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2008年5月 の投稿

日月めぐる

カテゴリー:日本史(江戸)

著者:諸田玲子、出版社:講談社
 江戸末期、駿河の小藩に流れゆく時、川、そして人。名手が丹念に紡いだ珠玉の七篇。
 これはオビの文章です。いやあ、実にそのとおりなんです。5月のゴールデンウィークで熊本までお城を見に行ったときの電車のなかで一心に読みふけりました。恋しくも哀しくもある人情あふれる話が、次々にくり出されてきます。主人公が前の話では脇役として登場してきたり、七篇が駿河国小島(おじま)藩のなかで連続的に展開していきますので、話の展開が待ち遠しくなってきます。その語り口はいかにも見事で、ついつい引きこまれてしまいます。さすがはプロの書き手だと感心しました。
 小島藩には城がない。かろうじて大名の端くれにしがみついている1万石の小藩には、城など築く余裕はない。が、陣屋の周辺には城下町とも言える町々が広がっていた。馬場もあり、寺社もあり、武家屋敷町もある。
 小島藩には大名家の体裁をととのえるだけの家来を抱える財力がない。そのため、必要に応じて、農家の次男・三男を足軽として徴用している。これを郷足軽(ごうあしがる)という。
 小島藩ではかつて、財政難から苛酷な年貢を徴収した。追い詰められた農民が一揆を起こし、藩は窮地に立たされた。わずかながら領民の暮らしが上向き、藩も息がつけるようになったのは三椏(みつまた)のおかげ。三椏の樹皮は駿河半紙の原料である。漂白しやすく、虫にも食われないため、評判は上々。加えて、紙漉(かみすき)は、農閑期の余業に適している。藩では、年貢を紙で納めるよう奨励した。三椏を植える農家は年々ふえていった。東京の日比谷公園にも、この三椏があります。
 七篇は、この三椏による駿河半紙づくりを背景として、それに関わる人々の生活とともに展開していきます。
 駿河半紙は小島藩の者が三椏を紙の原料として発見してから急速に広まったもので、歴史は浅い。だが、それまでの楮(こうぞ)でつくった紙より丈夫で上質な紙ができるというので、高級品としてもてはやされた。三椏は紙の原料となる太さに枝が生長するまでに3〜4年かかる。ただし、そのあとは毎年刈り取ることができる。
 皮をはぎ取るのは難しい。そのため、大鍋で木を蒸す。剥いだ皮は乾燥させ、必要な次期が来るまで保存しておく。
 皮を石の台にのせ、木槌で勢いよく叩く。こうやって木の皮の糸をほぐす。叩いたあとは、濾舟(すきぶね)の中でかきまわす。すると1本1本、バラバラになる。ほぐした樹皮と、とろろあおいの根っこを叩いてどろどろにしたものを桶の中で混ぜあわせる。とろろあおいは粘りけがあるので、紙を固める役目を果たす。紙濾をしたあと、石台に置き、重石(おもし)で圧搾して水分をしぼり出す。その紙を栃(とち)や銀杏の干し板に貼りつけ、戸外へ並べて天日で乾燥させる。松をつかうと脂(やに)が出る。年輪の詰まった木の板でないと、紙に無駄な筋が出てしまう。
 和紙づくりの手順と苦労まで、少しばかり理解することができました。
(2008年2月刊。1600円+税)

若い世代に語る日中戦争

カテゴリー:日本史(戦後)

著者:伊藤桂一、出版社:文春新書
 1937年(昭和12年)に徴兵検査を受け、習志野の騎兵連隊に入営し、3年あまり北支(中国北部)の戦場で過ごし、さらに1943年から歩兵として中支(中国中部)で歩兵となり、伍長だった人の体験談です。中国大陸の戦場で、下っぱの兵隊生活を7年間送ったというわけです。その体験がかなり美化されて語られていると思いました。
 初めのころは、日本軍が20人、八路軍(中国共産党の軍隊)が100人だとすると、人数で大差があっても、日本軍が圧倒的に強い。なぜなら、日本軍は訓練を受けているのに、八路軍は軍隊経験のない若者ばかりだから。挑発しても、まともに日本軍と戦わない。しかし、逃げ方がうまい。ところが、日中戦争が続くなかで、八路軍はだんだん強くなっていく。
 日本軍のつかった38式歩兵銃は、銃身が長いから非常に命中率は高いけれど、その分重たい。アメリカの自動小銃は銃身が短くて、命中率が低いかわりに、数うって当てるというものだった。
 戦場慰安婦というのは、兵隊と同じ。兵隊の仲間なのだ。本当に大事な存在だった。当時は公娼制度があった。本人たちも、一応納得してというのが建前だった。むろん不本意だったろうし、悪質業者に騙されてということもあったろうが・・・。
 ともかく、軍の管理する慰安所だった。兵隊たちにとって、慰安婦は大切な仲間。苦労をともにした戦友だった。それが単に汚らわしい関係だったように言われるのは、戦場体験者としては、ちょっとやりきれない。
 兵隊は黙って働き、その多くは黙って死んでいった。慰安婦たちは悲劇的な不条理のなかで生きていたし、兵隊たちも、もっと不条理の中で生き死んでいかなければならなかった。だから、お互い心が通いあうこともあったし、彼女たちとの思い出を胸に抱いて死んでいった兵隊もいる。
 このあたりは、なんとなく、その心情が分かる気がします。不条理の中に置かれ、明日の希望がもてない極限の状況に置かれていたのでしょうから・・・。
 ところが、この本には、南京事件を否定するという重大な欠陥があります。著者は南京事件に関する本をまったく読んでいないようです。この点は聞き手側の責任でもあると思います。著者は、戦闘のあとは、死者の世話、負傷者の介護、戦掃除の責任もあり、一般住民を何万人も虐殺するゆとりなど、日本軍にあるはずはなかったのです、と語っています。
 ひどいものですね。これで「若き世代に語る日中戦争」というタイトルで堂々と本が出るのですから・・・。先に、『南京事件論争史』(平凡社新書)でも紹介しましたが、南京事件は当時、南京にいたナチス党員のドイツ人からも「あらゆる戦時国際法の慣例と人間的な礼節をかくも嘲り笑う日本軍のやり方」として厳しく批判されていました。昭和天皇の弟である三笠宮も「日本軍の残虐行為」があったことを自叙伝(『古代オリエント史と私』)のなかで反省をこめて指摘しています。
 南京事件は、日本軍の南京入城式のあとの兵士たちの休養期間に多発した大虐殺、大強姦事件なのです。その点をたしかめることもなく「虐殺するゆとりなどあるはずもない」という言葉で簡単に片づけることは、日本人として許されないことだと私は思います。
 この本が右翼を標榜する『諸君』に連載したものだとしても、「若き世代に」に間違ったことを教えてほしくない、そう思って、あえて紹介しました。
(2007年11月刊。710円+税)

「非国民」のすすめ

カテゴリー:社会

著者:斎藤貴男、出版社:ちくま文庫
 戦前、「アカ」と呼ぶと、人間でないエイリアン(異星人)のように思われ、人権無視があたりまえという風潮があったようです。同じようなことは、現代日本でも残念ながら「健在」のようです。「アカ」と同じ意味でつかわれるのが「非国民」です。そんなことを口走る人物がどれほど「国を愛して」いるのか疑わしいところですが、政府・文科省が「愛国心」教育にやっきとなっているところをみると、権力を握る人々からみて、「愛国心」という従順な心をもった人が少なくなっているのは問題なのでしょう。
 でもでも、よく考えてみたら、日本国を守ることが自分の家族を守るのと同じくらいに大切なことだと思ったら、自然と、そのような行動をすることになるのではありませんか。いまの日本って、それほど守りたい国なのかどうか、もう一度考え直したほうがいいと思います。だって、75歳になったら、それ以上、長生きせずに、ほどほど医者にかかって、早く死んでくれと言わんばかりの後期高齢者医療制度というのが、世界に冠たる「長寿国」日本で始まったばかりなのですから・・・。これって、信じられないほど人間無視の政治です。これを推進している厚労大臣が老母介護に挺身し、そのため実姉とも派手にケンカしたという人物なのですから、世の中は奇怪至極です。
 日本のマスコミのレベルは、週刊誌の見出しを見ていたら分かります。タレントの不倫や離婚騒動なら何頁にもわたって特集しても、アメリカのイラク侵略戦争の実情レポートなんてまったくしません。日本政府が渡航自粛と言えば、それに素直に従うだけ。ところが、そこは戦争のない安全地帯のはずなのです。そして、日本人がイラク戦争反対のデモや集会をしても、ニュース価値がないとして、ほとんど黙殺するだけ。いったい、マスコミって、どうなっているんでしょうか・・・。
 私たち団塊世代より10年遅れた世代である著者は、何もかも、悪いのは団塊世代だと決めつけています。団塊世代は、親として、「私生活主義」をこえたメッセージを子どもたちに発信しなかった。私生活主義は、生活保守主義とほぼ同義である。
 なるほど、団塊世代に日本を悪くした大きな責任があることは認めます。でも、日本を良いほうにしたことも認めてほしいのです。それは、なんといっても、自由と民主主義(もちろん、自民党のことをさしているわけではありません)が大切なこと、それが日本の社会にそれなりに定着していることは否定できないと思うからです。いかが、でしょうか。
 いま、「ゆとり教育」の見直すが始まっています。この「ゆとり教育」を言い出した、教育課程審議会の三浦朱門前会長(作家)は、「できん者は、できんままで結構」とホンネを語る。
 「日本は、戦後50年、落ちこぼれの底辺を上げることにばかり注いできた労力を、できる者を限りなく伸ばすことに振り向ける。限りなくできない非才、無才には、せめて実直な精神だけを養っておいてもらいたい。それが『ゆとり教育』の本当の目的。エリート教育とは言いにくい時代だから、回りくどく言っただけのこと」
 フィンランドの教育の理念は、まるで、これと反対です。それが全体としての国の活性化につながりました。一部の人を伸ばそうとしても、結局のところ、国の荒廃がすすんで失敗するだけなのです。ところが、それに気がつかない人があまりに多いのは悲しいことです。
 いま庭にツバメ水仙の花が咲いています。紅い折り鶴が飛んでいるような面白い形をした変わりダネの水仙です。百合の花も咲きはじめました。すかし百合です。白にピンクのふちどりがあり、爽やかな花です。先日うえたアスパラガスが早くも芽を出しています。ヒマワリがぐんぐん伸びて、初夏の近さを思わせます。
(2007年7月刊。780円+税)

続・獄窓記

カテゴリー:司法

著者:山本譲司、出版社:ポプラ社
 国会議員から囚人になった433日間の日々を綴った『獄窓記』から4年。
 これは本のオビに書かれているフレーズです。なるほど、そうでした。『獄窓記』は、私も読みましたが、胸うつ体験記でした。この本は、その続編として、前の『獄窓記』を書くに至る経緯と、その反響の大きさをかなり大胆に、あからさまに描いています。ただ、PFI刑務所を手放しで礼賛しているような記述は、本当にそうだろうかと私にはひっかかるものがありました。刑務所の民営化は、企業にとって(ゼネコンも動いています)単なるもうかる投資先が増えたということになってしまわないだろうか、と心配します。
 知的障害者は、決して苦しみや悲しみに無頓着なわけではない。他人からの冷笑・憐憫・無視あるいは健常者でない自分の存在、そのすべてを鋭敏に感じとっている。ところが、自らの思いを外に伝えることがきわめて苦手な人たちだ。結局、彼らは、悲哀や憤怒の気持ちを表現することもなく、何ごともじっと耐え忍んで生きている。きっと心の中では、もだえ苦しんでいるに違いない。
 いやあ、そういうことなんですか・・・。ここらあたりが実体験のない私には理解しづらいところです。
 そんな一人が、刑務所の一大イベントである観桜会のとき、いきなり『花』を高唱した。「泣きなさーい、笑いなーさーい」と歌いだした。そして、彼は、ボク、死ぬまでここで暮らしてもいい。外は怖いから、というのです。世の中に対して、恐怖心を抱いているわけです。はい、なんとなく、それって分かりますよね。
 日本のセーフティーネットは、非常に脆(もろ)い。毎日、たくさんの人たちが、福祉とつながることもなく、ネットからこぼれ落ちてしまっている。社会の中で居場所を失った人たちが、やっと司法という網に引っかかり、獄中で保護されている。これが日本社会の現実だ。いま、刑務所の一部が福祉施設の代替施設と化してしまっている。
 いえいえ、先日、拘置所でも同じだと聞きました。高齢のため、介護や福祉の対象となるべき人々が拘置所にまで押し寄せてきているので、職員は福祉・介護の勉強をしているというのです。強いもの、お金をもったものがまかり通る社会は、弱い者を拘置所・拘禁施設に追いやっているわけです。
 全受刑者のうち、その帰りを配偶者が待っていてくれる者は、1割でしかない。服役前に離縁したケースが3割、服役あるいは出所後の離婚も多い。ふむふむ、きっとそうだろうと、私も思います。
 著者は、早稲田大学を出て、26歳で東京都議会議員に当選。以後の4回の選挙はすべてトップ当選。蹉跌を味わうことのない人生だった。それが2001年6月、刑務所に入り、2002年8月に仮出所となった。
 服役中は、毎日、夜の訪れが楽しみだった。夢の中で妻子と会うことに、大きな期待と愉楽を覚えていた。実際、夢の中に妻や息子がひんぱんに現れた。ところが、出所したあとは違った。毎晩のように悪夢にうなされた。刑務所に連れ戻される夢など。そして、寝汗をかいた頭に浮かんでくるのは、かつての支援者たちの顔。その誰もが軽蔑にみちた眼で見ている・・・。
 なるほど、そういうことなんでしょうね。ここらあたりは体験者でないと分かりにくいところですね。
 国会議員のとき、霞ヶ関の官僚組織からは、日々、大量の情報が寄せられていた。ところが、今ふり返ってみると、国会は、かえって本質が見えにくい場所となっていた。たとえると、高速道路を走りながら、車外の光景を眺めていたようなもの。多くの見識を得たつもりになっていても、実は何も分かっていなかった。ところが、刑務所での生活は、「生」への実感があった。
 服役した直後、先輩の受刑者は著者にこうさとした。
 刑務所の中で生活していくうえでの、もっとも大事な心構えを教えてあげよう。それは、自分が人間であることを忘れること。それに、この世の中に『人権』という言葉があることを忘れることだ。
 うへーっ、そ、そうなんですか・・・。
 日本の警察の留置場は代用監獄と呼ばれている。今や、ダイヨーカンゴクとも呼ばれ、日本の司法の後進性を世界にアピールしている不明な存在だ。トルコやハンガリーでも同じような仕組みがあったが、人権侵害の恐れが高いということで、10年前に廃止された。うむむ、日本では、残念ながら、警察の留置場に最大23日間も入れられるというシステムは当分、変わりそうもありません。
 日本は、対「テロ」戦争の狂奔するアメリカなんかよりヨーロッパに学ぶべきところが多々ありますね。
 現在、3万人の新しい受刑者がいるなかで、その4人に1人は知的障害者と認定されるIQ70以下の人である。
 ええーっ、そうなんですか。それは知りませんでした。これでは、福祉の充実が必要なわけです。
 ところが、これらの知的障害者の多くは、ちょっと見では分からない。
 うーん、これは困りましたね。
 そして、刑務所から出た人の再犯率は5割をこえている。矯正教育というのは、口でいうほど簡単なものではない。やはり、社会がもっとあたたかく「前科者」を受け入れ、仕事と家庭を保障しなければいけないということです。目には目を、人を殺した奴は死刑にしろ、などという応報刑思想では社会の安全はたもてません。
(2008年2月刊。1600円+税)

ヒトラー暗殺計画

カテゴリー:ヨーロッパ

著者:グイド・クノップ、出版社:原書房
 小説ではありません。歴史ドキュメントです。本文とあわせて、関係者の証言がエピソード的に紹介されていて、ヒトラー暗殺計画の周辺状況を多角的に知る事実ができます。初めて知ることがたくさんありました。
 もちろん、私は暗殺とかテロを支持しているわけでもなく、賛美したりなど決してしません。しかし、ヒトラーに限っては(実は、スターリンについても同じですが)、早いとこ暗殺されてしまったら、ヨーロッパ戦線で数百万人の兵士が死ぬ必要はなかったろうし、数十万人のユダヤ人が死ぬこともなかっただろう。著者の、この指摘には同感せざるをえません。
 ヒトラー暗殺の第一弾は、1939年11月8日のこと。ミュンヘンでヒトラーが演説し、いつもより早く1時間半ほどで切り上げて会場のホールから立ち去ったあと、その13分後に10キロの爆薬が爆発した。演壇そばのホールの支柱が爆発したのだった。8人が死に、数十人がケガをした。
 犯人は、一人の工芸家具職人であり、単独犯で、黒幕はいなかった。彼はドイツ共産党に投票していたが、党員ではなかった。ヒトラーは戦争だ、ヒトラーがいなくなれば平和になる。このように考えての行動だった。
 この暗殺者は、実行する1年前に会場の下見をした。そして、爆弾を購入するために、少しずつ家財道具を売り払って、材料を買いととのえた。会場の店には夜のうちに入っていて物置部屋に忍びこみ、ホールの支柱に工作した。大変な苦労をしたのですね。ヒトラーが、この日、天候を気にして早めに演説を切り上げたのは、まったくの偶然でした。まったく悪運の強い男です。
 「犯人」はザクセンハウゼン強制収容所に入れられましたが、ずっと他の囚人から隔離されていました。独房3室があてがわれ、1室で寝起きし、1室に作業台を置いて木材加工し、最後の1室にSS監視兵が1人つめていた。食事も衣料も好待遇だった。暗殺に失敗したあと、5年半も生きていて、1945年4月9日夜、SS兵にうしろから撃たれ、翌日、ダッハウ強制収容所の焼却炉で灰になった。
 ヒトラーは、ドイツ帝国の東部国境を、バクー、スターリングラード、モスクワ、レニングラードのラインまでずらす。この線から東をウラル山脈まで焼きはらい、その地域の生あるものすべてを抹殺する。そこに住むロシア人3000万人は餓死させる。レニングラードとモスクワは跡形もなく消し去る。このような戦慄のシナリオを知ったヒトラーの犯罪的所業を阻止する必要があると考えたドイツ国防軍の将校群が生まれた。
 ユダヤ人、捕虜、コミッサールの射殺は総じてドイツ国防軍の将校団から拒絶された。このような射殺はドイツ将校団の名誉を毀損すると見なされた。そして、前線にいるドイツ国防軍の将校は我々の想像以上にこれを問題にしていた。
 1943年3月7日、ドイツ国防軍防諜部(アプヴェーア)長官カナリス提督が幕僚を率いてスモレンスクへ飛んだ。オスター少将、ラホウゼン大佐、ドホナーニ特別班長が同行した。表向きの会談は前線司令部における情報将校の大会議。実は、ヒトラー暗殺のあと、ベルリンでどのように政権を引き継ぐか、そのときの措置、そして意思疎通のための暗号が取り決められた。
 1943年3月、成功できたはずのヒトラー暗殺計画が、2件、たて続けに失敗してしまい、クーデター将校は仕切りなおしを強いられた。
 ブライデンブーフ大尉がヒトラーを自分の拳銃で射殺することになった。しかし、なぜか、その日、ブライデンブーフ大尉はヒトラーの参加する作戦会議の開かれた会議室に入ることを拒まれた。
 「ああいうことは、一度きりだ」とブライデンブーフは語った。神経の緊張はあまりにも大きく、2度もそれに耐えるとは思えなかった。
 シュタウフェンベルクは、1943年4月、アフリカのチュニジアで敵機の機銃掃射を受け、命は助かったが右手を手首の上方で切断され、左手の小指と薬指を失い、さらに左目も喪った。やがてシュタウフェンベルクは、快復したあと1943年、本国へ異動した。そして、市民レジスタンスグループと連絡をとることができた。
 1943年9月にベルリンへ来てから、シュタウフェベルクは短期間のうちにクーデター計画のリーダー格になった。レジスタンスの最重要人物と連絡をとり、意見の相違はあっても、共通の目標に対する支持をとりつけた。
 1944年6月、連合軍がノルマンディー上陸作戦に成功したとき、シュタウフェンベルクはクーデターに意義があるのか疑問を感じた。そのとき、トレスコウはこう言った。
 「いかなる犠牲をはらおうと、ヒトラー暗殺はなしとげなければならない。失敗するにしても、クーデターは起こさなければならない。もはや、重要なのは、現実の目標ではない。世界と歴史の前に、ドイツのレジスタンスが命を賭して決定的な一石を投じた、ということが重要なのだ。その事実に比べれば、ほかのことはどうでもよい」
 いやあ、すごい言葉ですね。しびれます。まったく、そのとおりです。私は、今は亡き、この2人の先人に対して心からの敬意を表します。
 いよいよ、ヒトラー暗殺を実行できるのはシュタウフェンベルク1人にしぼられていきました。日頃、口先で大きなことを言っていても、いざとなれば臆病風が吹いてしまうものです(なんだか、私のことを言われているようで・・・)。
 1944年7月15日に至る経過で明らかになったのは、ベルリンでクーデターを指揮できるだけの精神力と行動力をふりしぼることのできるのは、シュタウフェンベルクだけだった。彼は、刺客兼クーデター指揮者という2つの役を兼ねなければならなかった。
 しかし、片手の男が暗殺を決行するのは正気の沙汰ではなかった。ところが、ほかには誰もいなかった。シュタウフェンベルクと副官ヘフテンは書類カバンのなかに、それぞれ1キロのドイツ製プラスチック爆弾を隠していた。爆弾の組立は、きわめて複雑な作業である。確実に爆発させるためには1個だけでなく、2個か3個の信管を起動させる必要があった。ところが、2個目の爆弾をセットしようとする寸前にシュタウフェンベルクは謀議仲間から電話が入り、2個目の爆弾をカバンに入れることなく、ヒトラーの入る会議室に入ってセットせざるをえなかった。いやあ、これって、まさに運命のイタズラですね、仲間によって邪魔されたというのですから。
 シュタウフェンベルクがヒトラーをなぜ会議室で射殺しなかったのかというと、彼は暗殺が成功したときのことにまで責任をもっていたからだ。
 ああ、またもや悪運強し、です。ヒトラーは間一髪、爆死を免れました。ちょうどやってきていたイタリアのムッソリーニを無事に送り出し、ラジオで自分が元気でいることをドイツ国民に知らせることができた。
 ロンメル将軍は、ヒトラー暗殺計画に積極的に加担してはいませんでしたが、軍部レジスタンスの味方をしていました。ところが、7月20日の直前の7月17日にフランス国内でイギリス軍の機銃掃射にあい、予期せぬ重傷を負ってしまったのです。これまた、なんという皮肉な運命でしょうか。
 7月20日のヒトラー暗殺の失敗のあと、数週間のうちに800人ほどの人が逮捕され、200人が殺害された。ドイツ国民の大多数はヒトラーの暗殺未遂の知らせに驚愕し、激怒した。
 シュタウフェンベルクは1944年7月21日未明、直ちに銃殺された。8月7日、クーデター将校に対する裁判が始まったが、非公開で行われた。裁判を公開したら、被告人にしゃべらせなければいけない。それは危険だ。こういう判断でした。
 ゲッベルスはこの裁判の記録映画をドイツの映画館で公開するつもりだったが、むしろドイツ国民はフライスラー裁判長に対して嫌悪し、被告人たちに同情と尊敬を覚えるだろう。こう心配して、とりやめにした。
 8月8日、被告人たちに死刑が宣告され、ヒトラーの命令どおり、家畜のように絞首刑が執行された。その様子をカメラが記録していて、ヒトラーは、何度となく観賞してあきることがなかった。ヒトラーは、やはりサディストそのものです。
 死刑囚は、みな、嘆きの言葉一つも言わずに、背筋を伸ばして絞首台へ向かった。
 ずっしり重たい本です。東京からの帰りの飛行機で一心に読みふけり、時間のたつのを忘れましてしまいました。
(2008年3月刊。2800円+税)

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