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2011年2月 の投稿

龍馬史

カテゴリー:日本史(江戸)

著者  磯田 道史、  文芸春秋  出版 
 
 坂本龍馬が暗殺されるにいたった幕末の情勢がきわめて明快に語られています。なるほど、そうだったのかと、私は何回となく膝を叩いたため、膝が痛くなったほどです。
坂本龍馬の生家は、高知県城下でも有数の富商である才谷(さいたに)屋から分家した、郷士(武士身分)の家柄だった。
 才谷屋は、高知のトップ銀行に匹敵する実力を持っていた。豪商・才谷屋は、6代目八郎兵衛直益のときに郷士株を手に入れ、長男が分家して郷士坂本家が誕生した。坂本家の屋敷は500坪の広さがあった。これは、500石クラスの上級藩士の武家屋敷に匹敵する広さだった。
江戸時代、武士でないものが武士になるのは、それほど難しいことではなかった。郷士の養子となるか、藩に御用金を献上して郷士株を入手する。後者のルートで郷士となったものを献金郷士と呼んだ。
坂本龍馬は、上士に比べれば差別的扱いをうける郷士の出身だったが、その分、お金には不自由しない富裕層だった。なーるほど、だから亀山社中という商社の発想がありえたのですね。
 城下にいる兵農分離された武士は、おとなしく明治新政府の方針に従ったが、兵農分離していない、みずから土地経営をしていた郷士たちは、自分たちの特権や土地経営がなくなるという危機感から激しく抵抗した。
 龍馬は、家督を継げない次男だったので剣術で名をあげようと考えた。だから、江戸で剣術道場に入門したのですね。
坂本龍馬は、誰よりも早く海軍の重要性を理解し、しかも実際に海軍を創設してみずから船を動かして実戦をたたかった。この点が、むしろ過小評価されている。
龍馬は志士として活動するときには才谷姓を名乗った。龍馬は、薩摩藩の要望にこたえたて、独自の海軍をたちあげるために、1865年(慶応元年)、長崎に亀山社中という商社をおこした。亀山社中の経営者は龍馬であり、そのオーナーは薩摩藩だった。
後藤像二郎は土佐勤王党を弾圧した側だったが、龍馬と意気投合して、脱藩の罪を許して、土佐藩支配下の海援隊の隊長に任命した。
寺田屋事件で龍馬は危うく幕府役人に捕縛されそうになった。最近、そのときの報告文書が発見され、幕府は薩摩と聴衆の同盟を仲介していた龍馬を要注意人物とみていたことが判明した。
 龍馬暗殺の下手人は京都の見廻組であって、新撰組ではない。見廻組は旗本や御家人の子弟を中心とする組織であり、浪士の集まりである新撰組より地位が高かった。
 見廻組は変装された密偵を龍馬の下宿に張り付かせていた。龍馬に致命傷を追わせたあと、さらに34ヶ所も滅多突き突多斬りの状態にした。そして、襲撃犯たちは追撃戦を恐れて、一かたまりとなって帰っていった。この見廻組に命令したのは京都守護職の松平容保(会津藩主)である。そして、会津藩公用人の手代木勝任(てしろぎかっとう)が手配していた。幕府にとって龍馬はいかにも危険な存在だから、抹殺してしまおうということだった。なるほど、なるほど、そうだったのですね。
龍馬の人間としてのスケールの大きさを実感できる本でもありました。とても面白い本です。一読をおすすめします。
(2010年9月刊。1333円+税)

毛沢東(下)

カテゴリー:中国

著者 フィリップ・ショート、   白水社 出版 
 
 1941年、国共合作は緊張関係にあった。1940年秋の百団大戦によって日本兵2万6千が死傷し、抗日戦争で共産党軍は大きな成果をあげた。そのため蒋介石は共産党を警戒し、国民党軍に共産党新四軍を奇襲攻撃させた。しかし、この窮地にあっても、共産党は統一戦線策は放棄できなかった。そのおかげで、紅軍(共産党軍)は5万人から
50万人へと発展していった。
1943年から44年にかけて、周恩来は辛い状況に置かれていた。毛沢東は周恩来に対して実績と信念の欠落、権力ある集団に振りまわされやすいことを激しく批判した。
 1946年から1950年にかけて、紅軍(人民解放軍)は国民党の軍勢に押されて後退を強いられた。しかし、1947年2月には、毛の戦略によって国民党軍218旅団のうち50以上が戦闘力を失い、投降した国民党兵のほとんどは共産党軍に吸収され、人民解放軍の新たな人的資源となっていた。
 国民党軍の司令部には共産党のスパイが入りこんでいた。副参謀長も、戦時計画委員会の責任もそうだった。ここが中国共産党のすごいところですね。ベトナムでも、南ベトナム軍の中枢に「北」のスパイが潜入していました。激烈な戦争は隠れた英雄を生み出すものなのですね。
 1949年10月1日、北京の天安門広場で、毛沢東は中華人民共和国の設立を宣言し国家主席に就任した。ところで、その前、スターリンは毛沢東に対して、長江を渡らないこと、中国の北半分を掌握したら満足するように言っていた。アメリカを刺激しないためにはそれが賢明だと説明した。しかし、中国が分裂するのはロシアの利益のためだと毛沢東には分かっていた。
 1950年に始まった朝鮮戦争は、毛沢東の歓迎したものだった。金日成とは相互に不信感があった。
毛沢東は中南海にいて、身辺警固のため警衛兵が三重に円を描くように配置されていた。食材は指定された安全な農園から提供され、毛の口に入る前に毒味されていた。お抱え医師がいて、移動するときには、事前の十分な偵察なくしてはありえなかった。装甲を施した専用列車で旅行し、飛行機には滅多に乗らなかった。台湾の国民党軍の破壊工作や砲撃を恐れていたからである。
 1959年、大躍進政策の誤りを批判した彭徳懐が失脚した。しかし、毛沢東にしても、朝鮮戦争の英雄でもある彭徳懐を切り捨てるのは容易なことではなかった。
1965年、毛沢東は巻き返しを図りはじめた。正面からの攻撃はできないので、お得意のゲリラ戦術でいった。毛沢東が共産党そのものに対して大衆をけしかけようと決めていたなど、あまりに荒唐無稽であり、政治局の誰一人として信じられなかった。そうなんですね、そのまさかが自分たちの災難になって降りかかったわけです。
 紅衛兵の指導者たちがやったことは、毛沢東自身がAB団の粛清をしたときと同じことだった。
 1967年、中央政治局は機能を停止した。毛沢東は多人数が団結して毛沢東の敵にまわってしまう危険を避けたかった。そこで政治局のかわりに常務委員会や周恩来が率いることになった文革小組の拡大会議を開くことにした。
 林彪が中国人民解放軍を完全に掌握することはついになかった。500万人という規模があり、指揮系統と昔からの忠誠をそれぞれに備えたさまざまな根拠地からの成り立ちのせいで、毛沢東以外の誰にも中国軍をコントロールすることは出来なかった。
毛沢東は強い不信感のせいで、絶えず取り巻きグループの忠誠を確かめないと気がすまなかった。周恩来が生き残ったのは、毛沢東の信頼を保つためなら誰でも裏切ったからだ。毛沢東は周恩来に親愛の情を抱いたことは一度もなかったし、周の死に対しても心動かされた様子を示していない。中南海の職員に対して黒い喪章を腕につけることを禁じた。 
毛沢東の実際にかなり迫っている本だと思いました。
(2010年7月刊。3000円+税)

ノモンハン戦車戦

カテゴリー:日本史

著者  マクシム・コロミーエツ、   大日本絵画 出版 
 
 1939年5月から9月にかけて、モンゴルとの国境付近で日本軍(関東軍)がソ連軍(赤軍)と正面から戦って惨敗したのがノモンハン事件です。この本は、その地上戦における戦車部隊を中心として戦争の推移を追っています。この本とは別に、『ノモンハン航空戦』という本も出ていますので、追ってご紹介します。
 モンゴル人民共和国と満州国とのあいだの国境はきわめてあいまいだった。全長40キロの国境には、国境標識がわずか35個しかなかった。自然境界もハルハ河とボイル湖を除いてはなく、水域に関する合意もなかった。双方ともお互いに譲らず、外交的な解決は望んでいなかった。ノモンハン戦の原因は満蒙国境の曖昧さと双方が交渉を望まなかったことにある。
 5月の時点では、制空権は完全に日本軍航空隊が握っていた。ソ連軍のパイロットたちの訓練度は低く、中国戦線で経験を積んだパイロットが多い日本軍航空部隊に立ち向かうことはできなかった。
 5月の戦闘は、ソ連軍部隊の訓練に深刻な欠点のあることを暴露した。それは、何より偵察と部隊の指揮統制・通信の面で顕著だった。各種部隊間の相互連携もうまく組織されていなかった。
 1939年6月、ジューコフが第57特別軍団長に就任した。それまでのジューコフには戦闘経験はなかった。ところがジューコフは、前任の軍団幹部らをスパイと決めつめ、「人民の敵」として一掃した。過去に戦闘経験のないジューコフはいきなり砂漠と草原という特殊な条件下で人的・物的損害を惜しまない物量戦を展開した。それは前線の将兵に不評だった。
 日本軍の戦車第4連隊長の玉田大佐は、ソ連の兵器は性能が優れており、敵は機敏で粘り強く、士気も高い。敵の資質は予想よりはるかに高いことを悟った。ソ連軍の砲撃はあまりに強力かつ効果的で、日本軍が中国で経験したことのないほどのものだった。7月の戦闘を総括して玉田大佐はソ連軍に高い評価を与えた。
「敵の戦意を見くびるべきではない。彼らは組織、物質、戦力において明らかに我が方を上回っている。白兵戦になっても退却しようとせず、一部には手榴弾で自爆する者もいた」
 ソ連軍は、ノモンハンにおいて日本軍の損害は最大5万5千、そのうち2万3千が戦死したと見積もった。関東軍の公式報告によると、出動したのは7万5千で、戦死は8632人、負傷9087人としている。他方で、ソ連軍は、戦死9703人、負傷1万6千人となっている。
 ノモンハン戦でのソ連赤軍の勝利に決定的な役割を演じたのは間違いなく戦車部隊だった。ソ連指導部は、ノモンハン戦において日本軍の精強さに甚大なショック受け、ドイツ軍の対ソ侵攻作戦が開始されてなお、赤軍の最強兵力を極東方面に残留させていた。
 ジューコフ元帥は、第二次大戦でもっとも苦戦したのはハルヒン・ゴール(ノモンハン)だったと吐露したほどの激戦だった。
 停戦協定が結ばれたあと、関東軍代表団は遺体をどれだけ回収したいか、その数字をあげたがらなかった。それが公式に認める損害となることを嫌ったからである。10日間の痛い回収作業によって、日本軍は6281人の遺体を収容し、38人のソ連軍将兵の遺体をソ連側に引き渡した。
ノモンハン戦の地上における戦いの様子の一端を多くの写真とともに明らかにした冊子です。
 
(2007年9月刊。2500円+税)

国民のための刑事法学

カテゴリー:司法

著者  中田 直人 、  出版 新日本出版社
 
 戦前、戦後の司法制度の歩みがよく分かる本です。
 戦前の日本では、検事のほうが裁判官よりも実質的な地位は高かった。裁判官の人事権を握っているのは司法省である。だから、裁判官から検事になって司法省に役人として勤めるほうが出世は早かった。司法大臣の中には検事総長出身者がたくさんいた。しかし、裁判官出身者は一人もいない。裁判官は検察官出身者によって握られていた。
 日本の裁判所の中には、戦前もそのような司法省支配による裁判のあり方に抵抗し、裁判官の独立をかち取る必要があると考えて研究していたグループがあった。これが「さつき会」である。戦後、HGQのオプラー法制司法課長は「さつき会」の人たちと接触しながら司法制度の改革をすすめようとした。しかし、オプラー課長は「さつき会」の力を過信していた。「さつき会」は非公然のグループであって、当時の裁判官たちの広い支持を得ていなかった。むしろ、裁判官層は猛烈に反発した。
「さつき会」がかついだ細野長良・大審院院長に対しては猛烈な反発があり、細野氏は戦後の最高裁判事の推薦名簿にも載せられなかった。このとき、反対派は謀略的なニセ電報まで打って細野氏とその一派を引きずりおろした。そのなかで三淵忠彦という初代の最高裁長官は選ばれ、司法省の役人の経験者が最高裁事務総局に流れ込んでいった。
最高裁事務総局が今日に至るまで全国の裁判官の人事を統制しています。配置から給料から、すべてを決めて一元支配しているというのも恐ろしいことです。
 もっとも、最近では、あまりに統制が効きすぎて、現場の裁判官たちが自分の頭で考えなくなってしまったという反省も出ているようです。ですから、むしろ最高裁判決の方が時代の流れに敏感な、大胆判決を出すことも数多く見受けられます。
 裁判は公正であるという幻想が、裁判の作用をいっそう狭いものにしようとする。これらが相互に影響しあって、裁判官が真実と正義の要求に目を向けることを妨げる。世論を作り出すことは、この妨げをまず除去することである。しかし、世論は、やがて裁判官を動かす主要な要素に転化する。
個々の裁判官は、大衆運動なんかには影響されないぞ、自分の知恵と学識と両親によって判断したんだと、個人的な意識のうえでは、それなりに自負しているに違いない。裁判官の置かれている現実世界の広さ(むしろ狭さ)に目を向けたい。大衆的裁判闘争こそが、そうした現実世界を変革する。大衆的裁判闘争は、世論を新たにつくり出す以外に公正な結果を得ることができないという客観的情勢があるとき初めて必要となり、また可能となる。裁判闘争はすべて大衆運動に訴えるべきものでもなく、また、そのように発展するものでもない。大衆的裁判闘争は、裁判所を物理的に包囲したり、裁判官個々に威圧を加えたりはしない。
裁判官も人間である。人間を動かす力は、人間による人間としての批判である。裁判官の弱さ、その世間の狭さによって、裁判における予断と偏見が生まれる。
裁判官だけでなく、どんな人でも、自分のやろうとしていることについて多くの人が関心を寄せていることを感じると必ず、これは一生懸命にやろう、誰からもケチをつけられないよう、批判に耐えられるようなしっかりしたことをやろうと思う。これは人間の心理として当然のこと。たくさんの投書が裁判所に届き、書記官がもってくる。ほとんど読まない。それでも、なるほど、これだけ関心を持たれているんだったら、きちっとしっかりした裁判をしなきゃだめだという気持ちになる。そんなプラスの効果をもっている。
誤った判決をだす裁判闘争のなかで署名を広く集める運動の意義は決して小さくないことが分かります。
メーデー事件、松川事件、狭山事件などの戦後の裁判史上あまりにも有名な事件の弁護人としての活動、さらには公安警察のスパイ行動を裁く裁判にも触れられていて、大いに学べる本となっています。若手弁護士の皆さんにとくに一読をおすすめします。
(2011年1月刊。4000円+税)

ある小さなスズメの記録

カテゴリー:生物

著者 クレア・キップス、  文芸春秋  出版 
 
 不思議なスズメの話です。戦前のイギリスで実際にあった物語なのです。芸をするスズメ、トイレット・トレーニングを受けたわけでもないのに室内でベッドを汚さないスズメ、そして歌うスズメの話というのです。まさか、まさかの連続です。
 1940年7月1日、自宅の玄関前に生まれて数時間後、丸裸で目も見えていない瀕死の仔スズメを発見。まさか助かるまいと思いつつ、温かいフランネルに包んで介抱すると、やがて生き返った。ところが、この仔スズメは、右翼が正常でなく、飛べないのです。左足も正常ではありませんでした。だから、著者はスズメを飼い始めます。なんと、12年間も・・・・。ええっ、スズメって犬と同じほど長生きするのですね。私は、スズメの寿命は2年から3年だと思っていました・・・・。
 スズメは著者(女性)のベッドで同じ羽毛布団のなかで眠ります。首のところにぴったり寄り添って寝るのです。そして、ベッドを汚すことはしませんでした。
 賢い鳥は、決して自分の巣を汚さない。いやはや、すごいことです。
 スズメは著者の言ったことを、その声の調子でだいたい理解していた。
 鳥は嗅覚を持たないと言われているが、このスズメはタマネギの風味だけはひどく嫌がった。
 スズメのお気に入りのおもちゃは、ヘアピンとトランプの札、マッチ棒だった。何時間もそれを籠の中で運んで回っていった。
 スズメは、人々の前で芸を披露した。著者とヘアピンで綱引きをする。くちばしでヘアピンをしっかりとくわえて力の限り引っぱる。トランプのカードをくちばしにくわえて、10回ほど、落とすこともなくぐるぐると回し続ける。
 スズメにはクラレンスという名前がつけられた。しかし、スズメは坊や(BOY)という呼びかけのときだけ返事するのだった。自分の名前も本人が選んだというわけです。
 スズメは歌を歌った。荘重で印象的な出だしに始まり、次第に調子を力強くしていき、やがて火を吐くように熱烈なクライマックスへと高まっていく。八分音符のリトルで始まり、その後高く甘く、哀切に満ちた音色が続く。
 スズメは心臓の病気をもち、便秘になった。そして、治療薬の変わりにシャンパンを飲ませられた。ティースプーンに入ったシャンパンを少しも嫌がらずに飲んだ。うひゃあ、なんとなんと、そんなことが・・・・。
 12歳になってから、このスズメは老衰によって死亡しました。すごいスズメがいたのですよね・・・・。わが家に棲みついているスズメは、最近あまり姿を見せなくなり、心配しています。スズメの棲める純和風の家が少なくなったことも影響しているとのことです。それにしても面白いスズメがいたものですね。
 
(2010年12月刊。1429円+税)
 先週の水曜日、日比谷公園を歩いてきました。バラの木が剪定され裸になっていました。花の少ない季節で、葉ボタンと黄色のパンジーの花くらいしかありません。大型カメラを構え、池のあたりを狙って風景写真をとろうとしている男性を何人も見かけました。カメラ同好会の人たちなんでしょうね。そのそばに猫が寝そべって陽だまりを楽しんでいました。
 ミュプレヒコールが聞こえてきました。年金の切り下げ反対という威勢のいい女性の声です。本当にそうですよね。消費税率の値上げが既定方針のようにすすめられていますが、年金こそ引き上げてほしいものです。年金受給年齢が近づいてきた私も同じように叫びたいと思いました。年金者組合の人たちが叫びながらデモ行進に出かけるところでした。

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