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2010年5月 の投稿

リクルート事件、江副浩正の真実

カテゴリー:司法

著者:江副浩正、出版社:中央公論新社
 今は昔の事件となってしまいました。リクルート事件です。
 1988年、51歳の著者は30年ほどつとめた社長をやめてリクルート会長に就任。このとき、グループ売上1兆円、経常利益1000億円。そして、リクルート事件が「始まった」のは1988年6月18日の朝日新聞。川崎市助役の川崎テクノピアビル建設疑惑から。この助役は、結局、起訴されなかった。
 著者は、映像の力は強い。新聞を読むよりテレビをみる方が辛かったと言います。
 私は日ごろ、テレビを全然みませんが、それはテレビ映像の生々しさが嫌だからでもあります。事故や事件の生々しい映像は私の心にグサリと突き刺さってしまい、映像のインパクトが強烈すぎて、何ごとも考えられなくなるのです。
 著者を病院で取り調べたのは今の検事総長(樋渡利秋検事)でした。
 当時のリクルートグループは500億円の利益をあげていた。その1%の5億円なら、寄付は非課税になる。その枠内で政治家のパーティー券を購入していた。
 つまり、現体制を維持することにリクルートは利益があると考えていたわけです。そのこと自体についての反省は、この本にはまったくありません。残念です。
この本には、検察官の取り調べ状況が「再現」されています。
「特捜の捜査がどんなものか見せてやる。捜査を長引かせているのは、おまえだ」
「バカヤロー!検察官に対して何たる態度だ。検察官をバカにするのもいいかげんにしろ!おまえの態度は、あまりにも自分本位で、傲慢だ!」
 「実に不愉快だ。これまで、キミに好意をもっていたが、憎しみと変わった。憎しみが倍加した。なぜ素直に罪を認め、調書に署名しないんだ!」
 「実に不愉快だ。罪名拒否の調書は裁判で不利になるぞ!今日は、もう調べをやめる。帰れ!」
 拘置所の接見室における弁護士との面会について、本当は秘密は保持されていないのではないのかと著者は指摘しています。
 極小カメラ分野で、日本は世界一の先端技術の国である。取調室内の天井ボードの穴に極小電子カメラを組み込んだビスのようなものを貼って、そこから髪の毛ほどの細い高速デジタル回線か、マイクロウェーブで映像を本庁へ送信する。マイクは小型の1センチ四方、2~3ミリの厚みで、接見室のテーブルや椅子の下に設置し、無線で音声を送る。本庁では、隠しカメラやマイクで取調室の様子をモニターしている。
 以上は想像だという断りがついてます。本当だとしたら、恐ろしいことですね・・・。
 検事が机を持ち上げる。積み上げられた書類がドーンと音を立てて落ちる。
 「立てーっ!横をむけーっ!前へ歩け!左向け左!」
 壁のコーナーぎりぎりのところに立たされ、すぐそばで検事が怒鳴る。
「壁にもっと寄れ!もっと前だ」
鼻と口が壁にふれるかどうかのところまで追い詰められる。目をつぶると、近寄ってきて、耳元で
 「目をつぶるな!バカヤロー!!オレを馬鹿にするな!オレをバカにするな!俺を馬鹿にすることは、国民を馬鹿にすることだ。このバカ!」
 鼓膜が破れるのではないかと思うような大声で怒鳴られた。鼻が触れるほど壁が近いので、目を開けているのは非常につらい。検事は次のようなことも言った。
 「そのような態度だと、弁護士の接見を禁止する。弁護士の逮捕も考える」
 「おまえは嘘をついていた」
 検事は、たたみかけるように、怒鳴った。
 「立て、窓際に移れ!」
 「オレに向かって土下座しろ」
 新聞が書くことは世論。新聞が書いているのに立件しないと捜査の権威が失墜してしまう。
特捜の人員は、たかだか30数名、新聞、テレビ、新聞やテレビなどの記者は、我々の数十倍いる。こっちは手が足りない。
 特捜は、疑惑があると報道されたなかから、あげられそうな立派なものを選ぶ。
 それにしても、検事の自白強要はいつもながらのやり方なのに驚いてしまいます。
(2009年10月刊。1500円+税)

ホソカタムシの誘惑

カテゴリー:生物

著者 青木 淳一、 出版 東海大学出版会
 70歳で無職となって昆虫少年に戻った著者の、心躍る採集日記です。読んでる方まで楽しくなります。虫とりカゴを持って野山を駆ける昆虫少年を思い浮かべました。
 ホソカタムシは、大きさが5ミリほどしかない小さな昆虫です。しかも、地味な色合いをしていて、動きも緩慢なので、野外で見つけるのは難しい昆虫です。しかし、昆虫少年たちはそれを難なく見つけます。そこはもう、意気込みが違うのですよ……。
 ホソカタムシは生きている樹木にはおらず、枯れ木に住みついている。枯れ木の菌類か甲虫の幼虫を食べる。生きた樹木は食べないので、害虫にはならない。
 身体はガッチリと固く、光沢はなくても複雑な彫刻が施されていて、触角の先が玉になって膨らんでいて、身体は細く、両側が平行な虫である。
 ホソカタムシは、人間に見つかっても、あわてず騒がず、ゆっくりのっそりと落ち着いて、マイペースで歩いていく。その動きは、まことに優雅で気品に満ちている。
 この本には、ホソカタムシの写真と著者自身のペンで描いた精密画の2つで紹介されていますから、その生態がよく分かります。とりわけ、生態画のほうは、いかにも昆虫少年らしく丹念にペンで描かれていて、ほとほと感心・感嘆します。
 著者はホソカタムシを求めて、熊本、徳之島、石垣島、北大東島、種子島、そして小笠原諸島まではるばると出かけます。沖縄ではハブの出現を心配しながら森の中へ分け入っていくのです。いやはや、さすがに昆虫少年の心を持っていないとできませんね、こんなことは……。
ただ、その地で夜は美味しい料理を食べて、お酒を飲むわけですから、本当に豊かな老後を過ごしておられると、羨ましく思ったものでした。
 細密画の中では、ノコギリホソカタムシが印象に残りました。ギザギザ、コブコブの突起物に覆われた姿は、アニメ漫画に出てくる怪獣のようだと紹介されていますが、まったくそのとおりです。
 東北以南の日本全国どこにでもいるホソカタムシです。でも、これも3~5ミリと小さいので、目立たないんですよね。
 大変な貴重な労作だと思いました。
(2009年2月刊。1600円+税)
 いま、我が家の庭はアイリス、ジャーマンアイリス、ショウブ、アヤメの花盛りです。みんな背が高く、姿も形もとりどり艶やかなので、まさに花園です。アイリスは黄色、ショウブはキショウブ、アヤメは薄紫色です。そしてジャーマンアイリスは青紫色が多いのですが、濃茶色の花のほか純白の花もあります。華麗で会って清楚なたたずまいの真っ白さに、えもいわれぬ気高さを感じます。
 私の個人ブログに花園を公開中です。一度ぜひご覧ください。

北畠親房

カテゴリー:日本史(中世)

著者 岡野 友彦、 出版 ミネルヴァ書房
 鎌倉時代末期(13世紀)、公家社会は、親幕府的傾向を持つ持明院統よりのグループと、反幕府的傾向を持つ大覚寺統よりのグループに大きく分かれていた。公家社会にとって最大の感心事は、自家の存続であり、いずれかのグループに旗幟を鮮明にしてしまうことは、きわめて大きなリスクを追いかねない。そこで、ほとんどの公卿層は、いずれの勢力にもある程度のコンタクトを持ちつつ、周囲の情勢をうかがっていた。そのなかで、あえて大覚寺統よりであることをいち早く鮮明にしたのが北畠家の人々だった。
 北畠家の盛衰は、とりもなおさず大覚寺統の盛衰を反映したものにほかならなかった。親房は、北畠家の嫡男として生まれた時点で、大覚寺統派の公卿として活躍すべき運命が初めから定められていた。
 中世社会の平均寿命は、およそ50歳。後醍醐天皇52歳。足利尊氏54歳、新田義貞は39歳で亡くなった。当時の人々は、40歳を一定の定年と考えていた。当時の人々にとって出家とは、今日の定年退職にほかならない。40歳をすぎてからの人生は、いわば第二の人生であった。親房は、38歳で出家したが、父も38歳で、祖父は46歳で出家していた。
 北畠親房は、出家した後、陸奥、伊勢、そして常陸へと下向し、その地の実情を目の当たりにして、その地の人々と交流するなかで、40歳を超えてから人間として大きく成長を遂げた。
 親房は、むやみに尊氏を厚遇しておきながら、安易にまたこれを破棄しようとしている後醍醐天皇の朝令暮改ぶりに対して、このままでは世論の信頼を失う可能性があると諫言したかったに違いない。
 奈良時代以来、壬申の乱の記憶なるものは、天皇家にとって、常に立ち直ってもっとも輝かしい過去であった。うひょう、そ、そうなんですか……。ちっとも知りませんでした。
 大日本は神国なり。この書き出しに始まる『神皇正統記』のなかで、親房は、不徳の天皇は廃位されて当然としている。この本は、幼少の後村上天皇を訓育・啓蒙するために書かれた本である。
 「南北朝」対立の本質は、あくまでも公卿中心の政治を目ざす南朝と、武家中心の政治を目ざす足利政権との争いであった。これが武家政権によって巧妙に「君と君との御争い」に持ち込まれてしまったのである。
 北畠親房を保守反動の象徴的人物とみるのは必ずしもあたっていないという本書の指摘は、大いにうなずけるところがありました。
 中世日本における公卿と武士の関係を考え直させてくれる面白い本でした。
 
(2009年10月刊。3000円+税)

見えざる隣人

カテゴリー:中国

著者:吉田忠則、出版社:日本経済新聞出版社
 中国人と日本社会というサブタイトルのついた本です。在日中国人の状況を紹介しています。
 日本に住む外国人のなかでは、今や中国人が韓国・朝鮮を抜いてトップ(最多)である。
 日本に住む60万人をこす中国人のほとんどは新華僑である。新華僑とは、新中国の成立後、1978年の改革開放以降に海外にわたった人々を指す。
 中国人は1988年には13万人だったから、20年のあいだに5倍に増えた。
 一時滞在も多い。旅行、出張のために日本に来た中国人は、48万人ほど。
 中国人が集中的に住む町の一つが池袋。池袋は中国人が起業する街でもある。
 日本の大学を卒業し、そのまま日本に残って日本企業に就職する外国人が増えている。そのなかで一番多いのが中国人であり、7割を占める。日本企業に就職する留学生の急増を中国人が引っぱってきた。
 留学生の採用が増えたのは、日本企業の国際化が進んだことと関係がある。
 2007年末時点で、教授の資格で日本に滞在している中国人は2453人いる。2位のアメリカ(1167人)と3位の韓国・朝鮮(965人)を2倍以上ひき離している。
 アメリカにいる中国人留学生は2006年に9万3700人で、日本には8万6400人。
 中国の若者の留学熱は冷めていないが、日本を目ざす人は、昔ほど多くなくなった。
 日本と中国との深い関わりを多面的に論じている本です。
(2009年11月刊。1900円+税)
 連休中に近くの小山(388メートル)に上りました。左膝が居たかったので、今年になて初めての山登りです。竹林の中をあるくと、ひんやりして気持ちの良い風が吹いてきます。タケノコ掘りの跡も見えます。
 たっぷり1時間かけて見晴らしのいい頂上でお弁当開きにします。おっと、その前に、来ていた上着を全部ぬいで上半身裸になって汗を拭きとり、着替えます。さっぱりしたところで紅茶を飲み、おにぎり弁当にかぶりつきます。
 もやがかかって、まさに春霞です。遠くの山は見えますが、海の方は見えません。ウグイスが足元にある林で鳴き、涼しい風が下の方から吹き上げてきます。
 地上の人間世界を眺めながら、じっくり弁当を噛みしめます。至福のひとときです。

琉日戦争1609

カテゴリー:日本史(江戸)

著者:上里隆史、出版社:ボーダーインク
 大変面白い本でした。戦国時代から江戸時代はじめにかけて、島津氏が琉球に侵攻するまでの歴史状況がとても分かりやすく、また生き生きと描かれています。知らなかったことがたくさんありました。著者に感謝したいと思います。
 1609年(慶長14年)、薩摩の島津軍が琉球王国に侵攻した。首里城を包囲された琉球国王尚寧は降伏し、わずかな家臣とともに江戸へ連行された。
 琉球は14世紀後半から中国(明)の朝貢・冊封体制下にあった。
 15世紀はじめに沖縄島に統一政権を成立させ、海域アジア世界における交易活動によって繁栄した独立国家として存在していた。
 沖縄島は、北山(山北)、中山、山南(南山)の三つの大きな勢力(三山)に分かれて覇権を争っていた。首長は「按司」(あじ)、「世の主」(よのぬし)と呼ばれ、城塞(グスク)を拠点として割拠していた。三山の実態は、強固な「国」というよりは、按司を第一人者にいただく按司の連合体だった。14世紀には、中山がもっとも強大な勢力となっていた。
 琉球は中国の明王朝から異例とも言えるほど優遇されていた。朝貢回数と寄港地は無制限に認められ、三王をはじめ王弟・王叔・世子など、一国に複数の朝貢主体が認められ、大型海船が無償で供与され、航海のための人材スタッフまで派遣されていた。
 明朝は、海禁・海防制度を徹底する一方で、新興国の琉球を有力な交易国家に育てようとテコ入れを図った。
 グスクには銃眼が備わっていた。中国の築城ノウハウとともに、大砲がセットになって導入された。大型火器が古琉球に存在したのは確実である。
 当時の琉球人は、大量の日本刀を東南アジアにもたらし、自らも日常的に大小の日本刀を腰に差していた。
 大砲も刀もあって、島津軍と戦ったというわけです・・・!!
 南九州の島津家も、内部は一枚岩ではなく、総州家と奥州家との対立が深まり、全面戦争へと発展していった。やがて、奥州家の島津元久が三ヶ国守護となり、島津本宗家として領国を支配した。
 しかし、その後も、島津氏は薩摩・大隅・日向三ヶ国に分かれて混乱を続け、琉球にまで支配を及ぼすのは不可能であった。分裂し混乱していた薩摩半島の中枢部を島津氏がようやく支配下に置いたのは1550年、南九州三ヶ国の統一は1578年。そこから九州全土に覇権を及ぼすまで、わずか10年であった。
 そして、そこに豊臣秀吉が登場する。1585年10月、秀吉は島津義久に対して、大友との戦闘を停止させ、さもなくば必ず御成敗に及ぶと通告した。
 島津は、秀吉を「由緒のある家柄ではない成り上がり者(由来無き仁)」として反発した。島津家は鎌倉時代から続いている名門守護家であった。
 秀吉は、30万人分の食料と馬2万匹の飼料1年分を調達し、九州遠征軍25万人が九州に上陸した。その圧倒的兵力の差から、ついに島津氏は秀吉に屈服した。そして、琉球は、秀吉の次なるターゲットの一つとして狙われた。
 琉球王尚寧は1589年、秀吉に使節を送った。琉球が京都の中央政権と公式に接触したのは室町時代以来、100年ぶりのこと。
 琉球にとって明朝は忠誠を誓うべき宗主国であった。琉球は明との関係を維持するために、明に敵対しようとする日本への経済的依存を深めざるをえなかった。
 使節の派遣により従属国として見なされた琉球は、明侵攻の動員体制のなかに否応なく組み込まれようとした。
 秀吉は、朝鮮と琉球に軍を分ければ兵が足りなくなり、琉球での戦いが長引けば朝鮮での作戦の妨げになるとして、亀井慈矩(因幡の大名)の琉球侵攻を中止させた。
 琉球が秀吉へ送った進上物はあまりにお粗末で、石田三成は「笑止」として問題視した。しかも、軍役7000人、食料10ヶ月分と借銀返済を無視していた。
 そのとき、島津義久・久保親子は、「日本一の遅陣」という失態を犯していた。
 秀吉による明侵攻情勢を最初に明に通報したのは琉球だった。
 「朝鮮が明を裏切り、日本軍とともに攻め込んでくる」と知らせたのだ。明は朝鮮に疑惑を抱き、まず朝鮮に対して防御を固めた。これは、対日戦における明と朝鮮の連携に大きな影を落とした。疑心暗鬼のなか、明と朝鮮は、秀吉の軍勢を迎え撃つことになるのだ。
 不意を突かれ、戦闘準備の整わない朝鮮軍は、日本軍の火縄銃と鋭利な日本刀、戦国時代を通じて戦いに明け暮れた高練度の武士たちの前になすすべもなく、敗退を重ねた。
 1609年、島津軍は琉球に侵攻した。総数3000人の軍勢であった。これには困窮していた底辺層の武士たちが恩賞を求めて自力で従軍していた。
 島津軍は、銃砲7、弓1と、圧倒的に鉄砲が多かった。
 琉球王国にも数千人規模の軍事組織が存在していた。しかし、弓500張、銃200挺と弓が多い。琉球の主力兵器は弓であった。
 沖縄島の周囲はサンゴ礁で囲まれていて、どこでも船が着けるわけではない。島津軍船は80隻もの大船団である。那覇港口には鎖を張って、防御が固められていた。
 そこで、中部の大湾で上陸し、陸路、那覇を目ざした。海路から侵入しようとした島津軍は阻止されたが、陸路からの島津軍の主力部隊は首里に迫ってきた。
 琉球軍は、接近戦で百戦錬磨の島津軍兵士にかなうはずもなかった。琉球王国にも軍事組織はあった。しかし、戦国時代の日本のような激しい戦乱を経験していなかったため、用兵面において劣り、島津軍の動きに対して臨機応変に対処できなかった。つまり、実戦に対応する力を欠いていた。
 1610年、琉球王尚寧は駿府城大広間で、大御所徳川家康と対面した。家康は尚寧を捕虜としてではなく、一国の王として丁寧に待遇した。将軍への謁見を意味する「御対顔」というのは、天皇の勅使や徳川御三家待遇と同じであり、琉球国王がいかに丁重に扱われたか分かる。
 なーるほど、そういうことだったのですか・・・。琉球王国の実情と初めて詳しく知ることが出来ました。ありがとうございます。
(2009年12月刊。2500円+税)
 お隣の奥さまからウドをいただきました。お吸い物と鶏肉と一緒に、そして、ウドの皮を細切りにしてキンピラゴボウ風にと、3通りに調理していただきました。シャキっとした歯触りで、爽やかな味です。ただ、キンピラゴボウ風は少しえぐみも残りました。季節の味覚をじっくり楽しみました。

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