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2007年9月 の投稿

左手の証明

カテゴリー:司法

著者:小澤 実、出版社:Nanaブックス
 周防正行監督の映画『それでもボクはやってない』は、とてもいい映画でした。残念なことに、『Shall wee danse?』ほどの観客動員はできませんでした。日本人の社会意識って、まだまだ遅れているところがありますよね。毎度毎夜のバカバカしいテレビ番組(私はテレビ自体を見ていませんが・・・)を見るヒマがあったら、こんな映画こそ見て、いったい日本国民の基本的人権はどうやったら守られるのか、心配してほしいと思います。ホント、です。
 私は大学1年生のとき、岩波新書『誤った裁判』を読んで愕然としたことを今もはっきり覚えています。ええーっ、日本の裁判官って、信用できないのか、そう思ったとき、背筋が冷たくなる気がしました。そのときには自分が弁護士になるなんて夢にも思っていませんでしたので、いったい、冤罪にまき込まれたとき、どうやったら自分の身を守れるのだろうかと、心底から心配しました。
 この本は、2006年3月8日に、東京高裁で逆転無罪となった満員電車内のチカン冤罪を扱っています。女子高校生がチカン被害にあったこと自体は事実のようです。しかし、真犯人は別にいて、被告人とされた人は間違われただけだということです。
 女子高校生のスカートのなかに男が左手をさしこみ、下着の中にまで手を入れて触ったという事件です。ところが、被告人とされた男性は左手に、でっかいスポーツ腕時計をはめていたのです。下着の中に左手を入れたら、すぐにひっかかるか、何か不都合が起きたでしょう。写真を見たら一見して、そう思えます。
 しかし、警察の捜査段階では、そのことが何も問題になっていません。弁護側は、一審でも、当然、そのことを大きな問題と指摘し、弁論しました。ところが、岡田雄一裁判官は懲役1年6ヶ月、執行猶予3年の有罪判決を下しました。
 女子高生の下着は長く使用していたため、腰のところのゴムが多少緩くなっていた。左手首に時計をはめた状態で女子高生の下着の中に左手を入れることは想定困難な行為であるとは考えられない。このように判断したのです。ところが、肝心の女子高生の下着は、証拠として提出されておらず、その形が客観的に明らかにされていないのです。岡田雄一裁判官は証拠にもとづかず、ひとり勝手に想像して、被告人を有罪としたわけです。思いこみというのは恐ろしいものです。プロにまかせていれば裁判は安心、というものでは決してありません。
 いずれにしても、有罪判決が出てしまいました。こんな不当判決でも高裁でひっくり返すのは大変です。そこで、弁護団は、控訴審の第一回公判のとき、被告人と3人の弁護人が法廷内で電車内の位置関係を再現するパフォーマンスを敢行しました。すごいですね。私も、今度やってみようと思います。
 そして、改めて電車内の再現実験をして、ビデオにとって証拠申請しました。検察官が不同意としたので、ビデオは上映できません。そこで、ビデオをとった責任者である弁護士が証言台に立ちました。その結果、裁判所は再現ビデオを証拠として採用したのです。うーん、すごーい。粘り勝ちですね。しかも、高裁は、改めて被害者の女子高生を職権で尋問しました。
 事件発生・逮捕が2003年10月22日。保釈が認められたのが3ヶ月たった(106日)の翌年2月4日。一審有罪判決は、さらに翌年の1月21日。そして、高裁での逆転無罪判決は、事件発生・逮捕から868日の3月8日のことでした。実に2年半近くもたっています。その間、奥さんの自殺未遂などもありました。本当に大変だったと思います。控訴審判決には、次のような指摘があります。
 警察官(戸塚警察署)が杜撰ともいえる犯行の再現実験などで、強引なまでに被告人の弁解を封じて、一顧だにしない態度をとったために、被害者は次第に被告人が犯人だと確信するようになってしまった。被告人と被害者との言い分を当初から冷静に吟味すれば、あるいは本件は起訴には至らなかった事案ではないかと考えられる。この種の事案を、たかが痴漢事件として扱うのではなく、当然のことながら慎重な上にも慎重を期した捜査を経たうえでの起訴が必要である。
 刑事被告人として逮捕・勾留・起訴されることの重さを、警察に、そして、裁判官にもっと考えてほしいと思わせる本でした。
 朝、澄み切った青空の下、わが家の庭に何十匹もの赤トンボが群れ飛んでいました。折から昇ってきた朝の太陽に照らされ、眩しいばかりに光り輝く赤トンボの乱舞に、生命の躍動を感じました。背の高い、黄色い小さな花をたくさんつけたヒマワリ畑と、ピンクの大輪の花の芙蓉の花のあいだを、たくさんの赤トンボが行ったり来たりしているのです。エサを取っている気配もありません。朝の運動なのでしょうか。いったい、どこから小川のほとりにあるわけでもないわが家に集まってきたのか、不思議でなりません。
 秋らしい日々となりました。近くの小学校では子どもたちが運動会の練習に励んでいました。子どものころのリレー競争をつい思い出してしまいました。自分では速いつもりでいたのに、追い抜かれて悔しい思いをしたこともついつい思い出してしまいました。
(2007年6月刊。1500円+税)

第百一師団団長日誌

カテゴリー:日本史(戦後)

著者:古川隆久、出版社:中央公論新社
 伊東政喜中将の日中戦争というサブ・タイトルがついています。数少ない師団長クラスの日誌が物語る戦場の現実、オビに書かれているとおりでしょう。
 遺族の提供によって東京を母体とする特設師団(101師団)の実情がさらに解明されたわけです。素人ながら、その意義は大きいと思いました。
 盧溝橋(ろこうきょう)事件が勃発したのは70年前の1937年(昭和12年)7月7日のこと。日中戦争が始まった。その4年後には太平洋戦争へと拡大していく。
 日中戦争初期の1937年8月から1938年9月にかけて、第101師団長であった伊東政喜(まさよし)陸軍中将の日誌を解読し、中国側の資料もふまえて丁寧な解説がついています。素人にも大変わかりやすい内容の本です。
 第101師団は、いわゆる特設師団であり、予備、後備役の召集兵、つまり現役兵としての勤務を終えて社会に戻り、その中堅層として活躍していた人々で編成された部隊である。首都東京を根拠地とする部隊であるうえ、激戦地に投入されたため、多くの美談や武勇伝を生み、人々に広く知られた。
 伊東日誌はA5版のノート6冊から成る。伊東は、1881年(明治14年)に、大分市に生まれた。大分中学から陸軍幼年学校へすすんだ。そして陸軍士官学校を1902年に卒業し、砲兵少尉に任官した。さらに陸軍大学校に進学した。陸大は、30歳以下の少尉や中尉のなかから上官の推薦を受けた者が受験できる学校で、作戦をたてる役目をもつ参謀将校の養成を目的とした。師団長・軍司令官、陸軍中央の要職といった陸軍の高官は、陸大を卒業していないと、まずなれない。
 中国に駐屯する日本陸軍の傍若無人のふるまいが日中戦争を引き起こした。その背景には徹底した中国蔑視があった。それがまかり通った原因として、日本の軍隊が政府の指揮下になく、独自の組織となっていた(統帥権の独立)こととあわせて、日本社会に中国蔑視が蔓延していたことがあった。日本の陸軍や一般の人々は、中国軍の実力はたいしたことはなく、本気を出せばすぐに降参するだろうと高をくくっていた。ところが中国軍は、かねてドイツ軍から顧問を招いて上海地区に強固な陣地を構築し、精鋭部隊を配置していた。伊東師団長の率いる第101師団は、このような状況のなかで上海へ出征していった。
 特設師団は常設師団よりも兵器の配備の点でも格段の差別を受けた。旧式兵器であり、機関銃以上の火力は、せいぜい半分程度だった。携行する砲弾も常設師団の3分の1でしかなかった。
 第101師団が東京を出発するときには、楽観的かつ熱狂的な雰囲気の中で戦地に向けて出発していった。日誌には次のように書かれています。
 特設師団は編成素質不良にして、かつ、訓練の時間なく、しかも、もっとも堅固な敵正面の攻撃にあてられ、参戦以来3週間、昼夜連続の戦闘をなし、相当の死傷者を出した。
 幹部の死傷が多いのは、近接戦闘において自ら先頭に立つによる。そうしないと兵が従わないからだ。こんな涙ぐましい美談が少なくない。
 この「美談」は、そのままでは内地で報道することができませんでした。それはそうでしょうね。兵隊の士気がないことが明らかになってしまうからですね。
 東京で、第101師団について、不名誉な噂が広まり、伊東師団長はやきもきさせられました。第101師団は杭州攻略戦に参加したため、南京事件にかかわらずにすんでいます。南京大虐殺事件について、著者はあったことを否定できないとしています。私も、そう思います。このころ、日本軍の軍紀(綱紀)が相当ゆるんでいたことを、伊東師団長も再三、日誌のなかで嘆いています。
 ところで、このころ、日本は軍需景気に沸いていたということを私は初めて認識しました。そうなんです。戦争は、一部の人間にとっては、もうかり、楽をさせるものなのです。このころ、正月の映画興行がにぎわい、国内観光旅行客が急増しました。出版業界もバブルという好況になりました。
 軍需産業の繁栄と、日本が中国に負けるはずはないという思いこみによる将来への楽観視が、中国大陸の戦場の苛酷さとうらはらに、戦後1980年代日本のバブル景気を思わせる雰囲気を、この時代の日本はもっていた。読売新聞は、東京で一日3回発行していた。
 慰安所設置のことにも日誌はふれています。陸軍当局の方針として慰安所が設立され、運用されていたことは歴史的事実なのです。
 また、第101師団が、日中戦争で毒ガスをつかっていることも判明します。青剤(ホスゲン)や茶剤(青酸)のようなガスで直接的に多数の死者を出すものではなく、赤剤つまり、くしゃみ、嘔吐剤であり、戦力・戦意の一時的な喪失を狙ったものでした。
 なぜ、日中戦争で特設師団が勝つよう(多用)されたかについて、ちょうど同じ時期の日本を分析した岩波新書『満州事変から日中戦争』(加藤陽子。2007年6月刊。780円+税)には、次のように説明されています。
 日本軍の陣容を眺めると、特設師団(番号が三桁の師団や、軍縮で廃止された師団番号をつかって編成された師団)が含まれていることから分かるように、参謀本部は、ソ連の動向を考慮するあまり、現役兵率の高い精鋭部隊を上海・南京戦に投入しなかった。つまり、陸軍はあくまで北(ソ連)を向いていたのである。
 この日誌を読んで、当時の日本軍の状況が師団長レベルの考えから、よくとらえることができました。ちなみに、600頁もの大部の本です。読み終わったあと、つい昼寝の枕にしてしまいました。ちょうどいい高さなのです。井上ひさしの『吉里吉里国』を読んだときを思い出しました。
(2007年6月刊。4200円+税)

先生とわたし

カテゴリー:社会

著者:四方田犬彦、出版社:新潮社
 恩師を賛美する美しいエピソードにみちた本だろうと思いながら、期待もせずにパラパラと頁をめくりはじめました。すると、そこに展開するのは、後世、畏るべし、とでもいうような、師が秀でた弟子に長く接することが、いかに難しいかというテーマでした。私も、世間的にはベテラン弁護士と目されるようになっていますが、その内実は、法解釈もよく分からず、新しい法理論を咀嚼するなんて、とてもとてもといった有り様です。債務不履行、履行遅滞、不完全履行、履行不能、瑕疵、瑕疵修補に代わる損害賠償・・・。いったい、どう違うのやら、とんと忘れてしまいました。そんなときには若手弁護士に教えてもらうしかありません。所内で恥をかいてしまえば、外で恥をかかなくてすみます。
 師とは、由良君美(ゆらきみよし)東大名誉教授。英文学者です。1990年に、61歳という若さで亡くなりました。
 著者は私より5年あとに東大駒場に入学しました。浅間山荘で連合赤軍が警官隊と派手な銃撃戦を展開し、その逮捕後に、いくつものリンチ殺人事件が明るみに出た年の4月でした。
 著者が大学にいた4年間は、常に内ゲバが身近にあった。異なるセクト同士、たいてい革マル派と解放派か中核派との抗争です、で殺しあっていました。
 由良君美は駒場の英文学の助教授。東大出身ではなく、慶応大学出身。
 由良ゼミは、90分の公式的なゼミが終わると、一研にある個人研究室で続けられた。紅茶にたっぷりのオールド・パーを入れて由良は飲んだ。ちなみに、私も少し甘みのある紅茶にブランデーを入れて飲むのが好きです。
 学生に由良は次のように訊き、次のように言った。
 ところで、最近の収穫は何かね?何か新しい発見があったかね?いいかい、どんなに疲れて帰宅したときも、洋書の目次だけはキチンと目を通しておかなければいけないよ。
 ええーっ、うそでしょ、そんなー・・・。
 イギリス風に優雅に背広を着こなし、パイプを手離さない由良は、駒場の学生からベストドレッサーに選ばれた。女子学生に圧倒的な人気があった。
 君美とは、実は新井白石の幼名である。父親の由良哲次は、京都大学で西田幾太郎の教えを受けた哲学者である。
 教師とは、単に、みずから携えている知識や技術を他人に手渡すだけの存在ではない。知の媒介者であるか、先行者として振るまうことを余儀なくされる。みずから知の範例を示すことを通して教育という行為を実践する。そして、師とは過ちを犯しやすいものである。
 著者は自問する。はたして自分は現在に至るまで、由良君美のように真剣に弟子にむかって語りかけたことがあっただろうか。弟子に強い嫉妬と競争心を抱くまでに、自分の全存在を賭けた講義を続け、ために自分が傷つき過ちを犯すことを恐れないという決意を抱いていただろうか。
 英文学者として高名だった由良君美が、実は、あまり英語は得意ではなかったという衝撃的な事実が語られています。うむむ、どういうことなんだ・・・。
 流暢な英語を駆使するものの、他人を押しのけてまで内容空疎な質問しかない輩が存在する。その反対に、深い思慮と経歴をもちながら、英語をしゃべるのに慣れていないということでつい発言をためらう人がいる。日本だけでなく、イタリアにも中国にもいる。よく読み、よく思考する者が弁論の場でしばしば消極的だということがある。外国語の会話能力は、つまるところ、その言語のなかの生活時間の長さに比例する問題にすぎないのだ。
 およそ世界に対して無上の知的好奇心を抱いている限り、若き日に一度は、師と呼ぶべき人物に出会うはずだ。由良君美は、著者にとってそのような人物であった。
 私にとって、それはセツルメント・サークルでの先輩たちでした。私は必死で彼らの語る言葉をノートにとったものです。社会に大きく目を開かせてくれた彼らに今でも感謝しています。
(2007年6月刊。1500円+税)

団塊世代の同時代史

カテゴリー:社会

著者:天沼 香、出版社:吉川弘文館
 団塊の世代という言葉を造り出したのは堺屋太一です。1950年生まれの著者は、このネーミングを嫌っています。私自身は、それほど悪い言葉ではないと思って使っていますが、この本によって団塊世代って、まるで極悪人集団であるかのように言われているのを知って、イヤーな気分になりました。団塊世代をそんなに人非人(にんぴにん)みたいに言うなよな、おい、っていう感じです。まあしかし、歴史用語として、すっかり定着してしまった団塊世代です。私はこれからも使っていくつもりです。
 「現代用語の基礎知識」(2006年版。インターネットにおされて売れないため、廃刊になるそうです)には、「彼らは一見、新時代の創造者のようにみえるが、実は時代の破壊者だった。全共闘をつくって学生運動に事実上の終止符を打ち・・・」とあるそうです。いやあ、ひどい定義です。でたらめもいいとこ、でしょう。時代の破壊者だというレッテルを貼って悪者にするなんて、やめてほしいですよ。それに一部の人たちが全共闘をつくったのは間違いありませんが、学生運動の全盛期は、もう少し続いていたと思います。「事実上の終止符を打ち」というのは、いったい何を指しているんでしょうかね。連合赤軍事件のことなら、あれは学生運動とちょっと別のものだと私は思いますけど、どうなんでしょうか・・・。
 宮台真司准教授(首都大学東京)は、団塊世代について、次のように罵倒しているとのこと。信じられません。
 「団塊世代は、いまだに日の丸に一体化する輩が右で、赤色旗に一体化する輩が左だ、といった稚拙な認識のまま。右も左も、国家だ、党だ、と大いなるものに寄りすがる腰抜けばかり。既成図式に寄りかかって思考停止に陥る輩しかいない。利他のフリをしたエゴイスト・・・」
 ええ、腰抜けで悪うございますよ。なんとでも言いなさい。
 市川孝一・文教大学教授は、次のように言う。
 「団塊世代は、別名、全共闘世代とも呼ばれ、その後、成長する過程の節々で何かと問題を引き起こすことになる世代でもある」
 いったい、我々が、節々で、どんな問題を起こして世間様にご迷惑をおかけしたというんでありゃんすかねえ。とんと見当もつきません。
 団塊世代の名付け親である堺屋太一は、団塊世代は従順なのが特徴だと決めつける。
 「親や兄姉たちがつくった戦後のコンセプトに対して非常に忠実で、疑問も持たない。団塊の兄姉たちは安保騒動のときに、岸内閣を倒せと叫んで体制変更の議論をした。団塊の学園紛争では、学園のここが悪いとかで、佐藤内閣を倒せと言ったやつはいない。全体の大きな体制に対しては極めて従順な世代。みんなが塊として行動した」
 とんでもない事実誤認ですよ、これって。でも、まあ、会社人間と化した団塊世代が今の世の中の動きに対して、もっと怒るべきなのに沈黙を守っているというのは少々あたっているのかもしれません。そして、著者は次のように言います。
 団塊世代の多くは、真面目に、それなりの責任感をもって、地道に、バブルの恩恵などに浴することもなく、平凡な後半生を送った。「食い逃げ」などという、さもしい行為は、したくてもできなかったのが大多数の団塊世代だった。
 うんうん、この指摘はあたっていると私も思います。
 そして、いま、団塊世代は三つのWがあたっている。割のあわない、分かってもらえない、侘びしい世代である。これは、私の属する団塊男性の一部にものの見事にあてはまる呼称だ。
 いやあ、まいりました。私は、この三つのWから抜け出すべく、この書評を毎日せっせと書いているわけです。なにしろこれからが人生の華なんですからね。精一杯、楽しみたいと思います。
 それにしても、団塊世代の体験した大学闘争を詳細に再現した神水理一郎『清冽の炎』(第1〜3巻。花伝社)が、ちっとも売れないそうです。あのころのことは思い出したくないという団塊世代が、実は、想像以上に多いということが判明しました。まだまだ、あのころのことが心の奥深くでトラウマになり、封印されているようです。もっと、その封印を解き放って、おおらかに生きていきたいものだと思います。みなさん、ぜひ『清冽の炎』を買ってやってください。本屋で注文したら、すぐ入手できますので・・・。
(2007年9月刊。1700円+税)

悪人

カテゴリー:社会

著者:吉田修一、出版社:朝日新聞社
 佐賀県内で実際に起きた殺人事件をモデルとする小説です。現代日本社会のドロドロとした内情がよく描かれていますが、読んでいるうちに、だんだん気が滅入ってきました。
 この本は久留米の富永孝太朗弁護士のおすすめで読みました。
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 親に愛されないまま、少なくとも愛されたという実感のないまま育った子どもたちが大勢います。彼らにも愛を求める権利があります。その衝動を抑えることはできません。
 寂しい思いを胸にぐっと秘めたまま一日一日を過ごしている男女が何と多いことか。この本を読みながら、私は毎日の弁護士としての生活を思い出していました。
 自己破産の申立を決意して生活を必死で立て直そうとしている人たちを励ますのが、私の毎日の仕事です。ホント、大変なんです。50代そして60代になると、ろくな仕事はありません。求人がないのです。離婚して独身生活の人も多く、男性だと食事は毎食コンビニ弁当という人が珍しくありません。ホント、食うや食わず、そして、食生活が偏ってしまいます。一家団らんという言葉とは縁遠い生活です。うつ病など、精神的な病いをふくめて、病気もちの人も多いですね。癌を三つも四つもかかえている。そんな人が何人も依頼者のなかにいます。
 そんな寂しい人々が、見知らぬ人からであっても、ちょっとした優しい言葉をかけられたとき、無防備のまま尾いて行ったとして、誰がそれを責めることができるでしょうか。
 結果を見て、犯人を厳罰に処せ、と叫ぶのは簡単です。日本もアメリカのように重罰化の方向へひた走っています。おかげで、刑務所は全国どこでも超満員。だから、経費削減、安上がり方策として、刑務所の民営化もついに始まりました。もっと社会が全体として弱者に優しくしなければ、ますます犯罪は増え、おちおち夜道は危なくて歩けない、といったアメリカのようになってしまいます。
 先日、博多でマイケル・ムーア監督の最新作の映画『シッコ』をみました。アメリカって、お金持ちには世界最高水準の医療を至れり尽くせりです。でも、貧乏人は医療保険もなく、高い病院代が支払えないと、入院先の病院から追い出され、文字どおり路上に放り出されるという悲惨な、信じがたい現実があります。アメリカのような日本になってはいけません。ところで、この映画では、同時に、カナダやフランスそしてイギリスまでも、医療費がタダで、市民は安心して診てもらえるということも紹介しています。そうなんです。同じ資本主義国家といっても、アメリカが異常なんです。日本はその異常なアメリカばかりを手本として、医療費の自己負担率を引き上げ、さらに保険会社にガッポガッポともうけさせようとしているのです。とんでもないことですよね。
 日本社会の現実を、小説を読みながら、いろいろ考えさせられました。
(2007年4月刊。1800円+税)

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