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2008年12月 の投稿

思いやり予算と米軍天国

カテゴリー:社会

著者・出版社 安保破棄中央実行委員会
 わずか60頁あまりの薄いパンフレットなのですが、読めば読むほど腹のたつ本です。いえ、書いてある内容が、です。日本って、アメリカにこんなに尽くさなければいけないのかとムラムラと怒りがこみあげてきます。
 日本に駐留するアメリカ兵は4万人。日本にあるアメリカ軍基地は134か所。日本は駐日アメリカ軍のために年6000億円をつかっている。これはアメリカ兵一人当たり1300万円となる。すごい金額ですよね、これって。これを減らそうという話が起きないって不思議です。
日本地位協定では、アメリカ軍基地はタダで提供するか、基地内の費用はすべてアメリカが負担することになっている。しかし……。
 金丸信防衛庁長官が、「思いやりの精神があってもいいじゃないか」と言って、1978年に62億円で始まったアメリカ軍のための「思いやり予算」は、2008年度は2083億円にまでふくれあがった。そして、この30年間で34倍という急膨張をとげた。この31年間を累計すると、なんと5兆3711億円にもなる。
 うひゃあ、す、すごーい。すごい税金のムダづかいです。だって、法的根拠は何もないのに、私たち日本国民の税金がアメリカ軍のために5兆円も使われているなんて、許せませんよね。世界の他の国で、こんな日本のようなことをしている国はありません。だから、アメリカは日本を手放さないのです。日本って、本当にアメリカのいいなりなんですね。日本外交に自主性がないのも、ここらに根拠があるのでしょう。
 結局、日本にあるアメリカ軍基地で、アメリカ軍人の給与以外はすべて日本が負担するようになっているようです。こんな馬鹿なことがあるでしょうか。それほど日本の国って豊かなのですか。お金がないからといって福祉の切り捨てはどんどん進んでいっているじゃありませんか。消費税を10%に上げるという話すら出ているのですからね。ひどいものです。プンプンプンプン。
 世界でアメリカ軍を一番受け入れているのはドイツだが、その111倍も日本はアメリカ軍の駐留経費を負担している。お隣の韓国と比べても、その6.6倍を負担している。在日アメリカ軍基地内の施設は、次々に新しく作られているが、それはすべて日本国民の税金によるもの。うへーっ、ひ、ひどいひどーい。
 たとえば、アメリカ軍人用の住宅が1万1295戸が作られた。1戸あたりの平均価格は土地代で4830万円。うひょーっ、これはぜいたく。
 アメリカ軍司令官用住宅は、243平方メートル。4つの寝室、3つの浴室、リビングは32畳敷、ダイニングは18畳敷、こ、これって、ちょっとした運動会でもできそうな広さですよ。浴室が3つもあって、どうするんでしょうかね。
在日アメリカ軍基地で働く日本人従業員は2万5000人。このうち2万3000人分の労務費は全額を日本が負担している。
 アメリカ兵が基地の外に居住しているときでも、その光熱水道料は日本負担。えーっ、な、なんで……。
 広大なアメリカ軍基地は、地代がタダ。アメリカ兵は税金も支払わなくていい。有料道路だってタダで通行していい。これは公務中だけでなく、レジャーのためでも同じ。
 アメリカ兵が日本で犯罪を引き起こした時の賠償金も日本が負担している。
 アメリカ軍が犯罪をおかして刑務所に入れられても特別待遇を受ける。昼からステーキ、昼食にフルーツ、夕食にはデザートがつく。カフェテリア方式で、自由に献立が選べる。
 また、毎日シャワーが浴びられ、居室にはスチーム暖房が付いている。
 な、なんということでしょう。ここまで日本人はアメリカに馬鹿にされているのです。こんな屈辱を味わわされながら、政府が国民に対して愛国心をもてなんていうのは、まるで信じられません。日本政府こそ、もう少し自分の国を愛する自覚を持って、アメリカと対等にモノを言えるようになってほしいものです。
 先日受けた仏検(準1級)の結果がはがきで通知されました。合格していました。基準点68点を2点オーバーした70点でした。合格率は24.5%ですから、4人に1人が合格したわけです。実は自己採点ではもっと甘くしていたのですが、仏作文の採点が辛かったのでしょう。自分でも不出来でしたので、仕方ありません。ともかく、第1問の名詞が全滅ですから、合格したのが不思議なほどです。準1級の筆記テストに合格したのは、もう5回目か6回目です。
 1月下旬に口頭試問を受けます。これは、まだ1回しかパスしたことがありません。
(2008年2月刊。400円+税)

絵で読む歌舞伎の歴史

カテゴリー:社会

著者:服部 幸雄、 発行:平凡社
 山田洋次監督のシネマ歌舞伎『人情噺・文七元結』を見ました。帰りに買ったパンフレットのなかで、山田監督が「あんまりハッピーなんで涙が出てしょうがないというニュアンスのものにしたい」と語っていますが、まさにその通りで、人情物の落語であり、私もうれし涙が止まりませんでした。映画が終わってスクリーンが真っ暗になり、また明かりがついて映画館を出るときには、すっかり気持ちが明るくなっていました。いい映画が見れて、なんと今日は幸せなんだろう。そんな気分で歳末を迎えて気ぜわしくなった町を歩いて帰宅することができました。
 主人公の中村勘三郎の顔が本当に生き生きしています。舞台と違って映画ですから、ド・アップの迫力があります。汗たらたらの役者の顔を大画面で見れるというのは本当にいいものです。昨年10月、東京は新橋演舞場で本当に上演されたものをカメラで撮影したもののようです。観客席、しかもド・アップで役者の顔が見れる超特等席に座っているかのような気分に浸ってあっという間に時間がたってしまいました。まだ見ていない方は、ぜひ映画館に足を運んでみてください。なぜか、いつもなら1800円で見れるのに、2000円となっていましたが……。
 この本は、江戸時代の歌舞伎をたくさんの浮世絵とともに紹介したものです。歌舞伎の語源となっている「かぶく」というのは、オーソドックスなものに反抗し、異端の思想・ふるまいをすること。
歌舞伎の歴史は、慶長5年(1600年)、宮中に参上した一座から始まる。お国のややこ踊りである。お国は男装していた。相手として登場した茶屋の女性は、むくつけき男性の狂言師が扮していた。
 その後、寛永のころ(17世紀前半)、遊女歌舞伎が流行した。このころ新しく渡来した三味線を主要楽器として使用したのが成功した原因の一つだった。
 そのあと、若衆歌舞伎が流行する。しかし、男色趣味と一体となって展開したことから、男同士のケンカ争論そして女性同士の嫉妬争いが日常的に起きて、風俗が乱れ、幕府は承応元年(1652年)、全面的に禁止した。ただし、翌年には復活・再開した。これを野郎歌舞伎という。
 初代の市川団十郎は「曽我物語」で荒事(あらごと)をはじめた。正義と勇気、そして超人的な怪力でもって悪鬼などを徹底的にやっつけてしまうのである。
 元禄時代、近松門左衛門は、歌舞伎の狂言役者として活躍した。「曽根崎心中」は実際に起きた事件を題材としたもので、興行的に大成功した。
 大坂(大阪とは書かない)の観客は、歌舞伎と人形浄瑠璃の両方を見ていた。相互に手ごわいライバル同士だが、もちつもたれつの影響関係をもっていた。そして、人形浄瑠璃は歌舞伎を圧倒してしまった。そこで、人形浄瑠璃であたった狂言をすぐに歌舞伎化して上演するようになった
 「花形」(はながた)という言葉は、本当は「花方」という。「実方」(みかた)に対して、芸に「花」のある役者をさす。初代の菊五郎は、「芝居が細かすぎるのだけが欠点だ」と言われるほど、演技の工夫をした実事仕(じつごとし)でもあった。
 江戸時代の中ごろ、役者の顔の特徴をつかんだオールカラーの似顔絵(錦絵)が流行し始めた。このころ、江戸の大衆は、大まかな荒事芸にあきたらず、内容のある芝居と屈折した人間の心情表現を求めるようになっていった。
 今、日本全国200ヶ所で地芝居が行われている。芝居は、その村を守る神社の行事として開催されることが多く、そして役者は、土地の素人である。
 多くの地芝居は、江戸の寛政から文化・文政時代に始まった。為政者による厳しい弾圧や膨大な出費を覚悟しても、毎年、奉納芝居をしたくてたまらない人が日本全国に無数にいる。都会でも農村でも、日本人は本当に歌舞伎が好きだ。明治末期から大正・昭和初期までが地芝居の最盛期だった。
 私も、父の伝記をつくる過程で、出身地である大川における農村生活の様子を聞いたとき、芝居興行が盛んだったことを聞かされました。父の本家前には、いまもクリークがありますが、そこに芝居小屋を造って父の子どものころまで芝居が演じられていたというのです。歌舞伎のことが視覚的にわかる楽しい本です。
 福島の知人から今年も「ラ・フランス」が届きました。A農園特産なのですが、ともかく美味しいのです。みずみずしく、柔らかくて甘い洋梨です。ほかのものは少し果肉が固かったり、ゴワゴワしているのがありますが、このA農園産は絶品です。いつも晩秋、冬到来の時期に贈られてきますので、「ラ・フランス」が来ると、冬到来になります。
(2008年10月刊。2600円+税)

オバマ、勝つ話術、勝てる駆け引き

カテゴリー:アメリカ

著者:西川 秀和・池本 克之、 発行:講談社
 オバマ大統領が誕生することになりました。その大統領就任式には300万人がワシントンに集まるだろうと言われているそうです。アメリカが軍事優先の国家から少しでも平和志向の国へ変化することを願うばかりです。
 この本は、はじめヒラリー・クリントンより劣勢だったオバマがなぜ逆転勝利へ駆け上がることができたのか、その秘密を明らかにしています。読むと、なるほど、と思います。インターネットを使って膨大な資金カンパを集め、惜しみなくテレビCMなどに注ぎこんだという物量作戦もバックにあって支えたのでしょうが、やはりオバマ自身の演説のうまさは決定的だったようです。
 リーダーとなる者は、人の心を動かす言葉を持っていなければならない。とくに政治家は、自らの理想を、自らの信念を、人々に明確に伝えなければならない。まさに、言葉は人なのである。記憶に残る一言と明確なコンセプトがもっとも求められる。
 漢字が読めず、空気も読めない麻生さんは、首相として失格と言うだけでなく、そもそも政治家になったのが間違いなんですよね。
 オバマの演説には、信じること、希望など、人々に勇気と自信を与える言葉が随所に散りばめられている。不信に凝り固まった人々の心をほぐすためには、大ゲサでしつこいほど、そうしたポジティブな言葉を繰り返す必要がある。
 オバマは、ネガティブ・キャンペーンに対して反撃はできるだけせず、希望と連帯を前面に打ち出すことで勝利した。ネガティブ・キャンペーンに対していちいち反撃すれば、相手のペースに巻き込まれるし、きりがない。相手を落としめ自分を上げようとすると、心ある有権者は言葉に耳を傾けてくれなくなる。ネガティブ・キャンペーンが行き過ぎれば、いずれ自滅する。
 オバマは、過去の政治からの脱却と未来の新しい政治の導入を約束して多くの人々の支持を集めた。過去対未来という2項対立は、連帯を呼びかけるのに好都合なのだ。
 オバマが有権者に黒人の代表だと判断されたら、幅広い得票ができない。オバマは白人と黒人の連帯を訴えかけ、圧倒的な黒人票に加え、一定数の白人票も集めることに成功した。
 オバマとヒラリーの両者には政策の面で根本的な争点があまりないため、イメージ戦略の勝負だった。「経験のヒラリー」対「変化のオバマ」というイメージがすっかり定着した。
 変化、きっと私たちは出来る、そして過去対未来という人々の脳裏に強烈に刻まれるイメージ戦略で、オバマは支持層の急拡大に成功した。
 重要なことは何度でも繰り返す。どんなことでも一度聞いたくらいでは、記憶には残らない。訴え掛けるテーマがいけると思えば、くどいと言われようが中身がないと批判されようが、とにかく繰り返す。そうすれば、多くの人々に浸透する。
 ヒラリーは理性に訴えかけ、オバマは情勢に訴えかけた。
 多くの人々が今のままではダメだという漠然とした不安を抱いていたが、何をどうすればよいのか分からないでいた。そんなときには、まずは希望を与えることが大事だ。不安で心がいっぱいのときに理性に訴えかけても効果がない。オバマは情勢に訴えかける言葉で人々の不安を行動に変えさせた。人々の持つ不安を汲み取り、それを打ち消す力強い言葉の力を発揮することこそ、オバマの真骨頂だった。自分の思いを語るだけではダメ。人々が待ち望む言葉、そして人々が待ち望む物語を語らなくてはならない。
 そうなんですよね。不況のとき、ヒットラーのようなデモゴギーではなく、素直に現実を直視しつつも明日への希望を持たせる呼びかけのできる政治家が日本にもいてほしいですね。
 オバマのカリスマの秘密は、人々の心を代弁することに、そして人々に夢と希望を与える救世主というイメージをつくることに成功したことにある。
 オバマが人々の心をぐっと掴む演説のうまさに、日本人とりわけ弁護士は大いに見習うところがあると思いました。
 先週の日曜日、庭の一隅を半畳分ほど掘り上げ、水仙などの球根類を植えかえてやりました。掘り上げたところには近ポストに入れていた枯草などを埋め込みます。球根を植えているうちに陽が落ちてしまいました。夕方5時です。急に冷え込み、背中に冷気さえ感じるようになり、しばらく辛抱して夕方5時半まで頑張りました。庭仕事を終えて空を見上げると、天高く半月が煌々と輝いていました。
 今日は私の誕生日です。ついに還暦を迎えてしまいました。20代のころ、自分が60代になるなんて考えたこともありませんでした。先日、依頼者の方から、「まだ40代に見えますよ」と言われましたが、私の頭のなかはまだ20代のままなのです。といっても、身体の方は確実に老いを実感させてくれます。そこがつらいところです。
(2008年10月刊。1400円+税)

荷抜け

カテゴリー:日本史(江戸)

著者:岡崎 ひでたか、 発行:新日本出版社
 信濃(しなの)、安曇(あずみ)地方に実際に起きた牛方集団の「荷抜け」事件を題材として書かれた小説です。青少年読書感想文全国コンクールの高校生向けの課題図書となっていますが、なるほど、とうなずける内容です。
 文政7年、信州・松本藩では、戸田氏が藩主になって100年の祝いを華やかに行った。松本城の城門前には、祝いの品を山と積み、家臣には紋付袴、裃、真綿などを下賜し、町は芝居や踊りに興じた。下されものの酒樽を町中に置き、誰にも自由に飲ませた。
 地主層は、より財を蓄えるため、飢饉で困窮した農民から高利貸しで稼ぎ、米・麦を買い占め、売り惜しみして値を釣り上げた。食うに困った農民の怒りが爆発したのは当然のこと。それが赤蓑騒動だった。3万の群衆が松本城へ押しかけた。藩の鉄砲隊によって解散させられたものの、それ以降、藩は農民たちの力を恐れるようになり、農民の要求は無視できず、力関係が逆転しはじめた。
 犠牲者は農民4人が永牢を命じられただけで、見せしめの磔(はりつけ)はできなかった。これが世直し一揆のはしりだった。3万人が起ち上がったこの百姓一揆にも、首謀者名を残さない工夫などがしてあった。
 「荷抜け」とは、荷主に頼まれた送り荷を横領すること。もちろん、発覚したら厳罰に処せられる。それが、牛方26人衆が集団で荷抜けしたという。その総額は76両にもなる。
 牛方26人衆は、問屋とかけあい、借用したことにして、年賦返済を承知させた。半分にもならないうちに、荷主問屋側はあきらめ、事件の幕を引いた。
 牛方の10歳になる子どもを主人公として話は展開します。次はどうなるのか、ハラハラドキドキの展開です。やがて、牛方は一揆勢の情報伝達などの役割を担って活躍していきます。百姓一揆は、きわめて組織的に、百姓の知恵と力を総結集して長い準備期間をかけて取り組まれていったことが分かる本でもあります。
 島根の弁護士から待望のノドグロが到来しました。干物なのですが、軽く焼くと、ねっとり柔らかい白身で、淡白な味というより、もちっとした味わいがあります。信じられないほどのおいしさです。一度食べると、病みつきになってしまう魚ですよ。まだ食べていない人は、ぜひ食べてみてください。
(2008年6月刊。800円+税)

筑紫の磐井

カテゴリー:日本史(古代史)

著者:太郎良 盛幸、 発行:新泉社
 6世紀の初め、北部九州、八女の地に巨大な岩戸山古墳を築いた偉大な王がいました。大和王権に対抗して戦った筑紫の大王(おおきみ)・磐井(いわい)の偉大な生涯を描いたスケールの大きな小説です。
 私は八女によく行きますが、岩戸山古墳は遠くから見るくらいです。この本を読むと、「大和朝廷に反逆した」という通説がいかに間違っているか、再認識させられます。九州には、奈良にいた大王(おおきみ)と対抗していた立派な大王がいたのです。
 著者は岩戸山歴史資料館の館長をつとめる、元は高校教師だった人です。それにしても、よく描けた小説だと感心しました。古代朝鮮半島の状況、そして、大和朝廷における諸勢力の抗争との関連で、筑紫の大王・磐井の活躍ぶりが生き生きと語られていて、一気に読みとおしました。今度こそ、岩戸山古墳にのぼって実見してくるつもりです。著者も、この小説が縁となって、多くの人に八女を訪れていただければ幸いです、と語っています。
 この時期、筑紫・肥・豊国などの北部九州の豪族は、個々には独立した国であったが、筑紫君を盟主として穏やかな連合王国を形成していた。そして、各豪族は、周辺諸国との友好関係と先進文化を求めて、後継者と目される男子を大和王権や朝鮮半島の新羅・百済などに留学させていた。
 筑紫連合王国は、大和王権とは一線を画し、つかず離れずの状態にあった。連合王国にとっては、大和・新羅・百済が対立を強めず、伽耶(かや)諸国が安定していることがもっとも望ましいことだった。
この当時、多数の人に聞こえる大きな声を出すことは、王や将軍にとって欠かせないことだった。磐井は、上に立つ者は、はっきりと大きな声で話すことが大切だ、日頃から心がけておくように、と常日頃から言われていた。
 南九州一円には、大和王権の支配に属さない隼人(はやと)という勢力がいた。その中でも、急速に勢力を拡大しつつあったのが、薩摩隼人だった。今でも、ものすごく毛深い男性を時折見かけます。きっと隼人の血筋を引いているのでしょうね。
 501年9月5日、磐井は筑紫君(つくしのきみ)を襲名した。
 今後さらに筑紫連合国を発展させて、大和王権や朝鮮半島諸国と対等に親交できる国としたい。そのためには、まず、政(まつりごと)の仕組みの充実と、鉄製武器・農具の生産を増加させることだ。磐井は、政を政部(まつりごとぶ)、大蔵部(おおくらぶ)、司法部、戦部(いくさぶ)の4部門に分けた。そして、司法部の充実にとくに力を入れた。
 磐井は、筑紫連合王国全体から大王(おおきみ)と呼ばれることになった。
 奈良では、継体大王の即位に大和豪族が根強く反対したため、継体大王はなかなか大和に入ることができなかった。そうなんです。継体大王とは何者なのか。今も議論が続いています。日本の天皇は万世一系ではないのです。
 岩戸山の古墳が完成したのは518年。墳墓の特徴は別区にあった。別区には、裁判の様子を表すため、中央に解部(ときべ)に見立てた一丈(つえ。3メートル)もある大石人が立てられ、前には盗人に見立てた正座をした石人が置かれ、傍には盗んだものと分かる猪が4頭置かれた。
東側には、2丈四方の石で造った3つの宮殿、北側には1丈半四方の2つの石蔵が置かれた。石殿は、門、階段、しきりのある部屋、屋根など、実物そっくりに造られていた。西側には3体の武装石人、3正の飾り馬が並べられた。また、墳墓の周りには、武装した石人、石盾が120体も並べられた。
墳墓の入口にあたる北と南には、赤・青・白などの顔料で飾った力士に見立てた石人も墳墓の番をするように2体ずつ立てられた。
 526年9月、継体大王は、ようやく大和入りした。そして、磐井を討たなければ大和王権は危うい、として3万の討伐隊を九州に差し向けた。
 このあと、磐井の指揮する連合王国軍が大和王権の討伐軍と果敢に戦う様子が活写されます。この本がどこまで史実を反映しているのか知りませんが、古代日本が奈良の大和朝廷によって一元支配されていたわけではないこと、朝鮮半島と古代日本とは人的にも政治的にも密接な関連があったこと、そして継体大王と戦って敗れた磐井大王が、単なる大和朝廷への反抗児でなかったことは確実だと思ったことでした。
(2008年1月刊。2000円+税)

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