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2011年12月 の投稿

仏教、本当の教え

カテゴリー:社会

著者  植木 雅俊  、 出版  中公新書  
 目からウロコの仏教の本です。
 歴史上の人物としての釈尊はまったく女性を差別していなかった、釈尊在世のころの原始(初期)仏教の段階では、女性出家者たちが男性と対等にはつらつとした姿で修行に励んでいた。ところが、中国に入ったとき、男尊女卑の儒教倫理を重んずることから、女性を重視した箇所が翻訳改変されていった。
インド人はみんな北枕で寝ている。北枕で寝るのは日本と違って、生活習慣なのである。中国には北枕という言葉自体がない。
結婚式に、インド人は蓮の花を持参する。もっとも目出たい花として。
現在のインドには、仏教徒は人口の0.8%しかいない。
仏教の三つの特徴。
第1.仏教は徹底して平等を説いた。
第2.仏教は迷信やドグマや占いなどを徹底して排除した。
第3.仏教は西洋的な倫理観を説かなかった。
   仏教徒は最後までカースト制度を承認しなかった。これがインドに仏教が根をおろせなかった理由の一つになっている。釈尊は、人を賤しくするのも、貴くするのも、その人の行為いかんによるとして、「生まれ」による差別を否定した。
釈尊の弟子のなかに女性出家者が13人、在家の女性が10人いた。これらの女性の名前が、中国そして日本に伝わることなく削除された。教団の権威主義化にともない、在家や女性は軽視されはじめた。
  仏教は「道に迷ったもの」に正しい方角を指し示すものであって、道を歩くのは本人であるという前提がある。仏教は暗闇のなかで燈火を掲げるようなものだ。なーるほど、これだったら、仏教を信じたくなりますよね。
 ところが、日本には、分からないことイコールありがたいことという変な思想がある。そうなんですよね。わけの分からない教えだからこそありがたいというわけです。いわば呪術的に信仰するのです。これでは広がりがあろうはずはありません。だって、要するに分からないのですから。
釈尊は王制ではなく、共和制を重視していた。日本では仏教用語や哲学用語が、安易でおかしな方向に引きずられてしまいがちだ。哲学的・思想的対決を真剣にやろうという姿勢があまりない。
 サンスクリット語の原典からひもといて、中国の訳そして日本語訳を比較して論じられています。すごい学者です。巻末の著者紹介をみると、ほとんど同世代ではありますが、私より若いということに衝撃すら覚えました。学者は偉いです。
 あなたもぜひ手にとってご一読ください。仏教を語れなくて日本人とは言えませんからね。
(2011年11月刊。800円+税)

わたしを宇宙に連れてって

カテゴリー:宇宙

著者   メアリー・ローチ 、 出版   NHK出版
 質問。宇宙遊泳の最中に、船外に出ている宇宙飛行士の生命を救える可能性がゼロに近い事態のとき、どうしますか?
 回答。その飛行士を宇宙船から切り離す。
 こんな答えをためらうことなく出すなんて、とても常人にはできませんよね。でも、正解はこれしかないというのです。他の飛行士の生命を危険にさらすわけにはいかないからです。いやはや、残酷なことですね。
 宇宙探査は、次第に特別なものではなくなっていた。退屈なものでもある。
短気で、いいかげんな作業をして平然としているような人物は宇宙飛行士には向かない。
 宇宙飛行士は、人並み外れて有能で優秀な人々でなくてはならないことは今も変わらないが、必ずしも人並み外れて勇敢である必要はなくなっている。推奨される特性は、大惨事に直面しても冷静に行動できること。何かあったとき、パニックになる乗員は、ただの一人もいてはならない。
 宇宙は、フラストレーションばかり押しつけてくる情け容赦ない環境であり、宇宙飛行士は、そこで事実上、監禁状態に置かれる。そこに長いあいだ囚まわれていると、フラストレーションはやがて怒りに変わる。怒りは、はけ口とターゲットを求める。
宇宙飛行士は、他のお友だちと仲よく遊べる子でなくてはいけない。英語をつかって、円滑にコミュニケーションが取れるかどうかは飛行士になるための大きな要素になる。
無重力状態のなかで、臓器は胴体の内側で浮揚する。宇宙飛行士の50~75%が宇宙酔いのさまざまな症状に苦しめられている。
 宇宙船にシャワーはない。宇宙飛行士は濡れタオルやドライシャンプーを使っている。
 下半身不随の人は、最終的に下半身の骨の3分の1から2分の1を失う。宇宙ステーションに6ヵ月間滞在すると、出発前と比べて骨量の15~20%は減少している。
 無重力空間での排泄は単に面白おかしいだけの問題ではない。おしっこするというごく単純な行為が、重力がないというだけで、カテーテル挿入やら緊急事態に発展することがある。宇宙空間では、尿意の仕方が異なる。重力があると、膀胱のなかに液体廃棄物を膀胱の底に引き寄せる。限界が近づくにつれ、伸長受容体が刺激される。ところが、無重力空間では、尿は膀胱を刺激しないから、尿意がない。時間を決めて排尿するしかない。
糞便バッグを用意しておく。バッグを丸めて封をし、不愉快なモンスターを永遠に閉じ込めるのに、殺菌剤の小袋を破り、中身をバッグに絞り入れ、殺菌剤がまんべんなく行き渡るよう、手でよくよくもまなくてはいけない。
 女性の宇宙飛行士が少ないのは、プライバシーの守られない宇宙トイレ開発が遅れているのも原因になっている。なんとまあ、宇宙ステーションって、大変なんですね。
(2011年6月刊。760円+税)

河内源氏

カテゴリー:日本史(鎌倉)

著者   元木 泰雄 、 出版   中公新書
 目からウロコの落ちる思いのする本でした。
貴族と武士とは、決して対立的な存在ではない。武士は常に王権のもとに結集するのである。それどころか、武士も貴族の一員であり、ともに民衆に対しての支配者であった。
 かつてのように、貴族と武士を対立する階級とみなし、武士が結集して貴族に対抗する武士政権を樹立することを自明とみなしたり、貴族にとって武士は脅威であり、抑圧の対象であるといった、従来の河内源氏の理解は、もはや成りたたない。武士は貴族から生まれた。
実際の貴族は、それほど軟弱ではなかった。五位以上の位階をもつ武士を「軍事貴族」と称する。本来、貴族とは、朝廷において五位以上の位階をもつ者の呼称である。従って武士でも五位以上なら、れっきとした貴族の一員なのである。
武士にとって、力量を侮られることは単に屈辱というだけでなく、敵の攻撃を招いて滅亡する危険さえ有していた。東国武士は武名を重んじざるを得ず、無礼者には報復せざるをえなかった。源氏は、自力救済の世界における敵対関係と、降伏した者への寛容をうまく使い分けていた。
源義家は、朝廷を守る栄光の大将軍と、無用の戦争を繰り広げて残忍な殺戮を繰り返す武士の長者という二つの顔をあわせもつ武将だと貴族から認識されていた。
 源氏の共食いという忌まわしい言葉がある。源義家・義綱兄弟の対立、為義・義朝父子、頼朝・義経兄弟の対立など、河内源氏では内紛が続いた。
 当時、武士でも公家でも、家長が死去したあと、その晩年の正室が後家として亡夫にかわって家長権限を代行するという強い立場にあった。新家長に対して強い発言権を有し、場合によっては廃嫡することさえも可能であった。頼朝没後の北条政子がその典型である。当時も今も、日本の女性は強かったのですよね。
 保元の乱(1156年)。白川殿に結集した武士の中心が為義以下の河内源氏なら、それを攻撃する集団でもっとも中心的な役割を果たし積極的に行動したのも、河内源氏の義朝であった。この合戦は、まさに河内源氏の父子分裂、そして全面衝突の様相を呈した。
 合戦は後白河側の勝利となった。開戦から4時間ほどを要した激闘だった。平清盛は播磨守に、源義朝は右馬権頭(うまごんのかみ)に、源義康は検非違使に任じられ、義朝と義康には昇殿が許された。
 平治の乱(1159年)。保元の乱は平安時代で初めて首都で起こった兵乱ではあったが、その戦場になった白河は京外であった。しかし、平治の乱の舞台はケガレを忌避する神聖な空間、左京のど真ん中で発生した。それだけに、人々に与えた衝撃は大きかった。ただし、平治の乱は、源平両氏の大規模な決戦とは言い難い規模でしかない。
 武士と貴族の関係を考えさせられました。
(2011年9月刊。800円+税)

人が人を裁くということ

カテゴリー:司法

著者   小坂井 敏晶 、 出版   岩波新書
 司法制度について大変考えさせられる鋭い問題提起にみちた本です。
 日本の制度では職業裁判官の優位が目立つ。海外では、裁判官に権力制限に注意が払われるのに対して、日本では逆に市民への厳罰への暴走が危惧されている。日本の裁判員裁判の合議体構成は、ナチス・ドイツ支配下のヴィシーかいらい政権が厳罰化を目的に導入したフランス参審制と酷似している。フランス近代史上、市民の影響力をもっとも抑えた制度と日本の裁判員制度は同じ構成になっている。英米法における裁判は、真実を究明する場というよりも、紛争を具体的に解決する役割を担う。検察は共同体を代表して犯罪を告発する。英米と異なり、フランスの陪審員は、国民の縮図・サンプルとして裁判に参加するのではない。このように英国法と大陸法とでは、司法哲学が異なっている。
犯罪を裁く主体は誰か、正義を判断する権利は誰にあるのか。これが裁判の根本問題だ。職業裁判官なら誤判がありうる。官僚が間違えても、それは技術的な問題にすぎない。しかし、重罪裁判では、陪審員・参審員を媒介に人民自身が裁きを下す。したがって、人民の決定に対する異議申立は、国民主権の原則からして許されない。これがフランスの考え方。
 英米法では検察官上訴が許されない。有罪判決が出たときは、それに不服な被告人が控訴して再び裁判を受ける権利がある。しかし、無罪のときは、それで確定する。どんなに不条理な判決であろうとも、陪審員が下した無罪判決を裁判官が無効にして審理差し戻しを命じたり、検察が異議を申立して控訴したりは出来ない。
 英米の裁判では、無罪か有罪なの評決結果を陪審員が提示するとき、結論に至った理由は示されない。というのも、歴史的事実として、英米市民のほとんどは文盲だったから。
 判決理由の欠如と、無罪に対する上訴禁止という二つの条件により、英米法では制度上、どんな不可解で不正な無罪判決でも出す能力が陪審員に与えられている。
フランスでは、公判内容の要約が1881年に禁止されて以来、現在に至っている。検察と弁護側の双方の最終弁論が終わると、裁判長は議論終了を宣告する。そのとき、意見を述べることも、議論内容を要約することも許されない。
 また、公判前に準備される供述資料など一切の書類は裁判長だけに閲覧が許される。他の裁判官2人は、市民9人と同じく、白紙の状態で公判にのぞみ、その場で討議された内容だけをもとに判断しなければならない。
 英米では、数百年にわたって、市民だけで重罪裁判の事実認定を行ってきた。全員一致に至るまで議論を続けず、多数決で判決を決めると有罪率が高くなる危険がある。
 全員一致の決定内容は、議論を尽くして最終的に至った解答だ。
 陪審員を減らすと、社会の少数派意見が判決に反映される可能性が近くなる。人間は真空状態で判断しない。どの状況も一定の方向にバイアスがかかった空間であり、中立な状態は存在しない。
 フランスの重罪裁判を務める参審員は、公判前に刑務所を見学させられる。専門家が長年かかって練り上げた取り調べ技術の威力はすさまじい。取り調べ技術を練り上げるのはプロの心理学者だ。
 暴力団員や政治犯が取り調べに落ちにくいのは、彼らを支える組織が外部に存在するからだ。普通の人間では、ひとたまりもない。密室に隔離された状態で脅しを受け、それでも沈黙を守れるほど、人間は強くない。審査官は黙秘権を放棄させる訓練を受ける。
 弁護士が取り調べに立ち会っても、実際にはあまり役に立たない。
 捜査官にとっては、被疑者が犯人に間違いないのである。無実の人間を犯人にしたてあげるという意識はない。だからこそ、問題が深刻なのだ。犯罪を憎み、会社の無念を晴らそうという取調官の気持ちを見落とすと問題の核心を見失う。取調官の真摯な態度を読みとらないと、冤罪を生む仕組みの本当の深刻さと恐ろしさはつかめない。
 被害者は犯人が憎い。はじめは目撃記憶に自信がなくても、警察から示唆されると、しだいに記憶が再構成される。犯人だと判明したと聞いたり、公判前に検察によって何度も証言の練習をさせられると、さらに確信度が高まっていく。
 犯罪捜査から判決に至るまでの一連の過程は一人の個人に任されるのではない。多くの人々が関わって機能する、組織の力学が防ぎ出す集団行為だ。
 人間は組織の論理で動く。問題すべきは、個人の資質ではなく、犯罪捜査というバイアスのかかった磁場の構造である。
 犯罪のない社会は、論理的にありえない、どんなに市民が努力しても、どのような政策や法体系を採用しても、どれだけ警察力を強化していても犯罪はなくならない。
 悪の存在しない社会とは、すべての構成員が同じ価値観に染まって、同じ行動をとる全体主義社会だ。つまり、犯罪のない社会とは、理想郷どころか、人間精神が完全に圧殺される世界にほかならない。
 私よりずいぶん若い学者ですが、さすがは自由の国、フランスで勉強したと思える発想に圧倒される思いで読み通しました。日本の司法界にかかわる人は必読の文献だと思います。
(2011年2月刊。720円+税)

弁護士から裁判官へ

カテゴリー:司法

大野正男著、2000年6月、岩波書店発行
 司法制度改革から10年が経過し、司法の依って立つ社会基盤の大きな変化もあり、司法制度改革にいろいろ綻びが出ている。しかし、司法制度改革における人的基盤の整備の一環として提唱された弁護士任官制度は、順調に実績を挙げているようである。私も、外から裁判所を眺めるだけで飽き足らなくなり、中から裁判所を見てみようかという気まぐれを起こし、来年の非常勤裁判官に応募した。
 このような身の回りの変化にあって、昨年、弁護士出身の元最高裁判事であった滝井繁男氏の「最高裁判所は変わったか」を読んだことに引き続き、今年は、同じく弁護士出身の元最高裁判事であった著者の書物を読んでみた。最高裁判事を退官して在官中の公私の出来事を振り返ったエッセイ集である点は一緒であるが、滝井氏の著作が2009年の出版であることと比較して、一時代前のものである。10年間の最高裁の変化はいかなるものであったろうか。
 著者は、最高裁に①憲法裁判所としての役割、②事実審の最終審としての役割があることを指摘し、上告事件の激増により、②の負担が過重となり、①の役割が十分ではないことを憂いている。小法廷が「先例の趣旨に徴して明らかである」の論法により憲法判断を回避していると言われる例の問題のことである。この辺りの問題意識は、滝井氏と同一である。そうすると、平成10年の民事訴訟法改正による上告制限の導入は、あまり効果をあげていないということになるのであろうか。以下私見であるが、もし、②の負担を軽減するため、例えば、小法廷を5つ設置するとなれば、大法廷は25人の大人数となり、到底、実のある憲法議論は尽くしがたいであろうなと考えると、制度改革による①の憲法裁判所の復権は決して容易なことではないのであろう。そうすると、最高裁の利用者による上告の自粛が求められてくるが、「まだ最高裁がある」(映画「真昼の暗黒」の言葉)という当事者の最後の希望を摘み取ってしまうこともできまい。こうしていろいろ考えてみると、著者や滝井氏の嘆きは、最高裁の永遠のテーマになりそうな気配である。
 ところで、著者は、マルキドサドの悪徳の栄え事件、砂川事件、全逓東京中郵事件など著名な憲法訴訟に携わった一流の弁護士でありながら(だからこそ上述の憂いが生まれてくるのであろう)、その物言いは柔らかであり、書きっぷりには気取りがない。この著書にも、軽妙で楽しげな語りがある。
 例えば、「最高裁が、原判決を指示し、棄却する場合でも、次のような種類の表現がある。」として、
最も積極的に支持する表現としては、「正当として是認できる」と表現し、
次に単に「是認できる」であり、
理由をやや異にする場合は「この趣旨をいうものとして是認できる」であり、
かなり原判決の理由に疑問を持つ場合には、順に
「この趣旨をいうものとして是認できなくはない」
「違法とは言えない」
であり、最後に最低の合格ラインとしては
「違法とまでは言えない」と表現するのだそうである。
 これは、判決書の言葉遣いとその意味を紹介したものであり、本来おかしむようなものではなが、著者の手にかかると何ともいえぬユーモアが感じられる。この著者の文章に接して弁護士で、にやっとせぬ者はいないであろう。
 さて、著者のような最高裁判事ほどの立場ではないとしても、私も簡易裁判所で民事調停に立ち会うとなれば、事件や法律の見方・考え方が変わり、解決することの苦労を身に染みて感じるのであろう。著者が最高裁判事の苦労を楽しんでいたように(本人がそう述べている)、私も簡裁判事の苦労を楽しむことができようか。

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