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2011年4月 の投稿

労役でムショに行ってきた

カテゴリー:司法

著者  森  史之助     、 出版  彩図社   
 
 罰金を支払えないときには労役場で働かされます。その状況をレポートしてくれる本です。著者は酒気帯びでつかまり、罰金25万円を命じられます。1日5000円として50日間の労役場留置です。著者は、川越少年刑務所に収容されました。収容されるとき、タバコや危険物を持ち込もうとしていないか調べるため、お尻の穴を両手で広げて見せなくてはいけません。
ペニスは異物を埋め込んでいないか、埋め込んでいるとしたら何個かを調べる。
刑務官は、労役場留置の人間に対しては、何かと「独房行きだぞ。一人は寂しいぞ」と脅す。それしかない。労役には、そもそも仮釈放という制度がない。相当な規則違反をしても、懲罰を受けたものはいない。
 労役場留置の多数派は、飲酒がらみの道交法違反である。労役受刑者は、寝るのも作業するのも、朝から晩まで24時間を雑居房の中で過ごす。くさいメシといっても、メシ自体は臭くない。そうではなく、臭い場所でメシを食わなければいけないのである。
著者に充てがわれた作業は、紙袋にヒモを通すこと。ショッピングバックの製造の一過程である。ノルマはなく、何かやっていないと6時間がたたないので、ひたすら手を動かす。完全週休2日制。しかし、土日も働いている計算としてカウントされる。これだけでも労役は、軽作業をさせることより留置することに重きを置いていることが分かる。
 
 1日5000円換算の仕事をしているから、何ももらえないかと思うと、1日40円の「給料」をもらえる。1日8時間、ショッピングバック800個にひもを通して40円がもらえる。
 1日5000円の罰金を免除してもらって、3食付で、40円がもらえる。では、ここにまた入りたいと思うかというと、みんなNOという。そりゃあ、そうですね。自由がありませんからね。
 土日の休みの日(免業日)は、昼食を終えると(午睡)の時間がある。夕食まで横になっていい。著者は免業日には、合わせて16時間も布団に入って、なかで過ごしたといいます。
雑居房には時計がない。労役受刑者は、一日の行程のすべてが時間によって管理されているのに、時計を見ることができない。その必要もないからだ。
労役場留置の貴重な体験記として一読をおすすめします。
 
(2011年1月刊。619円+税)

毛沢東、最後の革命(上)

カテゴリー:中国

著者  ロデリック・マクファーカー   、 出版   青灯社   
 
 毛沢東が文化大革命を始めたのは1965年2月のこと。そのころ私は高校生でした。
妻の江青(こうせい)に秘密任務を託し、上海に派遣した。毛が、自分の途方もない計画を全面的に支えてくれる人物として頼りにしたのは、上海市党委の左派リーダーの柯慶施(かけいし)だった。柯慶施は、江青が毛沢東の意を受けて動いていることを知っていたので、なんのためらいもなく江青の助手として二人の宣伝マン、張春橋と姚文元をつけてやった。しかし、柯慶施自身は肺癌のため同年4月に急死した。張春橋より年下の姚文元は、当時まだ33歳で、鋭い舌鋒で毛沢東の信頼を勝ちえていた。
 姚文元の書いた論文は、極秘扱いのまま、毛沢東との間を往復した。上海市党委の上層部は不意をつかれた。そして、北京市党委の彭真をだました。
 1966年3月、毛沢東は北京の党組織への最終攻撃を開始した。5月、彭真は粛清された。それに連座して解任された人々は多かった。そのような運命を受けいれるのを拒否して自殺を選ぶ人々が日ごとに増えていった。
 党幹部が疑いを口にする一方で、知識人や党外の名士はパニックを起こしていた。そのとき、毛沢東は軍事クーデターを心配していた。パラノイア(妄想症)とすら言える毛沢東は用心深く、首都工作組と呼ばれる特別タスクフォースを発足させた。北京衛戌区には新たに10人をこす将軍と家族から成る優秀な増強部隊が投入された。そして、中南海に棲んでいた幹部の多くが別の地区へ転出させられた。
1966年6月、全国の大学と学校の授業が停止させられた。学生たちは突然、「自由」になり、教室を離れて文革と「階級闘争」に投入していった。この事態に劉少奇は、苛立つ以上に、平然としていた。
 1966年夏に起きた混乱について毛沢東はすべてを熟知していた。毛沢東が北京にいないときにも、中央弁公庁は毎日、専用機を飛ばして、情報を届けていた。
 毛沢東は7月、「いっさいの束縛を粉砕しなければならない。大衆を束縛してはならない」と持ち上げた。また、反動派に対して「造反することには理がある」とぶち上げた。これが有名な「造反有理」の始まりでした。このころは、まだ劉少奇も乗り遅れまいと懸命の努力を続けていた。「四旧打破」運動として、紅衛兵は、「悪い」階級出身の家庭への家捜し、家財の押収・破壊を始めていた。北京での差し押さえ資産は、1ヶ月で5.7トンの金など莫大な収穫をあげた。
文革のあと、全国85校のエリート大学・中学・小学校を調査したところ、すべての学校で教師が生徒に拷問され、多くの学校で教師が殴り殺された。「幸運」な教師は便所掃除などの屈辱的任務を課された。
1980年代の公式マニュアルによると、文化大革命のとき18歳以下であれば、集団殴打に加わって人を死に至らしめても、のちに自分の誤りに気づいてそれを認め、現在も素行の良い者は、責任を問わないとした。毛沢東にとって恐怖支配は納得づくだった。中国の若者は、暴力の文化の中で育った。それまで党の暴力は慎重に制御され、調整されてきたが、そのタガが外された。大学生たちは、自分たちの革命的貢献を証明したくてうずうずしているから、騙されやすく、喜んで党中央の使い走りをした。
劉少奇が辞任して田舎にこもり、畑でも耕して暮らしたいと許可を求めても、毛沢東は許さなかった。
 中国を動乱から救うのは、もとより毛沢東の望むところではなかった。1966年12月、毛沢東は自分の73歳の誕生日のとき、全国的、全面的な内戦の展開のためにと乾杯の音頭をとった。
 毛沢東は、解放軍の制度については無傷のまま保つことに留意したが、党機構については、そのような配慮をしなかった。1968年から、大半の部局で職員の7~9割が「五七幹校」へ「下放」された。政府が崩壊すると、各部を動かしていた党組織に代わって解放軍が権力を握った。このせいで軍が腐敗した。たくさんの軍関係者が昇進して、大もうけした。
 それまでの指導部で大きな恩恵を受けている正規労働者は、政治の現状維持に与した。毛沢東は、民間の混乱状態から解放軍が部分的に隔離されるのに反対ではなかった。解放軍は、毛沢東の依って立つ制度的な基盤でもあった。
 文革中に、毛沢東が高級幹部の殺害を命じた形跡はない。スターリンと違って、毛沢東は、そんな最終的解決で自身を守る必要を感じなかった。その代わり、かつての戦友たちの運命は、中央文革小組や紅衛兵の手にゆだねられ、なすがままに放置された。
 毛沢東は、かつての盟友が辱められようが、拷問されようが、傷つこうが、ついには死に至らしめられようが意に介さなかった。スターリンほどではありませんが、毛沢東も冷徹一本槍ではなかったようです。
 周恩来は、国務院と解放軍の戦友を支持しなかった。これは間違いだった。もし、周恩来が、老幹部の団結という希有の機会をとらえて元帥や副総理たちに味方し、文革の恐怖と混乱を取り去るべく、いろんな提案をして毛沢東に圧力をかければ、大きな影響を発揮できた。しかし、周恩来は、その労をとるリスクを避けた。
1967年夏、中国は毛沢東のいう「全面内戦」状態に陥った。文化大革命は武化大革命になった。
 7月の武漢事件において、毛沢東は兵士暴徒や党幹部から安全を脅かされた。1967年夏に労働者のあいだで暴力事件が増加したのは、江青の挑発的発言に原因がある。
「武で防衛せよと江青同志が言った」というもの。重慶地区には、兵器工場が集中していて、武闘派に対するほぼ無制限といえる武器の供給源となっていた。
 以上が上巻です。とても読みごたえのある本でした。
(2010年11月刊。3800円+税)

山田洋次、映画を創る

カテゴリー:社会

著者  山田 洋次 ・ 冨田 美香 、 出版  新日本出版社
 
 残念ながら『京都太秦物語』はみていません。ぜひみたかったのですが、ついに機会を逸してしまいました。いずれ、DVDを借りて、みてみたいとは思っています。
 この本は、山田洋次監督が立命館大学の映像学部の学生たちと一緒になって実際にある京都の商店街で映画をつくりあげていく過程を描いたものです。大学生のみなさんの初々しい興奮までよく伝わってきます。
 私もそうでしたが、大学生のころって、大事なときに寝坊してしまったりとか、大変なポカをついついしてしまうものなんですよね。それでも、大人たちがそれをカバーして、ホンモノの映画作りが進行していきます。
 OKかNGかを決める。これは監督の仕事だ。監督がNGと言っている限り、仕事が先に進まない。これは監督の権限だ。そこに、OKだったかNGだったかを決める、判断するときに、監督のもっている才能なり、エネルギーなり、すべてが凝縮される。
 若いうちは、どうしても働きたがる。しかし、キャメラのうしろで、監督のそばで、じっとみんなを観察すること。忙しく働くと、全体が見えなくなる。監督の仕事は、全体が見えなければいけない。働くのを堪えて、監督のそばでじっとみんなを見つめ続けることが大事なのだ。それが修行というものだ。とにかく観察しろ。どこの専門にも属さない仕事は全部拾い集めるようにして、自分の仕事にしろ。
なーるほど、監督という仕事のイメージがなんとなく伝わってきますね。
 山田組の特徴は、決定稿ができあがっていても、その時、その現場の雰囲気を重視する演出が行われるため、脚本は次々に変更されていくことにある。
 八百屋のご主人のキャラクターに魅力を感じた山田監督が突然、カットを増やした。ガチガチに予定されたスケジュールのままで進行せず、突然やひらめきを大事にする。その精神が山田組の真骨頂であり、それが登場人物に生命を吹き込む秘訣なのだ。
 すごいですよね。臨機応変なんですね。これにこたえていくチームワークが求められますね。
 真実は真実である。ただ、嘘だからこそ見えてくる真実もある。映画という嘘の世界にも真実はたくさんあるのですよね・・・。
 映画の現場は楽しく笑顔でやらないとダメなんだよ。映画づくりとは、人間関係で成り立っている。映画の撮影というのは、気の合った同士が一緒に船に乗って長い長い航海に出るようなものなのだよ。航海の途中では、嵐もある。事故にもあう。故障もある。本当に大変な思いをして、ときどきケンカもして、それでようやく目的の港に着く。荷物を運んで、また帰りの航海をして母港に戻って、やあ、ようやく終わったねえ、みんなどうもご苦労さまと言って乾杯をする。そこで、撮影が終わる。その時はやっぱり悲しいよね。別れるのは、とっても悲しい。だから、また会おうねって言って別れるんだよね・・・。
 うむむ、とても含蓄深い言葉ですね。
 『京都太秦物語』はベルリン国際映画祭でも拍手喝采を受けたそうです。やっぱり、ぜひ映画をみてみましょう。
(2011年1月刊。1600円+税)

韓国映画史

カテゴリー:朝鮮・韓国

著者 キム・ミヒョン  、  出版  キネマ旬報社   
 
 私は「冬のソナタ」はみていませんが、韓国映画のファンの一人です。つい先日は、『戦火の中へ』 をみました。「ブロックバスター」という言葉があるそうです。1999年の「シュリ」や「JSA」「シルミド」「ブラザーフッド」などを指すようです。1000万人の韓国人がみたというのですからすごいものです。私ももちろん、みんなみています。なにしろ、人口
4700万人の韓国で1000万人の観客というわけですから、15歳以上の人口の27%がみたということです。これって、4人に1人以上の割合ですよ。すごいことです。
「シルミド」「ブラザーフッド」は、それまで劇場に足を運んだことのない40代、50代を新たな観客として呼び込んだからこそ可能となった。
「ウェルメイド映画」という言葉もあるそうです。こちらは、「よく出来た映画」という意味です。「JSA」も「ブラザーフッド」もウェルメイド戦争映画だということです。同じく「大統領の理髪師」もよかったですね。
「トンマッコルへようこそ」は素晴らしい映画だと思いました。韓国(朝鮮)戦争を扱っているのですが、深刻なテーマでありながら笑わせます。これが新人監督のデビュー映画だと知って驚嘆しました。韓国の映画人の底力というか、層の厚さを思い知らされます。
韓国映画と言えば、私はなんといっても「風の丘を越えて~西便制」を必ず挙げます。この映画には本当に心揺さぶられ、全身の皮膚が奮い立つ思いに駆られました。
この映画の興行の成功が一つの歴史的な事件でありえたのは、都市化によって消費社会へ急激に移行しつつあった当時(1993年の上映)、全羅道(チョハラド)という地域を舞台に、パンソリという失われた伝統へのこだわりと憐れみがこめられていたからである。
日本の歌謡曲の原点ともいわれているパンソリの圧倒的な迫力に、みているだけで手に汗を握って、つい身を乗り出してしまいました。まだみていない人には、DVDを借りて、ぜひご覧ください。人生を考えさせてくれる心揺さぶる最良の映画の一つです。ソウルだけで104万人韓国全土で220万人がみたというのも、うべなるかな、です。
私がみていない映画で、ぜひみてみたいのが「太白山脈」(1975年。この本では反共映画だと決めつけられていますが・・・・)、「南部軍」(1990年、智異山のパルチザンを客観的に描写しようとした)、「ホワイト・バッジ」(1992年。ベトナム戦争に派遣された韓国軍のベトナムにおける戦いを描いたもの)です。いずれも日本語版のビデオが入手できたら、ぜひみてみたいと思いますが、なかなか大変のようです。
 韓国映画は政府による反共政策の下で露骨な統制・検閲のなかにあっても、なんとか生きのびてきただけあって、そのタフさはすごいものです。そして、クォーター制という韓国映画保護政策もプラスに働いています。470頁もある大部な、しかも高価な本ですが、写真もたくさんありますから、楽しくなつかしい思いを胸にして読みすすめていきました。
(2010年5月刊。4200円+税)

観測的宇宙論への招待

カテゴリー:宇宙

著者  池内 了、    出版  日経BP社
 
 宇宙の果てはいったいどうなっているんだろう。137億年前に宇宙が誕生したって、どういうことなのかな。人が死んだら宇宙のかけらになるって言うけど、いったいどこに存在するんだろう・・・・。不思議なことだらけの地球と星、そして宇宙の話は昔からとても興味があります。
 1970年代に観測できるのは1億光年だった。1980年代には50億光年への拡大し、今や130億光年の彼方まで及ぼうとしている。すごいですよね。今では人類の目は130億光年をこえた銀河宇宙の果てに及ぶようになったというのですからね。
 今から410年前のころの信長時代には人生50年と歌っていたわけですが、今でも人生80年くらいのものですよね。それなのに1億年とかいうのですから、気も遠くなって見当もつきませんね。
 宇宙の年齢は137億年とされている。最初に生まれた銀河は宇宙の誕生後2億年ころと考えられている。現在、人類は130億光年の彼方の天体に迫っている。つまり、今では銀河宇宙の果てに迫っているわけだ。
 SDSSという日本共同研究は、夜空の4分の1を、およそ50億光年の遠くまでの銀河1億個を調べ尽くすという壮大なプロジェクトである。30年前、星が夜空に無数にあるから、どこを向いても光にあふれているはずなのに、なぜ夜空が暗いのかという面白い本を読みました。
 アインシュタインという天才であっても、宇宙の永遠性を信じていた。しかし宇宙は次々と生まれていると予測できる。すなわち、宇宙は一つだけと考えるのがむしろ不自然なのだ。宇宙は多重に存在すると考えられている。といっても、各々の宇宙は独立していて、お互いに交信することはありえない。
 うむむ、なんだか、分かったようで分からない話ですよ、これって・・・・。宇宙がいくつもあるなんて、どういうことでしょうか。
 クェーサー(準恒星状天体)は現在では3万個も発見されている。このクェーサーは地球の近くにはなく、50億光年から120億光年までという遠い距離に集中して存在している。これは恐竜のように過去に大繁栄したが、現在では絶滅して姿を消してしまったということでもある。
 ほとんどの銀河の中心部には巨大なブラックホールがあり、かつては大量のエネルギーを放出するクェーサーとして激しく活動していた。やがて、ブラックホールへのガス供給がなくなったため、クェーサーとしての輝きを失い、現在は普通の銀河として輝いている。
 ダークマターとは、電磁波では観測できないが質量をもって重力を及ぼす物質のこと。ダークマターは、光とは直接に相互作用はしない。また、ダークマターは、熱エネルギーを放出できない。ダークマターは必ず存在している。しかし、その正体が何であるのか、20年先まで残された難問だ。これまた、なんだかよく分かりません。そして次は・・・。
 ダークエネルギーは空間に付随している。空間が増えれば、その分だけダークエネルギー増加する。その正体はとらえようがない。こうなると、宇宙って不思議だらけです。
 宇宙がいくつもあるなんて、一体どういうことなんでしょうね・・・・?!
(2011年1月刊。2000円+税)

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