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2010年3月 の投稿

離婚で壊れる子どもたち

カテゴリー:社会

著者 棚瀬 一代、 出版 光文社新書
 面会交流権について、私はこれまでかなり消極的でした。その法制化にも反対で、せいぜいい運用で考えたらいいと考えてきました。子どもにとって、別れた父親(大半がそうです)に会っても、あまりいいことはないというのが根拠でした。それが、この本を読んで大きく変わりました。やはり、子どもにとって、その成長過程で父親との交流は不可欠かもしれないと思うようになったのです。この本は、アメリカと日本の実践にもとづいていますので、とても説得力があります。
 現在の日本では、3組に1組の結婚が離婚に至っている。年間26万件にのぼる。そのうち4割が乳幼児を抱えている。
 離婚ケースの8割で、母親が親権者となり子ども全員を引き取って育てている。子どもが3人以上いても、7割の母親が全員を引き取っている。
日本の離婚の9割は協議離婚である。
 離別した母子世帯の平均年収は、202万円(1992年度)と低い。別れた夫から養育費の支払いを受けているのは15%でしかない。養育費の取り決めをしても、1年で半分は約束を守らなくなり、2割だけが履行しているにすぎない。2003年の法改正によって養育費の給料天引きが認められるようになったが、それでも19%に過ぎない。
 両親が離婚騒動をひき起こしたとき、子どもが強迫的に学業に励み、「良い子」に徹することで大変な時期を乗り越えようとする過剰適応の子どもがいる。こういう子どもは、後になって「良い子症候群」になり、学業に集中できなくなる危険性をはらんでいる。
 両親が別居すると、ほとんどの場合、子どもは抑うつ状態に陥るが、この状態のときにはいじめにあう危険性も高まる。
 1歳半から3歳児までのあいだ、子どもが父親との接触がないときには、父親の面会申出に対して、子どもは「両親そろった家族」の記憶がないので、「別に会いたくない」と拒否することが多い。それは、たしかにその時点での子どもの正直な気持ちではあるが、その気持ちに母親が便乗して会わせないと、子どもは父親像を欠いたまま育ってしまう。
 性同一性の模索を始める思春期になると、必ず「自分のお父さんは、どんなお父さんだったのだろう?」と気にかかりだす。女の子であれば、青年期になって異性との親密性を求める段階になって、同世代の異性にはまったく興味がわかず、父親世代の異性に父親像を追い求めるという問題になって現れてくることが多い。
 男の子であれば、性同一性の確立が困難になったり、結婚後に自分の子どもに父親としてどのように向き合ったらいいのか分からないという問題となって現れる。
 したがって、父親が面会を求めてきたら、母親は自分の気持ちはさておいて、父親と子どもが会う機会を設定する方向に協力することが、子どもの発達にとって望ましい。
 3歳から5歳児までの子どもは、基本的に道徳的な判断をしないのが特徴である。離婚に際して、両親のどちらが悪いのかという判断をしない。そして、自己中心の心性がある。離婚によって家庭が壊れたとき、それは自分が悪い子だったからだという自責の念から極端に良い子になってしまうことがある。自分が頑張って良い子になれば、親はまた元に戻るかもしれないという幻想を抱く。
 そこで、極端に良い子になっている子どもに対して、離婚したのはあなたのせいじゃないのよと繰り返し繰り返し言って聞かせる必要がある。
 片方の親が意図的に子どもの世界から消えることを選んだときには、子どもがその傷から完全に癒えることはないだろうと言われている。父親に対する抑えがたいノスタルジーとともに、自分を見捨てた父親への許しがたい怒り、そして見捨てられたという癒しがたい傷、悲しみが成人してまで残る。
 6歳から8歳児までの子ども、親に見捨てられたという気持ち、悲しみがどの時期よりも深い時期である。この時期の男の子は、去っていった父親への思慕が強く、一緒に暮らす母親に対して結婚を壊したことや、父親を追い出したことに対して怒りを向けることが多い。父親がでていったあと、虐待的だった父親とまったく同じことを母親やきょうだいにし始め、母親がショックを受けることがある。
 9歳から12歳の子は、道徳観、正義感が強く、白黒をはっきりさせ、グレイゾーンを許せない発達段階にある。離婚の責任はどちらにあるのかを判断し、「良い親」と同盟して、「悪い親」へ復讐することがある。
 しかし、この子どもの心性を利用して味方に取り込み、他方の親を子どもの世界から排除するならば、やがて、子どもが青年期になったときに、自分を片親から疎外させた親に嫌気がさし、良い関係を維持することができなくなる危険性が高い。
 13歳以上の思春期・青年期にある子どもにとっては、もっとも安定した家庭を必要としている時期であるので、片親が突然に家を出ていったりして家庭の基盤が不安定になることは、子どもにとって大きなショック体験である。子どもの反応として、親に向けるべき怒りを打ちに向けて抑うつ状態に陥り、不登校やひきこもりになる場合と親への怒りが置き換えられて外に向けられ、学校で攻撃的行動をとったり、非行に走ることがある。
 子どものために争っているつもりが、いつのまにか子どもを置き去りにして夢中でいがみ合い、闘いをエスカレートさせていくことがある。同居する親への気遣いと忠誠心から、別居している親への思いを語れずにいる子どもから、そのホンネを聞き出すのは非常に難しいことでもある。
 子どもに虐待などの直接的な危害が及ぶような例外的な場合を除いて、原則的には、子どもには離婚後も両親との継続的かつ直接的な接触を保証するという方向に向かうべきである。別居している父親と良い関係を継続させることが子どもの精神的な健康にとって決定的に重要なのである。
 子どもの発達段階に応じて、親との関係が具体的に語られていますので、実務的にも大いに勉強になりました。目下、同種のケースの裁判を担当していますので、よくよく話し合ってみたいと思います。
 
(2010年2月刊。860円+税)

山谷でホスピスやってます

カテゴリー:社会

著者 山本 雅基、 出版 じっぴコンパクト新書
 山田洋次監督の映画・最新作『おとうと』に登場するホスピスのモデルは大阪ではなく、東京の山谷(さんや)にあったのでした。いやあ、すごい人たちがいるんだなと映画を見て感嘆したのですが、この本を読んでその感嘆は驚嘆というべきものに変わりました。まさしく、こんな善意の人々が少なからずいるので日本社会はまだ成り立っているのだと、胸の内が震えるほどの感動をじっくり味わいました。こんな素晴らしい本に巡り合えてよかったなと思う半面、自分は今どれだけのことが出来ているのかと、ついつい反省させられたことでした……。
 学生のころ東京に10年ほど住んでいたことのある私ですが、山谷のドヤ街には一度も行った事がありません。なんだか怖いところというイメージがあったから、近寄りがたかったのです。
 ドヤとは、宿(ヤド)をひっくり返した言葉。宿は簡易旅館のこと。ドヤは1泊2000円。平均年齢60数歳の単身男性3500人が生活している。
 「きぼうのいえ」の居室は、すべて個室。部屋にはテレビがあり、事務所にあるビデオ・ライブラリーから毎日2,3本のペースでビデオを借りることができる。
 ここでは、喫煙も飲酒も、本人の健康に多大の悪影響を与えない限り、規制しない。消灯時間もない。入居者は、みな生活保護を受けている。
 居室のベッドのシーツにできたタバコの焦げ穴の数と、その施設の住みやすさは正比例する。
 入居者の過去は問わない。入居者が語りたい過去は聞くけれど、それ以上は踏み込まない。
 「きぼうのいえ」は40坪の土地に建っている。銀行からの借金、1億2千万円でつくられた。
 ワンカップのお酒を買って飲むのは、お金の問題もあるけれど、「いまは、これだけ」という、自制のきっかけにするため。経済的かつ身体的な自衛手段なのである。
 うむむ。なるほど、そういうことだったんですね。1升ビンを買ってしまうと、どうしても際限なく呑んでしまいますからね……。
 山谷に住み続けて生きていくためには、次々に起こる事件や物事におうようであることが欠かせない。
 入居者には、驚くほど歯のない人が多い。歯を治すことと縁遠い生活を送ってきたからだ。
 それはそうですよね。健康保険が使えず、すべて自費だなんて、ぞっとします。
 この「きぼうのいえ」が始まってから3年間のうちに、看取った人(入居していて亡くなった人)は、34人。すごいホスピスです。感動しましたという言葉では軽すぎます。
 「きぼうのいえ」は、年に数千万円以上の赤字を出しながらも、ボランティアにも支えられて続いています。著者夫妻は、何回となく、もうやってられないと投げ出しそうになり、また、うつ病にもかかりながらも、今日までなんとか、やってきたということす。すごい努力ですね。漫然と生きているのが恥ずかしくなってしまいます。
 不思議なことだが、「きぼうのいえ」では、「死にたくない」と言いながら亡くなった人がまだいない。もはや奪い取られるものがなく、すべてを失ってきた入居者にとって、この世は積極的に生きる意味を見いだせない場所となっている。しかし、ここに入って希望を見出すと、やはり命の継続を望むように変わる。
 いい話ですよね。こんな施設をいつまでもボランティア頼りにしていていいとはとても思えません。戦車や航空母艦より、こんなところにこそ国はお金をつぎ込むべきではないでしょうか……。映画『おとうと』とあわせて、一読を強くおすすめします。
 
(2010年1月刊。762円+税)

脳に悪い7つの習慣

カテゴリー:人間

著者 林 成之、 出版 厳冬舎新書
 タイトルに魅かれて買ったのですが、なんとなんと大正解でした。うむむ、なるほど、なるほど、そうだったのか。よく分かったぞ・・・・。そんな気になりました。
 脳神経細胞がもつ本能はたったの3つ。生きい。知りたい。仲間になりたい。これだけだ。脳には本来、仲間になりたいという本能があるから、本質的に人は誰かが喜ぶのはうれしいものなのだ。
 この3つの本能のなかで、脳の思考や記憶に大きくかかわるのが、知りたいという本能だ。これは脳の原点ともいえるもの。
 子供の脳の発達過程を考えると、赤ちゃんのころに母親がたくさん声をかけることが非常に重要である。
 第2段階の脳の本能は、自己保有と統一、一貫性。人は、自分と反対の意見を言う人を嫌いになる。
頭がいい人とは、何に対しても興味を持ち、積極的に取りくめる人のことである。大切なことは、苦手なことを避けるのではなく、まずは興味をもってチャレンジしてみること。
統一、一貫性という脳のクセから、人間は整ったものやバランスのよいものを好む傾向にある。逆に、見た目がアンバランスだと、なんとなく嫌だなと感じてしまう。
 自分を嫌っている上司のもとで働くことは、自分のためにならない。関係の修復ができず、努力する余地が残されていなければ、居場所を変えるのも選択肢の一つである。
笑顔で脳のパフォーマンスを上げることができる。
 脳は、他人(ひと)のためになるとき、貢献心が満たされるときに、それを「自分にとっての報酬である」ととらえて、機能するようにできている。
 自己報酬神経群の働きをうまく活用するには、物事をもう少しで達成できるというときにこそ、「ここからが本番だ」と考えることが大切である。
 物事を達成する人と達成しない人の脳を分けるのは、この「まだできていない部分」「完成するまでに残された工程」にこだわるかどうかなのである。自分にはだいたい出来ているなんて思うと、自己報酬神経群は働かなくなってしまう。
 そろそろゴールだという言葉をかけると、脳の血流が落ち、正解率はダウンしてしまう。 
 脳の機能を活かすためには、「だいたいできた」というのはご法度なのである。一つの目標を成し遂げたあとで、やった!と思うことだ。 
 脳の達成率を上げ、集中してことを成し遂げるためには、コツコツは間違いなのである。達成し、完結したということこそ、脳にとっては最高の喜びなのである。
 目標を達成したいなら、プロセスにこだわることが大切である。人間の脳は、話すことで  新しい思考を生み、考えを深めることが得意である。このとき、大事なことは、考えっぱなしにせず、紙やパソコンを使って整理しておくこと。一度、形にすることが思考を深めるポイントである。
 脳の機能を活かすには、大事なことは早いタイミングでまとめて、くり返し考え直すこと。これが独創性を生む。
 本を読むときには、いつでも素直に内容と向き合うスタンスをもつこと。本はいかにたくさん読むか、ではなく、いかにいい本をくり返し読むかに重点を置くべきである。くり返し考えることでのみ、新しい発想を生むことができる。新しい発想をきちんとまとめ、ときには自分を疑い、立場を捨てて他人(ひと)の意見を取り入れ、間をおいて考え直すことができて、初めて独創的な思考が可能になる。
 コミュニケーション力をアップするには、うれしそうに人をほめることが有効だ。 ほめるときには、必ず相手のほうを見て、自分もうれしいという気持ちを込めて伝えることが大切である。
 いやぁ、予期せぬばかりの、いい本でした。大変勉強になりました。明日からも笑顔とともに生きていきましょう。
(2010年2月刊。670円+税)
 まだまだ風は冷たいのですが、サクラが満開となりました。福岡の裁判所の裏の桜並木を、少しばかりそぞろ歩きして花見を楽しみました。桜はやはりソメイヨシノですね。ピンク色に染まった満開の桜並木を歩くと、なぜかしら心が浮き浮きしてきます。
 我が家のチューリップも全開となるのももう少しです。180本までは数えましたが、こうなると数えきれません。500本植えたものの7割は咲いていると思います。春らんまんです。花粉症のほうはおさまりました。

道具を使うサル

カテゴリー:生物

著者 入來 篤史、 出版 医学書院
 ニホンザルも道具を使うことを初めて知りました。宮崎・幸島のサルたちが海辺でイモの泥を洗い落して食べると言うのは知っていましたが、道具も使えるのですね……。
 サルは訓練すると、熊手を使えるようになるし、モニターも使うことができる。しかし、何のしかけもない状態では、それをあえてしようとはしない。
 道具使用を訓練されたサルたちは、実験を心地よく楽しんでいる様子であった。朝、ケージの扉を開けると、自ら進んで飛び出してきて、モンキーチェアに座りこみ、実験を催促するかのように手でテーブルをたたいた。速く実験が終わると、もう戻らなければいけないのかという態度で、戻るのを嫌がることさえあった。
 サルは、比較的容易に、まず短い道具を使って長い道具を取り、次に長い道具に持ち替えて餌をとると言う二段階の道具使用行動を行うことができた。
 子どものサルは好奇心が強くて、珍しいことによく興味を示して試みてくれる。
 仔ザルには、もうひとつ、よく「鳴く」というきわだった特徴がある。仔ザルは、とにかくよく声を出している。鳴くと言うより、そばにいる人間がしゃべっているのといっしょになって、自分もしゃべっているつもりになっていると思えることがある。ところが、大人のサルになると、威嚇するときやおびえたとき以外は、ほとんど声を出すことがない。
 サルが餌を要求しているときと、道具を要求しているときのソナグラム(音声)が異なっている。
 サルも人間も、かなり共通するところが大きいことが良く分かります。サルまねなんて、バカにしてはいけませんね。
 
(2004年7月刊。3000円+税)

世事見聞録 その3

カテゴリー:司法

 江戸時代も今と同じで、不倫・不貞が流行していたようです。日本人って、この点も変わらないのですね。
「下賤の娘たるもの慎みの体更になく、不義をなすこと珍しからず。親を憚る心なく、外見外聞を厭ふにもあらず、或は親の元を遁れ逃げ去り、親の勧むる縁組を拒み、馴れ合ひ夫婦などのこと多く、或は父母へは不通になりて夫を持つ事、常の風俗となり、また人の妻妾なるもの、密通のこと尋常の事になりて、互ひに犯し合ひ奪ひ合ひ、また欲情に拘り、男を欺くあり、女を欺くあり、また夫婦馴れ合ひなどありて、金銀をゆすり取るもあり、また密通するのみならず、男の意地など言ひて、無体に人の妻を貰ひ懸け、貪りとるあり、また実夫の身上を奪ひて、密夫の方へ送りたる上に逃げ行くあり、人の身上を狂はせ、或は夫婦仲よくして子のある中をも、誑(たぶら)かして連れ出し、よんどころなく離縁に及ばせ、親は懸るべき娘を奪はれ、夫は家を守るべき妻を失ひ、父母を失ひて誑かさるゝもの多し」
 「享保の頃に至っては余多ある事なりし故、大岡越前守工夫にて、密通の男へ過怠金一枚出させしといふ。金一枚は小判七両二分になる。尤もその頃の金一枚は今の三十両余にも当るなり。この過怠始まりて却つて密通のこと多くなりしゆゑ、間もなく止みしといふ」
 「当世はさほど重き事に思はず、只密通数多き事ゆゑ、明白にして詮なきといふ懦弱なる了簡にて取扱ふ故、実夫密夫ども猥りに嘲弄し、そのうち止まる処、実夫は空気(うつけ)ものになりて恥辱を十分に被り、密夫は怜悧なる奴となりて仕廻ふ故、密夫たるもの身の過ちを知らず」
 日本の女性が昔から強かったことは、次の記述からも、よく分かります。
「猥りに女の道乱れ、子孫にして或は親を侮り偽り、或は夫をないがしろにし、我儘気随の振廻ひ、常の風俗となれり。今軽き裏店(うらだな)のもの、その日稼ぎの者どもの体を見るに、親は辛き渡世を送るに、娘は髪化粧よき衣類を著て、遊芸または男狂ひをなし、また夫は未明より草履草鞋にて棒手(ぼて)振りなどの稼業に出るに、妻は夫の留守を幸ひに、近所合壁の女房同志寄り集まり、己が夫を不甲斐性ものに申しなし、互ひに身の蕩楽なる事を咄し合ひ、また紋かるた、・めくりなどいふ小博打をいたし、或は若き男を相手に酒を給べ、或は芝居見物そのほか遊山物参り等に同道いたし、雑司ヶ谷・堀之内・目黒・亀井戸・王子・深川・隅田川・梅若などへ参り、またこの道筋、近来料理茶屋・水茶屋の類沢山に出来たる故、右等の所へ立ち入り、又は二階などへ上り金銭を費して緩々休息し、また晩に及んで夫の帰りし時、終日の労をも厭ひ遣らず、却つて水を汲ませ、煮焚きを致させ、夫を誑かして使ふを手柄とし、女房は主人の如く、夫は下人の如くなり。邂逅(たまさか)密夫などのなきは、その貞実を恩にきせて夫に嵩り、これまた兎にも角にも気随我儘をなすなり。
 今大小名の閨門を始め、女の気随我儘も奢り頂上し、下々卑賤の末々に行くに随ひ、右の如く夫婦女子の道乱れしなり。この風俗また国々在々に押し移り、父母を粗略にして女房を大切に取扱ひ、親類を疎遠にして縁者なるを懇切にする事になれり。これ世の信義を失ひ、淫犯の増長せしなり」
 江戸時代の百姓がみな貧困にあえいでいたかというと、必ずしもそうではなかったのです。
「富める百姓は身分を忘れて、都会に住める貴人も同じやうに奢りを構へ、家居も古今雲泥の相違にて、門構・玄関・長押・書院・床・違棚など結構を尽し、書院そのほか物数寄(ものずき)を尽し、或は公儀へ冥加と号して金銀を上げて奇特ものとなり、苗字帯刀などを御免を蒙りて権威に募り、或は領主地頭へ用立金などして、その功に依つてこれまた苗字帯刀・扶持切米など免(ゆる)されて近辺に威を振ひ、小前(こまへ)百姓を誣げ遣ひ、或は小身なる地頭を侮り疎みて、宮門跡方そのほか有職の家へ取り入り、金銀賄賂を遣ひて用達または家来分などとなり、愚昧の民を恐れしめ、様々我儘をなし、また村役人その外すべて有余なる族は、耕作を召仕ひの下男女に任せ置き、己れは美服を著し、或は婚礼・婿取り・諸祝儀・仏事など、すべて武家の礼式に倣ひて大造なる招請饗応などなし、又は常に浪人などを囲ひ置きて、身分に非ざる武芸を習ひ、或は師匠を撰みて詩文章を志し、唐様を書き、和漢の書画風を学び、又は茶陽師・歌俳諧師・音曲の芸者などを抱へ置きて遊芸を学び、我が遊興の相手とし、或は繁花の地より美女を連れ来たりて妾となし、日々酒宴を催し、又は秘かに繁花の地へ遊びに出て、田舎には妻妾を置きながら、都会の地にも囲ひ女などを致し、或は遊里に泊り、妓女に戯れ子を拵へ、或は公事出入りを好み、己が身に不足なく隙あるに任せ、人の腰押しを致し、わづかなる事をも大なる出入りに及ばせ、人の身上にも拘るべき事をも厭ひなく、又は己が心に叶はざる時は、変死そのほか非義非道の事をも、訴訟の取次を致さず、無体に押し噤みて内済など致させ、或は大体の訴訟の事を始め、領主地頭の用向きなどに出て、その用事を次にし、世に自分の遊び事をなし、繁花に心を奪はれ、公事出入りの落著を長引く手間取りを却つて歓び、永遊びをいたし大金を費すなり」
 この本を読むと、江戸時代って現代日本と同じように大変な時代だと思わざるを得ません。しかし、解説者(滝川政次郎)は誤解しないようにと、現代の私たちにクギを刺しています。
「江戸時代は嫌らしい、下らない時代であったという先入主を持っている現代人が、本書を読んで、江戸時代はこのように腐敗堕落、淫靡の極にあった時代であったという誤った認識を深めることを懼(おそ)れる。江戸時代の社会は、本書に述べられているほど悪いことばかりの社会であったわけでもない。
 世事見聞録は、右に述べたような、貴重な江戸時代史の史料であり、且つ興味深き読み物の一つである」
 あなたも、ぜひこの本を読んでみてください。江戸時代の日本人、ひいては日本人とはどんな人々であるのか、大いに目が開かれると思います。
 
(2005年4月刊。3500円+税)

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