦を造っても不沈はありえない。将来、飛行機の攻撃力はさらに威力を増し、砲戦がおこなわれる前に飛行機によって撃破されるから、今後の戦闘では、戦艦は無用の長物になる」
 まことに至言です。その言葉のとおりになりました。ところが、当時の海軍首脳部は、航空攻撃の威力について「実践では、演習どおりにはいかない」と考え、山本航空本部長の反対意見を押し切った。
 海軍軍令部は、アメリカと量で競争することはできないのでアメリカより前に巨大戦艦を建造し、射程の長い砲を搭載し、アウトレンジで敵が決戦距離に入る前に先勝の端緒を開くという、質で対抗する考え方を強調した。
 主砲40センチ砲の一門の製造に要した鋼塊重量は725トン、鍛錬重量は417トンで、仕上がり重量は166トンだった。
 発射速度は30秒に一発。弾丸を一発発射するのに、29.25~30.5秒かかる。「大和」が9門の主砲を一斉に同一舷、同方向に向かって発砲したときには、8000トンの反動力が生じる。
 「大和」の艦艇からから最上甲板までの船体の高さは6階建てのビルに相当した。「大和」に立ち入った者は、誰一人として、この巨艦が沈むとは思わなかった。
 昭和17年11月のソロモン海戦のころまではアメリカ軍もレーダー操作に不慣れだった。しかし、翌18年7月のころには、アメリカ軍の夜戦能力は射撃用レーダーの進歩と射法の改良によって急速に向上していた。同年11月には、日本海軍はアメリカ軍のレーダー射撃に太刀打ちできなくなっていた。
 大本営発表では勇ましい「戦果」をあげているということだったが、実はアメリカ空母はすべて健在という正しい情報を得ていた第14方面軍もいた。ところが、参謀本部の瀬島龍三少佐が正しい情報を握りつぶしてしまった。
 瀬島龍三については、今なおその崇拝者が少なくありませんが、こんなことをしていたのですね。許せませんよね。
 結局のところ、「大和」はその9門の主砲をまったく活用することがないまま無数の航空攻撃の下に撃沈させられてしまったのでした。
 「大和」の性能そしてその最期に至るまでを、アメリカ軍の記録をも掘り起こして刻明に解明した貴重な本です。宇宙戦艦ヤマトとちがって、ここには「男のロマン」はないというしかありません。
(2011年8月刊。2300円+税)

豚のPちゃんと32人の小学生

カテゴリー:生物

著者   黒田 恭史 、 出版   ミネルヴァ書房
 小学生のクラスで3年間、豚を飼っていたという体験記です。そのクライマックスは、なんといっても、卒業のときの残された豚の処遇をめぐるクラス討論会の模様です。
 次の学年に引き継ぎ、ずっと学校で豚を飼い続けるという声が有力です。でも、豚って、あまりに大きくなりすぎると、自分の足で身体を支えられなくなるようですね。ゴロンと横になって、喰っちゃ寝の生活をするとのこと。そんな巨大な豚を小学生が本当に世話できるでしょうか。
 もちろん、食肉センターに引き渡すという声もありました。でも、それは自分たちが食べるというのではありません。もう誰も学校で面倒みられないから、豚を手放すだけなのです。決して豚を殺して食べていいというわけではありません。たとえ、結果として、そうなったとしても、そこまではもう子どもたちの考え及ばない世界なのです。
 映画は見ていませんが、今から9年前に出版された本を読んだのです。実際の話はそれよりさらに10年前、1993年のことでした。テレビで放映されると、反響は大きく、抗議の電話がじゃんじゃんかかってきたそうです。それでも、動物愛護映画コンクールで内閣総理大臣賞を受賞しました。私も受賞してよいと思います。実際、毎日のように、私たちは豚肉を食べているわけですから、子どもたちの教育実践として生きた豚を飼って悪いはずがありません。
 それにしても豚の世話って、大変なようです。
 ぶた(Pちゃん)の好きなものはトマト、嫌いなものはキャベツ。
 子どもたちはPちゃんの処遇を決める過程で、食肉センターへ見学にも行きました。もちろん、希望者のみ、親が同伴して、です。
32人のクラスは食肉センター派と引き継ぎ派と16人対16人、真っ二つに分かれた。同じように3年間かかわってきた子どもたちが、見事に分かれてしまった。不思議だった。筋書きのない授業をすすめるなかで、このクラスを担任した教師は悩みました。結局、Pちゃんは食肉センターに送られ、子どもたちが豚を食べるわけでもありませんでしたが、そこに至る教師の苦悩がリアルに伝わってきました。それを感じることが出来ただけでもいい本だと思います。橋下流の「教育改革」では、こんなことをしている著者なんて最低評価しかされないことでしょう。なぜなら、直接的に「学力向上」に役立つとは思えないからです。
 でも、本当の学力、考える力、仲間を支えあう力は大いに育成できたのではないでしょうか・・・。
(2008年11月刊。2000円+税)

シャンタラム(上)

カテゴリー:アジア

著者   グレゴリー・デイヴィッド・ロバーツ 、 出版   新潮文庫
 インド(ボンベイ)のスラム街の生活が描かれています。
 長大な小説の第1巻ですが、自身の体験をもとにしていますので、その迫力は絶大なものがあります。
インドとインド人についての単純な、それでいて驚くべき真実は、インドに行ってインド人と付きあうときには頭より心に従った方が賢明だということだ。その真実がこんなにもあてはまる国は、世界中どこを探してもほかにない。
 不誠実な賄賂はどの国でも同じだが、誠実な賄賂が存在するのはインドだけだ。
 ええーっ、本当でしょうか。信じられませんね。そう言えば、最近もインドで、賄賂をなくせという集会とデモがあったと報道されていました・・・。
 主人公はオーストラリア人。刑務所を脱獄したから、もはや本国には戻れません。
 刑務所で暮らすということは、何年ものあいだ、午後の早い時刻から翌日の午前の遅い時間まで、毎日16時間も監房に閉じ込められ、日の出も日没も夜空も眼にすることがないことを意味する。つまり、刑務所で暮らすということは、太陽と月と星を奪われることを意味する。
刑務所は地獄ではなかったが、もちろん天国も見あたらなかった。それはそれで地獄にいると同じくらい悲惨なことだ。
 人市場で子どもたちが売りに出されている。しかし、この子どもたちは人市場にたどり着かなかったら死んでいただろう。餓えに苦しめられ、すでに自分の子どもの一人かそれ以上が病気になって死んでいくのを見てきた親たちは、「人材発掘人」が来てくれたことに感謝し、ひざまずいて彼らの足に触れ、息子や娘を買ってくれと懇願する。せめて、その子の生命だけでも助けたいという思いからだ。
 これって、本当なのでしょうか・・・。哀れすぎです。
 主人公はボンベイのスラムで医師まがいのことをして、住民の生命を救い、頼りにされるのでした。インドは行ってみたい国ではありますが、とても行く勇気はありません。
 そんなインドに住みついた白人脱獄囚の冒頭にスリルにみちた話が展開していき、次はどうなるのかと恐る恐る頁をめくっていきました。
(2011年12月刊。990円+税)

とめられなかった戦争

カテゴリー:日本史

著者   加藤 陽子 、 出版   NHK出版
 とても知的興奮をかきたてる、刺激的な本でした。なるほど、そういうことだったのかと何度も再認識しました。
 1944年6月のマリアナ沖海戦と7月のサイパン地上戦に日本が敗れ、サイパン島を失ったのは決定的なターニングポイントだった。敗戦の1年前のサイパン失陥の時点で戦争は終わらせるべきだった。この機会を逸したことで、日本はより悲惨な戦いを強いられ、敗北を重ね、被害を一挙に増大させていくことになった。
 1942年8月に始まるガダルカナル島の戦いは、日本軍が攻撃から守勢へと、立場を変えた戦局の転換点だった。マリアナ諸島は、製糖業の拠点であると同時に、軍事拠点でもあった。ここは日本の絶対国防圏内にあり、日米ともに戦略上最重要と認める焦点だった。日本軍にとって死守すべきところなのである。
 この「絶対確保すべき要域」にアメリカ軍の侵攻を許したことは重大であるのに、このサイパン失陥が政府、大本営で問題視された形跡はない。
 サイパン失陥によって、アメリカ軍による本土空襲は日程に上った。B29というアメリカ軍の大型爆撃機は日本本土を空襲して帰ってくるのにちょうど間にあう位置にある。アメリカ軍は、B29による日本本土空襲を当面の最重要戦略に位置づけていた。だからこそ、最強の機動部隊と7万人の兵力をつぎ込んでサイパン・マリアナ諸島を攻略するや、サイパン・テニアン・グアムで航空基地群を建設・整備しはじめた。
 日本も、サイパンの戦略的重要性が分かっていたから、4万人の将兵を送ってサイパンの守備を固めた。堅固なサイパンは守り抜けると確信していたのに失陥したため、9日後に東条英機首相は退陣に追い込まれた。日本はマリアナ沖海戦で決定的な戦力である機動部隊を失ってしまった。そのため、日本海軍は、以後、合理的な作戦を立案できなくなってしまった。
 サイパン失陥のあと、多くの日本人が終戦までに亡くなっていた。東京大空襲で10万人、原爆で広島14万人、長崎50万人もの民間人がサイパン以後の空襲で亡くなった。日中戦争から敗戦までの軍人・軍属の死者230万人、その6割の140万人は、広い意味の餓死だった。
 1941年7月、日本軍が南部仏印に進駐すると、アメリカは日本の予想に反して石油の対日全面禁輸を実行した。なぜか?
 それはソ連を応援するためだった。ドイツとの戦争を始めたばかりのソ連が連合国側から脱落しては、元も子もない。アメリカの軍需産業は動き出したばかりで、まだモノがなかった。翌42年春になればなんとか輸出情勢が整うので、それまではソ連にもちこたえてもらわなければならない。そこで、ソ連が当面の敵ドイツに加えて背後から日本の攻撃を受けることがないように、日本を強く牽制し、注意をアメリカにひきつけた。つまり、ソ連の背後の脅威を除くためにとった措置だった。
 日米開戦の最大の推進力となった陸海軍の将校、とりわけ参謀本部、軍令部の中堅幕僚たちは、当時は40歳代で、いずれも少年のときに日露戦争を体験している。少年時代に刻みつけられた華々しい勝利の記憶が、開戦それも早期開戦を渇望しただろう。
日本が緒戦に大勝すれば勝機はあると思っていたのは、財政的に準備していたことが大きい。日中戦争が始まってから、臨時軍事費を特別会計で組み、膨大な軍事費を確保していた。その3割を日中戦争遂行のためにあて、残る7割は来るべき太平洋戦争の準備にあてていた。4年間で、256億円、今のお金に換算すると20兆円をこす。これだけ軍備につぎ込んで準備していれば、まだアメリカの準備がととのわないうち緒戦に大勝すれば、そのまま戦争に勝てると考えても不思議ではない。
 満州事変は、日本も中国も、宣戦布告はせず、戦争とはみなされない方法ともに選んだ。それが共通のメリットだった。また、アメリカにとっても、日中の関係にアメリカ国民が巻き込まれないですむというメリットがあった。そんな三者の暗黙の了解のもとに日中戦争は展開していった。
中国人の胡適は、中国は豊かな軍事力を持つ日本を自力では倒せない、日本の軍事力に勝てるのはアメリカの海軍力とソ連の陸軍力の二つしかない。だから、この二国を巻き込まない限り中国は日本に勝てない。そのためには、中国との戦争を正面から引き受けて、2~3年間、負け続けることが必要だ、そう言い放った。
なんと鋭い冷静な言葉でしょうか・・・。
 昭和天皇でさえ、自らの意志によって、暴発した軍事行動をとめられないというパターンができていた。これは別に昭和天皇伝記で紹介したとおりですね。
 よく調べてあるし、その論評の確かさには舌を巻いてしまいます。わずか130頁ほどの薄い本ですが、ぎっしり中味の詰まった重厚な本でした。
(2011年7月刊。950円+税)

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