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2010年9月 の投稿

俺の後ろに立つな

カテゴリー:社会

 著者 さいとう・たかお、 新潮社 出版 
 
 大学生のころ、私も『ゴルゴ13』を愛読していました。といっても、買っていたのではなく、寮内のまわし読みの恩恵にあずかっていたのです。白戸三平の「カムイ外伝」も夢中で読んでいました。最近は、とんとご無沙汰しているのですが、1968年に連載が始まってから、今日まで1回も休みなしで続いているというのです。
これはすごいですね。寅さん映画を上まわります。なぜ、そんなことが可能なのか? その秘訣は、分業を取り入れた「さいとう・プロダクション」にあります。この本は、その実情を語ってくれます。その発想、そして企画を40年にわたって実行し続ける力は偉大です。
著者は19歳のとき(昭和30年)、大阪でデビューした。ときあたかも、貸し本ブームの時代。そして、昭和32年に東京に進出。手塚治虫たちがトキワ荘に集まって活動していたころのこと。そして、分業化に早くも挑戦した。その一連の作業の流れは次のとおり。
まず、脚本担当は時代の潮流からテーマをすくい上げ、それに沿った資料をかき集め、そこから物語を紡ぎ出していく、それを俎上に脚本担当と構成担当が徹底的に検証し、脚本を完成させる。構成担当は、その脚本をどういうようなコマ割で展開し、演出するかを搾り出す。それが出来上がると、いよいよ絵を描くのだが、作画担当も、それぞれに人物担当、背景担当と役割が決まっている。スタッフそれぞれが得意なパートを分担するわけだから、それぞれの才能を十分に生かした力強い作品が望めることになる。すべてが共同作業となるため、それなりのチームワークは欠かせないが、完成時には一人作業ではとうてい味わえない達成感がある。マンネリ化を引き起こさないよう、脚本は外注化する。
すごい発想ですよね。マンガを分業化し、チームで描くというのは・・・・。よほど中心にすわる人の力が大切なのではないでしょうか。
 映画と劇画の違い。劇画のコマ割りは二重構造、つまり作品に二重の効果をもたらすという独自の特徴がある。劇画の場合、一つずつのコマ割りの前に、見開きごとの展開を考えなければならない。最後のコマに工夫を要する。次の見開きページに興味をもたせるために、つなぎのシーンで終わらせるといった仕掛けが必要なのである。
 「007シリーズ」の映画を劇画化するとき、著者はそれを読んだことがなかった。原作に引きずられないためである。小説のボンド像が見えてしまうと、劇画として小さくまとまってしまう。そのことを恐れた。なーるほど、そうなんですか・・・・。
 登場人物作りは大切。いくら面白い脚本ができてもキャラクターづくりに失敗すると、面白くなくなる。そして、主人公の名前が決め手。名前は、その性格に大きく影響する。「ゴルゴ13」のゴルゴとは、キリストが十字架にかけられたゴルゴダの丘。「13」は、キリスト最後の晩餐で13番目の席にいたユダヤにまつわる数字だ。そこからイメージをふくらませ、あのキャラクターは出来上がった。私も「小説」を書いていますが、ネーミングには苦労しています。名は体をあらわします。イメージは大切ですからね。
 「ゴルゴ13」とは、できるだけ距離を置いて描くように気をつけた。そして、距離を置いていって、どんどん台詞を減らしていった。
 なまじ知識のあるものを道具立てにした劇画は描かない。知識がある分、常識から逸脱した発想が浮かんでこなくなるから。ふむふむ、これって、とても逆説的なことですよね。でも、なんとなく分かりますね・・・・。
これだけ描いてきてもネタに困ったという覚えは一度たりともない。そもそも物語と言うのは、シェイクスピアが書き尽くしてしまっている。それだけに余計なことには手をださない。我々はパターン化されつくした物語にどう味付けし、枝葉をつけるのか、それだけ考えて作業を進めたら事足りる。つまりは、アレンジだ。
それは、音楽も一緒で、旋律のパターンに限りがあって、どれも似たり寄ったりなのだが、リズムをちょっと変えるだけで、不思議なほど、別物に聞こえる。物語も、このアレンジには際限なく、これからもたくさんの作品が誕生するはずだ。
「ゴルゴ13」は身近な出来事の延長線にあるのだが、舞台を国際化すると、スケール感が加わり、スリリングな物語に変身、読者は手に汗して、その成り行きに固唾を呑む。脚本担当と著者の仕事は、そのいかにも現実にありそうな話をアレンジすること、奇想天外なストーリーでありながら、現実にあっても不思議ではない話であることが作品にリアリティーを与える。
シェークスピアが出てくるところは、恐れいりましたという感じです。大変示唆に富む本でした。さすがは読ませる(見せる)プロです。
(2010年6月刊。1300円+税)

日本の教育格差

カテゴリー:社会

 著者 橘木 俊詔、 岩波新書 出版 
 
 日本では高卒と大卒との間で、賃金格差が目立っている。しかし、日本は、アメリカ、ドイツ、イギリス、フランスそして韓国と比較すると、学歴間の賃金格差がもっとも小さい。日本が1.60であるのに対して、アメリカは2.78、イギリス2.60、韓国2.33、フランス1.92、ドイツ1.85なのである。このように、国際比較では、日本は学歴による格差が小さく、むしろ平等度の高い国家といえる。
 へへーん、そうなんですか・・・・。ちょっと信じられませんでしたね。
上場企業の役員のうち、名門大学出身は50%弱であり、非名門大学出身者が過半数いる。上場企業の役員になる道は、非名門大学出身者にも、それなりに開かれている。たしかに、企業では、実力本位のはずです・・・・。
 短大・大学進学率は、1960年から1975年までの15年間に、10%から40%まで急激に上昇した。そして、1975年ころに上昇率が止まる。ところが、1995年あたりから再び大学進学率は上昇し、現在は50%を少しこえた水準で落ち着いている。これは主として女子の短大・大学進学率の上昇が要因である。
 18歳人口の半数以上が短大・大学に進学している国は、アメリカと日本くらいで、世界中にそんなに多くない。
国立大学の授業料は年に56万円。私立大学では、文系で70万円、医・歯で300万円ほど。そのため、親の経済状況が子どもの大学進学の決定に大きな影響を与えており、国公立と私立のどちらかに進学するかにも影響を及ぼしている。私のときは、年に1万
2000円の学費でした。寮費も同じです。
 公立学校で子どもが学ぶことは悪いことではないというのが著者の考えです。人間社会の縮図を子どものころから体験することは、子どもの人間形成にとって貴重な体験となるからである。私自身は市立の小・中学校そして県立高校、国立大学というコースをたどっています。中学校は団塊世代でしたから、1学年13クラス、1クラス50人。傷害事件を起こして少年院へ送られた同級生が何人もいました。ツッパリグループは隣の中学校の生徒とのケンカが絶えませんでしたが、生徒数が多いこともあって、私自身は、いつものほほんと学校で生活していました。いじめもあっていたのでしょうが、一クラスに50人以上もいると、あまり気にせずに生きていけたのです。同質の生徒ばかりが集まるのは、勉強と成績維持のためにはいいかもしれませんが、人間の幅を狭くするのではないかという心配もあると思います。いかがでしょうか・・・・。
 日本は公教育費支出がOECD諸国のなかで最低。それは、日本では教育は私的財とみなす考え方が支配的だから。つまり、教育の利益を受けるのは教育を受ける個人だという考え方が根強い。大学などの高等教育段階において、日本の公的教育支出は
4689ドル。アメリカ、イギリス、ドイツ、フランスでは9000ドルをこえているのに、日本は、その半分程度でしかない。
 家計への直撃度は、日本の大学は5ヶ国中で一番高い。日本は突出して家庭に教育費負担を強いている国である。ヨーロッパでは多くの国で授業料は無償であり、大学に国が多額の支出をしている。日本は大学の授業料が高いうえに、奨学金制度もきわめて貧弱である。日本の奨学金は7000億円。アメリカでは、なんと13兆円である。しかも日本の奨学金制度は無利子から有利子となり、総額も減少するなど、財政難から後退し続けている。私も月3000円の奨学金をもらっていて、弁護士になって数年して返済を終えました。
 思い切って少人数学級にして、学力の高い子も低い子も、今以上に指導の行き届いた教育を受けさせる。そのことが、それぞれの学力を高めることになる。
 そうなんです。コンクリートより人なんですよね。人間への投資を高めてこそ、日本という資源の乏しい国が浮揚することのできる唯一の道だと私も確信します。大変示唆に富んだ、いい本でした。
 司法修習生に給与が支払われていた制度が廃止され、貸与制になろうとしています。日弁連は給与制の廃止を止めさせようと頑張っています。人間を大切にするためには、まずはお金が必要です。ゼネコンのためにしかならないような空港や新幹線、ムダの典型である戦車やヘリ空母などをつくるのを止めたら、すぐに実現できることなんです。ぜひぜひ、流れを人間本位に変えましょうよ・・・・。
(2010年7月刊。800円+税)
 ネコヤナギの木が根元から腐れ、倒れ掛かって残念ですが掘り起こして片付けました。幹を切ると、空洞になっていて、たくさんのアリが棲みついていました。ノコギリを手にしていると、怒ったアリが腕に噛みついてきて、痛い思いをしてしまいました。棲みかを襲われてアリが怒るのも無理はないのですが、こればかりは仕方ありません。数日後、アリ軍団はどこかへ姿を消してしまいました。
 いま、庭にはピンクの芙蓉の花、そして淡いクリーム色のリコリスの花が咲いています。芙蓉のほうは、酔芙蓉も咲き始めました。朝のうち真白で、午後から酔ったように赤くなっていく花です。
 リコリスはヒガンバナ科です、今年は猛暑が続いて万寿社下の赤い花は咲き遅れているようです。稲刈りも間近となりました。

国際弁護士

カテゴリー:司法

 著者 桝田 淳二、日本経済新聞出版社 出版 
 
 今から20年近く前(1992年)、48歳の日本人弁護士がアメリカに渡り、ニューヨークで事務所を構え、渉外弁護士としてスタートした。その苦難の道が描かれています。なかなかに読ませる内容の本です。
 いま(2010年7月)、日本にいる外国の弁護士(外国法事務弁護士)は347人である。これって意外に少ないですよね。
 著者は、1970年にコロンビア、ロースクールに留学し、2年数ヶ月間ニューヨークに残り、アメリカの法律事務所で研修した。
アメリカでは、弁護士依頼者特権が認められていて、弁護士と依頼者とのあいだの法的な相談に関するコミュニケーションは証拠開示の対象にならない。ところが、弁護士であっても専門家証人として接するときには、この特権は適用されないので、注意を要する。つまり、弁護士から意見書を法廷に出してもらったときには、弁護士依頼者特権は放棄したものとみなされる。そこで、自分たちが相談し、訴訟で代理人になってもらう弁護士には意見書を書いてもらってはいけない。
 ディスカバリーは、いかに大変か。また、イーディスカバリーについては専門業者を雇う必要がある。弁護士依頼者特権を生かすためには、何かあったときには、まず何をおいても弁護士との相談を始めることが必要である。弁護士に相談をするまでに検討された事項は、ディスカバリーによって、すべて相手方の弁護士にもっていかれて、検討される。
デポジションはビデオに撮られる。
アジア系少数民族が多くいるニューヨーク、カリフォルニアその他においては日本人をふくむアジア系少数民族へのアフリカ系アメリカ人の偏見は非常に強い。そこで、日系企業が陪審裁判にかけられたら、不利な判断がなされることを覚悟しておく必要がある。したがって、陪審裁判になる可能性があるときには、早期に和解で決着することがきわめて望ましい。結果として、クライアントにとって、何がビジネス的にベストの解決であるかを常に考えるべきなのである。
アメリカの裁判所の法廷における口頭弁論は、むしろ裁判官の質問に答えるためのもの。口頭弁論の時間は厳しく管理されていて、時間になると、自動的に赤いランプが点灯する。裁判官から厳しい質問が次々に出されるので、どんな質問にも即答できるように準備しなければならず、徹夜するなど、大変なことが多い。
 絶えずクラスアクションの種を探している弁護士と法律事務所がいる。プレインティプローヤーという。被害者側の原告の立場に立って大企業を訴える弁護士がアメリカでは非常に活発に活動している。アメリカには訴訟印紙の制度はないので、簡単に巨額を請求する訴訟を提起できる。プレインティプローヤーの法律事務所も非常に大型化し、何百人もの弁護士がいる法律事務所がある。非常に複雑で大型のクラスアクションを提起して、莫大な弁護士報酬を得ている。豊富な経験と高度の専門知識を有している。そのなかの老舗の弁護士たち4人が、違法なキックバックをもらって有罪となり実刑を課されたことも起きた。
 州の裁判所の裁判官は選挙で選ばれるため、一般に州民に有利な判断をする傾向がある。そのため、日本企業がアメリカの州裁判所でえられたときには、なるべく連邦裁判所で審理してもらえるよう移送申立する。
 アメリカは原告天国で、日本は被告天国である。日本では損害賠償を求めても、損害額の認定が困難で時間がかかり、認定額もアメリカに比べて30~40分の1程度でしかない。アメリカは訴訟期間が短いだけでなく、判決も日本より弾力的である。
良い弁護士は、依頼者の話をよく聞き、依頼者が本当に望むことを十分に理解し、それを実行してくれる弁護士。忙しくない弁護士は通常優秀でないから、仕事が多くなく、忙しくない。忙しい弁護士は優秀であるから、いつも忙しい。だから、むしろ忙しい弁護士を選任するべきなのである。そして、1時間あたりのレートの高い弁護士をつかうほうがずっと良い結果を生む。この点は、私もまったく同感です。私が不祥事を起こしたら、知りあいの忙しい弁護士に依頼します。それなりのペイを支払って・・・・。
すべてをアメリカ的に考え、アメリカ流にすすめていく弁護士は、日本企業には決してふさわしくない。なーるほど、ですね。
 著者はアメリカで月300時間も働いていたそうです。土・日もなく、早朝から夜中の2時、3時まで働いていたというのです。これでは健康を害してしまいますよね。こればかりはマネしたくありません。
著者は、日本の若手弁護士よ、もっと国際的にも活躍せよ、とゲキを飛ばしています。なるほど、そうなんでしょうね。大変勉強になりました。
 
(2010年8月刊。2400円+税)
 秋の名月をベランダに出て、じっくり天体望遠鏡で観察しました。大変な猛暑がいつまでも続いていましたが、このところ一気に涼しくなりました。ベランダに出て夜空にぽっかり浮かぶ月を眺めていると、本当に心が安らかな気分になります。どうしてこんなに丸いのかしらん。空中にこんな重たい物体が浮かんで落ちてこないのはなぜかな。月世界の縞模様は、どうやってこんなに見事なのかな。世の中に不思議なことはたくさんありますが、宇宙の神秘にはつくせないものを感じますよね。
 金星の衛星が横一列に並んで3個見えました。天文台の大型望遠鏡で夜空を眺めてみたくなります。

サラの鍵

カテゴリー:ヨーロッパ

 著者 タチアナ・ドロネ、 新潮クレスト・ブックス 出版 
 
 久しぶりに、読んでいる途中から涙が止まらなくなりました。沖縄からの飛行機のなかで読んでいましたが、隣の男性を気にせずハンカチで涙をしきりに拭いてしまいました。
 大変なストーリー・テラーだと驚嘆しました。あなたにも強く一読をおすすめします。
 第二次世界大戦が始まって4年目、1942年7月16日の早朝、パリ市内外のユダヤ人1万3152人が一斉に検挙され、パリ市内にあったヴェロドーム、ディヴェール(冬の自転車競技施設。屋内競技場)に連行され、押し込められた。そこには4115人の子どもたちも含まれていた。トイレも使えず、満足な食事も与えられないまま、6日間、この競技場に留め置かれたあと、彼らのほぼ全員がアウシュヴィッツに送られ、殺された。戦後、生還できたものは400人足らずでしかなかった。大人と違って、子どもたちは選別されることもなく、死に直行させられたのでした。
 誰が、この一斉検挙を企画し、実行したか。当時、パリはナチス・ドイツ軍に占領されていた。フランスのヴィシー政権は、ユダヤ人身分法を成立させるなど、ユダヤ人を迫害していた。この一斉検挙も、フランス警察が立案し、実行したのだった。
1995年7月16日、シラク大統領(当時)は、この事件について国家として正式に謝罪した。53年前に450人のフランス警官がユダヤ人の一斉検挙を行い、彼らを無残な死に追いやったことをはっきり認め、それを謝罪した。
 シラク大統領の演説を聞いて、この事件をはじめて知ったというフランス人も少なくなかった。1961年生まれの著者(当時34歳)もその一人だった。学校では教えられなかったこの事件を聞いてショックを受けた彼女は、もっと事件のことを知りたいと思い、調べはじめた。子どもたちのたどった悲惨な運命を決して埋もれさせてはいけないという使命感が膨らんでいった。そして、単なる歴史書ではなく、その悲劇を現代に生きる我々の胸によみがえらせ、我々のドラマとして共有しようと思った。その思いが見事に結実した小説です。
 この日、警官に連行される直前、10歳の少女サラは弟のミシェルを姉弟だけの秘密の納戸に隠し、鍵をかけた。「あとで戻ってきて、出してあげる。絶対に」と言って。しかし、サラは訳も分からないうちに強制収容所に入れられ、両親とも離れ離れにさせられた。パリの自宅に戻るどころではない。しかし、奇跡的にも脱走に成功し、ついにパリの自宅に戻ることが出来た。そして例の網戸を開けたときにサラが見たものは・・・・。 
 ユダヤ人一家を追い出したあと、「何も知らない」フランス人の家族がそこに移り住んでいます。そして、元の所有者であるユダヤ人の娘が登場したときに・・・・。
 過去の忌まわしい出来事を今さらほじくり返して何になるのか、そんなことは忘れ去ったほうがいいだけだ・・・・。
 フランス人の夫をもつアメリカ人ジャーナリストである主人公が事件を調べはじめると、そんな非難がごうごうと夫の家族から湧きあがってきます。それでも調査をすすめていと・・・・。いくつもの意外な展開があり、予断を許しません。次の展開を知りたくて、頁をめくる手がもどかしくなります。
 自分の親が若いときに何をしていたのか。これって、自分とはどういう存在なのか、それを考えるうえで欠かせないものではないでしょうか。10代のころの私は、恥ずかしながら、まったく親を凡愚の典型としか見ていませんでした。今思うと、顔から冷や汗が噴き出しそうです。30代になって、少しは親を見直しました。40代になったとき、親の生きざまをインタビューしはじめ(録音もしました)、その裏付け調査をして、生い立ちとして文章化していくなかで、日本の現代史が私にとって身近なものになりました。親を人生の先輩として評価することもできました。
 父の場合は、朝鮮半島から徴用労働者を日本へ連行するという、日韓・日朝関係では避けて通れない蛮行に、三井の「労務」担当として従事していたのでした。
 母の異母姉の夫(中村次喜蔵)は第一次大戦中に青島(中国)にあったドイツの要塞攻撃に参加して手柄をあげ、かの有名な秋山好古(日露戦争のとき、騎兵を率いてロシア軍を撃破)の副官にもなり、終戦時には第112師団の師団長(中将)として満州で愛用の拳銃をもって自決したことまで分かりました。偕行社に調査を依頼して判明したのです。
 日本人は戦争被害者であると同時に加害者でもある。このことを親のことを調べていくうちに実感させられました。いずれも簡単な小冊子にまとめたところ、これを読んだ甥が感動したと言ってきました。
 父の弟は応召して中国大陸に渡り、終戦後は、八路軍に技術者として何年間か協力させられました。国共内戦のなか、満州を八路軍とともに転戦したのです。このことを調べるなかで、百団大戦とか国共内戦の実情などが身近なものになりました。
 日本は、歴史的事実に対して今なお率直に認めず、中国や朝鮮、韓国に対してきちんと謝罪していないと私は思います。むしろ、開き直ってさえいます。自虐史観とかいって事実直視を非難するのはあたりません。事実は事実として認め、過去の事実から現代に生きる我々は何を教訓として学び、今日に生かすべきか、もっと冷静な議論が必要に思います。
 あなたは、自分の親がその若いころ、何をしていたか、どんなことを考えていたか、ご存知ですか? それを知りたいと思いませんか。
ちなみに、私の亡父は大学生のころ法政大学騒動の渦中にいたようです。三木清がいたころのことです。私も東大「紛争」のとき、大学2年生でした(私は当事者の一人として、紛争とは呼びたくありません)。じっくり読んで、人生を考えてみるのに絶好な本です。
 
(2010年5月刊。2300円+税)

偽金づくりと明治維新

カテゴリー:日本史(江戸)

著者:徳永和喜、出版社:新人物往来社
 幕末の薩摩藩が倒幕の資金源として大々的に「ニセガネ」をつくっていたという説の真偽を追及した本です。どうやら本当のようですが、著者は通説の誤りもただしています。
 ニセガネづくりには家老の調所広郷(ずしょひろさと)は関与しておらず、実際に関わったのは小松帯刀(たてわき)と大久保利通だった。
 薩摩藩は、幕府の許可を得て「琉球通宝」を鋳造した。そして、文字を変えた「天保通宝」を鋳造し、さらに二分金のニセガネを鋳造した。この二分金は純粋の金貨ではなく、金メッキした銀という意味で通称「天ぷら金」と呼ばれた。
 これを推進したのは島津斉彬(なりあきら)であった。斉彬の死亡後に、安田轍蔵(てつぞう)が経済通の能力を生かして登用された。琉球通宝が幕府から許されたのは安田の小栗忠順などとの人脈を生かした尽力による。
 安田は、琉球通宝を鋳造し、その後に天保通宝を鋳造・流通させ、その資金をもって洋銀を購入し、さらには洋銀から国内流通の一分銀・一朱銀を鋳造するという壮大な構想をもっていた。これは、実体経済を知悉していた安田が開通場での洋銀精算に着目し、国内金銀貨幣と洋銀との交換比率から生じる差益を利用するという考えによるものであった。
 安田の考えによれば、1日に4000両をつくると、年の利益が64万両が確保できる。4年で256万両の利益を生む。これによって、領内海防のために沖瀬を築造し、大砲の備えも可能となる。
 ところが、この安田は途中で追放・島流しにあった。
 ニセガネ天保通宝の鋳造高は高められ、ついに一日に4000~5000両を鋳造し、一ヶ月に12万両をこえてつくり出し、藩財政を補填した。
 イギリス艦隊に鹿児島湾を占拠され敗北したあと、ニセガネづくりはかえって盛大な事業展開となり、1日4000人の職工が従事し、およそ8000両が鋳造された。
 安田が再登用され、薩摩藩は三井八郎右衛門と結んで琉球通宝を活用していった。
 琉球通宝は三井組で換金する仕組みであった。
 三井は幕末期に薩摩と組んでいたのですね・・・。さすが政商です。
 もちろん、明治新政府はこんな 地方のニセガネづくりを許すわけにはいきません。しかし、大久保利通は薩摩藩で自らニセガネつくりに関わっていたのですから、早く止めろと必死で薩摩藩を説得したようです。
 そんなことも知れる興味深い内容の本でした。
(2010年3月刊。2200円+税)

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