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2007年8月 の投稿

マングローブ

カテゴリー:社会

著者:西岡研介、出版社:講談社
 驚くべき事実を紹介した本です。あの東京・山手線がテロリスト集団に完全に牛耳られていて、警察はそれを知っているのに何も手を出さず、マスコミはタブー視して事実を報道せず批判することもないというのです。日本を裏で支配しているのはヤクザ(暴力団)かと思っていましたが、もう一つの暴力集団がいたのですね。ショッキングな事実でした。
 しかも、その暴力集団の親分たち(ファミリー)は、ハワイや日本各地に豪邸をかまえていて、優雅な生活を送っているというのです。読んでいるうちに本当に腹が立ってきました。
 「革マル派」と大書きした横断幕を久しぶりに見たのは、この5月、博多駅近くのホテル前のことでした。このとき、ホテルで国民投票法案をめぐる公聴会があり、私も弁護士会の一員として傍聴に出かけたのです。20人ほどのヘルメットをかぶった必ずしも若くない男女がいて、シュプレヒコールを叫んでいました。ええーっ、まだ福岡にもいたのか、革マル派って・・・、と思いました。私の大学生のころは、たしかによく見かけました。中核派などと残虐な殺しあいをくり返していて、まさしく恐ろしいテロリスト集団でした。
 革マル派の最高指導者は、昔も今も松崎明、71歳。自宅としている埼玉県小川町のマンションに住民票はおいているものの、対立セクトや警察に居場所を知られないよう、 25年以上ものあいだ、その所在地を転々とさせてきた。警察当局も松崎明の居場所をつかむのは難しかった。ところが、この松崎明はハワイに高級コンドミニアム(マンション)や邸宅をかまえていた。
 ハワイにある松崎明の所有する高級コンドミニアムは、300平方メートル。浴室が2つ、寝室は3つある。2004年4月に3780万円(31万5000ドル)で購入した。もうひとつ、庭付きの一戸建て住宅も所有した。930平方メートルのうち800平方メートルが庭。浴室は2つ、寝室は3つある。1990年に2360万円で購入した。  2005年に売却している。
 群馬県嬬恋村には高級別荘が点在する。ここに松崎明らのようなJR東日本労組のトップ連中が数多く別荘をもっている。
 革マル派には、今も、全国に5400人のメンバーがいる。JRには、トラジャとマングローブという名前の2つの秘密組織がある。これらが、JR東日本を、トップの経営陣から現場の社員に至るまで、全員をマインドコントロールしている。
 トラジャは、動労の革マル派が、組合活動家を抜擢し、革マル派本体に送りこみ、職業革命家としての訓練を受けさせたグループ。JR革マル派のトップ組織で、マングローブの指導などにあたる。
 マングローブは、分割民営化後のJR各社の労働組合における革マル派の組織防衛と拡大を目的にJR革マル派内部でつくられた組織である。
 革マル派がJR東日本を支配するようになったのは、国鉄改革から。改革3人組は、国労とたたかうために、国労の敵である松崎明のひきいる動労と手を組んだ。
 JR東労組の組合費は年に9万2400円。JR西労組より年に3万円も組合費が高い。
 革マル派の内ゲバは、決して30年前とか40年前のことではない。1980年9月から1995年11月まで、死亡者7人、重傷者7人という大変な被害者を出している。そして、驚いたことに、JR東日本の経営陣は、内ゲバで死亡した革マル派活動家の葬儀を労組と合同で行った。このとき、JR東日本の住田社長本人が参列して弔辞を読みあげたというのですから、開いた口がふさがりません。
 JR東日本の最高幹部が革マル派の排除に乗り出そうとすると、革マル派から警告があった。自宅のプロパンガスの周囲に大量のマッチがばらまかれる。幼い孫がさらわれて幹線道路の中央分離帯に置き去りにされたりした。恐ろしいことです。
 革マル派の活動家は、自党派の活動家としか結婚しない。そして、子どもは革命の妨げとなるとして、ほとんど子どもをつくらない。ところが、松崎明には、子どもどころか、孫までいる。
 革マル派は盗聴集団でもある。警察の摘発した浦安アジトでは、警察無線を傍受するため、市販のものを改造した無線機12台、デジタル無線にかけられた暗号解読・再生機が11台、解読された無線内容を記録する録音機20台があり、6人の女性活動家がデジタル無線を傍受していた。警察庁など、20都道府県の警察無線を24時間態勢で傍受していた。
 JR東日本の革マル派問題はマスコミではタブーになっている。JR東日本はキヨスクという販売の流通網を握っている。これはマスコミにとって、大切な収入源である。
 そして、革マル派は、その顧問に元警察庁の幹部をひきいれた。JR東日本の初代監査役である柴田義憲は警視庁公安部長、副総監になり、警察庁警備局長になった超大物警察キャリアである。それがJR東日本に入ったとたん、警察から革マル派を守るガードマンになり下がってしまった。そして、警察時代に育てた部下たちをJR東日本に招き入れた。
 ウムム・・・、いったい何事をしているのか?そのお金は本当は組合費として徴収されたものが流用されているのではないか・・・。ショッキングな事実が満載の本でした。
(2007年6月刊。1680円)

星新一

カテゴリー:社会

著者:最相葉月、出版社:新潮社
 星新一のショート・ショートは私の愛読書のひとつでした。子どもたちが学校で学ぶ国語の教科書にもたくさん引用されているそうですが、とてもいいことだと思います。
 その斬新な発想に、いつもハッと居ずまいをただされる思いがしていました。この本は、その星新一の生涯をたどったノンフィクションです。
 星新一は本名を星親一といいます。昭和20年4月、東京帝大農学部に入学しました。専攻は農芸化学、研究テーマはペニシリンでした。星新一の父親は星一といい、星製薬の社長でした。昭和26年、アメリカのロサンゼルスで急逝し、星新一が星製薬を引き継ぐのですが、結局、すべてがうまくいきませんでした。
 星新一の小説はユーモアというか、ブラックユーモアにみちみちています。しかし、家庭内では、子どもたちに冗談を言って笑っている姿を一度も見せたことがないといいます。
 星一と星新一との空の星をめぐる対話が次のように紹介されています。面白いですね。
 「空の星は、どんなに遠くにあっても、そっちに目を向ければ、すぐに実物を見ることができる」
 「それは違うよ。光の速さは1秒に30万キロメートル。だから、今みている星も、10年前、100年前の姿なんだ」
 「なるほど、見る場合はそうかもしれん。しかし、考える場合はどうだ。いま地球のことを考えている。次に遠い星のことを考える。これには何の時間も要しない。だから、人間の思考は光より速いということになるぞ」
 根底から発想を転換することによって固定観念を覆し、新たな地平に目を向ける。目を白黒させた星新一は、このときの父親の言葉を生涯忘れることはなかった。
 私は高校生のとき、『SFマガジン』を愛読していました。といっても、たいていは買って読んだというより、本屋で立ち読みしていました。そのスケールの雄大さ、発想の奇抜さに毎号、胸をワクワクさせていました。
 星新一は、ショートショートを書くにあたって、次の三つの禁じ手を自らに課していました。一つは、性行為と殺人シーンの描写をしない。第二に時事風俗を扱わない。第三に、前衛的な手法をつかわない。
 なーるほど、そう言われたら、そうなんですよね。
 星新一が、SF仲間内での気のおけない会合での放談を聞くと、この人は、親から、そんなことは言ってはいけません、と叱られたことなどなく、自由奔放に育てられたと思う。そして、それは当を得ていて、実際、星新一の放言は母親譲りだった。
 星新一は強烈な毒舌を吐くけれど、相手を不快にさせない。大ボラを吹くけれど、相手を怒らせたり、からまれたりすることはない。同じホラでも洗練されている。うっかり失言してしまった、というものではなく、高度に自覚的な放言であった。
 星新一の筆記用具は、Bの鉛筆。手の力がそれほどもなく書ける濃くて柔らかい。書き損じた原稿用紙の裏面に、タテは原稿用紙サイズいっぱい、横は5センチ幅の細長い長方形、ここに、書き出しから結末まで、起承転結がひと目で見渡せるのが星新一の最初の下書き。小さな文字にぎっしり詰まった長方形を眺め、練り、確信を得たところで、原稿用紙に2度目の下書きをする。このときはボールペンや万年筆をつかい、ミミズのはうような字でマス目を数えながら書きすすめる。壁には当用漢字表を貼り、そこにない漢字は使わない。こうした推敲を経て、編集者に渡すための清書に移る。万年筆で、一文字たりとも書き損じのない完全原稿である。
 私の場合も、出だしだけは同じです。要するに、不要になったコピーの裏(白紙)に手で原稿を書きはじめるのです。ただし、私はエンピツ派ではなく、水性ペン派です。
 星新一の文庫本は、10万部を達成したものがいくつもあります。私は、かなり読んだつもりでいましたが、たちまち自信を喪ってしまいました。
 星新一が祖父のことを書いた『祖父・小金井良精の記』は私も読みましたが、祖父を悪人として描いた松本清張を「許せない」と怒っていたことを、この本を読んで知りました。
 また、星製薬のことを書いた『人民は弱し、官吏は強し』も読みましたが、星製薬が麻薬を扱っていたことにあまりふれていないという批判があることも知りました。
 それにしても、星新一の『ボッコちゃん』が200万部超、新潮文庫全体では累計  3000万部をこえ、今もなお増刷が続いていること、海外20言語以上、のべ650点をこえる翻訳があるというのはすごいことです。
 星新一、偉大なり、と言っていいでしょうね。

青い光が見えたから

カテゴリー:ヨーロッパ

著者:高橋絵里香、出版社:講談社
 いやあ、日本人の女性って、老いも若きもすごいですね。日本は昔から女性でもっているという実感がますますしてきました。読んでるうちに、なんとなく元気の出てくる本です。サブ・タイトルは、16歳のフィンランド留学記です。そう、あのフィンランドですよ。世界一の教育立国。ノキアの母国、フィンランドです。なんと著者は小学生のころ、ムーミンの本を読んで、フィンランドに憧れたといいます。そして、その初志を高校生になるときに貫徹したのです。たいしたものです。でも、著者の両親も偉いですよね。私は、著者とともに、その両親に対しても盛大な拍手を心から送りたいと思います。日本とフィンランドの親善大使を生んで育てた親に対して、日本人の一人として感謝したい気持ちで一杯です。
 日本の中学生だったころ、著者は、学校と教師が信じられなくなっていた。経験の少ない若い先生たちは体罰や脅しによって生徒に言うことをきかせようとしていた。宿題や教科書を忘れると、こぶしで頭を殴る先生、授業中に生徒が騒がしくなると急に大声で怒鳴ったり、教卓を蹴りたおしたりする先生が何人もいた。
 分かってくれると思った教師のところに、暴力はいけないと思いますと訴えにいったときに言われた言葉は、なんと・・・。
 オレは教師になりたくて、なったんじゃない。
 なんというセリフでしょうか・・・。これでは、日本の将来は真暗ではありませんか。「美しい国」どころではありません。ところが、参院選のとき、自民党は、こんな教育の荒廃をつくり出したのは日教組だと大宣伝していました。とんでもないことです。それは文部省(今の文科省)の責任でしょう。国定教科書をつくり、君が代・日の丸を押しつけ、卒業式で起立して歌わなかったら処分するだなんて脅しておいて、他人のせいにするなんて、みっともない、卑怯でしょう。私は、そう思います。いやあ、いけません。ついつい日本の荒廃した教育環境のことを考えて、怒りのあまり興奮してしまいました。
 フィンランドの学校では、昼食は無料。食堂でセルフサービス式で、好きなものを好きなだけ食べていい。11時から1時くらいまでの間なら、いつでも食べていい。無料なのは昼食代だけではない。授業料もタダ。すべて国の税金でまかなわれている。高校に通ってかかるお金は、教科書代と文房具代くらいのもの。いや、高校だけでなく、大学にも授業料はない。
 試験も日本とは違う。問題文はたいてい一行の文章であり、それに対して授業で習ったことだけではなく、自分のもっている知識をすべてつかって答えを書く。広く、いろいろな観点から考えた答えを書かなければならないので、テストの直前に丸暗記しても効果はない。
 学校は、生徒をお互いに競わせるようなことはしない。試験の結果が出ても、誰が一番良かったなどと先生は口にしない。成績は相対評価ではなく、個人個人の学習の成果に与えられる。だから、ついていけない人がいれば、お互いに助けあることができる。
 卒業試験は、教科ごとに春と秋の年に2回受けられる。しかも、全教科を一度にうけるのではなく、受ける科目の必修コースの単位が全部とれていたら、いつでも試験を受けていい。おまけに、卒業は入学してから3年後と決まっているわけではない。半数以上の人は3年間で卒業していくけど、4年間や3年半、また2年で卒業していく人もいる。著者はフィンランド語の勉強から始めて、なんと4年間で無事に高校を卒業できました。すごーい。パチパチパチ。盛大な拍手を送ります。
 高校を卒業してもすぐに大学へ進学するとは限らない。アルバイトに精を出したり、海外へ行って1年間の休暇をとって過ごす人もいる。
 小中学校、そして高校と休む間もなく勉強を続けてきたので、次の課程に進む前に一休みしようというケースはフィンランドでは珍しくはない。一年間、とくに何もせずに自分と向きあう時間をつくり、将来、自分がどういう道を歩いていきたいのか、もう一度考えなおす期間にする人が少なくない。
 フィンランド語をゼロから学び、高校生として4年間を過ごして立派に卒業し、著者は今やフィンランドの大学生です。すごく励まされました。人生には無限の可能性があることを実感させてくれる本でした。

打ちのめされるようなすごい本

カテゴリー:社会

著者:米原万里、出版社:文藝春秋
 著者は食べるのと歩くのと読むのは、かなり早かったそうです。でも、前の二つは周囲から顰蹙を買ってしまいます。母親から、他人と歩いたり食べたりするときは、相手にペースをあわせ、時空間の共有を楽しむようにと、幼いころから口うるさく言われたとのこと。これって、なーるほど、ですよね。ところが読書は、いくら速くなっても、はたから文句を言われることがない。そこで、この20年ほど、一日平均7冊を維持してきた。うむむ、これはスゴーイ。速読派を自認する私でもこのところ年間500冊が精一杯です。東京往復するときは最低6冊が自分に課したノルマです。ただし、速読派が必ずしも知性派とは限らない例を知りました。スターリンです。
 スターリンは激務の合間に1日500頁を読破する読書家で、歴史、小説、哲学など幅広く大量の書物を熱心に読んでいた。本の余白に残したコメントや感想が並々ならぬ教養と知性、と同時に冷徹で酷薄な現実主義を感じさせる。『知られざるスターリン』(現代思潮社)の書評として、このように紹介されています。
 いずれにしても、著者の書評を集めたこの本を読んで、つい食指を動かしてしまった本がいくつもありました。早速、本屋に注文しました。私はインターネットで本を注文することはしない主義です。だって、町の本屋さんは大苦戦しているのですよ。町にある本屋さんを残してやらないと、本屋のご主人だけでなく、子どもたちが可哀想です。子どもたちの大好きな立ち読みができなくなってしまうでしょ。
 すぐれた書評家というものは、いま読みすすめている書物と自分の思想や知識をたえず混ぜあわせ爆発させて、その末にこれまでになかった知恵を産み出す勤勉な創作家なのだ。著者と評者とが衝突して放つ思索の火花、わたしたち読者は、この本によってその火花の美しさに酔う楽しみに恵まれた。
 書評は常に試されている。まず、その書物を書いた著者によって、その書評に誘惑されて書物を買った読者によって試されている。
 世の中に割に合わない仕事があるとすれば、書評はその筆頭株、よほどの本好きでないと続かない困難な作業である。
 以上は井上ひさしの文章です。なるほど、さすがは私が心から尊敬する井上ひさしです。言うことが違います。私もインターネットに書評をのせはじめて、もう6年目になりました。一日一冊となってからも4年目だと思います。たしかに、よほどの本好きだからこそ続く作業です。
 それにしても、本当に惜しい人を亡くしてしまいました・・・。著者にはもっと長生きして、大活躍を続けてほしかったですね。
 日曜日の午後、久しぶりに昼寝しました。わが家の庭のすぐ下は広々とした一枚の田圃になっています。稲の苗もずい分と大きくなりました。水面をわたって吹いてくる風に吹かれながらの昼寝です。我が家にはクーラーはありません。大学生のころ、司法試験の勉強のために、長野県戸狩市にある学生村に一週間ほど行ったことがあります。そのときも午後は毎日昼寝していました。気だるい真夏の昼さがりに昼寝しながら、大学生気分にも浸ったことでした。ところで、夏の学生村って、今でもあるのでしょうか・・・。

声と顔の中世史

カテゴリー:日本史(中世)

著者:蔵持重裕、出版社:吉川弘文館
 日本人は、訴訟沙汰という言葉があるように、昔から裁判が嫌いだった。そんな俗説が常識となっています。でも、とんでもありません。聖徳太子(果たして実在の人物なのか、という疑問を投げかける学者もいますが・・・)の十七条憲法に「和をもって貴しとなす」というのは、それだけ当時の日本人が争いごとを好んでいたことを意味します。そのころも訴訟好きの日本人が、たくさんいたのです。
 この本を読むと、中世の日本人がいかに訴訟を好んでいたか、よく分かります。ただ、今との違いは、弁護人というか職業としての代理人がいないことです。
 『日本書紀』によると、孝徳天皇元年(645年)に、訴える人は伴造(とものみやつこ)など所属する集団の長を通じて名前を記して訴状を書いて函(はこ)に投じて訴え、あつめる役人が毎朝これを取り出して天皇に上奏する。天皇は群卿に示したうえで裁断するというシステムだった。天皇が訴を正当に扱わないときは、訴人は鐘(かね)を打ち鳴らした。
 称徳天皇の天平神護2年(766年)は、律令制国家になっていたが、朝廷のある壬生(みぶ)門で口頭による訴が認められた。
 道長の『御堂関白記』によると、陽明門での大音声での訴があった。これは、天子・官人への訴であるが、同時に平安京の人々への訴でもあった。恐らく口頭による訴を受けて役所ないし官人が訴状を作成したものと思われる。そこで百姓申状が多数のこっている。ただし、夜の訴は認められなかった。その理由は、夜の訴だと訴人が誰か不明だからである。匿名による訴は認められなかった。政敵による謀訴を招くからだった。
 先日、東京地裁へ行きました。門前で一人の男性が坐ってハンドマイクで判決の不当性を大きな声で訴えていました。これって平安時代以来の日本の伝統なのですね。
 鎌倉中期以降、徳政が重視され、裁判制度の充実(雑訴興行)が重視されるようになった。それは、民間での寄せ沙汰、大寺社の強訴(ごうそ)、幕府の裁判制度の充実に対応するものだった。
 鎌倉幕府は、裁判・訴訟の系統を雑務(ざつむ。債権・動産関係)沙汰、検断(けんだん。刑事関係)沙汰、所務(しょむ。所領関係)沙汰の三つに分けた。所務沙汰では、訴状と陳状(答弁書)を3回やりとりする三問三答がおこなわれた。裁許は、引付(ひきつけ。判決草案を作成する役所)頭人より勝訴者に渡される。裁判結果の救済措置もあり、越訴(おっそ)、手続きの過程には庭中(ていちゅう。直訴)があった。
 このように幕府の訴訟制度は、基本的には徹底した文書主義だったが、口訴の訴も認められていた。
 織田信長時代の天正8年(1580年)のこと。貝を吹くというのは刑の執行の告知。貝によって人を集め、その場で罪名を口頭で告知し、たとえば家を焼いた。口頭音声の罪状告知によって、刑は執行の正当性が確認される。
 なーるほど、ですね。日本人は昔から裁判手続を重視し、裁判を為政者は大切にしてきたのです。

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