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2007年12月 の投稿

ジョルジオ・アルマーニ

カテゴリー:未分類

著者:レナータ・モルホ、出版社:日本経済新聞出版社
 ブランド品など、とんと縁のない私ですが、その名前くらいは知っています。アルマーニって、どんな人物なのかなと思って読んでみました。ずい分前にグッチについても本を読んで、この書評に紹介したように思います・・・。
 アルマーニは、イタリア北部の決して裕福とはいえない中産階級に生まれた。1934年7月11日、アルマーニは国立ミラノ大学医学部に入学し、3年で退学した。一兵卒としてシエナの工作部隊に入隊し、医療班に所属する。兵役を終えて、建築家のアシスタントになる。アルマーニは百貨店で、さまざまな仕事をこなした。そこで人々の望むものを見きわめる鋭い感覚を身につけた。そして、世の中が必要としているものの一歩先を読むことも。生来の観察眼の鋭さが、アルマーニの強力な武器となった。
 ふむふむ、そうなんでしょうね。同じものを見ていても、凡人のボンヤリした目では見えないものが、天才には見えているというわけなのでしょう。
 この本には、アルマーニの幼いころから現在に至るまでの写真が満載されていて、その仕事と生活の様子をイメージすることができます。
 アルマーニは、経営部門を担当した男性と同棲していました。つまり、ゲイだったのです。なぜか、芸術家にゲイの人々が多いですよね。それって、関連性があるのでしょうか。それとも単なる偶然なのでしょうか。
 アルマーニにとっては、仕事こそが人生そのものであり、プライベートとの区別はない。華やかさとは無縁の日常生活を過ごし、毎朝9時にオフィスに入る。アルマーニは俗世間とのつきあいを嫌い、無類の整理整頓好きだ。
 アルマーニは、アメリカ人のイタリアについてのイメージを一新した。それまでは、薄暗く、苦悩にみちた、高潔だが貧しい、というものだった。そんなネガティブなイタリア人についてのイメージが突如として霧散し、エレガンス、グラマラス、見るものをうならせる才能という、まったく正反対の価値観にとって代わられた。
 安物の旅行鞄ひとつでやってきた、運命に任せるしかない無学な移民というイメージが消え、美的感覚と創造性に圧倒的に勝る国というイメージがアメリカに浸透した。
 アルマーニは、意外なアイテムを組み合わせる。スーツのボトムにレザーパンツをもってくる、ロングジャケットにショートパンツを組み合わせる。ジャケットの上にベストを重ねる。生地の特性を最大限に生かす感性。ユーモアあふれるディテールや奇想天外なシンメトリー感、驚くような素材をつかって伝統的な形を新しいものに仕立てあげる。着こなしにもたらされた自由。なんといってもアルマーニの服は着心地がいい。
 ふーん、そうなんですか・・・。アルマーニなんて一度も着たことがありませんから、それがどんなことなのか、よく分かりません。
 アルマーニと仕事をするには、忍耐力、自己犠牲、情熱という資質が求められる。アルマーニはチームを組んでの仕事を理想とする。終始なごやかなチームというのではなく、活発な議論のできるチームを望む。
 アルマーニは、ミスをする人間に対して寛容ではない。過ちは決して許されない。
 アルマーニの発想のなかには日本の影響もある。北斎の浮世絵や広重の風景画にえもいわれぬ魅力を感じる。
 いやあ、すごいですね。イタリア人のアルマーニに日本の浮世絵の影響があるなんて、信じられません。
 アルマーニの最大の長所は、自分のアイデアをとことんまで信じること。本能的な勘に逆らうと、その決定は必ず裏目に出る。いつだってそう。自分の着想のほうが正しいという確信をもっている。それがアルマーニの強みだ。
 いまや、アルマーニ・グループは従業員4900人、13の製造工場をもち、売上高が14億2800万ユーロに達するモード界屈指の大企業である。
 すごいことですね。やはり発想が根本的に凡人とは違うのでしょうね。
(2007年7月刊。2800円+税)

観光コースでないフィリピン

カテゴリー:未分類

著者:大野 優、出版社:高文研
 開放的でおおらか、過ちにも寛容な優しい世界。7000万人のうちカトリック教徒が83%、プロテスタント教徒が5%。イスラム教徒もミンダナオ島などに人口の4%いる。7100の島々から成る国で、言語は110もある。
 以上の数字は10年前のものです。今の人口は8000万人だと思います。スペインが333年間も支配し、その後アメリカが42年間、植民地として支配した。日本も第二次世界大戦中に3年間、軍事占領した。
 フィリピンという国名は、スペイン皇太子フェリペに由来する。
 日本との関わりでは、戦国期のキリシタン大名である高山右近が日本を追放されてマニラに住み、日本との交易は盛んだった。20世紀にはミンダナオ島ダバオでマニラ麻栽培を日本人が手がけていた。
 私は11月の連休を利用して3泊4日のフィリピンへ出かけてきました。二度目のフィリピン旅行です。
 ニノイ・アキノ空港は今回も人であふれていました。入国するにも出国するにも大変な行列をつくります。出国する前に空港内でみやげ物を買いたいと思っても、レジの前に並ぶ行列の長さに閉口して、あきらめてしまいました。私たちが出国するのに、上着をとり、靴を脱がされ、ボディーチェックされるのです。出国して数日後、高級ホテルに軍人などが立て籠もって反政府宣言したという事件が起きました。やはりフィリピンの政情は安定していないことを実感しました。
 アキノ元大統領の夫であったニノイ・アキノ上院議員が空港で暗殺されたのは1983年8月21日のことです。マニラのホテルで読んだ新聞に、その暗殺犯たちが24年たって釈放されたことが記事になっていました。空港警備隊長ら兵士16人が終身刑になっていたのです。当時のマルコス大統領が政敵のアキノ議員の暗殺を命じたというのが真相のようです。下手人役の兵士たちがワリを食ったのです。
 アラヤ財閥とかソリアノ家などは、今も純粋なスペイン人の血を保っているそうです。混血を拒否する、恐るべき「白いフィリピン人」です。
 マラカニアン宮殿にも見学に行きました。イメルダ夫人の2000足の靴のうち一組のみが展示されていました。宮殿の半分が開放されて観光コースになっているのですが、そこに至るまでに、何回となく厳重に警戒チェックされます。
 マルコスを追放した2月革命は、フィリピンでエドサ革命と呼ぶそうです。1986年2月22日にはじまりました。50万人のフィリピン人が結集したと言います。マルコス一族は、アメリカ軍のヘリコプターでマラカニアン宮殿を脱出し、ハワイへ亡命しました。ハワイで死んだマルコスの遺体はフィリピンに戻り、今も遺体が保存されているそうです。
 マニラ市内にはリセール公園という広大な公園があります。スペインからの独立をかちとる国民的英雄であるホセ・リサールが処刑された公園です。ホセ・リサールはスペインから独立するについて武力行使に反対したようですが、スペイン軍に捕まり銃殺されます。処刑されたときも、ホセ・リサールはいつものようにスーツを着てネクタイを着用し、山高帽をかぶっていました。リサールは背後から銃殺されたようです。
 サンチャゴ要塞を見学しましたが、リサールが刑されるまで歩かされたときの足跡がずっと残っていました。私は、まさか本物の足跡が残っているはずはないと疑いましたが、ガイド氏の説明は本物だということでした。本当でしょうか?
 サンチャゴ要塞は、スペイン統治のときは牢獄、アメリカ統治時代は陸軍本部、日本軍統治のときには憲兵隊本部と牢獄としてつかわれていました。1945年2月、日本の敗戦間近のとき、牢獄内で600人ものフィリピン人やアメリカ人が虐殺されたということです。水牢を見学しましたが、日本軍の残虐な行為を思って、息を呑みました。
 モンテンルパ刑務所も見学しました。山下奉文大将や本間正晴中将など、日本軍の将兵を敗戦後に収容したところです。戦後まもなく、渡辺はま子の「モンテンルパの夜は更けて」という歌が流行して有名になりました。私自身は聞いた覚えはありませんが、名前だけ知っています。刑務所の正面はアメリカのホワイトハウスを思わせるようなきれいな建物です。ところが、5000人を収容する、この刑務所内はギャングの支配する恐るべき状況があるそうです。
 日本軍の敗戦後、マニラでも日本軍の戦犯を裁く「マニラ法廷」が開かれ、山下大将、本間中将ら80人が処刑されました。
 刑務所の近くに世界平和祈念公園があります。ここで処刑された17人の名前が記されていますが、山下大将や本間中将の名前はここにはありません。彼らは別のところで処刑されたからです。
 日曜日、久しぶりにちょっとした山歩きをしました。ダイエットに励んでいる最中ですから、しっかり汗をかこうと思って、必要以上に着こんで出かけました。歩いて1時間あまりで山頂につき、上半身裸になって着換え、さっぱりしたところでお弁当をいただきました。といっても、目下、米、パン、めんを絶っていますので、おにぎりはありません。代わりにリンゴ丸かじりです。
 春霞ならぬ秋霞の日和りでした。風もなく、爽やかな山頂でしばし遙か彼方に海を見おろし、遠くの山を眺めて浩然の気を養いました。山のあちこちでジョウビタキを見かけました。人を見ると、尻尾をチョンチョンと下げて挨拶する愛嬌者の小鳥です。
 往復3時間あまりの山歩きのあと、少し昼寝をとってから、庭にチューリップの球根を植えました。久しぶりにのどかな秋の一日を過ごすことができました。
(1997年11月刊。1900円+税)

悪果

カテゴリー:未分類

著者:黒川博行、出版社:角川書店
 警察ハードボイルドです。読みはじめたら、その後の展開がどうなるのか、目が離せない思いで、一心不乱に読みふけってしまいました。
 ここではストーリーを展開するわけにはいきませんので、この本に書かれている警察の実情を紹介します。どこまで本当なのでしょうか?
 暴犯係の刑事はヤクザの犯罪を取り締まるのが仕事であり、どれだけの情報をもっているかでその手腕が分かる。日頃から組事務所に顔を出して様子をうかがい、ときには個人的な相談に乗って情報を拾う。組員とのつきあいにどこで一線を引くかは各人の裁量に任されている。
 暴犯係の刑事は、つかんだ情報をめったなことでは他にもらさない。刑事に情報開示は無縁。自分なりに裏づけをとって、これはいけると確信したときに、はじめて口を開く。そういう縄張根性と、手柄をひとり占めしようとする意思があってこその刑事稼業だ。
 刑事は情報が命であり、相手が上司であれ同僚であれ、不用意にたれ流していたら自分の首を絞めることになる。情報は独占してこそ値打ちがあり、もちネタが多ければ多いほど、この世界ではうまく立ちまわれる。
 ヤクザと飲み食いするのも仕事のうち。勘定はもちろんヤクザもち。こちらが弱みを見せればこそ、向こうもスキを見せる。それがマル暴担の刑事の度量だ。
 ひとりで組事務所に出入りしたり、ひとりで内偵捜査をしたがるマル暴担当の刑事は、ヤクザに取りこまれていることが多い。
 県警の監察の役目は警察官の犯罪や不正を摘発することではなく、いかにしてその犯罪を隠蔽するかにある。とりわけ保安や暴犯担当の長い刑事は女や博打や組筋とのつきあいで身をもち崩すことが多く、定年まで勤めあげる刑事はほかの部署に比べて圧倒的に少ない。優秀なマル暴担ほど、途中でドロップアウトする。
 警察はヤクザよりひどい。ヤクザの守り料は定額で、それ以上は要求しないし、払えば守ってくれる。だが、警察は守り料をとらないかわりに、しょっちゅうタダで遊んでいくし、マナーが最悪だから女の子も嫌がる。おまけに盆暮れの挨拶、異動時の餞別、各署対抗の武道大会のご祝儀なども要求され、際限なくお金を払わされる。もし払わないと営業停止になるので、いいなりになるしかない。
 これは風俗店の経営者の言葉です。
 マル暴担という利権を手にしながら気の利いたシノギのひとつも見つけられないような奴は出世する見込みがない。たとえばマンションころがし。マル暴担の刑事が第三者名義でヤクザが入居しているマンションを競売などで安く買う。そして暴対法の中止命令などをかけてヤクザを追い出し、マンションの値が上がったところで転売する。
 保安係、風紀係は最高の利権だ。飲食業や風俗業に対する許認可権と取締権の両方をもち、おのれの胸三寸でどうにでもできる。業者からの接待攻勢はひきもきらず、飲み食いはもちろん、ゴルフコンペ、温泉旅行と、次々にお座敷がかかって身体の空くヒマがない。
 元マル暴担はヤクザよけになるからツブシがきく。金融、保険、流通といった民間企業の顧問を5、6社もすれば、それで食っていける。
 警察官には三とおりある。ごますりの点取り虫と、まじめなだけのボンクラと、ほんまもんの捜査ができる本物の刑事だ。
 署長賞や部長賞や本部長賞といった褒賞をいくら受けたところで、巡査が巡査部長に昇進するわけではない。昇任試験を受けて合格しない限り、巡査は永遠に巡査のまま。警察という絶対の階級社会の中ではまじめに働く人間が損をし、試験に長けた要領のいいやつが得をする。
 警察官は、試験にとおって星の数を増やしたらうまい汁が吸える。妙な使命感や正義感は出世の妨げだ。
 日比谷公園を歩いてきました。見事に黄金色に色づいた銀杏の木から風に吹かれて大量の黄金の葉っぱが落ち、まるで黄金の大雨が降っているような夢幻の光景でした。師走も半ば近くになり、気ぜわしさを感じます。
(2007年9月刊。1800円+税)

古代メソアメリカ文明

カテゴリー:アメリカ

著者:青山和夫、出版社:講談社選書メチエ
 アメリカ大陸を最初に「発見」したのは、いうまでもなくコロンブス一行ではない。最初のアメリカ人は、モンゴロイドの先住民たちであった。彼らは、今から1万2000年以上前の氷河期にベーリング海峡が陸つづきになったころ、アジア大陸から南北1000キロに及ぶ広大な陸橋ベーリンジアをこえて、無人のアメリカ大陸に到達した。モンゴロイドの先住民たちは、1万年以上にわたって生活を営みつづけていた。
 チョコレートの原料のカカオは、メソアメリカの先住民が栽培化した。ジャガイモは南米で最初に栽培された。メソアメリカ原産のトウモロコシは、古代から先住民たちの主食である。古代メソアメリカでは、タバコは単なる嗜好品ではなく、重要な儀礼用植物であり、主として王族・貴族のあいだで、宗教儀礼を清め、儀礼的な病気治療にもちいられた。
 日本の秋の代名詞であるコスモス、クリスマスに人気のポインセチア、ダリア、マリーゴールドなども、みなメソアメリカ原産の花である。
 日本人と同じモンゴロイドである先住民が、コロンブス以前に「四大文明」をはじめとする旧大陸と交流することなく、メソアメリカ古代文明を独自に築き上げた。
 古代メソアメリカ文明は、石器を主要利器とした、きわめて洗練された「石器の都市文明」だった。
 メソアメリカの人々は、手だけ(十進法)ではなく、手足両方の指をつかって20進法で数字をかぞえたのが特徴。南米のインカ文明は、日本人と同じく十進法だった。ゼロの概念は、旧大陸ではインダス文明、新大陸ではマヤ文明が、それぞれ独自に編み出した。
 メソアメリカでは家畜はイヌと七面鳥くらいで、耕したり運んだりする大型家畜はいなかった。すべて人は徒歩だった。牛や馬も利用していない。
 マヤの王は、政治指導者であるとともに、国家儀礼では最高位の神官であり、戦時には軍事指揮官でもあった。専業の神官は存在せず、王や貴族が神官の役割を果たした。神聖王であったマヤの王は、先祖・神々と人間の重要な仲介者であり、神々と特別な関係をもつことによって自己の権威・権力を正当化した。
 戦争では王がしばしば捕獲・人身供犠にされ、戦争の勝敗は、都市の盛衰に大きく影響した。しかし、一つの王朝が遠い別の王朝を征服して直接統治することはなかった。
 古代メソアメリカは政治的に統一されなかった。これは、南米で、インカ帝国が15〜16世紀に中央アンデスを統合したのと対照的だ。16世紀からのスペイン人の侵略によって、古代メソアメリカ文明は破壊された。しかし、その後も影響は今に至るまで残している。
 トウモロコシは、乾燥・貯蔵が容易で、その余剰生産は、古代メソアメリカの都市文明をうみ出した原動力の一つとなった。
 トウモロコシ、マメ、カボチャはメソアメリカの三大作物である。
 鏡はあったが、それは鉱石を磨いたもので冶金ではない。鏡は支配層の威信財だった。
 マヤ民族という単一民族は過去も現在も存在しない。共通語の「マヤ語」はなく、30のマヤ諸語が、800万人以上の現代マヤ人によって話されている。
 マヤ文字は、漢字かなまじりの日本語とよく似ており、一字で一単語をあらわす表語文字、一字で一音節をあらわす音節文字からなる。マヤ文字は全部で4〜5万あり、60%くらい解読されている。
 暦は365日暦がある。古典期マヤ文明は、南北アメリカ大陸で、文字、算術、暦、天文学をもっとも発達させ、ゼロの概念を独自に編み出した究極の石器の都市文明だった。
 メキシコ中央高地のテオティワカンは、最盛期の200〜550年には、23.5平方キロの面積に12万5000人〜20万人の人口が密集する、南北アメリカ大陸で最大の都市であり、ローマに匹敵する世界的な大都市として繁栄した。
 アステカ人にとって、戦争とは敵を活かしたまま人身供犠のための捕虜として捕らえ、貢納を確保することが一大目的だった。スペイン人のような、敵を無差別に皆殺しにするという概念は存在しなかったのである。
 数百人のスペイン軍より最終決戦では20万人に及ぶ敵対先住民の同盟軍によってテノチティトランは陥落させられた。アステカ王国の敗北はここに原因があった。
 知らなかったことがたくさんありました。日本人の学者が、この分野でも活躍しているのですね。
(2007年8月刊。1600円+税)

聞き書きフィリピン占領

カテゴリー:アジア

著者:上田敏明、出版社:勁草書房
 11月にフィリピンに行きましたので、17年前に初めてフィリピンに行ったときに読もうと思って読んでいなかった本を引っぱり出して読みました。
 この本は、今から20年も前にルソン島で日本軍が何をしたのか、聞き出した内容をまとめたものです。
 今回、私たちがフィリピンに行ったとき、マニラでバタンガス出身の人に会い、日本軍の蛮行を糾弾されるのではないかとヒヤヒヤしたと語ったガイド氏がいました。この本を読むと、バタンガスに限らず、日本軍がフィリピンの至るところでひどいことをしたことがよく分かります。いえ、ひどいことをしたという表現は上品すぎます。フィリピンの人々に対して残虐このうえない、強姦や大虐殺をしたという事実があるのです。私たちは、同じ日本人として、その事実に目をそむけるわけにはいきません。それは自虐史観というものではありません。事実は事実として受けとめるしかないのです。
 バタンガスでの日本軍による大虐殺は日本の敗戦間近の1945年2月のことです。ところが、日本軍が、フィリピンの占領を始める1941年12月からフィリピン人の虐殺をはじめていたのです。
 日本軍は支配してすぐに「軍律に関する件」を布告した。これは、要するに、日本軍への反抗を少しでもしたら処刑か重罪に処せられるというもの。それを企図しただけでも処罰されるというわけなので、あってないような要件でした。
 マニラに今も残るサンチャゴ要塞を私たちも見学しましたが、ここは日本軍の恐怖政治を象徴する場所でした。憲兵隊の本部が置かれ、スペイン時代につくられた水牢が囚人を溺死させるものとして活用されていました。
 日本軍による戦争犯罪のフィリピン人被害者は、東京裁判のとき9万人をこえるとされた。戦後、フィリピンが抗日戦の損害賠償を求めた文書には人員損害として111万人とされている。
 フィリピンにスペインがもたらしたのは宗教(キリスト教)、アメリカ人は聖書をもたらした(スペイン人はスペイン語をフィリピン人には教えなかった。フィリピン人は英語によって聖書が読めるようになった)、日本人は鞭打ち(残虐行為)。このように言われるのは悲しいことです。
 二度目のフィリピン訪問でした。有名だったスモーキーマウンテンというゴミの山に住む人々はいなくなりましたが、川の上にバラックで住む人々、線路脇のバラックに住む人々、まさしくスラム街以下の人々の存在をマニラ首都圏のあちこちに見かけました。市内の至るところに大きく近代的なショッピングモールがあって、そこも人々であふれているのですが、スラム街に住む人々もきわめて多く、フィリピンの社会構造が安定しているとは、とても思えませんでした。
(1990年3月刊。2200円+税)

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