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2007年12月 の投稿

人間・周恩来

カテゴリー:中国

著者:金 鐘、出版社:原書房
 周恩来の実像に迫った本です。序文には次のように書かれています。
 周恩来とは、複雑な政治の環境に身を置いた複雑な政治的人物である。周恩来は率直で親しみやすいように見えてなかなか腹を割らず、品格のある学者のように見えて残酷きわまる非人間的なふるまいをすることができた。その政治の内在的な傾向は右翼的でありながら、行為の上では極左的な態度を示すことができた。うわべは国家のため人民のため献身的に力を尽くすといったイメージだったが、実際には大独裁者、毛沢東の共犯者だった。
 私も、最後の、毛沢東の共犯者だったことについては一も二もなく同感です。
 周恩来は、人民に貢献もしてくれたが、それ以上に人民に対して義理を欠いた人物である。序文の結びに、このように書かれています。
 周恩来は、文化大革命のなかで、中高級幹部や統一戦線の人士を何人も守ったが、運動全体の方向を変えたり、一連の重大事件の発生を阻止することについては、その気もその力もなかった。むしろ、周恩来によって動乱を引きのばし、それによってよりいっそう大きな損失を招くことになった。周恩来は、中国共産党内の最大の毛沢東擁護派だった。
 なーるほど、客観的にはそう言えるでしょうね。つまり、周恩来が徹底して反対していたら、文化大革命の顛末が相当異なっていたことは間違いないと思います。
 この本を読んで、周恩来が中国解放の前に裏切り者一家をみな殺しにしたことに責任があること、ソ連へ逃亡を図った林彪をモンゴル上空で撃墜させたことを知りました。
 周恩来は、1923年6月、パリ留学中に、国民党に入党している。ただし、その前の1921年にドイツ共産党とフランス共産党にも加入している。1923年6月から1926年3月までは、国民党員の身分で政治活動をしていた。
 中共中央軍事部長だった周恩来は、1931年、上海で特務工作課を指示して、中共を裏切った顧順章一家など16人を皆殺しにした。
 中国共産党内で批判された王明路線を具体的に実行していたのは周恩来だった。王明は中共内部に根をおろしておらず。スターリンがコミンテルンを通じて中共を指揮するための道具に過ぎなかった。
 林彪の乗った飛行機は、ミサイルで撃ち落とされたが、その撃墜命令を実行したのは、内モンゴル自治区のある空軍司令部直属の地対空基地である。それは是が非でも撃墜せよという周恩来の命令を受けてのことだった。
 9.13事件の処理をする指令本部は北京の総参謀部におかれ、李徳生が24時間、陣頭指揮にあたっていた。林彪の飛行機は離陸してから撃墜されるまでのあいだ。完全にレーダーの監視下におかれていた。林彪の乗った飛行機はミサイルをうちこまれて左翼を大破してバランスを崩して操縦不能に陥り、着陸強行を余儀なくされた。そこは滑走路などない、起伏のある砂漠だった。着地したときの衝撃は大きく、燃料タンクが発火した。
(2007年8月刊。2200円+税)

私は逃げない

カテゴリー:アジア

著者:シリン・エバディ、出版社:ランダムハウス講談社
 ある女性弁護士のイスラム革命というのが、この本のサブ・タイトルです。シリン・エバディ弁護士は2003年にノーベル平和賞を受賞したイランの人権派弁護士です。「イランの鉄の女」とも「イランの良心」とも呼ばれます。
 多くの知識人がイランを脱出するなか、エバディ弁護士はイランにずっと踏みとどまり、暗殺リストにのる生命の危険をも顧みず、人権問題とりわけ女性と子どもの権利を守り、そして知識人が迫害される政治的事件を手がけてきた。もともとはイラン初の女性裁判官だったが、ホメイニ革命のあと女性が判事から追放され、しばらくして弁護士として復活した。
 シリン・エバディは1947年6月21日生まれですから、私より1歳年長です。1970年3月、23歳で裁判官になりました。私がまだ大学生のころです。私が弁護士になったのは1974年、25歳のときでした。法律のことがまるで分からないまま、恐る恐る実社会に足をふみ出しました。そのときの不安な気持ちを今もはっきり覚えています。2年間の司法修習生としての見習い期間も、法律の勉強より青法協(青年法律家協会)などの活動に忙しく、地道な法律解釈は私の性にまったくあっていませんでした。
 1982年、シリン・エバディ弁護士は自宅にあった。マルクス、レーニンの本を庭に積み上げて燃やした。ホメイニ師に反対する勢力が次々に銃殺されていったからです。
 私は幸いにして、今も、学生時代に買い求めたマルクス・レーニンの本を燃やすことなく後生大事にもち続けています。もちろんホコリをかぶっていますが・・・。いえ、実はいま学生時代のことを書いていますので、ときどき引用しようとして取り出しています。
 そんなイランの状況を見限ってイランの知識人が次々に国外へ脱出していった。およそ400〜500万人のイラン人が20年間にイランを出国していった。
 「ここにいては子どもたちの未来はない。子どもたちの未来がもてるようなところに連れていってやる必要がある」
 「じゃあ、イランに残った子どもたちの未来はどうなるのよ。残るということは、未来がないっていうこと?」
 「キミの子どもがもっと大きかったら、キミだって出ていくよ」
 「ちがうわ。私は絶対にイランを見捨てたりしない。私たちの子どもは若いから、新しい世界の文化を吸収するでしょう。そうしたら、やがては、子どもたちも失うことになるわ」
 これはこれは、とてもシビアな会話です。こうやってシリン・エバディは家族ともどもイランに残ったのです。私だったら、きっと逃げ出したでしょう・・・。
 シリン・エバディはイランから出て行った人に手紙を書くことはやめた。誰かがイランを去ると、その人は亡くなったのも同然だった。
 ホメイニ革命後、イスラム刑法典は男性の命は女性の命の2倍の値打ちがあると定めた。そこで、9歳の少女の強姦殺人事件で、2人の犯人の男性を処刑する費用を被害者の少女の遺族に対しても数千ドルを支払うよう命じた。
 ええーっ、なんでー・・・。信じられません。野蛮としか言いようのない判決ですよ、これって。信じがたいことです。
 シリン・エバディは、平等と民主主義の精神に調和したイスラムの解釈こそ真の信仰の表明あることを確信している。女性をしばっているのは宗教ではなく、女性を引きこもらせておきたいと望む人々の恣意的な意思なのだ。
 ノーベル平和賞の受賞が決まってテヘラン空港に戻ったとき、シリン・エバディが叫んだ言葉は、「アッラー、アクバルー(神は偉大なり)」だった。何十万という多くの女性が深夜にもかかわらずテヘラン空港まで歩いてかけつけました。すごいことです。
 この本を読んで、やはり女性は偉大だと、つくづく思いました。
(2007年9月刊。1900円+税)

戦争する国、平和する国

カテゴリー:アメリカ

著者:小出五郎、出版社:佼成出版社
 ノーベル平和賞を受賞したコスタリカのオスカル・アリアス・サンチェス大統領の話を中心にまとめた本です。
 コスタリカは300年ものあいだスペイン総督の支配下におかれた植民地だった。そして、コスタリカは1821年にスペインからの独立を宣言した。
 コスタリカとは、コスタ(海岸)とリカ(豊)かというスペイン語による。
 コスタリカは人口430万人。うちスペイン人と先住民との混血が95%、アフリカ系3%、先住民2%。
 中米にあるコスタリカは、50年前から軍隊をもたず、また、自然保護で有名な国です。
 コスタリカは、九州と四国をあわせたほどの面積しかもたない。しかも、国土の3分の1は3000メートル級の高山。活動中の火山も多い。変化に富む高山の存在が、動植物の宝庫である理由のひとつで、首都のサンホセも高原盆地にあり、標高が高いので、熱帯のイメージから遠い快適な気候。まるで軽井沢みたい。日本の四季より多様な自然環境がある。
 少し前のことですが、福岡の後藤富和弁護士がコスタリカに視察に行ってきたことを聞いて、うらやましいなと思ったことでした。
 コスタリカは、平和主義をとり、非武装・永世中立の国。そして、教育に投資する国。国家予算の20%を教育費が占める。
 1948年、大統領選挙の不正問題をきっかけに内戦が始まった。内戦は1ヶ月以上続き、犠牲者は2000人をこえた。勝利したのは革命軍で、リーダーはフィレーゲスであった。
 コスタリカの現行憲法は、翌1949年に成立した。軍は、恒常組織としては、禁止する。警備および公安維持のため、必要な警察力をもうける。こうなっています。
 コスタリカの教育水準は高い。教育水準が高いということは、国民の政治に対する関心が深いということ。選挙で政治に参加し、自分たちの未来を決めたい。みんながそう考えている。
 コスタリカ憲法に、国内総生産の6%は教育費にあてると明記している。ちなみに、福祉のための予算は、同じく9%をあてている。義務教育は9年間。学費はタダ。落第もある。大学も、国立が4校、私立が36校ある。国民の2%、8万人が大学生。つまり、大学適齢期の人口4人に1人は大学生だ。
 ひゃあ、すごいですね。日本では今4人に1人なんでしょうか?
 コスタリカ憲法には環境権が明記されている。そして、エコツーリズムが盛んであり、年間100万人をこえる人が海外からやってくる。
 コスタリカでは、選挙はお祭りである。投票率は70%ほど。4年に1回、国中が沸きかえる。同じ年にサッカーも試合もある。選挙権のない18歳未満の子どもたちも、選挙権はないが、投票権があり、投票する。そして、その結果は公表される。
 投票所の雑用は年長の子どもたちがこなす。また、選挙をとり仕切るのは選挙裁判所である。たとえば、投票日前後3日間のアルコール販売は禁止される。
 いやあ、感心しました。コスタリカっていう国は「親米」の国なのですが、アメリカの言いなりには決してならない国のようです。そこが日本とは決定的に違います。見習うべき国だと思いました。
 仏検(準一級)の結果を知らせるハガキが届きました。自信をもって開きます。合格の文字が目にとびこんできました。やれやれ、です。問題は得点です。86点でした。合格基準点が79点で、合格率は25%ですので、まずまずです。ちなみに、自己採点では87点でした。実は、準一級のペーパーテストの合格は、これで5回目です。だいたい7割はとれるようになりました(一級のほうは3割台で低迷中です)。口頭試問のほうは3回受けて、1回だけパスしましたが、あと2回は不合格でした。
 口頭試問は個人面接です。3分前にフランス語で書かれたテーマ(そのときどきの時事問題が多いようです。たとえば狂牛病問題とか、学校5日制の導入とか)2つのなかから一つを選び、3分間、それについてフランス語で話すのです。これは本当に難しいです。そのあと、フランス語での質問にこたえます。全部で7分間ですが、とても緊張します。思ったようにフランス語の単語が出てこないのです。まあ、それでも、せっかくですから、もちろん今回も受けます。
(2007年9月刊。1400円+税)

ダイオキシンは怖くないという嘘

カテゴリー:社会

著者:長山淳哉、出版社:緑風出版
 久しく待たれていた本だと私は思いました。ダイオキシンが世間の話題にならなくなって久しいものがあります。ひところは何かというとダイオキシンが取り沙汰されていたのに、まるで時代の流れが変わってしまいました。
 私自身も2003年1月に日本評論社から『ダイオキシン、神話の終焉』という本が出て、それを読んでから、まったく自信喪失の状態でした。だって、東大教授がダイオキシンによる被害は神話に過ぎないと断定したのですから、科学者でない私が動揺してしまったのも無理ないところです。
 著者は、この本を読んで、さっそく抗議したそうです。出版社は、これに対して弁明書を出しました。
 著者は、母乳にふくまれる何らかの因子がアトピー性皮膚炎の発症に追いうちをかけていること、その因子の一つとしてダイオキシンも考えられるとしています。
 また、アメリカでも、ダイオキシンが毒性も発ガン性も、ともにきわめて高い化学物質だと考えられていることが示されています。
 先ほどの『神話の終焉』には、ダイオキシンは天然物であり、20世紀に入ってからのダイオキシン汚染は、恐竜時代の2倍になっただけだとされています。
 そもそも天然物とは何か、と著者は問題にします。天然物というのは広辞苑にものっていない言葉であり、きわめてあいまいな概念なのです。では、恐竜時代との比較のほうはどうか。これについても、ナンセンスな論法だと弾劾しています。
 つまり、ダイオキシンは、石炭を燃やしてもそれほど出ないが、一般ゴミを燃やすと予想以上に発生するもの。そして、焼却してできる四塩化、五塩化の低塩素化ダイオキシンは、大気中を移動する際に太陽の紫外線によって容易に分解されて八塩化ダイオキシンを主成分とする高塩化ダイオキシンに変化してしまう。
 最近、ウクライナの大統領候補だったユーシェンコ氏のダイオキシンによる殺人未遂事件が起きた。これによって、ダイオキシンとは耳かきの先に目でかすかに見える程度の微量で、人に重症の症状を引きおこし、運が悪ければ死ぬ可能性もある毒物であることが改めて証明された。
 『神話の終焉』の中に、あたかも絶対的に正しいかのように引用したデータでさえも、絶対的なものではない。たとえば、サリンとダイオキシンの毒性を比較すると、ラットに経口的に投与したときの半数致死量をみると、体重1キロあたり、サリンは550マイクログラム、ダイオキシンは20〜60マイクログラム。つまり、急性毒性はダイオキシンのほうがサリンよりも9〜28倍も高い。
 未使用のPCBの毒性は、それほど高くはない。使用したあとのPCBには、何が含まれているか分からないし、未使用のものより、かなり危険と考えられる。PCBについて、国際ガン研究機関は人の発ガン性物質と認定している。急性の致死毒性はそれほどでなくても、ガンの発症やその他の健康影響が危惧される。
 中西準子氏は、環境ホルモン問題は終わったと考えているが、これは大変な間違いだと著者は強調しています。環境ホルモン問題は、複雑ではあるが、人の健康や生態系にとって、決して看過できない重大な問題なのだ。
 私は、この本を読んで、ダイオキシンの有毒性について、何ら問題がないと決めつけるのはやはり間違いだと思いました。多くの人にぜひ読んでほしいと願います。
 今年、私が読んだ単行本は今の時点で500冊を超えています。この書評を書くため机の上に置いている本だけでも30冊ほどあります。書評を書くにはどうしても一冊に1時間近くかかりますので、たまってしまうのです。なんとか新年も書き続けていきたいと考えていますので、どうぞ引き続きご愛読ください。先日お願いしたメッセージが長崎の福田浩久弁護士お一人だったのは残念でした。福田先生、ありがとうございます。勝手にお願いしておいて、こんなことを言うのも失礼かとは思いますが、いったいどれだけの人に読まれているのか、たまには反応も知りたい気持ちがあるというのも正直なところなのです。
(2007年10月刊。1800円+税)

広開土王碑との対話

カテゴリー:日本史(古代史)

著者:武田幸男、出版社:白帝社
 高句麗の「広開土王碑」は、日本でもよく知られた存在です。
 広開大王といいますが、本名は談徳で、生前は永楽太王と称し、広開土境好太王とか、いろいろな名前で呼ばれる。
 著者は、この広開土王碑を現地で3度も見たそうです。1984年、1985年、  1997年です。私も一度、現地で見たいとは思いますが、恐らく無理でしょうね。
 1913年初冬に撮られた広開土王碑の写真が紹介されています。広い大平原が雪に覆われ、民家のそばに碑がむき出しのまま、ポツンと建っています。
 広開土王碑は、高句麗の広開大王(在位391〜412年)の事績を後世に示すため、山陸に埋葬した414年に中国の吉林省集安市の小丘の上に立てた石碑。高さ6.39メートル、重さ30トンの不正形柱状の自然石。
 1905年、1913年、1918年、1935年、1985年、2004年にとられた6枚の石碑の写真が紹介されています。今は、建物内にきちんと保存されているようですが、長く風雪にさらされていたことが分かります。
 この碑文の拓本が古くから出まわっていましたが、実は、石灰拓本でした。ニカワと水で練った石灰泥で崩れた字画を整え、明晰な碑字に手直しして拓出したものです。
 つまり、碑面や碑字をそのまま拓出した墨本ではない。したがって、一次資料ではない。それを無視して、一次資料と広く扱われてきた。
 現在、肝心の碑面は永久に復元不可能の部分があり、多くの碑字は今なお釈文不能である。王碑の完全完璧な釈文は望めない。しかし、先人の英知と努力を継承して、ほぼ8割が釈文され、推釈可能なものを加えたら9割近い。
 著者は広開土王碑が発見されたのは1880年のことで、それは当時の中国の懐仁県知県(知事)によるものだとしています。
 そして、日本陸軍参謀本部につとめる酒匂景信(さかわかげあき)陸軍少尉が1883年に「拓本」(墨本)を取得して日本へ帰って、広めた。
 碑面を目にした著者は、波うつような凹凸の碑面、碑面に穿たれた数えきれないほどの傷痕に驚いています。満身創痍の王碑なのです。なぜか?
 1600年間にこうむった風化作用の結果が第一。自然石は、比較的軟弱な角礫凝灰岩である。拓本の作成者たちは、たえず碑面に石灰を塗り、石灰で補修をつづけてきた。
 しかも、1880年に発見された碑石の拓本をとるため、からみついていた苔蘇に火をかけて除去した。碑石が埋もれていたとか、水難にあったというのは考えられないが、たしかに火難にはあっているというのが著者の考えです。
 1913年に碑石を実見した中野政一陸軍少佐は、拓匠が碑面の凹所に石灰を塗りこみ、字を刻って石摺りするのを見て憤慨しました。
 つまり、拓本作製者は、「碑文抄本」にしたがい、あれこれの碑字を確かめながら、碑面に石灰をぬって石灰整形をほどこしていたのです。継続して大量の石灰が塗布され、激しい風化や罹災等で損傷し、荒みきった碑面を平らに調整しつづけた。
 実は、広開土王碑については李進熙氏による日本軍が石灰で加工し、偽造したものだという説が1972年から唱導されており、私もそれを読んで、大いに動揺したものでした。
 著者は、日本軍部による偽造説をまったく根拠がないと排斥しています。
 私も、この本を読んで、なるほどと思いました。というのは、碑文の読み方が、これまで、まさにてんでんばらばらだったからです。たとえば、於と自、山と岡、黄と履、負と首・頁、土と上、碑と稗、永と衣・木・不というように、同じ字について見解が分かれ、あるいはいくつもの読み方が充てられているのです。
 この碑文が日本で有名なのは、倭が登場するからです。辛卯年(391年)に、高句麗と倭のほか、百済(百残)と新羅の両国が再出し、かつて高句麗が両国を属民・朝貢関係においたこと、わけても倭がその只中に登場して、両国を臣民にしたことが読みとれるからです。つまり、大和朝廷が日本全土を統一して、朝鮮半島まで進出していたと解するわけです。そこで、それは日本軍部が偽造したという説が出てくるのです。
 李進熙氏は意識的なすり替えを主張したが、では本来の碑字が何であったのか明らかにしない。本字があっての「すり替え」偽造のはずなのに、その本字を明らかにしないのはおかしい。著者は李氏を、このように厳しく批判しています。
 ただし、この倭とは何者なのかについて著者はこの本ではふれていません。倭を大和朝廷を中心とする日本のことと考えることはできないというのが今日の学者の多くの考えだと思いますが、いかがでしょうか。朝鮮半島と日本(とくに九州)とにまたがって勢力をふるっていた人々を倭と呼んだという考えです。
 いずれにしても大変勉強になる貴重な本で、広開土王碑についての認識を深めました。
(2007年10月刊。1800円+税)

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