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2008年1月 の投稿

決闘裁判

カテゴリー:未分類

著者:エリック・ジェイガー、出版社:早川書房
 中世騎士道と裁判の本質を問い返す、大変面白い本でした。うむむ、なるほど、で、一体、この決闘裁判はどうなるんだろうと、思わず頁をめくる手が速くなりました。
 フランスでは、当時、宿敵イングランドとの1世紀に及ぶ「百年戦争」のさなかにあった。たび重なる出兵、遠征。戦争が長引き、黒死病(ペスト)が猛威をふるった。死がすぐ隣りあわせにあった陰鬱な封建時代だった。だからこそ、フランス国王を筆頭に、諸侯や庶民までが「決闘裁判」を壮麗かつ壮絶な見物として楽しみにした。
 中世は訴訟がよく起こされた時代であり、とくにノルマンディの貴族は訴訟好きだった。それでも、ノルマンディの一介の家臣が、伯爵の決定に対して高等法廷に訴訟を起こしたなど、誰も聞いたことがなかった。
 事件が起きたのは、1386年1月。カルージュ夫人が、主人の留守に、有力な騎士ル・グルに強姦された。中世の法典と裁判によると、強姦は重罪であり、極刑に値する罪であった。しかし、強姦の被害者の多くは、他言すれば恥をかいて不名誉な思いをするのはおまえのほうだと脅され、犯罪を公表することで家族や自分の評判に傷をつけるよりは、沈黙を守るほうを選んだ。そのため、法的には強姦は重罪になるはずなのに、現実には強姦した男は罰せられず、訴えられることもないことが多かった。
 カルージュはル・グルを訴えたが、ル・グルは否認する。そこで決闘裁判になった。
 フランス法の下では、国王に上訴する貴族の男性には、相手に決闘裁判を申し込む権利が認められていた。つまり、決闘によって裁判をおこなう。決闘は、侮辱と認められたものについて名誉を守るべく行われたもの。決闘裁判は、当事者のどちらが偽誓したかを決定する正式な法手続きだった。これは古来の習慣だった。民事事件であれば、決闘代理人(チャンピオン)を立てることができた。しかし、刑事事件では、本人同士が闘わなければいけない。敗者への罰は死。
 1200年ころ、フランスでは民事訴訟では決闘はなくなり、刑事訴訟でも、決闘裁判ができるのは、貴族の男性のみに限られた。
 1296年、国王フィリップ4世は、戦時中の決闘を完全に禁じた。1306年、ある種の刑事裁判における上訴についてのみ、決闘裁判が復活した。
 決闘にのぞむ騎士たちは、槍、斧、剣などの武器を手にして盾をかまえ、軍馬に乗って闘う。負けると命を失うだけでなく、家族も敗北の汚辱をこうむる。決闘は当事者同士の闘いであるだけでなく、家同士の闘いでもあった。
 決闘の場には、1本の槍、2本の剣、1本の斧、1本の短剣を持ちこめる。日没までに決着がつかないときには2日目も続行しなければならない。数千人の大群が、修道院の庭に見物につめかけた。
 国王は、もっとも地位の高い見物人であるだけでなく、法律により裁判長でもあった。パリ高等法院は国王の名のもとに決闘裁判をおこなっており、シャルル国王は、神の聖別により、採決を下す、最高の君主かつ判事として行動する。
 決闘裁判は、観衆の声援や野次で邪魔される、騒々しい娯楽ではなかった。見物人は、ほとんど息もつけないくらい押しだまっていなければならなかった。
 決闘が始まったら、二人は、容赦なく、しかも規則もなしに戦う。背中から突き刺そうが、砂をかけて敵の目を見えなくしようが、馬から突き落とそうが、まったくかまわない。騎士道精神なんて、まったく問題にならない。
 決闘で殺されたほうは、絞首台へ引きずられ、有罪を宣告される。そして死刑執行人のもとへ運ばれる。財産も没収される。
 決闘で敗北したとき、「被害者」の女性も嘘つきであることが立証されたことになる。虚偽の告発は厳しく罰せられる。火あぶりの刑に処せられるのだ。
 さあ、この二人の決闘はどうなったでしょうか。果たしてカルージュ夫人は火あぶりになるのでしょうか。ハラハラドキドキです。映画にもなるそうです。フランス映画でしたら、フランス語の勉強のためにも見るつもりです。
(2007年11月刊。2100円+税)

空の王者 イヌワシ

カテゴリー:生物

著者:真木広造、出版社:新日本出版社
 翼を広げると2メートルをこえる日本最大の山ワシ。北海道から九州までの深山霊谷、険しい山や谷にすんでいます。日本全国にたった400〜650羽しかいません。絶滅が心配されています。そのイヌワシを追い続けてきた著者による素晴らしい写真集です。
 イヌワシは目がいいので、近づいて撮るのではなく、来るのを待ち構えて撮る。だから、イヌワシのくせを読んで、この時期には、この木にとまると読んで待ちかまえる。撮影の9割は観察。遠くから望遠鏡で見てイヌワシの行動をつかみ、撮影ポイントを決める。重さ20キロをこえる機材を背負い、息を切らして1時間半かけて山頂に達し、そこから尾根を縦走する。岩棚で転落しないよう注意する。姿をかくすブラインド(小型テント)を張り終えるまでにイヌワシに見つかってしまうこともある。
 500ミリの望遠レンズを三脚にセットし、待つこと4時間。むむむ、長い。大変な忍耐です。天気がいい日ばかりではないでしょうから、すごい苦労です。好きでないと絶対にやれませんよね。
 イヌワシは、1年のサイクルで子育てする。一山に1ペアとは必ずしも限らず、秋田と山形の境にある鳥海山には5ペアいる。2月に産卵し、4月にヒナが誕生する。エサは1日1回から2回。獲物となるのは、カモシカ、サル、キツネ、アナグマ、タヌキ、テン、ノウサギ、イタチ、ネズミ。ヤマドリやヘビもいる。大きなカモシカを空から襲いかかるような行動で威嚇して岩場から落とし、獲物にしたり、子グマも獲物にしてしまう。ひゃあ、すごいですね。こんな大型動物まで狩りの目標にするなんて信じられません。
 雪の中、猟師がイヌワシに体当たりされることがあるのは、サルとまちがえられたことによるだろう。それでもイヌワシは人間と気がつくと、それ以上は追わないようです。
 6月にヒナは巣立つ。その前になると、親鳥はエサを運ぶ。回数が減り、ヒナをダイエットさせて空腹の状態を利用して巣立ちをうながす。
 11月、親鳥は子どもをテリトリーの外へ追い払い、1年間の子育てが終わる。
 著者は、どうやら私と同世代のようです。36歳で脱サラして、高校を卒業して以来41年間、ずっと野鳥の写真撮影をしてきたというのです。偉いものです。
 軽自動車に寝泊まりしながら、一食100円、1日16時間労働、年中無休の生活をしてきたというのですが、辛いと思ったことはないそうです。そうですよね、好きなことをしていたら、充実感があるわけですからね。
 日本の野鳥632種類を写真にとり、残る20数種にトライ中だというのですから、頭が下がります。心躍る見事な写真集です。
 福岡の小さな映画館で『once ダブリンの街角で』というイギリス映画を見てきました。街角で歌をうたうストリート・ミュージシャンがチェコから移民できた女性と出会い、素晴らしいCDをつくってデビューしていくという音楽映画です。本物の歌手が主人公なのですが、その歌唱力には圧倒される思いでした。英語はまったく聞きとれませんでしたが、歌詞が新鮮で、詩人のつくったような心うつものでした。やはり映画っていいですね。
(2007年10月刊。1400円+税)

気のむくまま 思うままに

カテゴリー:司法

著者:鈴木康隆、出版社:清風堂書店
 1967年(昭和42年)に弁護士になった大阪の先輩弁護士の随想記です。1967年と言えば、私が上京して東京の大学に入った年です。あれから、もう40年以上がたってしまいました。当時、私は田舎の因循姑息に耐えられないと思い、ひたすら東京に憧れていました。そこには、きっと自由の新天地があり、素晴らしい女性にも出会えると期待したのです。でもでも、東京はあまりにも広大無辺でした。人が多すぎるのです。私のような田舎者にとって、方言を気にすることからハンディがありました。生まれてこのかた「野蛮な」九州弁しか話したことのない私は、寮のなかはともかくとして、家庭教師先の「上流」家庭に行くと、話すだけでドギマギしてしまうのでした・・・。今でも、そのときに感じた胸の痛みをはっきり覚えています。40年という月日は遠い過去のようで、ひとたび思い出すと、つい昨日のことになってしまいます。脳の働きの不思議の一つです。
 第一章は「旅をする」です。著者はヨーロッパ旅行を何回もしています。フランスにもスペインにも行っています。スペインが他のヨーロッパの国々と異なっているもっとも大きな原因は、中世において800年もイスラムに支配される国だったとあるのを読んで、なるほど、と思いました。そして、サンチャゴというのは、キリストの12人の弟子の一人であるヤコブのスペイン名だということも知りました。
 私は40歳になったとき、毎年1回は外国へ行くことを決めました。それ以来、年に2回、外国へ行ったことはありますが、まったく海外へ行かない年はありません。やはり、Think globaly,act localy を実践するには、自分の身体を年に1回は外国に置いてみるのが一番です。
 第二章は本との出会いです。そのなかに大川真郎さんの本(『豊島(てしま)産業廃棄物不法投棄事件』)が紹介されています。世間一般には弁護団長だった中坊公平元弁護士の活躍の方が有名ですが、実は大川真郎弁護士の働きが、この取り組みを実質的に支えていたことがよく分かる本です。そして、いつも控えめな大川弁護士がNHKの「列島スペシャル」という45分のドキュメンタリー番組で2回も放映されたということを、この本を読んで初めて知りました。大川弁護士の、日弁連事務総長として、謙虚でありながらもきわめて戦闘的な言動を身近に体験した私としては、なるほど、なるほどと賛嘆した次第です。
 また、福山孔市郎弁護士が、「労働弁護士は闘う商人である」と喝破したというので、驚きました。そして、ある長老弁護士が、毎年、正月に神社に参拝するとき、「世間騒動、家内安全と祈念している」という言葉が紹介されています。それがウソかホントかはともかくとして、なるほどそうだなと私も思います。なにしろ、弁護士というのは他人(ひと)のもめごとをエサにしてメシを食っている人種であることだけはたしかなのです。ですから、モメゴトがなくなってしまうと生きていけません。でもでも、もめごとがこの世からなくなるっていうことは、今のヒト族のおごり高ぶりを見たら、ありえないとしか思えません。そうではありませんか・・・。
 楽しく、かつ、戦後日本社会をふり返ることのできるタメになる本でした。
 正月休み中に恒例の人間ドッグ(1泊)に入りました。今はホテルに泊まります。夕食はバイキングでした。家族連れで一杯でしたが、受付にいた係員の男性が流暢な韓国語を話しはじめ、韓国人の客の存在に気がつきました。ホテルは日本語のほか韓国語と中国語の表示があちこちにあります。
(2007年11月刊。1429円+税)

戦争の後に来たもの

カテゴリー:アジア

著者:郡山総一郎、出版社:新日本出版社
 私は、まだカンボジアに行ったことがありません。アンコール・ワット、ポル・ポトなどですっかり有名なカンボジアですが、戦争の傷跡が今も深く残っていることがよく分かる写真集です。現実から目をそらしてはいけない。そんな思いから、しっかり写真を見つめました。
 「希望の川」というタイトルの写真は、ゴミの山と、そこに住み、ゴミをあさる大人と子どもの写真です。集落はゴミの上に建っています。スラムがありますが、そこよりさらに貧しい層のバラックもあるのです。1日中ゴミを集めて得る収入が100円だというのです。屋台で食べると50円かかるというのですから、とても十分な生活はできません。
 私の小学生低学年のころ、「10円うどん」という素うどんを売っている店がありました。私が高校生のとき、大学生になった兄が昼に110円の定食を食べていると聞いて、ずい分ぜいたくしているんだなと思ったことがあります。40年以上前のことです。しかし、カンボジアの話は、まさに今日の話です。
 OECDが「極端な貧困」としているのは年間所得370ドル。しかしカンボジアでは、その貧困ラインは、プノンペンで55ドル、農村部では33ドル。ケタ違いの貧しさなのです。5歳以下の死亡率は14%、7人に1人の子どもは5歳まで生きられない。そして全人口の85%が農村部に住んでいる。
 「シェルター」というタイトルの写真は、15〜0歳の女の子たちの暮らす施設。外国系NGOが運営している。顔を写さない、場所を特定しないようにする、「売られたのかどうか」訊かない。この3条件が取材が許可されたときの条件でした。「売られたかどうか」という質問は、それが呼びおこす忌まわしい記憶が、子どもの精神状態を悪化させる心配があるから禁止されているのです。大変なことですよね、これって。
 カンボジアの国境沿いでは、1ヶ月に500〜800人の子どもが売り買いされている。値段は1人50ドル。売られた子のなかには、臓器売買に利用される子も少なくない。幼児売春を目的とした「セックス・ツーリスト」の相手をさせられる子もいる。
 そして、その「セックス・ツーリスト」の8割は日本人。プノンペンで「どこの国の女が良かった」「あそこは安くて若い娘がたくさんいる」という日本語が聞こえてくる。本当に同じ日本人として恥ずかしい限りだ。つくづく同感です。カンボジアの売春婦の3割は売られた女性だそうです。
 「エイズ病棟」の写真は、さらに悲惨です。カンボジアではHIVに感染する人が後を絶たない。感染率は15〜49歳で2.6%、これは最悪。そして、エイズ発病を抑える薬は高価で、月60ドルもする。
 最後は地雷です。カンボジアに今も埋まっている地雷は600万発。世界中に7000〜1億1000万発の地雷が埋まっていると言われているが、カンボジアは世界で最悪の国の一つ。今も年に800人以上の死傷者が出ている。農村の13%に地雷が埋まっている。全世界で毎日70人、20分に1人が地雷によって殺傷されている。年間にNGOが処理している地雷は10万発。ところが、新たに250〜500万発が埋められている。地雷の生産コストは200〜500円。しかし、その処理コストは10万円。
 ひゃあ、世の中はひどいこと、すごいこと、むごいことだらけなんですね。
(2005年11月刊。1600円+税)

氷川下セツルメント

カテゴリー:社会

著者:氷川下セツルメント史編纂委員会、出版社:エイデル研究所
 徳川直の小説『太陽のない街』の舞台となった東京・本郷の氷川下地域にあった学生セツルメントの活動を元セツラーたちが語った記念誌です。私は同じ学生セツルメント活動をしていましたが、地域は違い、神奈川県川崎市でした。そこは貧困地域というより、労働者の多く住む古市場という町で、若者サークルの一員として活動していました。
 氷川下にも古市場にもセツルメント診療所(病院)がありました。古市場には今も存続していますが、氷川下のほうは2000年4月に閉鎖されたことをこの本で知り、大変ショックを受けました。ええーっ、なんでー・・・、と思いました。
 氷川下セツルメントは東京教育大学(今の筑波大学の前身)に隣りあわせだったようです。1953年4月に40人でつくられスタートしました。
 氷川下の町は貧しい町ではありませんでした。みるからに可哀相な人もいません。
 全セツ連は、全国30あまりのセツルメントから成り、セツラー3000人が所属していた。全セツ連書記局のを構成するセツルメントは、北から宮城の中江、千葉の寒川、東京の亀有と氷川下、神奈川の川崎、愛知のヤジエ、そして大阪の住吉だった。
 全セツ連大会には600人のセツラーが参加した。1965年の仙台での全セツ連大会では分裂していた川崎セツルメントの中島町と駒場のどちらに代表権を認めるかが議論になった。生産点論を主張したT君はその後、体制側の中枢の裁判官になった。地域を大切にする本間重紀(おやじ)の活動する中島町の方に軍配はあがった。
 多くの元セツラーたちは学生時代にセツルメント活動をして大変学ばされた、そして今もその経験が人生の多くの原点になっていると書いています。私もまったく同感です。
 当時、何を考えたのか、何を学んだのか、地域の人々の暮らしや子どもたちの本当の姿に接しながら、毎日を過ごし、自らの実感にしていたこと。社会に出る前に、エリートの大学生のなかだけで過ごすのではなく、地域の実態に接しながら、社会全体を構造的に見る視点をもつことができたことが大きい。
 実際に社会で出会うさまざまな場面で、自らの意思で選択していく視点と困難から逃げ出さない楽天性を、セツルメント活動を通じて大学時代に身につけることができました。
 40数年前のセツルメント活動を体験して人生観が変わりました。
 医師としての38年間を支えてきた原点は、学生時代の6年間のセツルメント活動にあったと言っても過言ではないくらいに、私の人生にとっては大切なセツルメントでした。
 みんな本当に真面目で、一生懸命で、世の中にこんな純粋な人たちがいるのかと思うようなサークルでした。
 弱い者いじめを連想させるようなゲームをして盛り上がったとき、「セツラーが、こんな資本主義的な遊びをするのか」と叫んだ人がいた。それを聞いて、ああ信頼を裏切ってしまった、やってはいけないことをした、大変なことをしてしまった、と悄然とした。
 弱者を蹴落とす、一生懸命やっている人を表で励まし、裏では笑う。そんなことをしてしまった。それを自覚して、もっとも純粋に誠実になれるよう、自己改造をはじめた。
 20歳まで誰にも言えないこと、一番こだわっていたことをセツルメントのなかで話すことができた。一人に話せると、そこから扉が開いて、外の世界に進んでいくことができる。人間(ひと)は信じてもいいのだと思えるようになった。自分だけで抱えこんでいた悲しみ、苦しさから、それに共感してくれる人たちと出会えたこと。それがセツルメント時代のもっとも大きなドラマだった。
 男女学生が一緒に活動していましたから、男女の共同・協力がすすむセツルメントでは、自然に愛が芽生えることも不思議なことではない。愛の問題がセツルの中心問題となって、屋根裏部屋の恋愛教授と目された学生もいた。結婚にこぎつけたカップルも少なくない。ただ、他人の相談にはよいけれど、自分のことはからきしダメで、愛を実らせることはできないセツラーもいました。なるほど、そういうセツラーがたしかにいましたよね。私も他人(ひと)のことは言えませんが・・・。
 それはともかく、ほのぼの論と命名された雰囲気がセツルメントはあった。セツルメント集団の中には、自然のうちに誰も気づかないうちに醸成されていた。
 女性を真剣に好きになる経験も初めてしました。好きな人と話すときの心の弾みと、切なさを初めて知り、また、失恋の痛切な痛みも知りました。
 セツルメントこそ、私の大学だった。つくづくそう思う。いろんなヒトが、そのように語っています。OS会(オールド・セツラーの会。つまり、学生セツラーであった人々のこと)は、セツルメント大学同窓会である。
 元セツラーで、裁判官なり、いまは弁護士になっている人が次のように語っています。
 セツルメントの経験は、たとえば大学の中で相談をするというのではなく、地域で、生活している現場で相談していることに意義があった。セツルメント法律相談部は、いつか廃部になったそうであるが、今でも存在価値は十分にある。
 私が今年(2008年)受けとった年賀状に、元セツラー、元裁判官で、今は弁護士の人から、東京の亀有セツルメントの法律相談に通っていると書かれているのを読んで、うれしく思いました。学生セツルメントも全滅したのではないようです。
 セツルメント法相部の指導教授は、民法と法社会学の川島武宣、民法学の来栖三郎、加藤一郎の三氏であり、助教授クラスで学生セツラーの相談に乗っていたのは、OSでもある村上淳一、稲本洋之助の両氏だった。
 ところが、セツルメント時代を単に楽しい思い出だと言えない人が想像以上に多いことに気づきます。それは何より、書いた人の年齢で分かります。私と同世代、つまり団塊世代をふくめて、それ以降の人々がきわめて少ないのです。まだ、人生を総括するには早すぎるということでしょうか。過去を振り返りたくないと思っているのでしょうか・・・。
 セツルメントが自分をどう変えたかと回顧する気にはどうしてもならなかった。それを整理する時間と余裕も持ちあわせていない。
 ちゃんと向きあうことが怖いからなのかもしれないと思う。若さにまかせて思い切りいろんなことをした。思い出すだけで恥ずかしくなること、真剣に思い出したら今でも胸を締めつけるような思いに囚われてしまいそうなこと、ああすればよかった、こんな風にふるまえばよかったと後悔ばかりしそうなことがたくさんある。思い出すと胸が苦しくなるばかりだ。だから、それらに触れないようにしているのかもしれない。1966年入学以降の元セツラーからの寄稿が少ないのは、そのせいかもしれない。
 全体的な気分は物悲しさだ。
 私と大学同級生のセツラーであるボソは次のように語っています。身体で学んだ青春だった。民宿の夜は、男女が雑魚寝で話し続けた。いろんな人といっぱい話したかった。いっぱい聞いてほしかった。可能性を信じて、働きかける魅力は捨てがたいものがあった。人生の価値を考えたとき、転職は避けられなかった。少しでも自分の実践を展開するため、ささやかな努力を積み重ねてきた。
 法学部卒業のボソは、民間企業に入り、8年間そこでがんばったが、教職に転じ、今も私立高校の社会科教師としてがんばっている。ときどき実践記録を送ってくれますが、高校生の書いた文章のレベルの高さには毎回驚かされています。
 『清冽の炎』(神水理一郎、花伝社)を読むと、懐かしさとともに、少しこそばゆさもどこかに感じてしまう。自己変革という言葉に当時、大いに惹かれた・・・。
 2007年夏に出版された本ですが、1967年以降に入学した元セツラーの寄稿がとても少ないのです。年に2回の全セツ連大会には全国から1000人以上ものセツラーが参集して大変な熱気を毎回感じていました。あのころの熱気はどこへ行ったのでしょうか。私は、もっともっと大勢の人に、回顧趣味でもいいから、ともかく当時のセツルメント活動を気軽に振り返ってほしいと思っています。きっと、今の自分と過去の活動の接点が見えてきて、それは明日にプラスになることだと思うのです・・・。
(2007年8月刊。3333円+税)

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