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2011年1月 の投稿

中世ヨーロッパ、武器・防具・戦術百科

カテゴリー:ヨーロッパ

 著者 マーティン・J・ドアティ、 原書房 出版 
 
 南フランスのカルカッソンヌにいった事があります。二重になった城壁がそっくり残っています。真夏でしたが、ちょうど雨が降り出し、膚寒さを感じるほどでした。やがて雨がやんで青空も見えてきて、いい写真が撮れました。場内のレストランで温かいカスレ(豆入りのシチューみたいなもの)を食べて身体を暖めました。もちろんワインも飲んで・・・・。この古城も、中世には騎士たちの攻防戦の舞台になったわけです。
シェイクスピアのヘンリー5世で有名なアジャンクールの戦いなど、ヨーロッパ中世の有名な戦場が図解されていて、大変分かりやすく、楽しめます。
 フランスは、勝てた戦闘を騎士たちの性急さで戦いをダメにした。一国一城の主から成る騎士たちを統率するのは王国といえども大変だった。
 その点、12世紀のイングランド王リチャード獅子心王は中世の指揮官としてはかなり異色の存在で、規律を重んじ、兵士たちに徹底させた。騎士たちは、近隣の領主より勇敢さに欠けると世間に思われるのは社会的破滅を意味していたから、彼らはみな恐ろしく向こう見ずだった。
 なーるほど、騎士が規律を守らなかったのには理由があるのですね。世間の目って、今も恐ろしいものです。
 馬はラクダの臭いや奇妙な姿におびえ、なかなか慣れることが出来なかった。ラクダに乗った兵士がいるのを見ただけで、騎兵部隊は逃げ出し、その戦闘力は落ちた。ラクダを馬が怖がったというのを初めて知りました。
戦場での戦いの推移が図示され、その当時の武器や武装が写真とともに図解されていますので、大変イメージが湧いてきます。
 騎士の多くは、自分たちが守るべきは貴族階級だけだと考えていたので、貴婦人に対しては親切で態度も丁寧だったが、農民に対しては、殴ったり、一般の女性を強姦しても、それが不適切だったという認識はなかった。
負けた敵に慈悲をかけるか。 その対象は貴族のみであり、それも思いやりというより、むしろ生け捕りして身代金目当てというのが多かった。
 モンゴルの弓騎兵は、中世を通してもっとも強力な戦闘部隊だった。替えのポニーを引き連れ、効率的に移動することができたので、かなりの距離を短時間でカバーすることができた。この戦略的な機動力のために神出鬼没の攻撃が可能だった。
真に有能な弓兵を養成するのは非常に難しく、その能力は高く評価された。弓兵は、ずっと希少価値のある存在だった。したがって報酬も良く、周囲から尊敬され、戦場でも指揮官から大切に扱われた。イングランドの弓兵は、だいたいヨーマン、つまり小規模な農場を所有する自由人だった。
 アジャンクールの戦いで、ヘンリー5世の弓兵隊は、持ち場の前に鋭い杭を打ち立てた。その杭を前へ移動させながら、軍をゆっくり進め、フランス軍に向かって攻撃を開始した。フランス軍の騎兵部隊は、イングランド投射兵部隊の前に、敗れ去った。フランス軍は100人の大貴族と諸候、1500人をこえるマン・アット・アームを失い、200人が捕虜にとられた。これに対して、イングランド側の死者は400人にすぎなかった。
 ヨーロッパ中世の戦闘の実情を知ることのできる便利な百科事典です。
(2010年7月刊。4200円+税)

広重・名所江戸百景

カテゴリー:日本史(江戸)

 著者 望月 義也コレクション、合同出版 
 
すばらしい本です。江戸百景が見事に描かれています。さすがは広重です。最後の解説は英文にもなっていますが、広重の海外での知名度の高さをあらわしています。
安藤広重は幕末のころの絵師である。定火消(じょうひけし)同心、安藤源右衛門の子として生まれた。定火消とは、江戸幕府の役職の一つで、江戸市中の防火と非常警備を担当した30俵二人扶持の下級武士の家柄。広重は、15歳のときに浮世絵師を志し、歌川豊広に入門した。文政6年(1823年)に絵師を専門の職業とし、家業の火消同心を辞した。
広重は風景画をよく描き、「東海道五十三次」「富士三十六景」などを立て続けに描いて名声を得た。
浮世絵は有田焼をヨーロッパに輸出するときの梱包用資材として用いられ、ヨーロッパに広く知られるようになった。とくにゴッホは浮世絵に魅せられ、自ら500点もの浮世絵をコレクションにした。ゴッホは油彩で3点を描写したり、背景画として取りいれてもいる。
広重は江戸後期にヨーロッパからもたらされたベロ藍(ベルリンブルー)を実にうまく使って、ニュアンスに富んだ水と空気の実感を、清涼感と透明感あふれる表現として定着させた。このため、ヨーロッパでは、広重ブルーという名称で賛美されている。
いやあいいですね。大胆な構図、そして鮮烈な色あいの絵を眺めていると、江戸時代の日本人が決して暗黒の世の中に生きていたわけではないことを、今さらながら実感することができます。合同出版の創立55周年記念出版だからでしょうか。こんなに立派な絵画集が1400円で手に入るなんて、夢のようです。 
(2010年8月刊。1400円+税)

ふたつの戦争を生きて

カテゴリー:ヨーロッパ

 著者 ヌート・レヴェッリ、 岩波書店 出版 
 
 この本は、イタリアにおける第二次大戦での二つの戦争、ファシズムの戦争とパルチザンの戦争についての体験記です。歴史は風化させてはいけない。そう思わせる重味のある証言になっています。
軍の側の歴史書では、人間は常に単なる員数でしかなく、兵士は人的資源とされるだけ。しかし、それは魂のない歴史、価値の低いというより、まったく無価値の歴史、もっと言えば偽りの、誤った歴史でしかない。
 私は、あるとき、軍隊では動員された兵士の人数を数えるとき、決して○○人とか、○○○名とは言わない。あくまでも、○○とか○○○といった数字のみであらわす。そこには、「人」も「名」もない。このことに気がついて愕然としたことがあります。
 この本は、そうではなく、あくまで軍人も一個の人格ある人間としての動きが如実に描かれています。著者は、そのころ20歳だったのでした。私の20歳のころと言えば、東大闘争の真最中であり、無期限ストライキのなかで授業はなく、毎日毎日、集会とデモに明け暮れていました。全共闘の暴力と対峙してヘルメットをかぶり、スクラムを組んでいました。生命の危険を感じたことはありませんでしたが、同じクラスの友人(内山田明くんと言って純朴な好青年でした)が過労から急性白血病で病死することがありました。このほかにも精神的におかしくなって入院した学友もいました。
イタリアの田舎で生まれ育った著者にとってファシズムとスポーツは同じものだった。ファシズムは枠組みと組織と競技に勝つ機会を提供してくれた。お祭気分に浸っていた。イタリア中が制服だらけだった。リボン、メダル、バッジをつけた制服があふれていた。
農村社会にファシズムは容易に浸透しなかった。山の民はファシズムになじみが薄く、政治に無関心だった。戦争になってはじめて、目を開いた。
戦争に入って、企業は大儲けした。収賄罪が横行し、腐敗が目にあまった。
 イタリアの軍部はファシズムとは距離をおいていたようです。ドイツ国防軍にナチスと距離を置く高級軍人がいたのと似ています。
 将軍は、軍の準備不足はファシズムに責任があるのであって、軍にはないと将兵に告げた。イタリア軍に入った著者は、ソ連に侵入したドイツ軍の友邦軍としてソ連に侵入していったのでした。しかし、そこは零下20度から40度という酷寒の地でした。
イタリア軍は8万5000人がそこから帰国できなかった。ソ連の捕虜となった1万人は還ってきた。戦死したと確認されたのは1万1000人。6万4000人は行方不明者となった。退却中の死か捕囚のなかで死んだのかは不明。これに対して、ドイツ軍は300万人のソ連軍捕虜を飢えと苦役で死なせた。ソ連はドイツとの戦争で2000万人の死者を出した。
 イタリアのファシスト党幹部はロシア戦線に身を投じることもなく、戦後まで多くが生きのびた。
イタリアに帰還してから、著者はナチスドイツ軍と戦うパルチザンとなったのでした。
 パルチザンの多くは、軍隊経験がなく、銃を撃ったこともなかった。その手ほどきから始めた。ナチスとの戦いもすさまじいものがあったようです。
イタリアにおいても戦争の記憶の風化は深刻であり、レジスタンスの精神は忘れ去られ、反ファシズムの危機が叫ばれて久しい。そうなんですね・・・・。大切なことは後世にきちんと語り伝えられていく必要がありますよね。
(2010年7月刊。2800円+税)

大名行列の秘密

カテゴリー:日本史(江戸)

 著者 安藤 優一郎、 NHK生活新書 出版 
 
 加賀百万石の前田家の大名行列はなんと4000人が参加していたというのです。信じられませんよね。駕籠に乗った殿様も優雅な旅を楽しんでいたというより、難行苦行だったようです。薄い蒲団しか敷かれていないので腰も足も痛い。朝から夕方まで乗り通しの火が何日も続くと、殿様の苦痛も並大抵ではなかった。
 殿様は、食事の好き嫌いを口に出すことは許されなかった。そして、出された食事は規定どおりの量を残さず食べなければならなかった。そうしないと、料理人の責任問題が派生する。
ええーっ、殿様って、わがまま放題かと思っていました・・・・。違うんですねっ。
大名行列の大半は、150人から300人くらい。江戸に入るときには、江戸屋敷結の家臣や江戸で雇用した人足たちが行列の半分以上を占めていた。これって、今の不正規雇用労働者ですね。
大名行列は一日に平均32~36キロは歩いた。盛岡藩南部家の記録によると、平均して一日に43~46キロ歩いた。ときに50キロも歩いた日がある。うへーっ、これってす、すごいことですよね。
 殿様専用の風呂桶を運び、また、携帯用トイレまで運んでいた。そして、とまりの本陣の殿様の寝床の下には、持参した鉄の延べ板を敷いた。床下に刺客が忍び込んでも殿様は守れるというわけだ。
飲料水も、江戸から国元までの道中で必要な分を持ち運んでいた。
前田家の場合、参勤に擁する日数は12泊13日というのが多かった。暮れ六ツ泊まり七ツ立ち。暮れ六ツ(午後6時)に旅宿に到着し、翌朝七ツ時(午前4時)には出発する。当時は左側通行が基本だった。
 京都は大名行列が立ち入ってはならないところだった。幕府が禁じていた。朝廷と諸大名とが結びつくことを幕府は警戒した。
昔から日本人が旅行好きだったことも明らかにされています。江戸時代の一端を楽しく知ることができました。 
(2010年3月刊。700円+税)

宇宙飛行士の育て方

カテゴリー:宇宙

 著者 林 公式、 出版 日本経済新聞出版社 
 
 実に面白い本です。私は宇宙飛行士になれるはずもなく、また、そのつもりもありませんが、宇宙飛行士になるには何が必要なのか、その訓練はどんなものなのか、よく分かりました。
国際宇宙ステーション(ISS)は、10年かけて、アメリカ、ロシア、ヨーロッパ、日本、カナダの15カ国が協力してつくりあげたもので、サッカー場の大きさがある巨大な有人施設だ。
ISSでは尿を飲料水にリサイクルする。以前は、尿や便は廃棄し、水の大部分を地上から宇宙船で運搬していた。NASAは水再生装置を開発した。
ISSは90分で地球を一周するから、45分ごとに昼と夜がやってきて、温度や明るさが目まぐるしく変わる。船外活動をしているときには、そのたびに宇宙服の中を流れる冷却水で体温調節し、暗いときには手元を照らす。
ISSは地球上の高度400キロメーターあたりを飛行しており、そこにはわずかの空気があるため、大気との摩擦で徐々にISSの高度が下がって地球に近づいてしまう。そこで、1ヶ月に1回は、ISSのエンジンを噴射して、高度を上げる。
2010年まで、日本人8人が宇宙に飛び立った。一人目の秋山豊寛氏はTBS社員だったが、TBSは宇宙旅行の費用として22億円をソ連に支払った。す、すごーい大金ですね。いま、個人旅行で10億円出せば行けるそうで、アラブの金持ちなどが申し込んでいるようです。
 今のISSには、日本実験棟「きぼう」があり、そのため、1年から1年半に1回、半年間は日本人がISSに滞在することが認められている。
 宇宙飛行士の選抜基準として、大学で文系を専攻したひとは除かれる。宇宙飛行士で一番に求められるのは状況認識。その場の「空気」を読むのも含まれている。また、条件のなかには「美しい」日本語も入っている。事故の経験を生き生きと伝える豊かな表現力ということだ。
宇宙飛行士(大卒35歳)の本給は36万円ほどである。英語力はTOEICで800点以上。雑談になっても、楽しく会話できるかも問われる。
 二次選抜まで合格すると、長期滞在適正テストがある。窓のない閉鎖施設内に10人の応募者が一週間も缶詰め状態となる。そして、24時間テレビモニターで室外から監視される。面接ではグループディスカッションをする。出しゃばって、よく分かっていないのにとにかく一生懸命な姿勢を見せようとして発言するのは評価が良くない。基本姿勢として、人の意見をよく聞くこと、そして発言が不明確になったときには、的確に質問して、いい意見をさらに論理的に整理する方向に導いていく姿勢が評価される。
 逃げ場のない宇宙では、一緒にいて楽しいやつという仲間からの評価が実はかなり大きい。分かったふりするのが、もっとも危ない。宇宙では生死にかかわる。宇宙に行く前に徹底的に失敗させる。
宇宙飛行士にも恐がりが多い。逆に、怖さを知らない人は危ない。恐怖感があるからこそ、どうすればいいか対策を考える、最後の一瞬まで、宇宙飛行士は、あきらめずに、助ける方策を追い求める。
コミュニケーションの肝は、タイミングを外さず、マメであること。ここぞというときに、労を惜しまずに話す。
いやはやすごい訓練が課されるのですね。閉じこめられて一週間の集団生活なんて、私にはとても耐えられそうにありません。でも、宇宙に行ってみたら、さぞかし爽快、気持ちのいいことでしょうね。
(2010年10月刊。1600円+税)
 あけましておめでとうございます。本年もどうぞよろしくお願いいたします。
 大晦日の夜、近くの山寺へ恒例の除夜の鐘つきに出かけました。30年来、一度も欠かしたことがありません。我が家から歩いて15分、小高い山の中腹にあります。眼下に町の明かりが良く見えます。珍しく雪が降ってきました。年末年始は豪雪に見舞われるという天気予報の通りです。イヤホンでシャンソンを聞きながらじっと立って始まるのを待ちます。ひところよりは鐘をつく人が減りました。最盛期の半分くらいでしょうか。このところ、いつも最前列のグループに入っています。若いお坊さんが今年一年はどうでしたか、新年がみなさんにとっていい年でありますようにと挨拶して鐘をつき始めます。一家の安全を願って鐘をついたあと、紅白の小さな餅をいただいて帰路につきます。
 翌朝、正月の朝は銀世界になっていました。10年ぶりでしょうか。今年がどうぞ平和で穏やかな一年になることを心から願っています。

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