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2010年7月 の投稿

関ヶ原、島津退き口

カテゴリー:日本史(戦国)

著者、桐野 作人 、学研新書 出版
 天下分け目の戦い、関ヶ原の合戦において西軍の雄、島津義弘軍は敗戦が決まったあと、決死の敵中突破を図り、なんとか成功します。この本は、まず著者自身が「島津の退(の)き口(ぐち)」のルートを実地に踏破した体験にもとづいて書かれていること、そして、生還した将兵たちの手記を活用しているところに大きな特徴があります。つまり小説ではなく、その意義を実証した本なのです。
この本を読むと、当時の島津家というものが対外的にも内部においても、きわめて微妙な立場にあって、義弘が大軍を動かせなかった実情とその苦悩がよく伝わってきます。そんな苦しいなかで、よくぞ敵中突破300里に成功したものです。驚嘆せざるをえません。
 島津家中で義弘は孤立化していた。石田三成と義久との間で板ばさみになっていた。
 関ヶ原合戦において、義弘は太守ではなかったので、領国全体に対する軍事動員権を有しておらず、そのため、義久や忠恒の家臣はもちろん、一所衆とよばれる一門衆や国衆からの協力もほとんど得られず、自分の家臣団以外はほとんど動員できなかった。
 義弘は、西軍に加担することを決めてから、11通もの軍勢催促状を国許に送った。しかし、義久・忠恒は義弘の懇請を黙殺し、ついに最後まで組織的な動員はなかった。
 結局は、関ヶ原における義弘の軍勢は1500人ほどだったと推定される。
 島津勢は、関ヶ原合戦においては、「二備え」(にのそなえ)、二番備、後陣だった。勝機は去ったと判断し、66歳の義弘は、前方を突き破って故国へ帰ろうと考えた。
 島津勢の主要武具は鉄砲だった。これを足軽ではなく、武士が撃った。退き口の敵は、飢えだけでなく、東軍方や百姓たちの落武者狩りが容赦なく義弘主従に襲いかかった。
 途中で300人ほどのはぐれ組みが発生した。
 関ヶ原の戦場離脱から鹿児島帰着まで190日かかった。走破距離は海路をふくめて千数百キロに及ぶ。何より義弘の生き抜くという牢固な意志力と義弘を慕う家臣たちの自己犠牲的な奉公と献身の賜物であった。
義弘とともに大阪に戻ったのはわずか76人でしかないが、これは島津勢の生き残りすべてではない。1500人の島津氏の将兵3分の2が戦死もしくは行方不明となった。逆にいうと、3分の1も鹿児島にたどり着いたわけです。
義弘は、85歳の大往生をとげた(1619年)。
 義弘軍の敵中突破の実情をしのぶことができる面白い本でした。
(2010年6月刊。790円+税)

歎異抄の謎

カテゴリー:日本史(鎌倉)

著者 五木 寛之、 出版 祥伝社新書
 『歎異抄』(たんにしょう)は不思議な本である。そこには、たくさんの謎はふくまれていて、読めば読むほど迷路にまぎれこんだような気持になることがある。
 初めて読んだときには、がつん、と強い衝撃を受けた。そして、ずっと自分の内側にかかえて生きてきた暗い闇が、明るい光に照らし出されたような気持ちになった。しかし、その後、ことあるごとに読み直すと、次々に新しい疑問がわきあがってきた。
 肝心なところが、どうしてもわからない。『歎異抄』は、いくつもの謎にみちた本である。
 いつ成立したのか、誰が書いたのか、はっきりしない。『歎異抄』には、原文というのが存在しない。
 蓮如によって禁書とされたというのは、違うだろうと著者は言っています。それは、軽々しく他人に見せるなということだろうというのです。
 阿弥陀仏(あみだぶつ)とは、数ある仏の中でも、わが名を呼ぶ全ての人々を漏れなく救おうという誓いをたて、厳しい修行のもとに悟りを開いた特別の仏である。
 阿弥陀とは、永遠の時間(いのち)、限りなき光明(ひかり)を意味し、その誓いを本願(ほんがん)、その名を呼ぶことを念仏(ねんぶつ)という。
 善人なほもて往生をとぐ。いはんや悪人をや。
 善人ですら救われるのだ。まして悪人が救われぬわけはない。
 いわゆる善人、すなわち自分の力を信じ、自分の善い行いの見返りを疑わないような傲慢の人々は、阿弥陀仏の救済の主な対象ではないからだ。ほかに頼る者がなく、ただひとすじに仏の約束のちから、すなわち他力(たりき)に身を任せようという、絶望のどん底からわき出る必死の信心に欠けるからである。だが、そのようないわゆる善人であっても、自力(じりき)におぼれる心を改めて、他力の本願にたちかえるならば、必ず真の救いをうることができるに違いない。
 私たち人間は、ただ生きるというそのことだけのためにも、他のいのちあるものたちのいのちを奪い、それを食することなしには生きえないという根源的な悪を抱えた存在である。
 わたしたちは、すべて悪人なのだ。そう思えば、我が身の悪を自覚し、嘆き、他力の光に心から帰依(きえ)する人々こそ、仏に真っ先に救われなければならない対象であることが分かってくるだろう。
 おのれの悪に気づかぬ傲慢な善人でさえも、往生できるのだから、まして悪人は、とあえて言うのは、そのような意味である。
 なるほど、分かった、と言いたいところですが、よくよく考えてみると、なかなか難しい言い回しですよね。でも、たまには、こんな根本的な問いかけを自らにしてみるのも大切ですよね。著者の小説『親鸞』を読んで触発されたので、読んでみました。
(2009年12月刊。760円+税)

雅子さまと「新型うつ」

カテゴリー:人間

 著者 香山 リカ、 朝日新書 出版 
 
私は、これまでにも何回も申し上げましたが、最近の雅子さんバッシングを苦々しく思っています。天皇制とか皇族については否定的な考えをもっている私ですが、かといって、今の週刊誌と右翼による皇族とりわけ雅子さんバッシングのえげつなさには呆れてしまいます。右翼って、皇室を無条件で尊崇するというわけではないこと、自分たちの言いなりにならなかったら皇族といえども容赦なく叩くということを如実に示しています。いかにも政治的ですし、皇族なんて利用できるだけ利用するという姿勢があまりに露骨すぎて嫌になります。皇室の制度が現代の日本においていかなる意味を持っているのか、天皇の後継者は男系に限るのか、もっと私たちは冷静に議論すべきではないでしょうか。
その意味で、今の天皇が折りにふれて日本国憲法を遵守する姿勢を表明していることに、私は敬意を表すると同時に心から共鳴します。ところが、右翼の人たちは、そのことが、どうやら気にくわないようです。ここらあたりについて、国民的な議論を深めたいものです。
この本は、週刊誌から叩かれ続けている雅子さんの病状について、精神科医が解説していますので、よく問題点が理解できます。
雅子さんは、ストレスから不安や抑うつ、不眠、全身倦怠感などの症状が起きる「適応障害」という病名が公表された(2004年7月30日)。そして、6年がたつ・・・・。
精神科医は、何よりも患者自身の立場を無視し、その利益を優先することになっている。たとえ相手の話がどんなに荒唐無稽であっても、非倫理的であり反社会的であっても、ひとまずは「そうですか」と受け入れる。それが鉄則だ。ところが、精神科医として口にしてはいけないはずの「甘えている」などのという言葉をつい口走りたくなってしまうのが、この新型うつという新しい病態だ。雅子さんは、周囲の否定的な反応や感情を引き出してしまうというという意味でも、まさに、この新型うつにあてはまる。
新型うつで休職中の若い世代の多くは、自分の挫折のひきがねになったのは、「やりがいのない仕事」だったと語る。そして、自分がうつから回復するためには、自己実現につながる部署・業務が必要だと言う。
 新型うつの人たちの主張の根本にあるのは、仕事は自己実現のためにあるという仕事に対する考え方の変化だ。
ところが、「私にしかやれない仕事」を実際にまかせたとき、本当にその人はその仕事をこなすことが出来るのか・・・・?そこには、こうありたい自分はあっても、決して実際の自分の姿はなかった。このように、仕事で自己実現したいと望んでいる人は、しばしばこの問題で落とし穴にはまる。個性的な仕事、オリジナリティにあふれる仕事は、それだけハードルが高い。知識、忍耐力、持続力、柔軟な心に体力など、要求される能力は数限りない。
精神科医とくに精神療法が必要なケースなどでは、それはいつも同じ場所、限られた条件で行われることが重要だ。生活空間を離れ、診察室という特別な場所で、それが10分であっても30分であっても、時間も限定された中で治療者と向きあう。できたら、「何曜日の何時ごろ」と、曜日や時間も、いつも決まっているほうがよい。こうやって治療の条件を限定し、一定の枠にあてはめることを「治療を構造化する」と呼ぶ。そうすることで、患者にも治療者にも、そこでの話が「ただのおしゃべり」ではないという意識が生まれ、限られた時間で大切なことを話そう、聞こうという状況になる。
1回あたりの時間はきちんと決めることによって、患者はそれ以外の日には過去を振り返ったり、次回の面接に向けて気持ちを整理したり、と自分なりのやり方で、過ごせるようになる。患者が治療者に「いつでも会える」と依存的になると、自己治癒力が発揮されにくくなってしまう。なーるほど、そんな工夫も必要なのですね・・・・。
新型うつの場合には、これまで、うつ病にはタブーと言われてきた「がんばれ」という言葉も、ときには有効になることもある。もちろん、まだ落ち込みがひどいときに「他の人もがんばっているんだから、あなたもがんばるべきだ」というプレッシャーをかけるような言い方は望ましくない。そうではなくて、夢から覚めるように急速に回復したときに、「さあ、そろそろ動き出しましょうよ」「ずっと休んでいるなんて、あなたらしくない」と背中を押すことも必要なのだ・・・・。ふむふむ、そういうことなんですね。
雅子さんの立ち直りを支えきれるのかどうかは、日本社会が温かさ、おおらかさをもっているかどうかの試金石のような気がします。もっと、温かい目で見て、みんなでしっかり立ち直りを支えようという社会的雰囲気をつくりあげたいものだとつくづく思います。
(2009年3月刊。700円+税)

諫早湾、調整池の真実

カテゴリー:社会

著者:高橋徹・堤弘昭・羽生洋三、出版社:かもがわ出版
 1997年4月、諫早湾の奥にある3550ヘクタールの海面が有明海から切り離された。これは、東京の山手線内側の半分以上の面積にあたる。堤防閉め切り後、湾口部の内外では潮流速が大幅に遅くなり、1998年以降は秋期の赤潮が大規模化しはじめ、  2000年には広汎なケイソウ赤潮によってノリの大規模な色落ちが発生した。その被害額は、単年度の市場価格だけで200億円に達した。
 潮流速が遅くなった海底では、それまで沖合に流れていた細かい粒子の有機物をふくむ泥が沈澱し、それを分解するバクテリアが酸素を消費することで貧酸素水塊が発生するようになった。その頻度と範囲が年々拡大している。そして、高級貝のタイラギ漁は壊滅状態となった。
 有明海の干満差は国内最大の6メートルにも達するため、数キロにわたって潮が引く、大規模な干潟が各所にできる。諫早干潟も、その一つで、2900ヘクタールという国内最大の面積を誇った。ここには、シギやチドリなど、渡り鳥の飛来数がとりわけ多い場所として、全国的に有名であった。
 有明海では、毎年10月から3月にかけて、沿岸のいたるところでノリの養殖漁業が盛んとなる。その生産量は40億枚で、全国の養殖ノリの4割を占める。有明海はノリ養殖漁業の発祥の地でもある。
 水温の高い有明海でとれる養殖ノリは柔らかく、香りが強く、高級ノリとしてのブランドをもっている。ところが、赤潮が秋に発生すると、このノリ養殖漁業を直撃する。本来、黒紫色の濃さを競うべき養殖ノリが色を失い無惨な姿となる。これは、増殖した植物プランクトンと、海水中の栄養塩(無機態のチッソとリン)をめぐる競争に、養殖ノリが負けてしまった結果である。
 有明海は、1日の潮汐によって海面が5~6メートルも変動し、そのことによって速い潮流が発生するため、海水がよく攪拌される海であった。
 日本の食糧自給率は4割いかになっていますから、それを解消するため、農業を保護、育成する必要があるというのは大いに共鳴します。しかし、それだったら、今の大々的な減反政策は、まっ先に見直されるべきでしょう。なにはともあれ、農家がいそいそとお米づくりに没頭できるようにするべきでしょう。
 ですから、諫早湾を干拓する前に、国は今やるべきことがあるのです。
 公共事業は、どこでもゼネコンと、それにたかる利権構造が問題となります。今回の諫早湾埋立にしても、ゼネコン側からの反対なのではないかと思われる節が多々あります。
 もちろん、土木工事も大切です。でも、それが、私たちの日常生活をより苦しくしてしまうのであれば、思い切って中止するというのも、一つの決断ではないでしょうか・・・。
(2010年7月刊。1600円+税)

吉原花魁日記

カテゴリー:日本史(戦後)

著者:森 光子、出版社:朝日文庫
 オビに欠かれている著者略歴を紹介します。
 1905年、群馬県高崎市に生まれる。貧しい家庭に育ち、1924年、19歳のとき、吉原の「長金花楼」に売られる。2年後、雑誌で知った柳原白蓮を頼りに妓楼から脱出。1926年、本書、1927年『春駒日記』を出版。その後、自由廃業し、結婚した。晩年の消息は不明。
 売春街、吉原で春をひさいでいた女性は自由恋愛を楽しんでいたのではないかという声が今も一部にありますが、決してそんなものではなかったことが、当事者の日記によって明らかにされています。
 19歳で吉原に売られてから、嘆きというより復讐のために日記を書きはじめたというのですから、まれにみる芯の強い女性だったのでしょうね。
 ちなみに、女優の森光子とはまったく無関係です。同姓同名の異人です。
 うしろの解説にはつぎのように書かれています。
 「怖いことなんか、ちっともありませんよ。お客は何人も相手にするけれど、騒いで酒のお酌でもしていれば、それでよいのだから・・・」
 そんな周旋屋の甘言を真に受けて、どんな仕事をさせられるかも知らぬまま、借金と引き換えに吉原に赴き、遊女の「春駒」となった光子。彼女の身分こそ、まさに公娼制度の中にある娼妓であった。
 周旋屋に欺されたことを知ったとき、彼女は、日記にこう書いています。
 自分の仕事をなしうるのは、自分を殺すところより生まれる。わたしは再生した。
 花魁(おいらん)春駒として、楼主と、婆と、男に接しよう。何年後において、春駒が、どんな形によって、それらの人に復讐を企てるか。復讐の第一歩として、人知れず日記を書こう。それは、今の慰めの唯一であるとともに、また彼らへの復讐の宣言である。
 わたしの友の、師の、神の、日記よ、わたしは、あなたと清く高く生きよう。
 客よりの収入が10円あれば、7割5分が楼主の収入になり、2割5分が娼妓のものとなる。その2割5分のうち、1割5分が借金返済に充てられ、あとの1割が娼妓の日常の暮らし金になる。
 一晩で、客を10人とか12人も相手にする。
 客は8人。3円1人、2円2人、5円2人、6円1人、10円2人。
 客をとらないと罰金が取られる。花魁は、おばさん、下新(したしん)、書記などに借りて罰金を払う。指輪や着物を質に入れて払う花魁もいる。
 朝食は、朝、客を帰してから食べる。味噌汁に漬け物。昼食、午後4時に起きて食べる。おかずは、たいてい煮しめ。たまに煮魚とか海苔。夕食はないといってよいほど。夜11時ころ、おかずなしの飯、それも昼間の残りもの。蒸かしもしないで、出してある。味の悪いたくあんすらないときが多い。
 花魁なんて、出られないのは牢屋とちっとも変わりはない。鎖がついていないだけ。本も隠れて読む。親兄弟の命日でも休むことも出来ない。立派な着物を着たって、ちっともうれしくなんかない・・・。
 みな同じ人間に生まれながら、こんな生活を続けるよりは、死んだほうがどれくらい幸福だか。ほんとに世の中の敗残者。死ぬよりほかに道はないのか・・・。いったい私は、どうなっていくのか、どうすればよいのだ。
 花魁13人のうち、両親ある者4人、両親ない者7人、片親のみ2人。両親あっても、1人は大酒飲み、1人は盲目。
 原因は、家のため10人、男のため2人、前身は料理店奉公6人、女工3人、・・・。 吉原にいた女性の当事者の体験記が、こうやって活字になるというのも珍しいことだと思いました。貴重な本です。
(2010年3月刊。640円+税)

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