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2010年9月 の投稿

されど

カテゴリー:朝鮮・韓国

 著者 洪 盛原 、 本の泉社 出版 
 
 日本の植民地支配を受けていた朝鮮では、一人の人物が独立の志士として評価される時期があり、また民族反逆者として罵倒される時期もあるという複雑な様相をもたらすことが起きる。
 万歳事件とも呼ばれた1919年の3.1独立運動のころには、日本の帝国主義に対して命がけで戦っていた愛国的な独立運動の志士たちが、アジア・太平洋戦争の末期には日本の帝国主義者に積極的に同調して媚を売る親日派、民族反逆者に心変わりして、彼らに心を寄せていた後世の人たちに、裏切られたという惨めな思いを味わせることがある。
いやあ、これって厳しい現実をふまえると、しかも迫害した日本側の子孫として、なかなか難しいところですね・・・・。この本は、そのような歴史的事実をふまえ、現代に生きる我々は、そのような重たい歴史的事実をどう受けとめたらよいのか、このことを改めて問いかけるものとなっています。
日本の帝国主義支配に改めて反対した人物が、その後、どのような生活をしていたのか、その子孫は今どこで何をしているのか、そして先祖についてどう評価しているのか、巧みなストーリー展開でぐいぐいと読ませます。
ただ、日本の植民地支配が韓国の近代化に役立ったという「日本人の主張」については、たしかにそのようなことを声高に言いつのる日本人は少なくないと私も思いますが、決して多数派でもないと私は信じています。一国の主権を奪うことをそんなに簡単なものと考えたらいけないと思うからです。
それは、たとえばアメリカのおかげで戦後の日本は発展してこられたのだから、今なお首都・東京に広大なアメリカ軍の基地があるのは当然なんだというような論法でしょう。でもこれって、まったくすりかえの論理であって、私にはとうてい承服できません。
 戦中・戦後の日朝・日韓関係を考えるうえで貴重な素材が提供されたと思える、読みごたえ十分の小説です。
 
(2010年4月刊。2800円+税)

南アフリカの衝撃

カテゴリー:アフリカ

 著者 平野 克己、日経プレミアシリーズ 出版 
 
 南アフリカの寒々とした実情が紹介されています。
サッカー・ワールドカップを成功させた南アフリカは、凶悪犯罪の発生率が群を抜いている。5000万人の人口のうち、毎年2万人が殺人事件で殺される。日本では600人なので日本の100倍だ。
 南アフリカには組織犯罪がはびこっていて、警察も腐敗している。警察官は一般公務員にくらべて薄給のうえ、毎年200人も殉職している。2008年には、犯罪組織から賄賂を受け取っていたとして、こともあろうに警察庁長官が逮捕された。この人は元国連大使で、警察庁長官時代にはインターポール(国際刑事警察機構)の総裁もつとめていた。逮捕される前には、ワールドカップの開催期間中は売春を合法化するよう主張していた。売春は犯罪組織の主要な収入源のひとつである。うひゃあ、なんということでしょう。信じられません。ただ、日本の警察庁長官も身分(収入)不相応の億ションに住んでいると指摘されたことがありました・・・・。
 南アフリカでは、授業ボイコットがアパルトヘイトへの抗議と考えられ、学校をドロップアウトする若者が続出した。アパルトヘイトが終わった今、彼らの多くは学校教育を受けていない、単なる無学歴者になった。労働経験がなく、労働意欲のないものも多い。民主化のために戦ってきたものの、民主化の恩恵を受けることはなく、多くが失業者か犯罪者となった。そんな人々が100万人から200万人もいる。
1750万人の労働人口のうち400万人が失業している。失業率は24%にもなる。
大量失業を生んだもう一つの原因は農業にある。アパルトヘイト体制化で黒人から土地を奪ったため、黒人農村が消滅してしまった。
うまく立ち回ったものだけが望外な報酬を手にするという社会では、相互信頼のかわりに嫉妬が発火するだけ。狡猾と嫉妬が生み出すものは、汚職と犯罪だ。
 南アフリカには1300人の日本人が生活している。日本とアフリカの経済関係は南アフリカに集中してきた。日本は、プラチナ、マンガン、クロム、バナジウムを南アフリカから輸入している。
 日本で販売されているベンツやBMWの多くは南アフリカ製である。南アフリカの自動車製造は、国の基軸的産業になっている。 
2000年以降、中国のアフリカ攻勢はすさまじい。1990年代にはアフリカ大陸全土で5万人といわれていた中国人は、今や75万人といわれる。中国製品は、アフリカのどんな国にもありふれている。なかでも一番、中国人の多いのが南アフリカだ。少なくとも20万人の中国人が住んでいる。だから、犯罪被害にあう中国人も多く、2005年に22人だったのが、2006年には14人が殺害された。
 中国から南アフリカに進出している企業は30社だが、南アフリカから中国へ進出した企業は300社もある。
 南アフリカという国を少しばかり知りました。やっぱり怖い国だなと、つい思ってしまいました。スミマセン・・・・。
 
(2009年12月刊。850円+税)
 フランスには回転ずしまで進出しているのですね。ちっとも知りませんでした。パリのカルチェラタンには、漢字で「寿司」と書いた店がありますが、なかは回転寿司でした。
 デイジョンで泊まったホテルの隣にも、小さな回転寿司の店がありました。こちらは立派そうなカウンターでしたから、高級回転寿司の店のようです。
 リヨンには、町のあちこちに見かけました。
 魚、そして寿司は、健康に良いという評価がフランスで定着しているのでしょう。値段も安いですしね。

アメリカと戦争

カテゴリー:アメリカ

 著者 ケネス・Jヘイガン、イアン・Jビッカートン、 大月書店 出版 
 
 日本語版序文に次のように書かれています。
 海外での軍事的冒険主義へのさらなる加担を拒否した日本人の人々の思慮深さは、われわれを非常に勇気づけている。
 ええーっ、これって日本人をほめ過ぎでしょう。正直いって、私はそう思いました。でも、この本の著者は、なんとアメリカ合衆国海軍士官学校名誉教授であり、海軍大学校の教授なのです。決して冗談とか茶化して言っているのではありません。
 戦争は、あなたが望むときに始めることができる。しかし、戦争は、あなたの望みどおりには終わらない。なんと、これは、かの有名なマキャヴェリの言葉なのです。そして、アメリカの始めた戦争が、ベトナムでもイラクでも、まったくこのマキャヴェリの言葉どおりに推移していることが、この本のなかで明らかにされていくのです。大変明快な主張です。
 さらに、アナン国連事務総長(当時)の言葉も紹介されています。
 戦争とは、政治的手腕や想像力の破壊的失敗、すなわち享受すべき平和的政治手段を選択肢から強制的に排除するものにほかならない。
 なーるほど、そうなんですね・・・・。
 アメリカ合衆国についての神話の一つは、平和的な民主主義国家であるアメリカ合衆国が軽率かつ不正に戦争に突入したことは一度もないというもの。しかし、アメリカ人は、国益上、必要であれば、武力行使をいとわないことを示してきた。
 戦争とは、国家の指導者の行う最も重大な決定であるのみならず、まったく先の予測のできない冒険的なものである。戦闘が思いどおりに終結する確実な見込みは存在しない。アメリカ軍は、独立以来、これまで海外で250以上もの軍事行動を起こしてきた。すなわち、一年に一度以上、戦争を遂行してきた。
 18世紀のアメリカ独立戦争のとき、13植民地の構成員250万人のうち、半数近くがイギリス王国に忠誠を示していた。実際に武器をとった推定6万人の王党派と、ほとんどすべての植民地で求められた、革命派の大義に対する忠誠を拒絶した人々は捕えられ、強制収容所に監禁され、厳しく罰され、追放されたあげく、土地や財産をすべて没収された。かれらは、戦争が終わったとき、イギリス領カナダへ逃げ去った。
 19世紀の南北戦争は、戦争を率いた指導者の見通しをはるかに凌駕して、まったく意図していなかった結果を生み出した。南北戦争における戦死者数は、おそらくアメリカ合衆国が遂行したあらゆる戦争の戦死者を合計した統数を超越している。1860年のアメリカ総人口の2%、60万人が戦死した。
 南北戦争はイデオロギー戦争でもあった。両軍の志願兵は、自分たちは自由のために戦っていると信じていた。この信念こそが、戦争を残虐なものし、勝利を達成するまで戦争終結を遅らせることになった。戦争の長期化には、予期されたことでも、意図されたことでも、まったくなかった。当初は誰も、この戦争から徹底的な総力戦と化し、これほどまでに長期化するとは考えていなかった。
 南北戦争は、アメリカ合衆国が軍事的に無限の潜在力をもつ国家であるという信念を増長させ、美化することになった。大統領として、また軍の最高司令官として、リンカーンはかつてないほど直接的に戦争遂行上の役割を一個人として担うことになった。
 第一次世界大戦において、アメリカ軍の参戦にはわずか19ヶ月間にすぎなかったが、死者11万6000人、負傷者23万4000人をふくむ総計36万人という犠牲者を出した。
 アメリカ合衆国にとって、第一次世界大戦の結果は、国内においても全面的に期待はずれのものだった。
 第二次世界大戦の圧倒的ないとせざる結果とは、この戦争が平和とはいえない一つの平和を生み出したことである。戦争は終結せず、ただ戦闘が終了しただけだった。
 第二次世界大戦から出現したのが、米ソ両国が代理国家に戦争と死を肩代わりさせて世界中でおこなった数え切れない局地戦を生み出す、核軍拡大競争によって膠着した45年間にわたる冷戦だった。原爆を投下した目的の一つがソ連を抑止するための威嚇だったなら、それは惨めにも失敗したのだ。
 冷戦は、武装した大規模な戦闘という意味での戦争ではなかった。冷戦とは、幻想の戦争であり、真実をあいまいにするような常套句の応酬をともなうイデオロギー対立だった。朝鮮戦争は、全面戦争というより、公然と布告されなかったものの、「警察行動」にほかならなかった。
 朝鮮戦争のもっとも意図せざる劇的な結果とは、アメリカ合衆国が決定的な勝利を手にすることができなかったことである。
ベトナム戦争の第一の、そしてもっとも明白な意図せざる結果は、アメリカ合衆国にとっての恥辱にみちた敗北にほかならない。ベトナム戦争は、この大統領を思いがけず破滅させただけでなく、ジョンソン大統領の「貧困との戦い」や「偉大な社会」という抗争にも終止符をうつことになった。巨額の戦費が引きおこしたインフレ、戦争中に起こった行政権力の乱用や市民的自由の侵害行為は、1960年代後半から70年代初頭の全米に、分裂、暴力的抗議活動、不安を生み出した。
 ベトナム戦争の残虐さは、国内における戦争への支持を損なうことになり、1965年には、早くも学生が中心の強力な反戦抗議運動が登場することになった。
著者は、最後に次のように力強く呼びかけています。
 いまこそ、大幅に軍事費を削減し、武力行使よりもむしろ真剣な交渉に従事し、荒廃した社会的・経済的インフラの再建を図るべきなのだ。戦争においてアメリカ合衆国が生み出した意図せざる結果を調査することによって、戦争はおろかであり、無駄であることを示した。ひとたび、この見解が認められたら、戦争以外の手段が無限に可能となる。
 まことにそのとおりです。本当に心からの拍手を送ります。すばらしい教訓と呼びかけにみちあふれた本です。じっくり読む価値のある本として、おすすめします。
(2010年6月刊。2800円+税)

東中光雄という生き方

カテゴリー:司法

 著者 関西合同法律事務所、 清風堂書店 出版 
 
 特攻隊から共産党代議士へ、というサブタイトルのついた本です。東中(ひがしなか)光雄というと、弁護士というより代議士という印象が強いのですが、なんとゼロ戦ファイターであり、特攻隊の隊長だったというのです。そのころの凛々しい写真もありますので、間違いありません。軍国少年は海軍兵学校(海兵)に入り、海軍航空隊に入ってゼロ戦に乗り、教官にもなって、特攻隊に志願したというのです。そんな経歴の青年が、戦後は大学に戻って法学部から弁護士となり、人民の立場に立つ弁護士として頭角をあらわしていくうちに共産党の国会議員になり、30年間、代議士をつとめて引退したのでした。
 これだけでもすごい経歴ですよね。
 そして、奈良の薬師寺の名物管主として高名だった高田好胤(こういん。故人)師と小学生のころに同級生で、寺の修行のために勉強のできない高田師に勉強を教えていたというのです。なんだか不思議な取りあわせですね・・・・。
東中光雄は、当時、「一高、三高、陸士、海兵」と並び称された難関中の難関校に挑戦し、見事に合格した。 海兵を卒業したあと、筑波航空隊に小尉としてつとめ、1945年3月には中尉となった。千歳空港での飛行訓練のとき、乗っていたゼロ戦が故障した。東中中尉は、火災を起こさないよう燃料を使い切って着陸を決断した。数十分も上空を飛んだあと、片足しか出ない機体で、無事になんとか着陸した。
いやはや、なんとも度胸がすわっていますよね。たいしたものです。ほかにも、雲の上で、上下左右みな真っ白という状況におかれ、気がついたときには地面に向かって真っ逆さまという状態になっていたのを機体を立て直して事なきをえたという、心の震えるエピソードも紹介されています。
 特攻隊の募集があったのは1945年6月。20歳の東中中尉は「大熱望」と書いて上官に手渡した。内心は、仕方ない、やるしかないという気持ちだった。
 8月15日の玉音放送を聞いたときには、残念だという気持ちとほっとしたという気持ちが入りまじっていた。海軍兵学校67期(昭和14年卒業)から70期(昭和16年卒業)までの戦死率は60%をこえる。
 戦後、東中光雄は同志社大学に入学した。ところが、卒業の時点で、公職追放令にひっかかり、希望する教師や言論界への道が閉ざされた。そこで、やむなく弁護士を目指すことにした。体力勝負の滅茶苦茶な勉強をして一年たらずで司法試験に合格し、1949年4月に司法修習生(第3期)になった。この年は、7月に下山事件と三鷹事件、8月に松川事件といった謀略事件が相次いで発生した。
 1951年、東中光雄は弁護士となり大阪弁護士会に登録した。先輩の加藤充弁護士から、「絶対に敵の土俵にはいらない」「敵の土俵でケンカしない」ことを教えられた。1954年に独立して東中法律事務所を開設した。
 東中光雄の弁護スタイルの特徴であった、社会的正当性を法的正当性に高めるには、交流や実践を通じて若い弁護士たちに浸透していった。法律の条文形式上は困難に見える主張でも、社会的に正当であれば、とことん主張する。法的に勝ち目を見出すのが難しくても、現実的かつ妥当な解決に持ち込む、こうした観点で、弁護士たちの実践が交流され、点検された。
 そして東中法律事務所は事務所創立20周年を機会に名称を関西合同法律事務所に改めた。このあと、東中代議士の活躍ぶりが紹介されています。今の小選挙区制ではさすがに困難だと思いますが、中選挙区制のもとで、10期連続して当選したというのですから、それだけで感嘆してしまいます。日本共産党の議席が衆議院だけで38議席もあり、多くの弁護士議員が活躍していたのでした。東中代議士はロッキード事件、ダグラス・グラマン事件、リクルート事件、金丸信不正蓄財事件などなどで大活躍した。
 小沢一郎の政治献金事件なども、国会での追及が甘すぎると考えている私にとって、東中代議士のような存在は本当に必須不可欠なものだと痛感します。弁護士になってから、そして代議士としての活躍部分についても、もう少し読みものにしてもらえたら、さらに読みやすく、感動的な本になったのでは・・・。そんな注文はありますが、今なお86歳で、お元気の東中弁護士に大いに学びたいと思いました。
 読んで元気の出る本として、おすすめします。
(2009年2月刊。1600円+税)
 フランスの大都市には、貸自転車システムが整備されています。今回パリだけでなく、ディジョンでもリヨンでも待ちのあちこちに貸自転車が並んでいるのを見ましたし、実際、人々が自転車を走らせていました。
 都心部にこれ以上、車を侵入させたくない、また、渋滞で身動きとれないときに自転車は便利ですよね。
 観光客もクレジットカードがあれば利用できるようですが、その仕方も分かりませんから挑戦はしませんでした。
 なにしろ車は多いので、見知らぬ街での自転車の利用は、いささか危険を伴います。

私は虫である

カテゴリー:生物

著者:熊田千佳慕、出版社:求龍堂
 すごい絵です。生き物が躍動している、その瞬間が、実に細かく絵になっています。静止しているのではありません。飛翔中のカブトムシが、さながらの姿で描かれています。感嘆するばかりです。
 童話の挿絵の原画もあります。ファンタジーの世界が目の前に現出します。そんな絵を98歳までずっと描き続けた著者の言葉ですから、含蓄に富む言葉が多く、胸に響きます。
さっと読めますし、読んでよかったなと素直に思える本です。
 身のまわりにあるものに愛を感じ、美しさを感じ、楽しいひとときを持ち、生活の中に豊かな感性を持つことが本当のゆとりである。
 古来、日本人は、花鳥風月を愛する心を持ち、豊かな感性を持った生活をしていた。そこには本当にゆとりがあった。ゆとりとは作るべきものではなく、自ずからできるものである。
 物をよく見て、見つめて、見きわめる。そして、線を確認して鉛筆を走らすという画法を身につけた。
 17、8のとき、将来、小さい人たちのために仕事をするには、体だけでもピュアにしておこうと思って、それでお酒と煙草はのむまいと決めた。
 うへーっ、煙草は、ともかくとして、お酒まで絶たなくても良かったのでは、と思いました。
 いつも芸の仕事も他のことも、八分のペースを土台にしている。集中力を八分のペースですすめる。十のペースの力を八のペースの中で集中する。残った二の力は芸のゆとりにする。なーるほど、そういうことなんですね・・・。
 自然そのものがアートなんだから、こつを本当になくして、無心で入ってしまえばいい。そうしたら、そのままのものが出てくる。
 花の香りは花の命の香り。花の絵の究極の目的は、その花の香りの描写である。すなわち、花の命の描写である。うむむ、なんという言葉でしょう。言い放しにしないところがすごいですね。
 雑草という言葉は使わない。どんな小さな花でもみんな名前を持っている。どんなものを見ても、それぞれの美しさを持っている。
 虫と同じ目の高さにならないと、虫の本当の姿は見えない。だから腹ばいになる。
 そうやって気づいた。虫は僕であり、僕は虫である、と。人間様がいちばんえらいような顔をしているけれど、虫から見れば、所詮は同じ生き物。動物でも植物でも、根は一緒。この地球の上で共生している存在であり、お互い大切な存在なのだ。
 著者は野外でスケッチしないというのです。これには、さすがに驚きました。頭の中に、その姿を焼きつけておいて、家に帰ったらすぐに描きとめておくのです。
 うへぇ、これって、並の人間にはとても出来ないことです。さすが、ですね。
 活き活きとした緑や花のある家は、お金のあるなしではなく、幸せな、ゆとりある家庭を築いている。こんな論評があります。たしかに、そうは言えるのではないでしょうか。
 最後に、著者のペンネームの由来を聞いて笑ってしまいました。なんと、千人の佳人に慕われるように名付けたというのです。それでは、私も同じペンネームにしなくてはいけませんね・・・。
 著者の描いた絵の現物をじっくり眺めたいと思いました。
(2010年4月刊。1200円+税)
 フランスでは超高級レストランはともかくとして、人々は、ともかく店の外で飲食するのを好みます。
 カフェーもてんないより、歩道に引き出したテーブルで、通行人を眺め、自らも見られながら、ゆっくりコーヒー、ビール、そしてグラスワインを楽しんでいます。
 食事も、外の席から埋まっていきます。テラスのテーブルは、少し離れているだけで、ほとんど相席感覚です。
 なぜか虫がきません。蚊やハエに悩まされたことはほとんどありません。
 そして、不思議なことに、ウェイターもウェイトレスも客の出した勘定をろくに数えずに「メルシー」と言って受け取ります。もちろん、おつりをもらいたいときにはお釣りをくれます。このおうようさが不思議でなりませんでした。

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