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2011年3月 の投稿

昆虫未来学

カテゴリー:社会

著者  藤崎 健治 、   出版  新潮新書  
 
 フランス語のクラスで、ちょうど人類の未来の食料は昆虫だというテーマを扱っていたときに、この本を読みました。いま、日本はTPPに参加して強い農業をつくるとか言っていますが、食料自給率を維持しておかないと近い将来の日本人は大変な食糧不足に泣くことになるのは必至だと思います。そのとき、昆虫を食べればいい、なんてことにはならないのではありませんか・・・・。それはともかくとして、昆虫類を知っておくことは大切なことです。昆虫類の最大の特徴は、肢が三対、すなわち6本あること。
昆虫は赤道付近の高温多湿の環境で誕生した。系統的に昆虫にもっとも近い節足動物は、エビやカニなどの水生甲殻類である。その次は、ムカデなどの多足類だ。
昆虫種の数は100万を数え、全生物種の3分の2を占める。植物種は30万種。魚類は3万種。哺乳類は4000種である。しかも、毎年、新種の昆虫が3000種も追加されており、将来は500万種から1000万種に達する可能性がある。そうなると、地球上の全生物種の5分の4以上を占めることになる。地球が「虫の惑星」と呼ばれる所以である。
 昆虫は翅を発明して、空中という三次元の世界に進出した。昆虫のもつ開放血管系は酸素を取り込みやすいシステムであり、飛翔筋の活発な代謝のためには酸素が不可欠なのである。
ハエは、光の明滅を1秒間に300ヘルツまで感知できる。ハエは人間の10倍のスローモーションで映像を見ていることになる。
成長過程で形態を大きく変化させる変態を行うのは昆虫の大きな特徴のひとつ。完全変態の昆虫は成長のステージによって生息場所を買えることで、生息場所の悪化のリスクを分散させることができる。たとえ環境変動があっても絶滅せずに生き抜く確率が高くなる。
体サイズの小型化こそ、昆虫類の繁栄のもう一つの要因である。体サイズの小さな生物ほど、世代時間が短く、個体群の増加率が高い。
 昆虫では、全神経細胞の90%が体表の感覚細胞となっている。センサーとして働く感覚毛には、音や触覚などを感じる受容器、嗅覚や味覚の受容器、湿度や温度の受容器もある。同波数特性の異なる毛を持つことによって、空気の振動を感知し、逃避行動をとることもできる。
昆虫の不思議な能力と人間社会との関わりを知ることのできる驚きの本です。
(2010年12月刊。1200円+税)
熊本で弁護士会が主催した道州制についてのシンポジウムに参加してきました。パネリストとして熊本市長が出席していて、国保税の負担が地方自治体にとって大変になっているので、国にもっと負担してもらいたい、市の一般会計からお金をまわすのは問題だという発言をしていました。それに対して民主党の参議院議員(弁護士)が、公共下水道は一般会計で負担しているし、見直すなら全面的にすべきだとコメントしていました。
私は、福祉面では国が全面的に責任を持つべきではないかと思います。ただし、そのために清算税率の引き上げが必要だというのは短絡的です。その前に大企業の法人税率や軍事予算、大型公共工事など、取るべきところから取り、不要不急の支出は抑えるという方策が必要だと考えています。
いずれにしても、地方分権とか地域主権は福祉の充実のために必要なものだとしないと変な論議になりかねないなとシンポジウムに参加して思ったことでした。
チョコさんが元気にご活躍の様子で、安心しました。

世界130カ国、自転車旅行

カテゴリー:人間

著者 中西 大輔、    文春新書 出版 
 
 自転車で、地球を2周りしたという日本人青年の壮挙を本人が再現した本です。今どきの日本の若者もやるじゃないですか。たいしたものです。パチパチパチ・・・・。
 日本を出発したのは1998年7月。アラスカを起点として、アメリカ大陸をずっと南下します。太平洋にそって南下して、ペルーではフジモリ大統領(当時)の姉に会見してもらえました。それからヨーロッパに渡り、アフリカに行き、オーストラリアへ飛ぶのです。地球2週目は、イースター島を経て、南アメリカに行き、ブラジルでサッカーのペレに会ったあと、アメリカでもカーター元大統領に会ったりしたあと、ヨーロッパへ飛びます。ポーランドではワレサ元大統領と会い、アフリカそしてインドさらには中国経由で2009年10月、ようやく日本に帰国します。すごいですね。まず、コトバはどうしていたのでしょうか。そして、危ない目にはあわなかったのでしょうか。さらには、軍資金は・・・・?次々に疑問が湧いてきますよね。
競輪選手の太ももは60~80センチもあって、瞬発力がある。しかし、自転車の長距離レースの選手などは、足の細い人が多い。そうなんですか・・・・。
 パンク修理など自転車の基本を学んでいないと海外遠征は難しい。うむむ、なるほど、そうでしょうね。
熊本で営業マンをしていて、3年あまりで1000万円をためたというのですよ。ところが、11年3ヶ月の旅にかかった費用は、なんと700万円。1年あたり60万円ほどでしかありません。ええーっ、嘘でしょ。と言いたいですよね。
アフリカでは警察署に泊めてもらったそうです。消防署や軍隊にも。
南アフリカをうろうろしているあいだに、スペイン語は自然にマスターした。旅行者にとっての武器は「銃」ではなく「言葉」である。なーるほど、話してこそ、分かりあえるのですよね。そして、各地で新聞やテレビの取材を受け、パスポートの役割を果たしたといいます。ふむふむ、きっとそうでしょうね。
 つかった自転車は日本でつくってもらった特製品です。車体は18キロの重さ。6つのカバンに詰め込んだ荷物は40~50キロにもなる。初めて見た人からはオートバイかと見間違われるほどの重量級だ。つかったタイヤは82本、パンクは300回。ふだんは1時間で平均20キロ、一日平均100キロすすむ。
 一人で何もせずに長い時間を過ごす退屈さや孤独に強いのが著者の強み。危い目にもあった。目を合わせない人間はたいがい怪しい。相手の言動を注意深く見る。話をすれば、相性がいいかどうか、だいたい分かる。相性がいい相手から「家に泊めてやる」と言われたとき、「この人なら、盗られたら盗られたでしょうがない」という気持ちで泊めてもらった。それで、盗られたことは一度もなかった。しかし、ブラジルでATM詐欺にひっかかったこともある。でも、人間って、本当にいいものだと思う。そう書いてあります。読んで心の温まる本でした。
(2010年11月刊。880円+税)

オルレアン大公暗殺

カテゴリー:ヨーロッパ

著者  ベルナール・グネ、  岩波書店  出版 
 
 ジャンヌ・ダルクが活躍する直前の中世フランスの情勢が活写されている本です。
 フランスの政治状況がよく理解できました(実のところ、そんな気にさせられただけということかもしれません・・・・)。
 シャルル6世がフランスの王位についた1380年、フランス王国は平和と繁栄のうちにあった。その前には、飢饉があり、黒死病があり、イングランド王からクレシーとポアティエの二度にわたり、フランス王は屈辱的な敗北を味わせられた。
 1380年、シャルル6世は、弱冠12歳だった。そして1392年、シャルル6世は23歳にして狂人となった。ところが、1422年に死ぬまでの30年間、フランスの王様だった。したがって、その間フランスには導き手がいなかったことになる。
 1407年11月23日、ブルゴーニュ大公は自分の従兄弟(いとこ)にあたるオルレアン大公を暗殺した。その結果、またもや内戦が始まった。イングランド王ヘンリー5世は、この機に乗じてフランスの国土を侵略した。それはフランス軍にとってアザンクールでの壊滅的敗北(1415年)をもたらした。シェイクスピアがアザンクールの戦いを描いていますよね。
 1419年9月、ブルゴーニュ大公が暗殺された。復讐が果たされたのだった。
 フランスで1300年に存在していた名門(旧家)の大部分は、1500年には断絶していた。貴族の割合こそ変動していなかったが、その内実は変動していた。
 戦争だけが貴族の活動ではなかった。実は、貴族は教育を受けていた。大学で学んだ貴族は信じられた以上に多かった。
 乗物は社会的地位を示した。交通手段として欠かせない馬が、社会を対照的に二分していた。貧しい人々は馬を持てず、裕福な人々は馬を所有していた。いやしくも地位のある人物は、一人だけで騎行することはなかった。
 暴力は見世物として喜ばれ、ひとを魅了した。暴力は合法的であり得た。それどころか暴力は高貴でもあり得た。子どものときから武器を操る習慣のある貴族は、それを携帯する権利を持ち、戦闘と同じくらい危険な戦争遊戯に加わったが、貴族にとって武器の使用は自分たちの身分特権であった。殴りあいは平民にまかせておき、貴族は武器をつかった暴力に高貴で騎士らしい何かを認めていた。うへーっ、これって怖いですね。
 1400年には、西洋の多くの国々で、君主の近親者あるいは君主自らがその手を地で汚していた。シャルル6世の時代には、暴力はありふれた現象であった。だが同時にそれは、貴族のものであり、王侯のものであった。王侯貴族の暴力こそ、他にもまして警戒しなければならなかった。その点は、昔も今も変わらない気がしますね。
 国王の第一の義務は、常に裁判によって平和を強制することだった。なーるほど、です。
 宮廷は、あらゆる秩序あらゆる野望、あらゆる敵対関係、あらゆる憎悪、あらゆる危険に満ちた場であり、宮廷人はみなそこを呪ったものの、一方で、人はみな望んでそこで生活し続け、そこで認められようとした。そこで死ぬか、あるいは殺すかという事態も辞さなかった。
当時、ブルゴーニュ大公はフランス筆頭諸侯の称号と権勢を富を有し、年齢と経験において王国の真の主人であった、それに対してオルレアン大公は王国のただ一人の弟である。王国に次ぐ者は彼であった。
アザンクールにおけるフランスの大敗のあと、ブルゴーニュ大公は重みをさらに増大させた。1429年、ジャンヌ・ダルクが登場し、シャルル7世と会見した。
 フランス中世史の分かりやすい概説書です。
(2010年7月刊。4900円+税)

韓国戦争(第五巻)

カテゴリー:朝鮮・韓国

著者  韓国国防軍史研究所、  出版  かや書房 
 
 1950年6月25日、金日成の指示で人民軍が南侵して韓国戦争が勃発した。1951年6月、戦争1年目で戦線は膠着した。このとき、中共軍は6コ兵団19コ軍55コ師団77万人、人民軍8コ軍団27コ師団34万人計112万人。中共軍が主力であり、西部と中部の主要な戦線は中共軍がすべて担当し、人民軍は東部戦線の一部だけを担当していた。これに対して国連軍は、アメリカ軍3コ軍団7コ師団25万3千人、韓国軍1コ軍団10コ師団27万3千人。その他の国連軍が2万8千人。そして、海も空も国連軍が絶対的に優勢で、制海権も国連軍が制空権も掌握していた。 
 人民軍は、ソ連空軍によって訓練を受けた中国空軍と北朝鮮空軍の前線配置を急いでいた。マッカーサー将軍は1951年4月11日にトルーマン大統領から解任され、後任はリッジウェイ将軍が国連軍司令官として着任した。そして、中共軍の春季攻勢にあって、一時は危機的な状況に陥ったが、中共軍の人海戦術を火力の優越によって撃破して戦場の主導権を掌握し、1951年5月末には三たび38度線の回復に成功した。
 開城(ケソン)での休戦会談について、毛沢東はスターリンに電報を打ち、スターリンが毛沢東に返信した。休戦会談は、スターリンと毛沢東の指示と承認のもとにすすめられた。スターリンは会談の主管責任を毛沢東に付与し、スターリン自身は幕の後ろから指導し、統制する役に徹していた。共産軍側の実質的な権限は中共軍が握っていたが、形式的には北朝鮮の代表が主席に任命された。休戦会談は当初は共産軍の陣営内の開城で始まり、次いで、板門店に移った。
 休戦会談では、2時間11分も双方が沈黙したまま睨みあったということもあった(1951年8月10日)。うへーっ、これってすごいですよね。にらめっこしましょ、笑ったらダメよ。というのは、つい笑ってしまうものですが、ひたすら腕組みして睨みつけたというのですから、双方とも人間わざありませんね。これもそれまでに何十万、何百万人という人々が死んだということが背景にあったのでしょう。平和なときには、ありえない情景です。
開城での休戦会談は1951年7月10日に始まったが、これによる戦線の小康期を利用して共産軍側は防御線を三重に編成するとともに、国連軍の空爆や砲撃にも直撃弾でなければ耐えうるように有蓋化、掩体化をすすめた。さらに、野砲や高射砲などの火器と装備の前方推進に努めた。
 1951年8月、国連軍と共産軍とのあいだで激烈な陣地戦が展開した。8月から9月にかけての血の稜線の戦いでは、国連軍は戦死326人、負傷2032人、行方不明414人、あわせて2722人の損害を出した。これは1コ連隊に相当する規模。これに対して、人民軍の損失は1万5000人に達する。人民軍は、寸土を譲らない強い意思と人命の損耗をかえりみない抵抗を行ったため、彼我の戦意の決戦場となって多くの人命が失われた。小さな山をめぐって、双方が激しく戦い、取っては取りかえされ、また突撃して奪い返すという激烈な戦いが連日続いた。これは、少しでも休戦の条件を自軍に有利にしようという思惑からの戦闘だった。
 このときの戦闘の推移が詳細に述べられています。双方とも多くの将兵が将棋の駒のように使い捨て同然に死んでいったのでした。ああ、無情。亡くなった人は、さぞかし残念なことだったでしょう。たくさんのことをやりたかったでしょうに・・・・。
1951年の時点で、中共軍は64万2千人、人民軍は22万5千人。国連軍はアメリカ軍が33万人、韓国軍が47万人。共産軍は、高地を占領すると、直ちに塹壕を掘り始めた。強力な地下塹壕に兵員と装備を収容した。そして、トンネルを縦横無尽に展開した。
 1951年冬の極寒のなかでも人民軍は耐えられた。むしろ補給が相対的に良好な国連軍の方に、多くの凍傷者を出した。人民軍が耐えられたのは先天的な順応性と苦労と欠乏に耐えることのできる精神力、そして厳格な規律のためだった。
 休戦会談の主要なテーマの一つが捕虜交換だった。国連軍は13万人あまりの捕虜の名簿を共産軍に渡した。そして共産軍側は、1万人余りの国連軍捕虜の名簿を示した。なんと、そのなかに日本人も3人ふくまれています。日本人が掃海艇に乗っていて戦死したというのは聞いていましたが、捕虜になった日本人もいたのですね。
 そして、巨済島にある捕虜収容所で、暴動が起き、ついには収容所長(ドッド将軍)が拉致されてしまったのです。
 天神で、韓国映画『戦火の中へ』をみました。開戦直後の浦項(ポハン)で学征兵71人が人民軍と戦った実話にもとづく戦争映画です。
 お母さん、僕は人を殺しました。敵は脚がちぎれ、腕がちぎれてしまいました。あまりにもひどい死に方でした。いくら敵とはいえ、彼らも同じ人だと思うと、それも同じ言葉と同じ血を分けた同族だと思うと、胸がつまり、重くなります。
 お母さん、なぜ戦争をしなければならないのですか?
 韓国人は共産軍の兵士を頭にツノがある化け物だと思い込んでいたのですが、実際には自分と同じような人間であることを知ってショックを受けたのです。また、少年兵も戦場に銃を持っていたのでした。
すさまじい戦争アクション映画でした。戦争だけは起こしてほしくない。人が人を殺すなんて、絶対にあってはならないと思わせる、切ない映画でもありました。
 
(2007年6月刊。2500円+税)

アメリカと宗教

カテゴリー:アメリカ

著者  堀内 一史、   出版 中公新書
 1906年、アメリカのプロテスタントは人口の29.2%しか占めていなかったが、2008年には51.3%にまで膨れあがった。アメリカ人って、本当に宗教心が篤いのでしょうか?
 アメリカの歴代大統領のうち、カトリックのケネディ大統領のほか全員がプロテスタントである。カトリックは、2008年に23.9%。1906年には24%だった。人口では増えているが、比率では変わらない。近年、移民数が急増しているヒスパニックはカトリックがほとんど。
 アメリカのユダヤ教徒は1906年に3%、2008年には1.7%と減少した。520万人というアメリカのユダヤ教徒は、イスラエルの500万人に匹敵する。ただし、少数派のユダヤ教徒がアメリカ社会に与えている影響力は大きい。
アメリカのイスラム教徒は人口比で0.6%である。しかし、年に3万人のイスラム教徒がアメリカにやってきて、存在感を強めている。アメリカのイスラム教徒の特色は黒人の存在。人口は50万人から100万人というが、その多くは、キリスト教徒からの改宗者である。
 モルモン教徒は1.7%。かつては一夫多妻制を認めていた。マリオット・ホテルの創業者も信者である。私の住む町にも、自転車に乗って走りまわる白人青年2人組を見かけます。
 公民権運動に対して、南部福音派の白人は公然と敵対した。しかし、プロテスタント、カトリック、ユダヤ教団体は支援した。保守的な南部福音派の白人は公民権運動を支援した民主党に見切りをつけて共和党支援に転向した。南部福音派の白人の転向は共和党の保守化を推進し、その離脱は民主党のリべラル化をさらに進展させた。
 寛容度と自由度の増大は高等教育の普及と学歴に重要な原因がある。
 共和党の票団とされているプロテスタントの45%がオバマに投票した。
 2006年の中間選挙で共和党が惨敗したあと、共和党の保守陣営や宗教右派はすっかり影を潜めてしまった。
 この本を読むと、テレビなどで華々しく説教していた牧師が相次いでお金とセックス・スキャンダルで摘発されたということを知ります。他人に対しては高尚なモラルを説教していた人物が、実は自らは汚れたお金にまみれ、あるいは買春していたというのです。宗教家も人の子だといえばそれまでですが、それにしても・・・と私なんかは思います。宗教家にも本当に人格高潔な人はたくさんいると思うのですが、金もうけと名声のみを求めている人も少なくないようで、残念な気がします。
 
(2010年10月刊。840円+税)

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