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2008年8月 の投稿

江戸の高利貸

カテゴリー:日本史(江戸)

著者:北原 進、出版社:吉川弘文館
 1985年に『江戸の札差』として出版されたものが復刊されたものです。したがって、江戸時代の札差の実態が主要なテーマです。
 札差というのは、旗本に代わって、切米手形(札)を差し、俸禄米を受領して、ついでに米問屋に売却するまでの面倒な手間一切を請け負った商人のこと。その前身は蔵前の米問屋であった者が多く、米問屋との関係は深い。
 札差は蔵米支給日が近づくと、得意先の旗本・御家人の屋敷をまわって、それぞれの手形を預かっておき、御蔵から米が渡されると、当日の米相場で現金化し、手数料を差し引いて、現金を各屋敷に届けてやる。札差が旗本に蔵米を担保として金融するときの利子率は年利25%とか20%であった。
 大岡越前守忠相によって、109人の札差仲間が公許された。8代将軍徳川吉宗の享保改革が進行中のときである。このとき利率は15%から18%となった。しかし、この公定された利子率と蔵米受領・販売の手数料のほかに、札差がもうけの大きな拠りどころとしたものがあった。
 奥印金(おくいんきん)。これは、架空の名前の金主をつくり、自分が金元の仲立ちをしてやり、保証印まで押してやったことを恩に着せて、札金をとる。これは、通常、貸金額の1割だった。そして、証文を書き替えるときに、1ヶ月ぶんの利子を2重に取るのである。これを月踊りという。
 札差が直に蔵米を受取ることを直差(じきさし)とか直取(じきとり)という。
 そこに、わずかな手数料をとって直取の世話をする浪人者などが寄生した。直差の世話人には、多くの浪人ややくざのような不良が、小遣稼ぎにおこなっていたらしい。
 旗本は、腕の立つ浪人とかやくざ者を、一時的に家来として雇い、これを札差の家にさし向けて強引に金を借り出そうとする。この札差ゆすり専門家を、蔵宿師(くらやどし)または単に宿師と称した。
 札差は、腕っぷしの強い、いさみ肌の若者をやとって蔵宿師に対抗させる。これを対談方(たいだんかた)という。対談方の年間給与は、支配人の一段下か同じ程度に遇されていた。対談方は、弁舌さわやかに相手を丸めこみ、かんじんなときには商人らしい物腰など二の次にして、大立ち廻りを演じなければならなかった。つまり、旗本や御家人は蔵宿師を使って無理談判を試み、札差は対談方にその対応をさせたというわけです。
 札差の繁栄は宝暦から天明(1751〜88年)に頂点に達し、派手な消費生活を旗本や御家人に誇示した。すると、幕府は札差株仲間に対する取り締まりを強化した。
 当時、江戸には18人の代表的な通人といわれる者がいた。称して、「十八大通(だいつう)」という。そのほとんどを浅草蔵前の札差が占めていた。
 将軍徳川家治の治下、宝暦10年(1760年)から天明6年(1786年)までの26年間に、不良旗本と御家人の処罰が76件あった。1年に平均して3件である。たとえば、自分の居宅でいつも博奕(ばくち)をしていた者もいた。
 天明6年に大凶作となり、江戸で打ちこわしが始まった。それに参加した困窮民は24組5000人もいたが、非常に規律があり、火の元に用心し、目的の家のみを打ちこわして隣家に及ばぬようにし、米や雑穀を引きちらかしても、誰一人盗もうとしなかった。「誠に丁寧、礼儀正しく狼藉」したという記録が残っている。
 金銀貸借の相対済し令(あいたいすましれい)とは、返済が滞っている借金について、貸借の当事者が話し合いで返済法などを決めるのを原則とし、たとえ紛争が起きても、訴訟を受けつけないとするもの。武士を相手とする町人の経験的事実は、相対済しが債権者の立場を不利にしたことは間違いない。
 松平定信の寛政の改革のとき棄捐令(きえんれい)が出された。これは、6年前までの貸付金は新古の区別なく、すべて帳消しとする。5年以内の分は、利子をそれまでの3分の1に下げて永年賦とするというもの。まさに借金の棒引きである。
 この棄捐令は札差に大打撃を与えた。その結果、旗本・御家人に対する締め貸しとなって返ってくる。要するに、旗本・御家人は札差から借金できないわけである。
 ところが、札差は、これによって息の根をとめられたわけではなく、幕末・明治維新期まで、旗本・御家人の俸禄制度が存続しているあいだは、しぶとく生き続けた。
 水野忠邦の天保改革のとき、札差は半数以上が閉店した。旗本・御家人は金策の相手を半分以上も失ってしまったわけである。困ったのは、札差からの借金なしには一日も暮らしていけない旗本・御家人たちであった。幕府はあわてて札差に2万両の資金貸下げをしたが、札差は容易に乗らなかった。
 武士に対する金貸し(札差)の実情を知ることができました。江戸時代にも激しい借金取りがあっていたようです。なんだか、現代日本と似ているなあと、つい思ってしまいました。
(2008年3月刊。1700円+税)

美食のテロノロジー

カテゴリー:ヨーロッパ

著者:辻 芳樹、出版社:文藝春秋
 いやあ、実に美味しい本です。本ごと食べてしまいそうになります。美食の極みですね。ぜひ一度は味わってみたいと思います。でも、たとえばオーストラリアのシドニーにある「テツヤ」という店は、世界でもっとも予約のとれないレストランだというのですから、この本の写真を見てよだれをたらすだけで我慢することにしましょう。
 「テツヤ」は4人の専任スタッフが常駐して予約を受けつけているのに、いつも6ヶ月先まで120席が予約で埋まっている。キャンセル待ちのウェイティングリストにも常時100人いる。うへーっ、恐れいりました。でも、行ってみたいですよ。
 オーナーシェフの和久田哲也は、フランスの雑誌の選んだ世界の三大シェフの一人である。あとの2人は、アラン・デュカスとフェラン・アドリア。アラン・デュカスは私も名前だけは知っています。
 ところが、この和久田哲也は、初めから料理の道を志していたわけではなかった。ワーキング・ホリデーを利用して、22歳のときにシドニーへ渡った。そして、皿洗いから、魚をおろす仕事に移り、工夫しているのが認められて、やがてシェフのアシスタントをしているうちに、料理の基本を叩きこまれた。
 娘の結婚式のレセプション用に200人分の寿司を握ってほしいとシェフに頼まれ、お寿司の雰囲気を感じとれる「かわりずし」を発案した。シャリは型で抜いて、その上に、たたきにした仔牛や、タルタル風にしたマグロをのせる。表面が乾かず、旨みをのせるためオリーブオイルとマヨネーズをつかった。そして、2日間、寝ないで、1人で500個の「寿司」をつくった。仕上がりが美しく、美味しいと大評判をとった。す、すごーい。すごいです。そして、いかにもおいしそうじゃあ、ありませんか。食べてみたいです。私がシカゴの大ローファームに行ったときに出された、とびきり美味しい寿司を思い出してしまいました。アボガド巻きのごまかしばかりではありませんでした。もう20年ほども前のことです。
 試作して納得した料理しかメニューにのせたくなかったので、毎日、試作に明け暮れた。
 店では、一晩に2500皿をつくり、並行して、その場で客の注文を受けての料理も出す。試作品は、まず哲也が1人でつくる。それを2人のシェフに試作させる。次に、シェフがスーシェフに教える。そのスーシェフがつくったものを哲也が食べる。こうやって第三者的な目で見る。
 哲也は、必ず味見をするようにシェフたちに求める。何百回つくっていようと、味見は大事である。味見をしない人間は、料理を単なる作業としか考えていない。パッションのない人間は味見をしない。ふむふむ、なるほど、そういうことなのですね。納得です。
 ミェル・ブラスは料理人にとって必要な資質について、次のように語った。
 繊細な感性が大事だ。料理は写真であるし、建築であるし、科学であるし、感動であるし、幸福である。豊かな感性であればあるほど、その表現は豊かになる。
 2007年。フランス人の料理人の所得番付によると、アラン・デュカスが飛びっきりの1位。2位は、ジョエル・ロブション。その差は大きい。
 アラン・デュカスは33歳で3つ星を獲得した。それ以降、18年間に、3つ星レストラン3ヶ所、1つ星レストラン3ヶ所の合計の星を獲得して、世界中をあっと驚かせた。
 いやあ、一度は行ってみたいですね、こんな美食の店に。写真を眺めているだけでよだれが口中にあふれてきます。美味しい料理を、いかにも美味しそうに撮る写真にもしびれます。
(2008年1月刊。1905円+税)

日本人登場

カテゴリー:日本史(江戸)

著者:三原 文、出版社:松柏社
 江戸時代の末期から日本人の軽業見世物一座がアメリカやヨーロッパに渡って、大変な人気を集めていたなんて、知りませんでした。子どものころは、よくサーカス一座が私の住んでいた田舎町までやって来ました。親に連れられて見に行くことがありました。最近はサーカスの巡行というのはほとんど見かけません。その代わりに大がかりのマジックショーを見ることがあります。春にハウステンボスで見たのは、大きなゾウが一頭まるまる目の前から消えるマジックでした。あれれ、いったいどういう仕掛けなのか、今もって不思議でなりません。昔はやったスプーン曲げや、時計を止めるというマジックはインチキであったり、偶然と確率を利用したりだということは、頭ではそれなりに理解しているのですが・・・。ロシアのボリショイ・サーカスを見たのもずい分と前のことです。
 日本の見世物は、西洋の人々の好奇心をみたした。日本人一座の芸は並外れて優れていた。サンフランシスコにある石造りの豪華大劇場で、3000人もの観客を日本人一座の演技は高く評価された。
 慶応2年から3年にかけて、アメリカへ出かけた一座は少なくとも6座はあった。女性芸人も子ども役者もいた。
 江戸末期に活躍した軽業名人日本一は、早竹虎吉である。その虎吉の名前が刻まれた墓石と線香立が大阪市内に今も残っている。この虎吉は、不運にもニューヨークで客死している。
 この本には、日本人一座の活躍を報じるアメリカの新聞記事や写真などが紹介されています。曲芸中心の舞台は、アメリカ人の大評判を呼び、連日連夜、超満員の観客の目を楽しませた。
 すごいですね。日本人は、この分野でも幕末期にすでに世界的興行をうっていたのですね。昔の日本人は偉いものです。それにしてもよく資料を発掘しましたね。
(2008年3月刊。3500円+税)

遊女(ゆめ)のあと

カテゴリー:日本史(江戸)

著者:諸田玲子、出版社:新潮社
 いやあ、まことに作家の想像力というのは想像を絶するものがあります。ロマンあふれる時代小説、これはオビに書かれたキャッチフレーズですが、まさしく、そのとおりです。
 全国各地で大飢饉に見舞われ、財政難にあえいでいた幕府は八代将軍吉宗のもとで、倹約に次ぐ倹約で財政を立て直そうとしていた。ところが、尾張名古屋だけは違った。尾張徳川家七代宗春(むねはる)を藩主とあおぐ名古屋には、飢饉もなければ貧困もない。重税もなければ圧政もない。死罪もなければ諍(いかさ)いもない。大道に商店がひしめき、各地から押し寄せた商人の威勢のいい売り声が飛びかう。老若男女が愉(たの)し気に行きかい、城下は活気にみちている。不夜城のごとき遊郭からは、華やいだ嬌声や音曲が流れ、雨後の筍のごとく出現した芝居小屋の幟(のぼり)で、道の両側は埋め尽くされている。
 藩主宗春が江戸からお国入りしたときは、黒装束に縁がくるりと巻きあがった鼈甲(べっこう)の丸笠という奇抜ないでたちで、人々の度肝をぬいた。
 そんな名古屋の地へ、女2人、旅立った。ひとりは博多から。もうひとりは江戸から。
 宗春は正室をもたない。これも幕府への反発のあらわれだった。正室は人質として江戸に住まわせるという定めがある。それはよいが、御三家まで従えというのは、がまんがならない。
 宗春のしなやかな細身の体にまとっているのは、派手な青海波(せいがいは)文様の絹小袖、ゆるめにしめた細帯は黒びろうどで、髪は江戸で大流行の文金風。髷(まげ)の根を一気に上げて前へ折り曲げるこの髪型は、宗春の音曲の師匠でもある浄瑠璃語り、宮古路豊後掾(みやこじぶんごのじょう)の発案だった。
 宗春は鮮やかな紅の小袖と羽織袴をつけ、緋縮緬のくくり頭巾を被っていた。くくり頭巾とは、頭をすっぽり覆う丸頭巾の先端が縫い閉じられている。白牛ではなく、この日は駕籠(かご)に乗っていた。駕籠には天井がない。左右の簾も巻き上げてあるから、沿道の人々には宗春の姿がはっきりと見える。もとより、見せるために趣向を凝らしている。
 「ひゃあ、目が醒めるようやわァ」
 これが江戸時代の藩主の服装なんですよ。いやあ、すごいものです。
 真夏の陽射しを浴びて、紅と緋が禍々しい(まがまがしい)ほどの光彩を放っている。
 初夏の陽射しが降りそそいでいる。南天、芍薬、梔(くちなし)・・・。御下屋敷の北東の一画を占める薬草園では、草木の緑が萌え立ち、花々が妍(けん)を競っていた。
 鉄線とはクレマチスのことです。昔からあったんですね。今とまったく同じものなんでしょうか。私はクレマチスの花も大好きです。牡丹は私の庭にも2株、もらったものがあります。地植えにしています。毎年、見事な花を咲かせてくれます。その豪勢さには、つい見とれてしまいます。芍薬は、なぜか今年は花を咲かせてくれませんでした。枯れてしまったわけではなく、あとになって緑々した葉だけを茂らせてくれました。
 江戸情緒たっぷりのロマンあふれるお話でした。さすが、プロの書き手は読ませます。
(2008年4月刊。1900円+税)

ブータンに魅せられて

カテゴリー:アジア

著者:今枝由郎、出版社:岩波書店
 ブータンは小さな王国。人口は60万人。国土の72%は森林で、20%は万年雪に覆われている。農耕地は8%しかない。ブータン人口の5人のうち4人が農業で生計を立てている。
 ブータン国立図書館は、民家としては大きいといえる程度のごく普通の木造2階建て。中には経典が山積みにされているが、多くはない、目録もなかった。図書館員は堂守で、図書館長は僧正である。
 チベット仏教の伝統は、師資相承で伝えられるのが原則であり、お経は自分で勝手に選んで読むものではない。先生が弟子の資質を見きわめて、このお経なら理解できる、あるいはこのお経を学習すべきであると判断して初めて、弟子にそのお経を授けて学習させる。ブータンでは、お経が死蔵されることなく、生きている。
 ブータンは、つい最近まで、かたくなに鎖国を続け、一度も外国の植民地になったことがなく、現在でも小さいながらも独立国家として近代化の道を着実に歩みつつある。だから、ブータン人は外国人に対して何のコンプレックスも持っていない。
 ブータンでは、少なくとも女性が従属的でなければならないという社会的通念が非常に薄い。そもそも隷属的な地位を経験したことのない、自然な奔放さがある。
 田畑も家も、すべて女性のもので、男は外部から来て、労働と生殖に関わるだけである。これがブータンの女系社会である。ブータンの家では、女性のほうが実権をもっている。
 財産はすべて女性のものだし、男性は労働力の一部でしかない。男は、よく家から放り出される。離婚率も高い。
 ブータン人は決して排他性がなく、異文化に対して非常に寛容である。
 ブータンには、ネパールのようなポーターを生業とするシェルパはいない。
 ブータンの国王は、農民を登山隊のポーターとして徴集することを禁じた。ブータンの国会は、登山永久禁止条例を発令したので、ブータンの7000メートル級の山々は、今でも世界の例外として未踏処女峰のままである。ふむふむ、なるほど、そうなのですか。
 ブータンの特徴は、農家の一軒一軒がかなり離れて建っており、集落がないこと。
 ブータンは、チベットからの政治亡命者によって打ち立てられた国家のようなもの。インドとブータンの優劣関係は明らかで、一種の不平等条約だ。ブータンはインドの属国ではないが、完全にインドに依存していて、少なくとも経済的には自立していなかった。GDPではなく、GNH。国民総幸福という指標がある。人生の充足度を計ったもの。これによると、1位はデンマーク、2位はスイス、3位がオーストリア。ブータンは8位。アジアでもっとも幸せな国にランキングされている。ちなみに日本は、178ヶ国のうちの90位。
 ブータンは時間がありあまっているから、時間を世界に輸出したらどうか。これは、通産省の産業振興会議で出された意見だそうです。うひゃあ、そんな・・・。びっくりしますね。ブータンという、おおらかな国民のゆったりと時間の流れていく国の姿を少しだけ知ることができました。それにしてもGNHという指標はいいですね。そして、日本が世界の中くらいでしかないというのは残念でなりません。まあ、そうなんでしょうね・・・。
 物質的豊かさは必ずしも幸福を意味しないということですよね。アメリカなんて、GNHでみると最低のほうでしょうね、きっと。
(2008年3月刊。740円+税)

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