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2009年5月 の投稿

山県有朋

カテゴリー:日本史(明治)

著者 伊藤 之雄、 出版 文春新書
 この本を読むと、天皇がときの権力者からおもちゃのように扱われていたこと、天皇の意思より権力者の都合のほうが明らかに優先していたことがよく分かります。天皇というのは、権力者にとって都合のいい、隠れ蓑でしかなかったのですね。
 そんな権力者が、「万世一系、天皇は神聖にしておかすべからず」などと国民に向かっては唱えているのですから、まさしく笑止千万です。
 山県有朋の父は、下級武士(蔵元付仲間組。ちゅうげんぐみ)だった。武士の中では身分の低い家に生まれながらも、吉田松陰の松下村塾に入門し、高杉晋作のつくった奇兵隊では、隊長(総管)に次ぐ地位(軍監)となって、幕末の動乱を戦った。
 山県は、4歳までに母を亡くし、父も若くして亡くなっていて、祖母も明治になる前に自殺している。このように家庭的には寂しい少年・青年時代を過ごした。そこで、心を許せる友は少なく、国民的な人気も高まらなかった。
 明治に入って西郷隆盛らが征韓論を唱えて下野したとき、山県有朋は長州藩出身という義理から木戸を支持して動くのが自明であった。しかし、尊敬し世話になった西郷と面と向かって対決するのがつらく、山県は積極的に動くことができなかった。このとき、山県は病気になったが、これも木戸への義理と西郷への人情に引き裂かれたストレスからきたものだった。
 山県は陸軍卿となって徴兵制を積極的に導入しようとした。しかし、それに対して士族の誇りから徴兵制に反感を持つナンバーツーの山田顕義少将らとの対立があった。
政府にとって佐賀の乱以上に困難な問題だったのは、台湾出兵である。征韓論に反対した岩倉・大久保らが4か月もしないうちに台湾出兵を決意したのは、全国的に広がるような士族反乱を恐れたからである。台湾出兵の欲求は、陸海軍の少壮将校の間にすらあった。台湾出兵を求める声をむやみに抑圧したら、現に佐賀の乱がおこったように、国内で大きな反乱を引き起こすかもしれなかった。
 1874年の台湾出兵以来、伊藤が大久保の後継者として地位を固めていき、西南戦争の前年には木戸に勝るとも劣らない実権を持つようになり、山県はこのような伊藤の支援で政府と陸軍内での地位を確保することができた。
 山県有朋は、37歳にして権力志向の強い人間に変わりはじめた。自らの理想を実現するために、人脈や派閥を構築しようと考えはじめたのだ。
 山県は、西郷隆盛と、人情に流されやすい優しい性格という点で、大きな共通点を持っていた。
 1873年から西南戦争がはじまる1877年までに徴兵し訓練されていた兵士は3万3700人であり、西郷軍1万6000人の2倍以上の動員能力を持っていた。しかし、山県は西郷軍を甘く見ず、心配症といえるほど気を配った。山県は南関(熊本県)に到着し、田原坂そして植木をめぐる攻防戦を指揮した。山県の採用した戦法は、奇策に頼らない正面攻撃だった。これは山県の真面目な性格を反映していた。
 山県にとって西郷隆盛は、尊敬とあこがれの対象だった。西南戦争の最中(1877年5月)に、木戸孝允が病死した(43歳)。山県は木戸の死より、西郷の死がはるかに悲しかった。
 明治天皇は1884年から85年にかけて、政務をサボタージュした。それは、監軍任命などについての天皇の意思が伊藤らに無視されたからである。そして、1886年(明治19年)、明治天皇は条例の裁可をしぶった。33歳の明治天皇は、まだ十分な権威を備えていなかった。山県や大山は、明治天皇が軍政に関与することに抵抗し、伊藤も天皇の政治関与を抑制する立場から、これを支持していた。明治天皇は、このような経験を重ねて、危機のときだけ君主は調停的に関与するものだということを学んでいった。
 明治維新以来、山県は何度も失脚しそうになりながら、屈辱に耐え、気合いと誠意で日本陸軍と自らの地位を築いてきた。桂太郎にはそのような苦労をさせまいと、自分の権力を使って陸軍省総務局長・次官や陸相というエリートポストにつけ、後継者としての地位を固めさせた。その桂が、自分の陸軍にかける思いをまったく理解せず、時勢に迎合して政党をつくる。山県には承服できなかった。山県は桂への怒りを煮えたぎらせるとともに、桂に期待し、桂の成長を陸軍や日本の将来と重ね合わせて楽しみにしてきた自分の愚かさが腹立たしかった。
 新書版といいながら、500頁近くもある大著です。山県有朋を通して、明治の政治が浮き彫りにされ、最後まで大変面白く読み通しました。
 新緑溢れる信州・白樺湖に久しぶりに行ってきました。湖の周りを歩いて一周するのに1時間ほど。ちょうどいい散歩コースです。もっとも、マラソンを愛する玉木昌美弁護士(滋賀)は1周20分ほどで走り、気持よかったよとのたまわっていました。まあ、これは好き好きですよね。ゆっくり歩くと、小鳥のさえずりのバリエーションを楽しむことができます。ウグイスのほか、いくつも聞こえてきますが、その姿を見ることはほとんどできません。
 板でできた野趣あふれる遊歩道が作られているところもあります。そこをゆっくり歩くと、湖面に悠々と鴨がペアで泳いでいるのが見えました。湖畔には白水仙がたくさん咲いています。九州では3月に咲き終わる花です。
 ここらで一休み、一服しませんか。そんな看板に引き寄せられて喫茶店に入りました。その都度、コーヒーメーカーを作動させるようです。やがて、香り高くもやわらかい味のコーヒーを堪能することができました。
 白樺湖の周囲の山々は冬にスキー場になるのが草原のようになっています。おだやかな湖面に吹き渡る風も涼しく、ついつい深呼吸してしまいました。
(2009年2月刊。1300円+税)

凍った地球

カテゴリー:生物

著者 田近 英一、 出版 新潮新書
 ええっ、地球が雪玉(スノーボール)のように凍りついていた時期があった……。とんでもない仮説です。地球って、火の玉地球から始まったはずなのに……。
 かつて地球の表面は氷で完全に覆われていた。こんな衝撃的な事実が明らかとなったのは、この10年来のこと。火山活動による二酸化炭素の供給が現在の10分の1以下になると、地球は全球凍結を避けられないことが理論上の計算で導かれた。
 でも、本当にそんなことが起きたのでしょうか……?
 地球が誕生したのは、今から46億年前のこと。そして、その後の6億年間は、地質記録がほとんどない。
 今から5000万年前のころ、地球は最温暖期だった。パリやバンクーバー(カナダ)のような緯度50度あたりまで、今のアマゾンにあるような熱帯雨林が分布していた。その原因は二酸化炭素濃度の増加にあった。
 今から46億年前、誕生したばかりの太陽の明るさは、現在の70%程度だった。太陽は。時間とともに徐々に明るさを増しており、現在でも1億年に1%程度の割合で明るくなっている。うーん、そういうことってあるんですかね。地球も進化してるんですか……。
 地球の大気組成は、時間とともに大きく変わっている。それは進化しているとも言える。原生代において、主要な生物のほとんどは海の中に生息していた。全球凍結が生じると、海は表層1000メートル程度が完全に凍結してしまうため、光合成生物が活動できる場は失われる。しかし、海洋は表層の1000メートルほどが凍結するだけで、深層領域は凍結しない。やがて、大気中の二酸化炭素分圧が0.12気圧にまで達すると、氷は赤道から一気にとけはじめる。
 全球凍結現象というのは、全球平均気温の変動が100度にも及ぶような極端な気候変動である。
地球には、もともとオゾン層はなかった。生物が陸上に進出できたのは、大気中の酸素濃度が増加したことでオゾン層が形成され、それが太陽の紫外線を吸収してくれるようになったおかげだ。地球と生命は、お互いに影響を及ぼしあいながら、ともに進化してきたのではないか。これを、地球と生命の共進化という。
 地球の全球凍結が生物進化のフィルターとしての役割を果たした。全球凍結によって生物の多様性が大幅に減少することでボトルネックが生じ、その直後に生物の多様化が促進された可能性がある。また、全球凍結の直後に大気中の酸素濃度が増加したことによって、生物の大進化が促進された可能性がある。
 全球凍結イベントという破局的な地球環境変動が生じれば、生物進化に与える影響は計り知れない。全球凍結による生物多様性の大幅な低下と大気中の酸素濃度の増加が重なり、真核生物や多細胞動物の出現という、生物進化史上の大進化をもたらしたのだとしたら、全球凍結は生物の進化にとって決定的な役割を果たしたことになる。つまり、全球凍結がなかったら、地球上の生物は、いまだにバクテリアのままだったかもしれないのだ。うむむ、なんという逆説的な指摘でしょうか……。
 地球は、いま、新生代後期氷河期のまっただなかにある。氷期と間氷期が10万年の周期で繰り返しており、ほんの1万年前までは寒冷な氷期だった。その後、地球は温暖な間氷期となり、人類は文明を発展させてきた。しかし、あと数千年から一万年のうちに、また再び氷期が訪れることは確実なのだ。
 地球温暖化が叫ばれているなかで、いずれ地球に氷河期が来るという指摘がなされています。地球と私たち生物体との関わりを考えさせてくれる好著です。
 
(2009年1月刊。1100円+税)

がんは患者に聞け!

カテゴリー:社会

著者 吉田 健城、 出版 徳間書店
 有名人16人のがん闘病記録ですので、読ませます。
 山田邦子(乳がん)、鈴木宗男(胃がん)、市田忠義(大腸がん)、仙谷由人(胃がん)など、それぞれの人たちのがんの壮絶なたたかいの記録でもあります。
 また、読んでいるうちに、勇気も湧いてくる本です。
女優の洞口依子さんという人は、私の全然知らない人ですが、子宮頸がんになって、子宮を広く摘出し、後遺症に悩まされました。そんな彼女が心の支えとしたのが、書くこと、でした。
 朝日新聞の夕刊にコラムを書き、それを単行本にした。書いているうちに、それまで見えていなかった自分が見えてきた。自分に起きたことを短い文にまとめる作業は、客観的に自分を見つめ直す作業だ。病気になってから起きたことを、あれこれ思索しているうちに、そのときどきの自分と病気とのかかわりも見えてくるので、書けば書くほど病気との付き合い方も分かってくる。文章を書くことで、最近、ようやく病気との距離感がつかめるようになった気がする。それで、ちょっと自信もついてきた。なるほど、そういうこともあるのですね。
テレビの政治討論会に出演することも多い共産党の市田忠義氏(書記局長)は、大腸がんの手術後の後遺症として、生放送の討論会の最中にひどい便意に襲われました。民法の番組のときにはコマーシャルタイムにトイレにかけこみ、事なきを得ました。しかし、NHKのときには、コマーシャルタイムがありません。ついに、途中でトイレに駆け込んだのです。それでも、ディレクターがアングルを工夫してくれ、さらに、藤井裕久議員が優しく教えてくれたそうですがんという病気を根絶できる薬はまだ見つかっていませんが、早くだれか見つけてほしいものです。
 
 ツテツの木のすぐそばに今年もツバメ水仙が朱色のスマートな花を咲かせてくれました。1月から咲き始める水仙の最後を飾ります。花弁が細くて、すらっとしていて、ツバメが空を飛びまわる姿を連想させる花です。
 アマリリスの朱色の花も咲いています。もう雑草に埋もれてしまったのかとさびしい気がしていましたが、ことしも元気に咲いてくれました。手植えした植物が見事な花を咲かせてくれるのはうれしいものです。
(2009年1月刊。1700円+税)

日本の城郭

カテゴリー:日本史(江戸)

著者 西野 博道、 出版 柏書房
 著者自身が日本全国を駆け巡って、有名な城の写真を撮ってまわったというのですから、すごいものです。写真を見てるだけでも楽しいのですが、もちろん、それぞれの城について詳しい解説が付いていますので、言うことはありません。これで2400円とは安いものです。私もこの本に登場してくる城のいくつかは実地に見ていますが、まだまだ見るべき城は尽きないことがよく分かります。
 紹介された45の城のうち、私の行ったことのある城を並べてみます。
 関東より北は、残念ながら一つもありません。浜松城、金沢城、名古屋城、岐阜城には行きました。岐阜城は急峻な山にそびえる山城です。ここに斎藤道三がいて、竹中半兵衛が城を占領したとか、木下藤吉郎(秀吉)そして織田信長が占領したのかと思うと、感慨深いものがありました。すぐ下に、長良川が流れていますが、斎藤道三は息子の軍勢と戦って戦死したのでした。
 彦根城にも行きました。姫路城はもちろん行っています。さすがに白鷺城といわれるだけのことはある優美な城です。岡山城は平地の城です。関が原合戦で西軍を裏切った小早川秀秋が城主となった城です。寝返り者という世間の非難を浴びて家中は乱れ、重臣は離反し、岡山城に入って2年後に21歳の若さで病気で亡くなり、小早川家は断絶したとのこと。哀れです。
 広島城・鳥取城と続きます。鳥取城は下から眺めただけですが、秀吉が完全に包囲して用意周到な兵糧攻めをしたことで有名です。戦国の闘いも知恵比べだったのですね。
 松江城、松山城、高知城はよく保存(再現)されています。高知城の下に広がる日曜市で、ふらりと入った店のカツオのタタキ定食の美味しさは今でも忘れられません。また行きたいところです。
 小倉城にも佐賀城にも、もちろん行きました。佐賀城の大広間は一見の価値があります。そして、熊本城です。再現された大広間を見ましたが、思わず息をのむほどの壮麗さです。島原城・鹿児島城にも行ってきました。武家屋敷がそのまま残っていたりすると、昔の風情が感じられ、江戸時代を背景とする藤沢周平などの小説がとても身近に感じられます。
 
(2009年2月刊。2400円+税)

兄弟(下)

カテゴリー:中国

著者 余 華、 出版 文芸春秋
 猥雑極まりない本です。でも、現代中国の本質的断面を小説として戯画的に鋭く描き出したことから、中国人の共感を招いたのでしょう。上巻が40万部をこえるベストセラーになり、上下巻合わせて100万部をこえたといいます。しかし、失望や批判する声も少なくなく、賛否両論、中国内での議論が沸騰した。なるほど。読むと、それもうなずけます。
 この開放経済篇は、喜劇である。しかし、その中に悲劇の音符をさんざん飛び跳ねさせた。悲喜こもごもの物語を書きたかったから。
 そのとおりです。悲劇があるかと思うと、立身出世物語があり、その裏で悲劇が進行し、また、俗悪な現実が展開するのです。まさしく現代中国の病弊にみちみちた社会の断面を目の当たりに見ている実感にさせられます。
 440頁もの長編です。あまりにめくるめき展開なので、目が回り、吐き気まで催しそうです。
 秋田県熊代市には、海岸に面して風の松原という広大な松林があります。長さ14キロ、幅1キロと書かれています。そのなかに遊歩道があります。チップを敷き詰めた、とても歩きやすい道です。アスファルトとか合成の道ではなく、着地した感触が柔らかく、歩き心地のすばらしい遊歩道です。松の木は、どれもひょろひょろと長いのですが、風が強いせいでしょうか、内陸の方に向かって傾いています。雨上がりの朝、そこを30分ほどかけて歩きまわりました。姿の見えない小鳥が爽やかな鳴き声を響かせてくれるなか、たっぷり森林浴をすることができました。
 すぐ向こうに海があり、波の音も聞こえてきます。ケータイの万歩計に1万2000歩歩いたと表示されました。熊代は静かないい町です。福岡から熊代に移った中野俊徳弁護士の応援団の一人として、熊代に行って来たのです。弁護士過疎解消のため、東北の地で九州男児ががんばる。その決意は大したものです。少しスリムなボディーになって、秋田美人との出会いが実ることを期待しています。
(2008年6月刊。1905円+税)

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