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2010年11月 の投稿

中国河北省における三光作戦

カテゴリー:中国

 著者 松井 繁明・田中 隆 ほか、 大月書店 出版 
 
 日本軍が中国で展開した残虐な作戦行動の一つを現代日本の弁護士たちが現地調査をして解明した労作です。
 1942年5月、日本軍の北支那方面軍の第110師団163歩兵連隊第一大隊が一つの村を包囲して奇襲攻撃し、民兵や村人が逃げ込んだ地下の坑道に毒ガスを投入して
1000人を殺戮した。これは日本軍による三光作戦、粛正掃蕩作戦の典型的な事例である。
 1942年5月1日から6月20日までの日本軍の「掃蕩」作戦によって、冀中区全体で八路軍1万6000人が犠牲になった。主力部隊は35%減少(3分の2になった)、兵員は半数近くに減少した。区以上の幹部の3分の1が犠牲となり、死傷した人民は5万人に達した。このように中国側の被害が大きかったのは、日本軍の作戦規模が大きかったというだけでなく、中国側が「掃蕩」を事前に十分予期していなかったからでもある。
 1941年12月に太平洋戦争が始まり、日本軍の抗日根拠地に対する大規模な「掃蕩」の可能性は減ったという判断が中国側に生まれていた。
日本軍の「掃蕩」作戦は、それまで八路軍に協力的でなかった地主層の態度さえ変化させた。日本の掠奪・暴行は地主に対しても例外ではなかったので、その差益は大いに損なわれた。そして、その後には、日本軍による重い税負担が待っていた。
人々は、八路がいれば八路を恨み、八路がいなければ八路を想う」と皮肉をこめて言っていた。
結局、日本軍の「掃蕩」は表面的には抗日根拠地に打撃を与えることは出来たが、中国民衆の心をとらえることは決して出来ず、むしろ反対の効果をもたらした。
 1940年8月、八路軍は華北一帯で日本軍の根拠地や鉄道線などを攻撃する大規模な攻勢を展開した(百団大戦)。朱徳の総指揮のもとで40万人を動員したこの攻勢によって、日本軍は多大の損害を蒙った。この百団大戦によって、北支那方面軍の八路軍認識は一変した。それまでの八路軍軽視から、八路軍を主敵とする抗日根拠地への粛正掃蕩作戦を前面化するに至った。村民を無理やり従わせている軍隊なら、追い払えばことがすむが、村民と深く結びついている軍隊となると、村そのものを掃蕩の対象とするしかない。北支那方面軍の思考はこのように転換した。なるほどそうだったんですか。偶発的な虐殺ではなく、意図的だったのですね。
2001年9月末、小野寺利孝・松井繁明・田中隆など弁護士6人のほか日本人研究者たちが三光作戦の現地に出向き、被害者らから聞き取り調査を行いました。被害にあった村には、地下道がはりめぐらされていたのです。幅1メートル、高さは人の背丈ほど。地下道は、それぞれの民家とつながっていたし、隣村の地下道ともつながっていました。
 八路軍は、この地下道による戦い、地道戦というそうです、初めは否定的にみていたようですが、あとで有効なものと認めて戦略的な地位を与えています。その地下道の構造が図解されています。ベトナムのクチにある地下道に潜ったことがありますが、それと同じようなものです。
 三光作戦とは、日本軍が中国で展開した残虐な作戦行動をいいます。やきつくす(焼光)、殺しつくす(殺光)、奪いつくす(搶光)という言葉によります。これは、北支那方面軍の司令官であった岡村大将が、焼くな、犯すな、殺すなという「三戒」を非難をこめてもじってつくった言葉だといいます。そして、この日本軍による三光作戦は、中国の民衆に莫大な被害をもたらしました。にもかかわらず、その実態を多くの日本国民は知りません。知らされていないのです。そんな状況で、日本の弁護士たちが減知に出かけて日本軍の残虐な行為による被害にあった人々から聞き取り調査をしたというのは、大変意義深いものがあります。少し古い本ではありますが、百団大戦などに関心をもっていたので、積ん読になっていて、未読だった本書を引っぱり出して読んだのでした。現地にまで出かけた日本の弁護士と学者の労苦に少しはこたえたいと思いました。 
(2003年7月刊。3400円+税)

西太平洋の遠洋航海者

カテゴリー:アジア

 著者 B・マリノフスキ、講談社学術文庫 出版 
 
 戦前の1922年に出版された本です。ニューギニア諸島の風習がよく観察されています。呪術の本質は、人の善意に仕えるものでもなければ、また悪意に仕えるものでもない。ただ単に、自然の諸力を制御するための想像上の力である。
著者はニューギニアに住み込んで観察しました。そして、次のように述べています。
 村を歩きまわって、いくつかの小さな出来事、食事のとり方、会話、仕事の仕方などの特徴ある形式が繰り返し目にうつったら、すぐにそれを書きとめるべきだ。印象を書き集め整理するという仕事は、早いうちに始めるべきだ。なぜなら、ある種の微妙な特色ある出来事も、新鮮なうちは印象が深いけれど、慣れてしまうと気づかなくなってしまうから。他方、その地方の実態を知らないと気がつかないこともある。
 海外に出かけたとき、初めての印象を記録しておくのはとても大切なことだというのは、私の実感でもあります。二度目には、目が慣れてしまっているため、かえって見落とすことが多いものなのです。
 ニューギニアでは、信じがたいほど幼いうちに性生活の手ほどきを受ける。成長するにしたがって、乱婚的な自由恋愛の生活にはいり、それが次第に恒久的な愛情に発展し、その一つが結婚に終わる。こうなるまで、未婚の少女は、かなり好きなことをする自由をもつと一般に考えられている。
 集落の少女たちは、群れをなしてほかの場所に出かけていき、そこでずらりと並んで、その土地の少年たちの検査を受け、自分を選んだ少年と一夜を共にする。また、訪問団が他の地区からやって来ると、未婚の少女たちが食物を持ってくる。彼女たちは、訪問客の性的欲求を満足させることも期待される。
 これって、日本でも昔、同じことがあっていたようですよ・・・・。
普通の生活でも、不義密通は絶えず行われている。とくに畑仕事や当易のための遠征のように、ことが目立たないとき、または部族のエネルギーと注意が作物の取入れに集中しているときに、ひどい。
 結婚は、私的にまた公的な礼儀をほとんどともなわない。女は夫の家に出かけていき、一緒になるだけ。あとで一連の贈物交換があるが、これも妻を買うお金と解釈することは出来ない。
 妻の家族の側が贈与しなくてはならないこと、それも家庭の経済にひびくほどにすること、さらに、妻の家族は夫のためにあらゆる奉仕をすることが重要な特徴になっている。
結婚生活では、女性は夫に忠実であることを期待されるが、この規則はそれほど厳密に守られもしないし、強要もされない。あらゆる点で妻は大きな独立を保有していて、夫は妻を尊敬の念をもって手厚く遇さなければならない。もし、そうしなければ、妻は夫をおいて実家に帰るだけのことである。夫は、贈物や説得によって妻を取り戻そうとする。しかし、もし妻がその気なら、永久に夫を捨てることが出来るし、結婚する相手は、いつでも見つかる。
 部族生活のなかでの女の地位は非常に高い。畑仕事は女たちの受け持ち(義務)であると同時に特権でもある。
クラとは、部族間で広範に行われる交換の一形式である。一つの品物は、常に時計の針の方向に回っている。クラの品物の移動、取引の細部は、すべて一定の伝統的な規則と習慣によって定められ、規制されている。クラの行事は、念の入った呪術儀礼と公的な儀式をともなう。腕輪と首飾りという二種のヴァイグァを交換するのがクラのおもな行為である。どの財宝も、一方向にのみ動き、逆に戻ることなく、また、とどまることなく、一周するのに原則として2年から10年くらいかかる。
 有力者のしるしは富めることであり、富のしるしは気前のよいことである。気前の良さは善の本質であり、けちは最大の悪である。
 過去将来を通じて、食物の量の多いことが、一番の重大事である。おれたちは食うだろう。吐くまで食うだろうというのが、ごちそうのときの喜びをあらわす決まり文句である。
20世紀はじめのニューギニアの風習がよく分かる本です。ところ変われば品変わる、ですが、女性の地位など、現代と共通するところもあるように思いました。
 
(2009年2月刊。1600円+税)

くにおの警察官人生

カテゴリー:警察

 著者 斉藤 邦雄、 共同文化社 出版 
 
 2004年、北海道警の裏金問題を初めに告発したのは、元警視長で元道警の釧路方面本部長でもあった原田宏治氏でした。著者は、原田氏に続いて裏帳簿を提供して告発を裏付けた弟子屈(てしかが)警察署の元次長です。まことに勇気ある人々です。心より敬意を表します。
 このお二人が趣味のサイクリングで仲間だったことは、本書を読んで初めて知りました。著者は私と同じ団塊世代です。警察学校の教官を2回も経験していますので、警察官として優秀であったことは間違いありません。
 この本は、「市民の目フォーラム北海道」のホームページにブログ「くにおの警察日記」を連載していたのを一冊の本にまとめたものですので、肩のこらない、大変読みやすい内容になっています。
 裏金づくりに加担させられ、ニセ領収書を作成した口止め料として、北見警察署に着任早々、防犯課長から毎月3千円をもらった。1973年のことである。裏金づくり、そしてその利用は古くからあり、また広い範囲で根づいていた。このことが、体験をふまえことこまかに具体的に紹介されています。
裏金を使うのは、あくまでも上層部の特権である。書類をもっともらしく作らなければならないのは、下っ端の庶務係だった。いやはや、すまじきものは宮仕え、ですよね。
 暴力団組長に捜査情報を流し、かつ暴力団組長とゴルフで遊びまくる。そんな警察官が全国優秀警察職員表彰を受けることがある。なんとなんと、そんなこともあるのですか・・・・。
 いま、新しい裏金づくりの手口がある。物品が納められていないのに納入されたことにして代金を支払い、業者にそのお金を管理させる、いわゆる「預け」。このほか、業者に事実とは異なる請求書を出させて別の物品を納入させる「差し替え」などである。民間企業を巻き込む手口は、止まるところを知らず、エスカレートする一方である。
 警察官の仕事の大変さも知ることのできる本でした。
 
(2010年8月刊。1600円+税)

貧乏人が犬を飼っていいのか?

カテゴリー:生物

 著者 吉澤 英生、  三五館 出版 
 
 私は犬派です。猫派ではありません。これは、幼いころから我が家にずっと犬がいたからだと思います。猫は飼ったことがありません。子どもたちが小さいころ、柴犬を飼っていました。申し訳ないことに、管理が悪くてジステンバーで死なせてしまいました。罪滅ぼしに、今も納骨堂に愛犬マックスの遺骨を納めて、たまにお参りします。夫婦二人きりになった今は、あちこち旅行をしたいから、犬を飼うのは我慢しています。
 この本を読んで、犬を飼うとはどういうことなのか改めて認識させられました。もっと早くに読んでおくべきだったと反省しました。
 日本で飼われている犬は1232万頭(2009年)。1994年は907万頭だったから、1.35倍も増えている。保健所が殺処分している犬は1970年代には100万頭をこえていたが、今は8万頭にまで減った。私の子どものころは、犬捕りの車が街中をまわっていました。ゴミ収集車のように犬を集めていたのです。もちろん、殺処分するのです。なんだか野犬って可哀想だなあと見ていました。
 小学一年生のとき、同じ市内で引っ越しをしたとき、家財道具を積んだトラックのうしろを走ってきた愛犬がいつのまにかはぐれてしまって、大泣きした覚えがあります。茶色の大型犬でした。写真が残っていますが、長い毛の優しい目つきの犬でした。
「癒されたいから、犬を飼いたいんですけど・・・・」
 経験上、犬を癒しの道具のように思っている人に限って、用がなくなると、犬を捨ててしまう人が多い。癒しとは、一緒につくりあげていくものなんだから、初めから犬に「癒されたい」なんて要求するのは間違っている。そんなワガママに犬をつきあわせないでほしい。うむむ、そうなんですか・・・・まいりました。
 犬に服を着せる必要なんかない。ましてや、靴下なんて、最悪。典型的な「ニセモノの犬好き」でしかない。犬の足元を覆うと、滑ってしまって、うまく立てなかったり、すべったりする怖れがある。
犬は本来、プライドの高い動物なのである。プライドのない犬は、いじけている。あるいは、空威張りしている。プライドの高い犬は褒められ慣れている。だから、犬をきれいに保って、「あなたは可愛いねえ」と誉めながら育てることが大切だ。
 犬のプライドを保つのに何より重要なのは、飼い主の気持ちである。プライドのない人が犬を飼っていて、犬にだけプライドを求めるのは無茶というほかない。犬は、飼い主が世界で一番えらくて、二番目は自分だと思っている。自分の飼い主は誇り高い人物で、その人に飼われているからこそ、自分もまた誇りを子って生きられる。これが、犬にとっての理想の生き方である。
 犬は飼い主が朝、家を出ていくと、再び会えるとは思っていない。だから、夕方、飼い主が帰ってくると、うれしくて、うれしくて、飛び跳ねて喜ぶ。生き別れて数十年も連絡の途絶えていた家族が帰ってきたときの感情に近い。
反面、犬は非常にしたたかである。「ごめんなさい」「かわいそう」という気持ちを持つと、それは必ず犬にも伝わる。犬はしたたかなものだから、すぐさまつけあがる。「あっ、これは何をやっても許されるな」と思って飼い主をなめてかかる。飼い主がなめられたら終わり。これは飼い主にとっても、犬にとっても実に不孝なことである。たとえ犬を間違って蹴ってしまったとしても、「ごめん」と謝るのではなく、しらんぷりする。「そんなところにいたおまえ(犬)が悪い」という態度を平然ととる。そして、二度とあやまって蹴らないようにする。犬に謝ってはダメ。
 犬が悪さをしたとき、我慢する飼い主がとても多い。しかし、それは間違い。我慢するのは、人間ではなく犬の役割。犬には我慢するという役割がある。犬は小さいときに我慢することを覚えさせないといけない。耳掃除や爪切り、そして体を拭いたり、ブラシをかけたり、そのときにはおとなしくしていること。そこで犬が嫌がるそぶりを見せても、途中でやめてはいけない。犬は自分を成長させてくれる人を尊敬して好きになる。賞罰をはっきりつけて、怒るときには怒る、可愛がるときには徹底して可愛がる人のほうになつく傾向がある。
 犬を叱るのは非常に難しい。叱るときにやってはいけないのが、中途半端に叩くこと。
 何回も叩くのも良くない。やるなら一発だけ手がつけられないくらい逆上しているふりをして叩くのが一番効果的だった。
犬をショーウィンドーに入れて展示すると、常に人の目にさらされるので、犬は大変なストレスをかかえてしまう。
犬を抱いたとき、動きが素早くて食欲旺盛で、抱いたとき、しっかりした固い感じがする犬ならいい。ふにゃっとしてたら、生命がないということである。犬は母親を見てから買うこと。犬の性質は母親に負うところが多く、もし母親を見せられないような犬であれば買ってはいけない。
犬は犬以上でも、犬以下でもない。欠点のない犬はいない。
犬が生涯で一番の不安は、お産のとき、やはり誰かにそばにいてほしいと思うことがあるのだろう。
 著者は、自分の店をペット・ショップとは呼びません。ペットショップと犬屋とは異なる。著者の青山ケネルではショーウィンドーのない本屋として有名である。
 犬について、本質的なところを知りました。タイトルはともかくとして、内容はすごくいい本でした。
(2010年9月刊。1400円+税)
 日曜日、年に二度の一大難行苦行がおわりました。フランス語検定試験(準一級)を受けたのです。もう10年以上も受け続けていますので、これまでの過去問を2回繰り返して復習し、「傾向と対策」もみっちり勉強しました。緊張の3時間が終わり、大学の構内を歩くときにはすでに薄暗くなっていて、落ち葉を踏みしめながら帰路につきました。大甘の自己採点によると76点(120点満点)ですから、口頭試問に進めると思います。
 毎朝のNHKラジオ講座は「カルメン」です。朝から魔性の女性に心ひかれる男性の気分にすっかり浸っています。

手塚治虫の描いた戦争

カテゴリー:日本史(戦後)

著者:手塚治虫、出版社:朝日文庫
 いやですよね、戦争って、本当に・・・。手塚治虫って、正真正銘、マンガの神様ですね。この本を読んで、改めてそう思いました。
 手塚治虫には戦争体験があります。まさしく危機一髪のところで命拾いをしたという体験があり、その体験が色濃く投影されています。いずれも、しみじみ考えさせられる場面になっているのですが、そのアプローチがともかく多様なのです。その点、ほとほと感嘆してしまいます。
 戦争で殺されてしまった人々が、殺された当時の姿でよみがえって、私たちを忘れないでおくれと迫ってきます。本当に、そうですよね。死んだ人たちは何も言えないのですから、生きている私たちが声をあげて戦争反対、戦争につながる一切の行為をひとつひとつつぶしていかなくてはいけません。
 世の中、ともすれば、勇ましい声がまかりとおってしまいます。北朝鮮やっつけろ、中国に負けるな、という声が最近もかまびすしいですよね。でも、現に日本は沖縄だけでなく、首都東京もアメリカに占領されてしまっているような現実もあるわけじゃないですか。なんで、そちらは問題にしないで、いいんでしょうか・・・。
 アメリカ兵が日本人を無法に傷つけ、殺しても、その大半は処罰もされません。高速道路だって、私用でもアメリカ兵はタダ。住居の水道光熱費、家賃みんなタダ。首都にある横田基地にアメリカの将兵が降り立っても、日本政府にはだれが何のために来ているかも知らされない。
 アメリカの高官は、アメリカ軍は日本を守るために日本にいるわけではないと一貫して高言しています。なのに、一方的に、アメリカは日本を守るために日本に基地を置いていると思い込んでいる私たち日本人・・・。
 なんてお人よしの日本人が多いのでしょうか。手塚治虫のマンガは、戦争を防ぐには、武力によらない外交の力が必要だ、そのためには、国民がそのことに自覚と自信をもつことだと訴えています。
 日本人が、戦争をふり返るのは8月だけだというのはまずいんじゃないですか・・・。
(2010年7月刊。800円+税)

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