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2011年7月 の投稿

武士の評判記

カテゴリー:日本史(江戸)

著者    山本 博文  、 出版   新人物ブックス
 寛政の改革で有名な松平定信がつくらせた『よしの冊子』をもとに、当時の江戸城内や江戸市中に起きている出来事を分かりやすく紹介した面白い本です。
 松平定信は、八代将軍の孫。定信は田沼意次を恨み、敵視していた。刺し殺そうと決意したこともあるほど。そして田沼を厳しく批判する長文の意見書を将軍家治に提出した。将軍家治が没し、11代将軍家斉が跡を継いだ。
 このとき、田沼時代の老中たちは定信が老中になることを嫌って妨害した。しかし、天明の打ちこわしが起きたりして、ついに定信は老中になった。このとき、幕臣や江戸の庶民から喝采をもって迎えた。ところが、やがて厳しい倹約政策によって不景気となって期待がしぼんでいったのですよね。
 『よしの冊子』は、定信が部下に命じて江戸の実情を探らせたレポート集のようなもの。
定信は田沼とちがってワイロをもらわなかった。そうすると、老中になって、わずか2ヵ月で2332両(4億6千万円ほど)の経費がかかった。当時、老中が進物や賄賂を受けとっていたのは必要悪という側面があった。
定信が大奥の御年寄(大崎)を辞めさせたという話がある。しかし、大奥の人事は、それこそ将軍の専決事項であり、定信といえども即座に辞めさせられなかったはず・・・。
田沼意次の評判の多くは事実無根のことで、単なる噂にすぎない。意次が失脚したあと、悪いことは何でも田沼のせいにされてしまった。実際、田沼意次は相応の賄賂を受けとっていたが、当時は、他の老中を初めとして、役人たちはみな賄賂を受けとっていた。田沼意次は破格の出世を遂げただけに周囲の嫉妬は強く、権力の座から落ちた時の世間の風は冷たかった。
 老中人事は、老中が将軍に提出する複数の候補者のなかから、将軍自身が選ぶという形でおこなわれる。老中に任じられたのは、おおむね早くから評判のよい譜代大名だった。大名の役職は持高勤めで、役職手当はつかないので、基本的に持ち出しになる。
 旗本がつとめる幕府の役職では、第一の大役は町奉行で次が勘定奉行だった。裁判をする人は公事宿(くじやど)という訴訟に出てきた百姓向けの旅館に滞留する。公事宿の主人は、幕府の裁判に精通しており、現在の弁護士のような役割を果たしていた。
 定信が推進した政策はデフレ時代を現出させた。バブルに浮かれた田沼時代と比較され、予期せぬ不満も受けることになった。定信が御役御免になったという情報が伝えられると、幕臣たちはみな驚愕し、江戸城内は大混乱になった。町奉行池田は、城中、人目をはばからず大声で泣いた。というのも、このころの幕閣中枢部は、ほとんど定信の人事による。そのため、誰もが驚き、悲しんだ。表の役人は誰もが定信の辞職を嘆いた。だから、定信を追い落とした黒幕は中奥役人以外には考えられない。
定信の老中辞任は、まず将軍家斉が思いつき、その相談を受けた奥兼帯の老中格大名がそれに賛意を示したことで突然の仰せ出されになったものではないか。家斉は定信がいると、自分の思いどおりにならないことから定信の退任願いを許可したのだろう・・・。
 寛政の改革の裏話のひとつとして面白く読みました。
(2011年2月刊。1400円+税)

パレスチナ・イスラエル紛争史

カテゴリー:ヨーロッパ

著者    ダン・コンシャボク、ダウド・フラミー  、 出版   岩波新書
 エルサレム生まれのパレスチナ研究者とアメリカ生まれのユダヤ人がアラブ・イスラエル紛争史をお互いの視点から語った本です。容易に意見は一致しません。それでも、いま現地で両者が憎しみ、殺しあっているわけですから、このような「平和共存」の本が出版されるのには大きな意義があると思います。
 パレスチナは、大シリアの一部として400年ものあいだ、オスマン朝カリフの支配下にあった。そのパレスチナには小さなユダヤ教徒コミュニティが存在しており、その一部はエルサレムやヘブロンなどの宗教的重要性をもつ主要都市に常住していた。これらのコミュニティはずっと昔からあり、アラブの隣人とともに平和に暮らしていた。
 19世紀末、パレスチナの人口は60万人。10%がキリスト教徒、4%がユダヤ教徒であり、大多数がスンニー派のムスリムだった。さまざまなコミュニティ間の関係は概して平穏で、それぞれが独自の生活を営んでいた。
第一次世界大戦の終わる前に出されたバルフォア宣言は、シオニストとイギリス政府による交渉の結果であり、イギリス政府はユダヤ人が郷土を獲得するための支援を真剣におこなうこと、その郷土はパレスチナに存在することを明言していた。
 嘆きの壁は、ユダヤ教徒とムスリムの双方にとって重大な意義をもつ場所である。
 ユダヤ人の運動には、国際レベルでの財政的・組織的な支援があった。パレスチナへの移民は先進的な社会からやって来た人々であり、最底辺の人々でさえ、アラブ人よりは高い洗練された一般教養をもっていた。多くの人々が高度な教育を受けているか、高度な技術をもっており、しかも、明確な動機につき動かされていた。
 他方、パレスチナの大半は、無気力状態に沈み込んでいた。
 イギリス軍が最終撤退した翌日の1948年5月14日、イスラエルの建国が宣言された。この新国家を最初に承認したのはアメリカで、ソ連がそれに続いた。
1967年6月、イスラエルとエジプトは6日間戦争をたたかった。この日、エジプトにある全飛行場への奇襲空爆によって、エジプト空軍機の大半が離陸する前に破壊された。
 この戦争の結果、イスラエルが中東地域において圧倒的な軍事力を有する国家となったことが明らかとなった。
 1972年の10月戦争は、イスラエルの不意を突いた。10月6日、開戦から90分でエジプト軍はスエズ運河に橋頭壁を築き、翌日には運河の東5キロ地点まで進軍し、運河東岸のイスラエル軍の複数の要寒を完全に掌握した。
 1980年代半ば、イスラエル古領地には煮えたぎる不満が広がっていた。そこにインティファーダが勃発する。物質的および精神的に従属してきたパレスチナ文化は、もはや何も失うものがないことを悟った。石をもった幼い少年たちが、まるでゴリアテの面前に立ちはだかったダヴィデのように、自動小銃で武装したイスラエルの兵士に立ち向かった。
 インティファーダは、現実を生きるパレスチナ人、占領下で暮らす民衆の怒りの爆発であった。ユダヤ人は隣人との平和を模索してきたが、アラブ人は戦争を仕掛けた。
 イスラエルは、その歴史を通じてユダヤ人をその土地から追い出そうとするアラブ民族によって包囲されてきた。最近では、インティファーダによってアラブ住民がイスラエルの支配下を覆そうとしてきた。
 パレスチナ人がイギリスによる統治を選択したのではなく、むしろイギリスの支配が押しつけられた。ユダヤ人は、イギリス政府によって代弁されていた。その一方で、パレスチナ人はイギリスとフランスの利害で分割された中東の従属的民族にすぎなかった。
 パレスチナにおいては、いったい誰が侵略者で、誰が被害者なのか。パレスチナ人は、自分の祖国を防衛する自由の戦士なのだ。
 ヨーロッパのユダヤ人へのホローストはアラブ人ではなく、ヨーロッパ人が犯した罪である。しかし、その代償を払っているのはアラブ人である。今、陵辱された者が陵辱する者になっている。
 以上、よく分からないままに不十分な紹介をしてしまいました。
 アラブ(パレスチナ)人とユダヤ人との和解はきわめて難しいこと、しかし、その手がかりはまだあることを思い知らされる本です。
(2011年3月刊。3400円+税)

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