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2011年6月 の投稿

森のハヤブサ

カテゴリー:生物

著者  与名  正三    、 出版  東方出版 
 日本は奈良、その高山の里に棲みついているハヤブサの写真集です。大自然の生き物であるハヤブサの伸びやかな生き様がよく写し撮られています。日本の山に、こんなにも身近にハヤブサがいるのですね。その躍動する姿をとらえた感動の写真集です。どうぞ、ぜひ手にとって眺めてみてください。
 ハヤブサは留鳥。毎年、同じ場所に生息している。しかし、8月から10月は行動圏が広がって、営巣地の近くで姿を見ることは少ない。ハヤブサの獲物の一つがハト(鳩)。レースバトです。ヒヨドリも、ツグミも、ハヤブサのエサになります。
 小鳥を獲るときのスピードは時速300キロ以上にもなる。メスが卵を温めているときには、オスが狩りをする。メスはオスと交代して抱卵する。オスがメスに獲物の小鳥を受け渡す行動は、求愛の行動であり、メスがヒナに対して給餌するための一環でもある。
狩りに疲れたオスが休息をとろうとすると、メスがやって来て、鳴き叫び、早く狩りに行くように促す。うへーっ、これって、まるで人間と同じではありませんか・・・・。男はつらいよ、ですね。
 ハヤブサのオスとメスは、同色なので識別は難しいが、オスの喉の部分は真白なのに対して、メスの喉にはゴマ状の斑点がある。
獲物の管理は、メスが主導権を握っている。古来、日本の家庭では、妻が家計を握ってきました。まるで、同じですね。ハヤブサに親近感を覚えます。
ヒナが成長すると、獲物の形を認識させるため、親鳥は獲物を解体せずに生きたままで与える。だから、獲物となったスズメが逃亡に成功することだってある。
 巣立ったばかりのハヤブサの幼鳥はなかなかと飛ぼうとしない。飛翔力を高めるため、親鳥(メス)は獲物の肉片をもって周囲を飛びまわり、幼鳥を飛び立たせようと努力する。親鳥は、幼鳥の飛翔力を高めるため、すぐには獲物を渡さない。
 奈良の森に棲みつくハヤブサの生態がよく撮られた写真集です。
(2011年2月刊。1500円+税)
 きのうの日曜日、雨の中を年に2回恒例のフランス語検定試験(1級)を受けてきました。結果は本当に惨々です。1問目分からず、2問目も3問目も全滅。4問目の小問にやっと一つだけ正解にあたりました。動詞を名詞に変えて文章をつくりかえたり、慣用句など、まるで歯が立ちません。後半の長文読解で少し点が取れるようになり、仏作文は少し手ごたえがあるかなというレベルです。それでも小休止のあとの書き取りはかなりうまくいき、聞き取りも、まあまあでした。やはり毎朝の書き取り練習がモノを言います。
 自己愛みちみち大甘の自己採点で61点(150点満点ですから、やっと4割)でした。
 挑戦することに意義があるとは言うものの、終わると毎回どっと疲れを感じます。大学の同じ構内の別の校舎で漢検もあっていました。そちらの方が受験生は多そうです。

天魔ゆく空

カテゴリー:日本史

著者    真保 裕一  、 出版   講談社
 『ホワイトアウト』など、社会派の推理小説作家とばかり思っていた著者が、このところ歴史、時代小説にも進出していたとは、ちっとも知りませんでした。
 ときは室町時代。足利将軍はとっくに権勢を喪い、細川や山名という有力武将が激しい抗争を展開していた。
 八代将軍の足利義政は政治から逃げ、その正室(妻)の日野富子が幕府の実権を握っている。その子、九代将軍・足利義尚、そして十代将軍・足利義材、さらには八代将軍の兄の子である十一代将軍は、いずれも将軍家の実力を伴っていなかった。すべて武将たちの争闘のなかに漂流する存在でしかない。
 そんな京都の政治のなかで、本書の主人公の細川政元が次第に力をつけてのしあがっていくのです。一度は将軍の座に就いた者(足利義材)を追い落とすために八千の軍勢を率いて細川政元は出撃した。そして、比叡山延暦寺に焼き打ちをかけた。
 うひゃあ、織田信長よりも70年も前に根本中堂を火攻めした武将がいたのですね・・・。そして、細川政元の最期は信頼していた臣下に裏切られたのです。これまた信長と同じです。
 室町時代の情景が活写された本として面白く、一心に読みふけってしまいました。
(2011年4月刊。1700円+税)

源頼朝の真像

カテゴリー:日本史(鎌倉)

著者   黒田  日出男   、 出版    角川選書  
 かの有名な源頼朝がどんな顔をしていたのか、少しでも日本史に興味をもつ人なら、知りたいところですよね。著者は日本史の教科書にのっている源頼朝は別人のものだと断定します。それは、室町幕府の将軍であった足利直義(ただよし)の肖像だというのです。しかも、鎌倉時代ではなく14世紀半ばに製作されたとします。ところが、いま福岡で公開されている展覧会でも、依然として源頼朝の顔として紹介されています。学会で通説がひっくり返っても、教科書レベルの書き換えは至難のことのようです。
 では、源頼朝はどんな顔をして人物だったのか。著者は甲斐善光寺にある像が源頼朝だとしています。そして、源頼朝の実子である源実朝像との類似点も指摘されています。なるほど、この二体はまさに親子だと思わせます。似ているんです。
 では、なぜ、甲斐善光寺に源頼朝像が安置されていたのか、その謎を著者は探ります。信濃にあった善光寺を根こそぎ甲斐へ移し、甲府の地に建立したのは武田信玄の宗教的、政治的な大事業だった。そして武田信玄の死後、善光寺如来は京都に入り、そのあと40年ぶりに信濃に帰った。しかし、信濃からもたらされた源頼朝像は、そのまま甲斐善光寺に残っていた。
信濃善光寺は3度炎上したが、甲斐善光寺の大火は1度だけだった。そして、この甲斐善光寺にある源頼朝像の造像を命じたのは北条政子であった。
 通説の源頼朝の顔はいかにも貴族的ですが、甲斐善光寺の源頼朝像はとても人間臭い顔つきです。
眉間を厳しく結んだ目元は、どこか憂いをおびつつも、何かを見すえたような表情を示す。また、厳しく結んだ口元は、意思の強さを感じさせ、頬やあごのしっかりした骨格は、堂々とした貫禄を感じさせる。活動的で威圧的な風格を感じさせる像である。
 なるほど、かなりの人物だと思わせる像であることは間違いありません。そして、実朝像との類似点も指摘されているとおりだと私は思いました。学者って、すごいですね。
(2011年4月刊。1800円+税)

「フィデル・カストロ」 (上)

カテゴリー:アメリカ

著者   イグナシオ・ラモネ   、 出版  岩波書店 
キューバのカストロが自分の一生をジャーナリストとの対話のなかで振り返っています。存命中に歴史と伝説のなかに迎えられる光栄に浴することのできる人物は、きわめて少ない。カストロはその一人であり、国際政治の舞台に残る最後の「聖なる怪物」である。
カストロは、世界でもっとも長く政権を担った国家元首だ。32歳だったカストロが当時のバチスタ政府軍を打ち破って1959年1月にハバナに入城したまさに同じ日に、フランスでドゴール将軍が第五共和制の最初の大統領に就任した。カストロは、それから、アメリカの10人もの歴代大統領と対峙した。
 アメリカは、キューバ体制の転覆を目ざして活動している組織に一貫して財政援助をしてきた。その総額は6500万ドルにもなる。2004年に8000万ドルの基金をつくり、また、2005年には240万ドルを支出した。フロリダ州内には、カストロ政権転覆を目ざすテロ組織の訓練基地があり、そこが対人テロなどをキューバに定期的に送り込まれている。アメリカ当局は、受動的ながら、これらのテロ組織と共犯関係にある。
 しかし、キューバ人の全員でなくとも大多数が革命に忠誠をちかっている。これが政治的現実である。それは愛国主義を基盤とする忠誠であり、アメリカの併合主義の野心に対して抵抗してきた歴史に根差している。
 カストロは、キューバ人を飢餓から解放しただけでなく、読み書きできないことからも、物乞い根性からも、犯罪からも、帝国主義への屈従からも開放した。
カストロが、私服を肥やすために地位を利用することのない数少ない国家元首の一人だということは、政敵の多くも認めている。
 一日の睡眠時間は4時間で、週7日間働いている。好奇心は無限で、思考し沈思し、常に警戒し、行動し、新たな闘争を開始する、永遠の反逆者である。カストロの文学上のお気に入りの英雄はドン・キホーテである。
カストロは、孤立した農村で、富豪だが保守的で教育のない両親から生まれ、選良の子弟専用のカトリック上流社会にあったフランコ派の学校でイエズス会士による教育を受け、大学の法学部でブルジョア階級の弟子と対等に付きあっていた。大学予科生のときにはスポーツマンで、最優秀スポーツマンとして表彰された。大学生になったころは政治的に無知だった。反逆精神と基本的な正義の観念をいくばくか抱いてハバナ大学に進学し、革命家になり、マルクス・レーニン主義者になった。それはいくつかの書物のおかげでもある。授業にはまったく出なかった。そして法学部の学生代表に賛成181票、反対33票で当選した。しかし、大学内では学生同士のケンカに見せかけて殺される危険が迫った。なるほど、若いときからたいした人物だったのですね。
 モンカダ兵営の襲撃要員として訓練したのは1200人で、そこで募集を打ち切った。みな若く、20~24才だった。襲撃当日はカーニバルの日だった。それを選び、夜明けと同時に制圧する計画だったので、成功するはずだった。しかし、現場で手違いが起き、結局、失敗した。
 カストロが革命戦争に勝ったのは、軍事戦術と政治戦略の両方のおかげだ。敵は相手が捕虜を殴らず、辱めず、ののしらず、とりわけ殺害しないが故に相手を尊敬する。カストロの革命軍は捕虜を拷問しないことも原則としていた。その手法は潜入して証拠をつかむというもの。肉体的暴力は有効に機能しない。敵の大物暗殺は問題を解決しないどころか、反動勢力は殺された人物を殉教者に仕立て、別の人物を後釜に据えてしまう。
大物の暗殺をせず、市民に犠牲者を出すことなく、テロの手段を行使しない。アフリカのアンゴラにキューバは5万5千人もの軍隊を送った。そして、南アフリカの侵略を食い止め、南アフリカのアパルトヘイトの崩壊にも貢献した。
カストロの語りに詳細な解説がついていて、とても分かりやすい本になっています。
(2011年2月刊。3200円+税)

「終戦」の政治史、1943-1945

カテゴリー:日本史

著者    鈴木 多聞  、 出版   東京大学出版会
 終戦に至るまでの日本の政界上層部の動きを、昭和天皇や軍部の言動を含めて詳細にたどって分析した本です。とても面白くて、3.11大震災のあと久しぶりに上京する機中で、一心に読みふけりました。
 統帥権の独立とは、内閣が軍の作戦計画に干渉できないこと。戦前の日本では、統帥部と内閣とが政治的に対等の関係で並立し、国内には二つの政府があったと考えられる。敗戦色の濃い1944年2月、東条英機首相・陸相が参謀総長を、海軍大臣嶋田繁太郎は軍令部総長をそれぞれ兼任した。陸軍大臣が陸軍の参謀総長を兼任し、海軍大臣が海軍の軍令部総長を兼任するというのは異例の事態であり、これはそれまでの総帥権独立の伝統に反したものであった。軍人が軍の特権を自ら破壊したということである。この統帥権独立の伝統が破られたため、重臣や議会そして国民は統帥権の独立を楯として、公然と東条と嶋田を批判することが可能となった。これは、逆説的に、戦時内閣を解させて、戦争終結への近道への道を開いたと言える。
ラバウルなどの地域は、「確保」から「持久」する地域へ改められた。「持久」とは、一見すると聞こえが良いが、要するに長期的には「確保」しないこと。前方の作戦地域の将兵を見捨てて、時間稼ぎの捨て石にすることだった。
 1943年9月30日に開かれた御前会議は、昭和天皇を落胆させた。合理的悲観論と観念的強硬論が入りまじり、示された対策は「決意」の表明でしかなかった。昭和天皇の戦局に対する失望は、相反する報告をする陸軍参謀本部と海軍軍令部に対する怒りに転化していった。
 そりゃあ、そうでしょうね。軍部はいつも自分に都合のいいことしか報告しない、そしていつのまにか敗色ばかり濃くなっていったのですから・・・。
 陸軍の参謀本部と海軍の軍令部は相互に秘密主義をとり、陸海軍省には戦況の一部を知らせる程度だった。だから、陸軍省は軍令部の作戦計画を、海軍省は参謀本部の作戦計画を知ることができなかった。つまり、日本軍には、「協同作戦」はあっても、「綜合作戦」というものは存在しなかった。海軍側には陸軍を統制できる人材がいなかった。
実際、航空機が主力兵器となったことから、海軍は次第に空軍化しつつあった。
 1944年7月、サイパン島が陥落した。これは日本本土がB29の爆撃圏に入ったということを意味し、この時点で日本が戦争に勝つ見込みはなくなった。
 7月20日、ヒトラー暗殺計画が失敗した。このころ、日本にも東条暗殺計画があったが、同じ7月20日が予定日であった。ええっ、うっそー、嘘でしょ、と叫んでしまいました。
 日本はドイツの勝利を前提として日米戦争へと踏み出していたのである・・・。
昭和天皇は、「アメリカ軍をぴしゃりと叩くことはできないのか」「どこかでもっと叩きつける工面はないものか」と言って米軍に一撃を与えることを期待していた。つまり、好機講和論であった。
昭和天皇は、参謀総長としての東条には不信任であったが、首相としての東条は信任していた。東条内閣崩壊が戦争終結につながらなかったのは、反東条運動が必ずしも和平運動、終戦工作ではなかったからである。それは戦局打開運動をうみ出し、東条や嶋田では戦争に勝てないという人事刷新運動になった。
 昭和天皇は、沖縄戦までは軍事的な期待を捨てきれないでいた。
「もう一度、戦果をあげてからでないと、なかなか話はむずかしいと思う」
 2.26事件で側近を殺された昭和天皇は、事件に関与した皇道派の軍人、宇垣、香月、真崎、小畑、石原といった人々には強い不信感を抱いていた。
沖縄戦について、昭和天皇は、「なぜ現地軍は攻勢に出ないのか。兵力が足りないのなら、逆上陸をやったらどうか」と攻勢作戦を督促した。そして、戦後になっても、「作戦不一致、まったく馬鹿馬鹿しい戦闘であった」と強い口調で不満を述べている。
大本営と政府の首脳部は、国民に対しては特攻精神を怒号しながら、肝心の航空用ガソリンが10月以降にはなくなることを知っていた。この石油要因は大きく、戦後になって昭和天皇は、「石油のために開戦し、石油のために敗れた」と語った。
 昭和天皇は、7月上旬になっても対ソ外交に進展がないのに不満をもち、7月7日、モスクワへの特使派遣を提案して政府を督励した。昭和天皇は、万が一の場合には、長野の松代大本営において、三種の神器と「運命を共にする」気持ちだった。昭和天皇は、ある一定の状況下においては本土決戦の可能性があると考えていた。昭和天皇と陸海軍にとって、完全な無条件降伏は絶対に受け入れられないことだった。
 沖縄の陥落によって本土決戦が現実味を帯びたとき、昭和天皇は戦備の実態を聞いて、本土決戦不能論者となった。そして、国体護持を目的として、本土決戦を回避しようとした。
 一般に、日本はソ連参戦を予想できなかったと言われるが、正しい歴史理解ではない。日本の予想が外れたのは、ソ連参戦の有無ではなく、参戦の時期だけだった。
 昭和天皇は、「勝算の見込みなし」の理由を、原爆投下でもソ連参戦でもなく、本土決戦不能論に求めた。うひゃあ、そうだったんですね。まあ、まともに考えればなるほど、そうでしょうね。改めて大変勉強になる本でした。
(2011年2月刊。3800円+税)

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