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2008年9月 の投稿

草すべり

カテゴリー:社会

著者:南木 佳士、 発行:文芸春秋
 この著者の文章は、ちょっと働きすぎて疲れちゃったな、そんな気分のときにすーっと胸にしみいる気がします。
 浅間山、千曲川、佐久平・・・。中年になると、山登りもきつくなります。それでも山に登りたくなるのです。そのときの心の微妙な揺れ動きが、哀愁の響きとともに語られます。
 著者とおぼしき医師が登場します。死にゆく患者を看取ると、医師のほうにも疲れが募り、医業のむなしさにぶつかってしまいます。
 山歩きは、どこかしら書く作業に似ており、書かれた言葉が次の言葉を呼んで、物語の世界が少しずつ様相を変えながら構築されていくのと同じで、汗にまみれて到達した頂からの眺望が次の目標を無意識の中に植え込み、新たな山域の清浄な大気は、さらに先へと向かう意気の燃料となる。
 芥川龍之介の『河童』が紹介されています。はてさて、高校生の頃読んだはずだが、いったいどんな内容だったのだろうか、と思いました。さっぱり思い出しません。『河童』は、芥川が36歳で自殺する5ヶ月前に発表された作品だそうです。今一度読んでみようかな、と思いました。
 著者の本をもとにした映画「阿弥陀堂だより」を思い出しました。素晴らしい四季折々の大自然とともに、しみじみと人生を考えさせてくれる傑作でした。
 パリやトールーズの街角のあちこちに自転車置き場を見かけました。いかにも貸し自転車という感じで、パーキングメーターにつながれています。若者が近寄って、ひょいと乗って立ち去る姿を何回も見ました。最近のNHKフランス語講座で、これはヴェリブというシステムだと教わりました。先日の新聞記事でも紹介されていました。市民が保証金を支払って登録すると、30分以内ならタダで自転車に乗れ、どこででも返すことができるというのです。しかも、協賛企業に費用を負担してもらっているので、市の負担はないとのことです。パリ市内だけで2万台の自転車が用意されているそうです。自動車を市街地から減らすためのいいアイディアだと思いました。
(2008年7月刊。1500円+税)

渥美清の肘突き

カテゴリー:社会

著者:福田 陽一郎、 発行:岩波書店
 本書は、渥美清やクレージーキャッツをテレビの世界に引き入れ、越路吹雪にテレビ一人芝居をさせ、三谷幸喜が演劇を志すきっかけをつくり、夏目雅子の最初で最後の舞台を演出した鬼才の貴重な自伝だ。
 これは、本書の表紙ウラの言葉です。昭和7年(1932年)生まれだそうですから、今は76歳になる著者がテレビ草創期のエピソードなどを含めて、自分の人生を振り返ったものですが、貴重な現代史の証言となっています。
 私も前はテレビを見ていましたので、それなりに状況はわかるのですが、舞台を見たことは残念ながらほとんどありません。東京近辺にいたとき、『泰山木の木の下で』という確か劇団民芸の舞台を見たな、という程度です。樫山文枝(「おはなはん」を見て憧れていました)が登場した記憶があります。
 渥美清は、昔から舞台と映画を見に行っていた。著者も誘われてよく一緒に行った。舞台の後のお茶や食事の雑談が楽しみだった。渥美清と一緒に行ったときには、隣り合わせに座る。舞台が始まって15分か20分たつと、隣席の渥美清から無言の軽い肘突きが来ることがある。こりゃあもう駄目だから、一幕で帰ろうぜ、の合図なのである。
 この合図が、この本のタイトルになっています。渥美清は次のように言ったそうです。
 最初の15分でお客を舞台に引っ張り込めなければ駄目だ。よほどのことがなければ、あとは知れてる。
 渥美清の言うことには一理ある。最初の15分、20分で観客をひきつけられない、引っ張り込めないなら、盛り返すのは難しい。難しいといわれる芝居でも、説明や解説的なことで20分も費やしていたら、いい台本とも言えないし、いい演技・演出とはとても言えない。「肘突き」で困ることはまずなかった。渥美清の直感は正しいことが多かった。肘突きがあって休憩の合間に抜けた後は、時間もあるからその雑談のほうも何倍も面白かった。身振り手振りを変えて描写するので、腹を抱えて笑った。マドンナ女優を的確につかんでいた。そして若手の俳優をよく知っていた。柄本明の名前も渥美清から聞いて知った。
 なーるほど、なるほど、と思いながら昔を懐かしみつつ読み進めました。 
 フランスの駅で切符を買うのは大変です。自動販売機もありますが、コイン専用で札を受け付けません。ですから、ちょっと遠いところは窓口で買うしかありません。ところが、窓口にはいつも長蛇の列ができていて、20分とか30分とか待たされます。というのも、一人一人が駅員相手に観光案内所のように相談をしている気配なのです。だから時間がかかります。それで、時間のない人は列の先頭に割り込みます。後ろから文句を言う人には、だって時間がないものと言い返す厚かましさが求められます。これって、大変なことですよね。
(2008年5月刊。2400円+税)

マネーロンダリング

カテゴリー:アメリカ

著者:平尾武史、出版社:講談社
 ヤミ金の五菱会がスイスに51億円も預金していたと報道されたとき、あっと驚きました。ヤミ金が儲かる商売だとは知っていましたが、それほどだとは思っていなかったからです。この本は、そのスイスの銀行に51億円もの預金があることが発覚した経緯と、その後の顛末を追跡しています。
 プライベートバンクとは、個人資産を専門に管理したり運用したりする銀行のこと。ここでは1億円以上の預金ができるような富裕層のみがお客であって、それ以下の庶民はゴミ以下の存在に過ぎません。
 東京芝公園近くの超高層マンションは、私も上京して浜松町から霞ヶ関にある日弁連会館に向かうタクシーの中からよく眺めます。マンションの23階から35階は賃貸マンションとなっていて、家賃は月85万円。うひゃあ、誰がこんな高い家賃を支払えるのでしょう。なんと、そこにヤミ金の帝王たちが住んでいたのです。
 五菱会グループのトップに君臨していた梶山進は34階に家賃92万円の一室を借りていた。梶山は工業高校を中退した後、塗装工などをしていたが、新宿でヤクザとなり、ダイレクトメールや電話で勧誘するヤミ金を始めて大当たりした。そして、梶山は稲川会系から山口組へと転身した。
 ヤミ金でボロもうけしたお金の一部は、ラスベガスのカジノで遊ぶための保証金として日本国内の銀行の貸金庫に預けることが出来る。梶山は200万ドル(2億円)も預けていた。梶山はカジノでVIP待遇を受けていた。そのなかでも最上級の「鯨」クラスである。
 カジノでは上客用の特別個室を利用していた。ディーラーをこの部屋に呼び込み、一回の掛け金は通常で100万〜200万円。多いときは1時間7000万円ももうけた。
 梶山は香港在住で、クレディ・スイスのプロパーを通じて、スイス銀行に51億円預けることが出来た。
 組織犯罪処罰法で問題となる犯罪収益の中には脱税が入っていない。そして東京地裁は、ヤミ金グループ幹部に対して、クレディ・スイス香港に不正送金されたお金について追徴(国による没収)を認めなかった。追徴しないと、被告人の手に戻ってしまう可能性もある。そこで、法律を改正して、このようなときには国が没収して被害者へ分配することが出来るように改正された。
 今、その被害者への分配が進行中です。ところが、ヤミ金グループがあまりにも多くいるため、どのヤミ金が五菱会に該当するのか、資料不足もあって多くのヤミ金被害者が届け出しにくい実情があります。
 それにしても、こんな違法な犯罪収益を暴力団から確実に取り戻し、吐き出させるのは、税務署当局の今すぐなすべきことではないでしょうか。 シカゴのギャング王であったアル・カポネを逮捕して下獄させたのは、エリオット・ネスの脱税取り締まり班でした。日本にも「アンタッチャブル」が欲しいように思います。
 フランスで久しぶりにトラベラーズ・チェックを使いました。パリのホテルで50ユーロ使ったのですが、おつりをくれません。今やトラベラーズチェックなんて、時代遅れで、嫌がられるだけの存在のようです。
 エクサンプロヴァンスのホテルのフロントで両替を頼んだところ、銀行でしてくれと断られてしまいました。土曜日なのにどうしましょう。そこで、カードで現金を引き出せるか試してみることにしました。すると、暗証番号を入力したらユーロのお金が出てきたのです。日本のカードをフランスで使ってユーロ札が出てくるなんて、不思議な気がしました。街角にある両替所より、きっと手数料は安いと思います。カードさえあれば、現金をあまり持ち歩かずにすむというわけです。帰国して一週間もしたら、口座から引き落としましたという報告書が届きました。早いものです。ホント、便利になりました。この便利さって、正直言って、ちょっと怖いです。
(2006年9月刊・1700円+税)

「百人斬り競争」と南京事件

カテゴリー:日本史(戦後)

笠原十九司 大月書店
 靖国神社のご神体が刀だということを初めて認識しました。この本は、第二次大戦(日中戦争)中、日本軍が中国大陸において、罪なき市民や法廷で裁かれ捕虜待遇を受けるべき敗残兵を日本刀で虐殺していた事実をあますことなく立証し尽くしています。
 日本刀は、日本軍が戦時国際法に反して、中国軍の投降兵、捕虜、敗残兵、更に便衣兵の疑いをかけた中国人を捕獲し、座らせて背後から首を切り落とす、いわゆる「据え物斬り」には大変有効な武器であった。弾丸も節約でき、銃声もせず(周囲に知られる危険がない)、一刀の斬首によって絶命させられるので、銃剣の斬殺よりも処刑法として効果的だった。
 日中戦争で、日本から兵士が中国戦場へ送られ、戦傷者も多くなるに従い、護身用の「お守り」として、下士官・兵卒でも日本刀を携行するのが「黙認」されるようになっていった。親などが士征に際して餞別として与えていた。
 地方紙は、各地の郷土部隊の将兵の軍功を競って掲載し、戦場の手柄話が郷土の新聞に掲載されることは名誉として戦場からも歓迎された。
 日中15年戦争において、中国戦場には、何百・何千の「野田・向井」がいて、無数の「百人斬り」を行い、膨大な中国の郡民に残酷な死をもたらした。
 中国兵の捕虜を「据え物斬り」したというのは明らかに戦時国際法に違反する行為であるが、戦争犯罪行為をしているという意識は全くなく、上官・軍事郵便の検閲も「皇軍の名誉を失墜するもの」と考えないどころか、新聞に掲載させるに値する「名誉な」行為だとしていた。
 全国各地の新聞が実質のコピーと共に紹介されていますが、戦前の日本はまさに狂気の支配していた国であったことがよく分かります。武器解除された無抵抗の捕虜を斬首していった実情を新聞記事では戦場における白兵戦という勇壮な手柄話に脚色して報道していたというのが事実なのです。
 なにしろ師団長だった中島今朝吾自身が、日記に中国を捕虜として収容・保護せず、処理(殺害)する方針だったことを明記しているのです。
 そして野田少尉は、鹿児島で小学生を前に自らの武勇伝を語ったのですが、そのとき、「実際に突撃していって白兵戦の中で斬ったのは4,5人しかいない。あとは投降した中国兵を並ばせて片っ端から斬った」と述べ、聞いた小学生が「ひどいなあ、ずるいなあ」とショックを受けたという話が紹介されています。この小学生の感想はまともですが、世間一般は、あくまで武勇伝としてもてはやしていたのです。そこに日本社会の反省すべき汚点を認めなければならないと思います。これは決して過去の話ではありません。
 中国戦場にあっては、日本軍の将兵が軍民を問わず中国人を殺害するのは日常茶飯事だった。野田少尉が抵抗しない農民を無惨にも切り捨てた。そのことを士隊長も知っていながら黙認した。そして、マスコミも農民であることをぼかして報道した。
 著者は、南京大虐殺事件の被害者が「30万人」であったか否かという数字(人数)にこだわるべきではないと強調しています。私も、まったく同感です。「30万人」という数字にこだわると、日本側の「否定派」の思うツボにはまることになるからです
 二人の若手将校を「百人斬り競争」の英雄として喝采し、時代の寵児に仕立て上げた「異常な競争社会」が戦前の日本には実際にあった。日本刀は、捕虜にならない、捕虜はとらない、という兵士の使命を軽視し、人権を無視した行為を日本軍将校に強制する上での凶器となった。
 そして今日、少なくない日本人が「異常な競争社会」から目覚めていない、あるいは目覚めることが出来ていない。その根本的原因はどこにあるか。主要には、多くの日本人が「他人の足を踏んづけておいて、踏まれた人の痛みを考えもしない」自己中心的な思考の枠にはめられ、また、その枠を出ようとしないからである。
 「百人斬り競争」については、日本刀で斬首された中国人の立場を考えようともしないで、「できるはずがない」「やるはずがない」と常識論から簡単に否定してしまう。そして、左右のイデオロギーの「泥仕合」だと嫌悪して、歴史的な事実はどうだったのかについての思考を停止してしまう。
 加害者の側にある日本人としては、被害者の中国人の恐怖、衝撃、怨恨、憤激の感情を伴った記憶の仕方を理解するように努力することが必要である。
 そこに目を閉ざす者、南京事件という非人間的な行為を心に刻もうとしない者は、「異常な戦争社会」を到来させる危険に陥りやすい。
 いやあ、本当に鋭い指摘です。いっぱい赤鉛筆でアンダーラインを引きながら読み進めた本でした。
(2008年6月刊・2600円+税)

一朝の夢

カテゴリー:日本史(江戸)

梶 よう子  文藝春秋
 時は風雲急を告げる幕末。しかし、下級武士の中には珍しい朝顔を咲かせるのだけが生き甲斐のような不埒な者もいる。そんな男が、いつのまにか幕末の大政変、桜田門外の変に巻き込まれていく。
 いやあ、見事なものです。こんな小説を私も一度は書いてみたいと思うのですが・・・。江戸時代末期、あの朝顔は多くの人の心をとらえて放しませんでした。今よりもっともっと多くの変種朝顔が世に現れ、人々がそれを愛でていたというのは歴史的な事実です。
 私も朝顔は大好きです。でも、意外に朝顔を育てるのは難しいのです。知っていましたか?
 私の庭には、今も朝顔が咲いています。去年の朝顔です。実は、何年も前からのものなんです。なぜか、色がいつも同じで、青紫なのです。これはわが家のフェンスにからまっている宿根性で、外来種の朝鮮朝顔と同じです。鮮やかな紅色の大輪の朝顔が私の好みなのですが、去年咲いていても今年は咲いてくれません。それじゃあ、と思ってタネを植えても、大きくならないし、ましてや花を咲かせてくれません。チューリップだと、植えたら何もせず放っておいても9分9厘ちゃんと花を咲かせてくれます。朝顔は、よほど気むずかしい花なのでしょう。
 主人公の興三郎は北町奉所勤めの「八丁堀の旦那」である。ただし、吟味方や定町(じょうまち)廻りや隠密廻りなどといった、奉行所でも花形のお役目ではなく、両組御姓名掛りという奉行所員の名簿作成役であった。所内でも閑職の筆頭としてあげられる役だ。
 江戸には南と北の奉行所がある。今月が南町で月番だとすると、北町は非番だ。非番だと言っても休みになるわけではない。月番の時に持ち込まれた山と積まれた訴状や吟味の未決分を処理している。月番奉行所は門を八文字に開き、訴訟や事件などの類を受けつける。非番の奉行所は門を閉ざし、潜り戸はあけているが、訴訟などは受けつけない。
  朝顔の種は、牽牛子といい、下剤や利尿などに用いられる。朝顔の種子は半月型である。弧の部分を背と言い、直線の部分を腹という。片側の端にある小さな窪みはへそと呼ばれている。
 へそを傷つけないように、背と腹の境界に傷を付ける。これを芽切りという。土に指の先端を刺し、つくった穴にへそを上にして種子を入れる。
 江戸時代、朝顔は何度ももてはやされた。朝顔の品評会を花合わせという。植木屋はもちろんのこと、商人・町人・武家といった朝顔愛好家から出品された朝顔の優劣を競う。その結果は番付にして発表される。
 朝顔にはいろんな色がある。しかし、黄色の朝顔だけはない。朝顔は、どんなに美しく咲いても、花は一日で萎れてしまう。つまり、槿花(きんか)、一朝の夢だ。これは一炊の夢と同じ例えである。
 朝顔は自家受粉、つまり自らが自らの花の中で受粉する。だからツボミが開かないようにしても種子はできる。
 江戸の変わり咲き朝顔を紹介する本もあります。江戸時代の人々は、現代の私たちが想像する以上に多種多様な生き様を認め合っていたように思います。ひえーっ、こ、これが朝顔なの・・・。こんな悲鳴ををつい上げたくなるほど、ものすごい変わり咲きの朝顔が毎年出品・展示されていたというのです。それには、人々の心の豊かさがなければ、とてもできないことだと思いますよ、私は。あなたもそう思いませんか・・・。
 すみません、この本のストーリー展開はあえて紹介しません。お許し下さい。 
 南フランスの町のあちこちで、大型犬を連れた若者たちを見かけました。いえ、大型犬を連れたおじさんやおばさんもよく見かけたのですが、若者たちは、なんだかホームレスっていう感じで気になったのです。しかも、一人で二匹も三匹もの大型犬を連れて歩いているのを見ると、犬たちの食糧費だけでもバカにならないだろうと心配しました。アルルでは、3匹の大型犬を連れた物乞い(おじさん)がいました。教会の階段に、犬たちは寝そべって、ヒマをもてあましているように思いました。
(2008年6月刊。1524円+税)

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