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2010年5月 の投稿

彼らは戦場に行った

カテゴリー:アメリカ

著者:石山永一郎、出版社:共同通信社
 2001年10月から2008年4月までにアフガニスタンかイラクに展開したアメリカ兵90万人のうち30万人は帰国してから退役軍人病院で何らかの治療を受けた。うち
4割の12万人は、機能性または心因性による脳神経系の問題を抱えて治療を受けている。
 2005年の退役アメリカ兵の自殺者は少なくとも6256人で、一般民間人の2倍。20代前半でみると、4倍。自殺未遂者は年間1万人以上。アフガン・イラク帰還兵のうち121人が、アメリカで殺人を犯して逮捕された。その被害者の3分の1は妻、恋人、父母そして自分の子など「身内」である。
 アメリカ全土にホームレスとして路上で夜を明かす人が1日平均100万人いて、その4割が退役軍人である。
 イラク・アフガン帰還兵の離婚率は、8割に近い。夫が別人のように変わってしまったという妻たちの嘆きが聞かれる。理由もなく妻を殴り、子どもを叩く。帰国して家から一歩も出れない者、うつ病に陥っている人も多い。
 軍隊に入るサインをすると、一時金が2万5千ドル支給される。志願兵への除隊したあとの奨学金は最高7万2千ドル(最近、引き上げられた)。
 アメリカ兵の死傷者の比率は、第二次大戦のとき、死者が39%、朝鮮戦争で24%、ベトナム戦争では27%だった。これがイラク・アフガンでは10%以下。イラクでは  2008年までに6万人、アフガンでは8千人のアメリカ兵が負傷した。これには、「心の病」は含まれていない。
 一方、死亡したイラク人は、少なくとも15万1千人。
 アメリカが費やした費用は、公式には1兆ドル(100兆円)と言われるが、実際には3兆ドルを下まわらないとみられている。
アメリカ軍の下請としてイラクで働く民間軍事会社の要員は1万5千人から3万人。 フィジーから、5千人以上の男たちがイラクへ出稼ぎに行った。1万人以上という推計もある。フィジー人の仕事が一番危険なのに、給料は一番安い。アメリカ人の月給は1万2千ドル。これは4倍。南アフリカ人は白人が8千ドル、黒人が5千ドル。
 フィジーの85万人の国民のうち、イラクだけで5千人、PKOを含めると数万人が戦地経験をもつ社会では、軍の発言力だけが強くなり、民主化は進まない。クーデターが頻発する根もそこにある。今も軍事独裁が続いている。
 なーるほど、そういう余波もあるんですね・・・。
 アメリカ軍のイラクそしてアフガニスタンへの侵略・進出は、確実にアメリカ社会を内側から腐蝕させていっているようです。オバマさん、しっかりしてくださいな。アフガニスタンへの侵攻なんてやめるべきですよ。
(2010年2月刊。1500円+税)
 アイリスの黄色の近くにキショウブの花が咲き始めました。似ていますが、良く見ると違います。花弁が全体に丸くて、優しく垂れているのがキショウブです。そのうち肥後ショウブも咲いてくれることでしょう。

月華の銀橋

カテゴリー:日本史(江戸)

著者 高任 和夫、 出版 講談社
 荻原重秀と言えば、貨幣を改鋳して幕府の財政を好転させつつ私腹を肥やした悪の権化というイメージを抱いていました。この本は、その荻原を主人公にしているだけあって、決して極悪人などではなく、幕府の破たんした財政の立て直しのために日夜奮闘した実務官僚であると訴えています。荻原重秀の対極にあったのが新井白石です。
 新井白石は、大坂商人として高名な河村瑞賢の知遇を得ていた。同じ豪商でも、紀伊國文左衛門や奈良屋茂左衛門のように、吉原で狂ったように散財することはなかった。
 重秀は、将軍綱吉の時代に出世していった。綱吉は、面命(めんめい)と称して、面前に当事者を呼び出し、自ら新たな人事をすすめていった。重秀は32歳のとき、勘定吟味役として老中に直結し、将軍の意向を体現する者となった。
 禄高は200石の加増を受けて、750石取りとなった。
 重秀は佐渡金山に派遣され、佐渡奉行を22年間もつとめた。
 慶長小判には金が8割4分、慶長銀には銀が8割ふくまれている。改鋳にあたっては、それぞれ6~7割ほどに減らす。それは幕府直轄の銀山の産出量の減少にある。
 慶長小判2枚で、新たな小判を3枚つくれる。これによって幕府の得られる出目(でめ。改鋳差益金)は450万両にのぼる。
 貨幣改鋳の裏話を聞いているような錯覚に陥りました。視点を変えて時代を捉えなおしてみたいと思いました。
 
(2009年11月刊。1800円+税)

剣岳・点の記

カテゴリー:日本史(明治)

著者 新田 次郎、 出版 文春文庫
 映画を観ました。感動の大作というのは、こういう映画をいうのかと実感しました。すごい映画でした。ともかく、全篇を実地で撮影したというのですからね。大したものです。監督もすごいですけど、役者もすさまじいですね。
 人夫たちの食糧は自弁。米やミソ、副食物は自分で用意する。測量部の食糧は、米、ミソ、干鱈、わかめなどは共同購入する。缶詰は測量官が自費で購入した。
 測量隊は、酒を山の中に持ち込むことはなかった。
 特別なことがあって隊員を慰労するときには、氷砂糖の特配か多食に肉の缶詰を開けて振る舞った。
 陸地測量部につとめるのは、例外なく農家の出身であり、次・三男だった。つまり、測量官も、それを補佐する測夫も、はじめから天幕生活して歩いても文句を言わず、それに耐えられるような環境に育った者ばかりだった。
 陸地測量部が山岳会に勝って剣岳の頂上に立ってみたら、なんのことはない、初登頂ではなかった。修験者が頂上をきわめていて、その証拠を残していた。
 剣岳の初登頂は、明治40年のこと。観測は、技術ではなく、忍耐だった。忍耐の結果、ようやく晴れ間に巡り合って手早く観測して次の観測所に移動すると、山々は再び雲の中にあることが多かった。
 この本の著者である新田次郎は、64歳にして剣岳に初登頂したそうです。すごい勇気です。そして、体力もあったのですね。
 映画を観ていましたので、その興奮さめやらぬうちに一気に読破してしまいました。といっても、山の頂上を征服しようという気にはなりませんでした。私は寒さに弱いのです。ぬくぬく布団にくるまって、湯たんぽを抱いて寝ていたいです。
(2008年3月刊。686円+税)

ゲゲゲの娘、レレレの娘、らららの娘

カテゴリー:社会

著者:水木悦子、赤塚りえ子、手塚るみ子、出版社:文藝春秋
 タイトルを見ただけで何の本か、誰のことか分かった人は偉いですよ。私も、これらの娘さんのお父さんたちのマンガには子どものころ(大学生まで)大変お世話になりました。 ゲゲゲの鬼太郎って、初めのうちはすごく不気味なマンガでしたね。だって、墓場を舞台として、妖怪たちがゾロゾロ出てくるのですから・・・。天才バカボンにはまいりました。イヤミがシェーッと言って飛び上がるのは、大学生のとき、みんなでよく真似をしました。大学の寮で、みんなで回し読みしていたのです。『ガロ』なんかも人気でした。白土三平の「カムイ伝」も良かったです。百姓一揆が初めて具体的にイメージできました。そして、「火の鳥」など、手塚治虫には弁護士になってからも「ブラック・ジャック」など愛読しました。
 娘たちにかかると、偉大なマンガ家も顔色なし、です。案外、娘たちは父親のマンガは読まずに、他人のマンガを読みふけっていて、オヤジたちは、それを気にしていたというのも面白い事実です。
 赤塚不二夫の娘は、高校2年生のとき、パパの彼女と一緒に海外旅行に行ったことがあるといいます。さすがに、それを母親には隠していました。あるとき、それをバラしたら、母親は猛烈に怒って、「不二夫さん!」と電話で怒鳴った。赤塚不二夫は、このときちょうど、NHKの取材を受けていた・・・。あらあら、なんとしたことでしょう。かなりハチャメチャな生活だったようですね。
 「ブラック・ジャック」にでてくるピノコは、手塚の娘がモデル。ちょうど、小学生のときだった。
 水木は、人見知りだし、友だちも多くないし、お酒は飲めず、付きあいはよくない。会社でも家庭でも安心できないとダメ。
 父の偉大さは子どもにはなかなか見えてこないものなんだ。改めてそう思ったことでした。そして、久しぶりにマンガを心いくまで味わいました。それぞれのマンガも挿入されていて、とても楽しい本です。笑いながら、共感しながら、感嘆しつつ車中で一心に読みふけりました。なつかしくも楽しいひとときを過ごせました。ありがとうございます。
(2010年3月刊。1429円+税)

清水次郎長

カテゴリー:日本史(江戸)

著者 高橋 敏、 出版 岩波新書
 幕末維新における博打の世界の実態を十分に堪能することのできる本です。
 次郎長親分も悠々と生きていたわけでは決してなく、殺し殺されの世界で幸運にも生き延びたこと、維新のとき政治に深入りしなかったことが延命につながったことなど、面白い記述にあふれています。
 清水次郎長は幕末から明治維新、近代国家の誕生まで変転止まない、血で血を洗う苛酷な大動乱の時代を生き抜き、74年の生涯を畳の上で大往生して閉じた、きわめて稀な博徒であった。若き日、博打と喧嘩の罪で人別から除かれ、無宿者となって以来、博徒の世界に入り、敵を殺しては売り出し、一家を形成、一大勢力を築いてしぶとく生き残った、いわば博徒・侠客の典型の一人である。
 徳川幕府発祥の地である三河国には、小藩が乱立し、網の目のように入り組み錯綜したため、警察力が弱体化し、模範となるべきところ、皮肉にも博徒の金城湯池になってしまった。
 博徒間の相関関係は、任侠の強い絆で結ばれているように見えるが、仁義の紐帯はもろく、常に対立抗争しては手打ちで休戦、棲み分けを繰り返す、実に油断も隙もない世界であった。
 博徒の実力の根底は、喧嘩・出入りに勝つ武力プラス財力にある。
 この点も今の暴力団にもあてはまるようですね。
 次郎長が並みいる博徒のなかで抜きんでていったのは、結果論になるが、立ちはだかる宿敵を次々に葬るか、抑えるか、時には妥協しても自派の勢力を拡大したからである。
 次郎長一家は、親分が一方的に子分を支配統制する集団ではない。個性的子分を巧みに次郎長が操縦している感がある。
 幕末、次郎長に食録20石を与えて家臣とするとの誘いがかかった。博徒が武士になれるという夢のような話である。しかし、これを次郎長は迷わずきっぱり拒絶した。
 このころ、次郎長は、かつての三河への逃げ隠れをパターンとする移動型から、清水港に根をおろし、東海地方ににらみを利かす定着型博徒に変容していた。
 次郎長の宿敵であった黒駒勝蔵は、尊王攘夷運動に加担していたにもかかわらず、明治4年になって、7年前の博徒殺害を理由として斬首されてしまった。
 次郎長は、明治維新を機に、無宿・無頼の博徒渡世から足を洗い、正業で暮らしを立てようとした。
 とびきり面白い、明治維新の裏面史になっています。 
 
(2010年1月刊。800円+税)

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