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2010年12月 の投稿

カウントダウン

カテゴリー:社会

 著者 佐々木 譲、 毎日新聞社 出版 
 
 いつも秀逸な警察小説を読ませてくれる著者が、同じ北海道を舞台としながら、赤字まみれの地方自治体の再生を探る社会派小説に挑戦しました。同じような炭鉱閉山の市や町をいくつもかかえる福岡県にとっても他人事(ひとごと)ではない展開ですので、一気に読み上げました。
 多選のワンマン市長の愚政と、ほとんど「オール与党」の市議会という構図は、日本全国、どこにいっても同じようなものですよね。野党だった社会党が消え去った今、愚政に異議申立をきちんとしているのは政党としては共産党だけになってしまいました。残念ですね、これって・・・・。
 この本には選挙ブローカーが登場してきます。たしかにいるんですね。日本全国の選挙を渡り歩いて職業として食べていけるというのですから、不思議なものです。
選挙は、結局のところ候補だ。タマだ。選挙戦術でどうにかなるのは、全得票のせいぜい10%でしかない。タマ選びからやれるんなら、勝利は確実なんだ。
 これは行政広報と選挙のプロの言葉です。
20年間で、18勝3敗。市議会は、きみと共産党市議以外は、全員が市長支持派だ。市役所の幹部も同じ。市の職員組合も、長年、市長に飼い慣らされてしまった。商工会にも、地区労にも、農業団体にも、現職市長に挑む意思のある者なんていない。
こうやって選挙ブローカーは、まだ市議一期目の森下を市長選に出るようけしかけるのでした。
 第三セクターへ巨額の出資をしていながら、その第三セクターの経理状況を質問すると、市長は民間会社のような経営状況なんて公開できるはずがないとうそぶいて居直り、開示しない。
森下と共産党市議以外の議員はみな与党であり、現職市長の翼賛団体であるという議会。保守政党はもちろん、現職市長がかつて市職労の委員長であったことから、市職労は一貫して現職市長を組織内候補として応援した。市職が中心となっている地区労も、その上部団体としての連合支部も、現職市長の20年間の市政を貫いて支持した。
 この町には現職市長を批判する勢力はなく、市長のもたらすうまみを、有力団体すべてが享受してきた。議会はやるべき市政の監視機関ではなかった。でたらめ機関の追認する機関でしかなかった。
 まさに、そのとおりです。だからこそ「オール与党」の一員にとどまりたいのです。
 阿久根、名古屋そして大阪の議会を見ていると、「オール与党」である議会の大半は、実質的に何もしていないも同然なので、そこに市民の怒りが殺到しているように思います。「オール与党」の議会構成だったら、市民の怒りは無為無策のより身近な「市議会」に集中します。そこに議員なんて不要だとか、議会の定数を大幅に削減してしまえという意見の生まれる根拠があります。まことに罪深いのは「オール与党」体制です。
 森下はついに市長選への立候補を決意します。そのときのメインの政策は福祉でした。福祉と先進医療の町として再生をはかる。お年寄りに優しい町として看板をつくる。
 私も、これしかないと、以前から考えてきました。ハコものをつくるのではなく、人間を大切にすること。これこそ地方自治体に求められているものではないでしょうか。地方自治体には乏しいながらも利権があり、それをめぐってたかる人々の群れも活写されています。
 来年4月に地方選に立候補を考えている知人にこそこの本を読むようすすめたばかりです。あなたもぜひ、ご一読ください。
(2010年9月刊。1600円+税)

なぜ韓国はパチンコを全廃できたのか

カテゴリー:朝鮮・韓国

 著者 若宮 健、 祥伝社新書 出版 
 
 大変刺激的なタイトルの本です。ひところよりはやや下火になったとはいえ、まだまだ、パチンコ禍は猛威をふるっています。テレビのコマーシャルでもパチンコが増えましたよね。たくさん借金をかかえて行きづまった人のなかにパチンコが原因だという人は相変わらず少なくありません。病みつきになってしまうのです。ギャンブル依存症は病気ですが、その原因をパチンコ店はつくっています。
 2006年8月、韓国政府はパチンコを全面的に禁止した。その前、韓国全土には2万店ものパチンコ店があった。その前年2005年3月に、パチンコ店は許可制から認可制に移行していた。ちなみに、韓国ではパチンコとは呼ばず、メダルチギと呼ぶ。韓国のパチンコは、玉を打たない。日本の中古パチンコ台を輸入して、盤面と液晶はそのままで、釘は根元から切断してある。韓国仕様に改造していた。
98そして、店内では一人で二台も三台もかけ持ちできた。24時間営業であり、台の前に座ったまま、飲食できた。日本と同じ換金方式がとられていた。手数料10%で、商品券を現金に換えた。
韓国警察は、2006年8月にパチンコ台100万台を没収した。
パチンコをめぐって、当時のノムヒョン大統領の甥や側近が関連する贈収賄事件が発覚した。文化観光部の局長なども逮捕され、パチンコ廃止論が一気に沸騰した。
 韓国では、パチンコは低所得者層の遊びだと見られていた。だから、案外、韓国人であってもパチンコが流行していたことを知らない。
 日では、パチンコ業界のお先棒をかつぐ国会議員が自民党だけでなく、民主党にも多い。そして、日本のマスコミはパチンコ業界に大きく依存しているため、パチンコ批判がタブーのようになっている。
 いま日本で流行している一円パチンコは、お客のためというより、税金が安くなるという税金対策からなっている。
パチンコ店の経営者は、その8割を韓国・北朝鮮系が占める。残る2割は台湾と日本人である。
日本も韓国に見習ってパチンコ店を全廃するくらいのことが必要だと私は思います。
それにしても、あんな人工的な騒音のなかで孤独感に浸される人生って、哀れそのものだと思いませんか・・・・。
 この本は著者より贈呈を受けました。ありがとうございます。これからも体験リポートを次々に発表していってください。大いに期待しています。 
 
(2010年12月刊。760円+税)
 宮崎で開かれた弁護士会主催の憲法に関する市民向けシンポジウムに参加してきました。そこで、沖縄の新垣勉弁護士が報告した内容がとても新鮮でした。
 アメリカ軍の基地が沖縄にあるおかげで、軍用地の地主は地代収入があるし、歓楽街をふくめて大きな経済効果があると喧伝されてきましたし、私もそうかなあと思ってきました。
 ところが、アメリカ軍の基地が沖縄から撤去されたときの経済効果は、基地があるときよりはるかに大きいものになるというのです。雇用者も14倍、今の3万人が48万人になると推測されています。これは、沖縄県議会事務局の報告書にあるものです。
 たしかに、おもろ町あたりの基地跡の再開発はすごいですよね。基地がなくなったら、沖縄はもっと平和に発展できることに確信のもてた実り大きいシンポでした。

今、「韓国併合」を問う

カテゴリー:朝鮮・韓国

  出版:「韓国併合」100年市民ネットワーク、アジェンダ・プロジェクト  
 
 1910年、日本が「韓国併合条約」を強制的に押し付け、今年は100年目にあたる。
 このブックレットでは、「韓国併合条約」がまったくの押し付けであったこと、当時の韓国は自力による近代化を推し進めていたことを明らかにしています。
 たとえば、電車がソウルの町を走り出したのは1899年5月のこと。開通式の写真そして、日本兵が電車に驚いている絵があります。これは日露戦が勃発する5年前であり、日本の京都に電車が走ったのは、ソウルより3年早かったが、東京のほうは3年遅れていた(1902年)。だから、日露戦争のときにソウルにやって来た日本兵のほとんどは電車に乗った経験がなかった。
 このように、日本の植民地になってから韓国の近代化が始まったわけではない。日本が日露戦争に勝利した力を背景として韓国の主権を無理やり剥奪した。その結果、むしろ韓国は自力による近代化の機会が奪われてしまった。なーるほど、そういうことなんですね・・・・。
 第一次日韓協約は略式条約でもなく、覚書でしかない。だから、日本語だけあって、韓国語では作成されていない。もっとも、韓国側に内緒で英語では作成されている。
 第二次日韓協約(新協約)は、韓国語版には最初の一行が空けてあり、名称が入っていない。それは韓国の皇帝と大臣たちの抵抗によるもので、韓国皇帝の批准書もない。
 1910年の併合条約については、印鑑は韓国の国璽ではなく、格の下がる行政決裁用の「勅命の寶」と彫られた印鑑が押捺されている。そして皇帝の署名が欠落している。
 最後の韓国皇帝・純宗は1926年4月に亡くなるが、次のような遺言を遺している。
過ぎし日の併合認准は強隣(日本のこと)が逆臣の群れ(李完用など)とともに勝手になし勝手に宣布したものであり、すべて私がなしたことではない。ひたすら私を幽閉し、脅迫し、私をして明白に話できないようにしたものである・・・・。
うむむ、そういうことだったのですね、やっぱりそうなのか・・・・と、ついつい思ってしまったことでした。わずか70頁足らずの薄いブックレットですが、どっしりとした歴史の重味を感じました。この市民ネットワークは私の先輩にあたる京都の岩佐英夫弁護士も関わっているグループのようです。広く日本人に読まれることを祈念します。
 
(2010年9月刊。500円+税)

自殺社会から生き心地の良い社会へ

カテゴリー:社会

 著者 清水 康之・上田 紀行、 講談社文庫 出版 
 
 日本では毎年3万人をこえる人が自殺で亡くなっています。私も前からこのことは知っていました。しかし、3万人という数が頭にあまり入ってきていませんでした。ところが、清水氏自身が東京マラソンの様子をビルの屋上から撮影した映像を見て、途中から身震いしてしまいました。東京マラソンの出場者も同じ3万人なのです。東京都心の広い道路をマラソン参加者が埋め尽くしています。もちろん、全員が異なったナンバーを表示するゼッケンをつけています。そのあふれるような人々の流れが延々と、なんと20分も続くというのです。すごい映像です。圧倒されました。ゼッケンをつけてひたむきに走っている一人ひとりに、それぞれのナンバーがついているように、自殺して亡くなった3万人一人ひとりにも、その人だけのかけがえのない人生があったはずです・・・・。
 清水氏の話を聞きながら東京マラソンで走るランナーを見ていると、なんだか泣けてきました。ああ、今の日本って、本当に生きている人を大切にしないんだなと思ってしまったことでした。
 日本に駐留するアメリカ軍への思いやり予算については、民主党政権は自民党と同じく、最優先であり、削減の対象とはしないというのです。そのくせ、中小企業対策費や福祉予算は減る一方です。とんでもない国です。それなのに、今、マスコミは、国も地方も議員を減らせ、公務員を減らせ、高すぎるから給料を引き下げろの大合唱の先頭に立っています。マスコミまで民主党と同じひどさです。もっとお互いに人間に優しくしましょうよ。
 日本の自殺者3万人は、交通事故による死者の6倍。日本の自殺率は、アメリカの2倍、イギリスやイタリアの3倍。働き盛りの40~60代の男性の自殺が全体の4割を占める。
20~30代の死因のトップが自殺であり、80歳以上も31.4と、前世代平均の25.3を大きく上回っている。
 男女比は7対3で、女性は少ないかと思うと、自殺率は男性で、世界第8位であるのに対して、日本の女性の自殺率は世界第3位と高い。いやはや、そうなんですか・・・・。
 現代日本社会において、自殺は「時代を象徴する死」であり、個人的な問題として看過できない「社会構造的な問題」なのである。自殺者3万人に対し、自死遺族は、死者の4~5倍はいる。つまり、毎年12~15万人が自殺によって家族を失い、自死遺族となっている。現在、日本全国の自死遺族は300万人もいる。
 札幌の地下鉄のホームに立つと、線路の向こう側に大きな姿鏡がある。電車への飛び込み自殺を防止するためのもの。鏡をつけておく必要がある。発作的に電車に飛び込もうとした人が、その鏡面にうつった自分の姿を見て、はっと我にかえって思いとどまることがある。うへーっ、そうなんですか。よく注意して見てみましょう。
日本の社会は、「負け組」の象徴として自殺を扱っている。日本社会の誤りは、3~40年もの永いあいだ、あまりにも勝ち続けてしまったことにある。
 今の若い人は、日本が豊かだった時代を知らずに青春時代を送ってきた。そして、ただひたすらおとなしい学生が増えている。
団塊世代についても世代論が語られていますが、こちらは納得できないと思いました。あまりにも一面的で皮相な見方なので、団塊世代の一人としてとても残念に思いました。世代間の対立をあおってほしくはありません。
それはともかくとして、いろいろ考えさせられる文庫本です。
 
(2010年3月刊。581円+税)
 冬を迎えて庭の手入れに精を出しています。芙蓉とエンゼルストランペットは根元から切り取りました(毎年のことです)。球根類が増えすぎていますので、植え替えてすっきりさせています。残っていたチューリップを植えていると、頭上にメジロの鳴き声がします。なんとハゼの実をメジロたちが群がって食べているのです。ひとしきり食べたあと、やがていなくなりました。ハゼの実をメジロが食べるなんて知りませんでした。このハゼの木は実生で自生したものです。夏前にハゼ負けで皮膚がかゆくなった、あのハゼの木です。根元から切り倒すかどうか少し迷っています。

最高裁判所は変わったか

カテゴリー:司法

滝井繁男「最高裁判所は変わったか~一裁判官の自己検証~」 2009年 岩波書店
今年7月7日、最高裁第3小法廷は「嫡出でない子の相続分は、嫡出子の相続分の2分の1とする」旨の民法900条4号の規定に従って決定された遺産分割審判が違憲だとして特別抗告された事件を、大法廷に回付した。周知のとおり平成7年7月5日の大法廷決定では、「本件規定は、合理的理由のない差別とはいえず、憲法14条1項に反するものとはいえない。」と判示された。もっとも、この決定には5裁判官の反対意見があった。
このような経緯から察すると、今回は第3小法廷で「違憲説」が多数を占め、裁判官会議でも「この時期にこの事件について最高裁の見解を示す必要がある」という意見が多数を占めたのであろうと想像される。そこで、前に学会から最高裁に入った団藤重光の著書を読んだことに引き続き、比較的最近弁護士会から最高裁に入った著者の著書を読んでみることとしたのである。
予想通り、著書には「さし当り、国民の間で見解のわかれる問題について近いうちに改めて判断が迫られることになるであろうと思われるのは、非嫡出子の相続分が嫡出子の半分となっている民法900条の規定ではないだろうか。」との問題提起の一文があった。著者は、この問題についての私見を明らかにしていないが、どうやら違憲と考えているような書きっぷりである。
著者は、上述の問題のごとき個別の問題を紹介しつつも、最高裁の果たすべき役割を強く訴えている。すなわち、最高裁が①憲法裁判所の役割、②通常事件の最終審の役割、③司法行政の最高機関の役割を持つことを前提として、上告事件・上告受理申立事件の激増により、憲法裁判所としての役割が十分に果たされていないのではないかと憂いている。例えば、著者は、先例となる大法廷判決を引用して「その趣旨に徴して合憲であることは明らかである。」と論ずる小法廷判決が少なからず見られることを指摘し、憲法判断を回避する傾向があることを率直に認めている。そして憲法裁判所としての役割を重視すべきことを提言している。
さてわが身を振り返り、どうか。たしかに私も上告や上告受理申立てを濫発しており、著者の指摘が身にしみる。しかし、司法手続の利用者の立場からは、「第一審、控訴審の判断が誤っていたとしても、最後は最高裁が救ってくれる」という希望があるからこそ、通常事件の最終審としての最高裁に期待するところが多大なのである。そして実際に最高裁は、下級審では決して見られないような新しい判断を示すことがよくある。私どもはそのような最高裁の良識を信じて、最高裁の扉をたたくのである。
そもそも現行憲法下の最高裁は、旧憲法時代に通常事件の最終審であった大審院の役割と、違憲立法審査権を有するアメリカ連邦裁判所の役割を共に担うものとして設計されており、その意味で責任過多なのではないかとの根源的な疑問が感じられる。このような憲法の二重性格は、大陸法の要素と英米法の要素を相備えている刑事訴訟法の二重性格とも共通している。わが国法体系のねじれは、このようにときどき顔を現わす。
さて私が近時注目している最高裁継属中の事件は
①上述の非嫡出子の相続差別の事件
②衆議院の一票の格差の事件
③海の中道の交通事故の事件
である。①と②は憲法14条の判断に踏み込むであろう。③は憲法31条の判断に踏み込むのであろうか、それとも事実認定の問題として処理するにとどまるのであろうか。
最高裁の役割をいろいろ考えさせてくれる一冊であった。

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