著者:ノエ・リュークマン、出版社:河出書房新社
書き出しの何ページかを仔細に読めば、全体の見当がつく。1ページ目にとんちんかんな会話があれば、その先、どの頁にもきっととんちんかんな会話があると思っていい。
書き出しの5ページをお粗末と思ったら、念のため中ほどへ飛び、さらに巻末を見る。都合3ヶ所を拾い読む。これで原稿は評価できる。
なーるほど、たしかにそうでしょう。といっても、私の文章については、ぜひ最後まで読んでください。お願いします。
文章家として高度の水準を達成するために何にもまして重要なのは自信である。正面から創造の世界へ足を踏み入れる揺るぎない自信がなくては物書きはつとまらない。
いやあ、そう言われてもですねー・・・。私には、自信なんて、ありませんよ・・・。うーん、困りました。
もちこまれた原稿を没にするのにもっとも手っ取り早い方法は、形容詞と副詞の多用、誤用を洗い出すこと。
形容詞や副詞を多用する書き手は、ともすれば表現が月並みである。
形容詞や副詞に重複があると、一つだけ残してほかは削る。そのとき、もっとも印象の強い、新鮮な語彙を活かすようにする。
修飾語なんか必要としないだけの迫力がある的確な名詞や動詞をつかいたい。推敲にあたっては、単語ひとつ削れば100ドルの得と思うくらいの気構えが必要である。
物書きのたしなみとして、語彙は豊富であるべきである。
言葉は物書きの道具である。言葉に精通していない物書きは道具箱に利器をもたない職人に等しい。語彙を増やすのは物書きのつとめと心得なければならない。
実は、ここで操觚(そうこ)という漢語がつかってありました。私の知らないコトバです。岩波の国語辞典にのっているはずはない。そう思って引いてみると、なんと、あるのです。無知とは恐ろしいものです。変な自信があったのですが、バッサリ切られてしまいました。詩や文章をつくること、とあります。
ただし、著者は次のように忠告します。新しい語彙を取り入れるのは大いに結構だ。だけど、それを日常会話や習作でしっかり身につけるのが肝腎であり、覚えたばかりの言葉を右から左へ作品につかうのは考え物だ。日頃つかい慣れない借り物のコトバで文章を書くべきではない。板についていない言葉は、たちまちメッキが剥げる。
偽らざるところ、原稿を没にするにあたって、まずどこを見るかと言えば、会話である。会話は作者の力量を容赦なくあぶり出す。会話は感性の鏡である。
会話を情報提供の手段として用いると、登場人物の輪郭があいまいになり、人間関係の起伏、陰翳を損なって、ときには作者自身さえ虚をつかれる人物の成長や、物語の意想外な発展を妨げる。
会話を情報手段に用いる作家は、えてして筋立て優先で、それ以外には神経が行き届かない。
会話が現在進行中の出来事を伝えるときは、「語る」のではなく、「見せる」ことが鉄則だ。登場人物に感情移入し、その立場で考えることが肝腎だ。人物は作者の創造だが、ひとたび動き出した人物を、作者は放任しなくてはならない。
うむむ、そうなんですよね。私もいま体験をもとにした小説を書いていますが、ひとたび創り上げた登場人物は、ペンの思うまま走り出していって、作者といえども止めることができないというのを何度も実感しています。
作家は、すべからく会話のほかに感情や心理を伝える技法を身につけるべきである。そうなんです。実は、これが難しいんです。
原稿とは、実に複雑怪奇で油断のならない曲者である。読者に多少の努力を強いることは必要だが、その努力が重荷になってはいけない。読者がページを繰り続けるようでなくてはならないが、気忙しく追い立てるのも好ましくはない。
うへーん、やっぱりプロになるのは難しそうです・・・。
(2007年6月刊。1890円)
プロになるための文章術
