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2007年8月 の投稿

湖の南

カテゴリー:日本史(戦後)

著者:富岡多恵子、出版社:新潮社
 事件のあったのが5月11日。5月27日に大津地方裁判所で開かれた裁判で、津田三蔵は通常の謀殺未遂罪で無期徒刑となった。そして7月2日に北海道の釧路に到着。そのとき、「身体・衰弱し、普通の労務に堪えなかった」三蔵は、9月30日に釧路集治監で死亡した。36歳だった。
 裁判のために東京からわざわざ大津までやってきた西郷従道内相は、同じく大津にきていた児島大審院長に対して、次のようにののしった。
 「もう裁判官の顔を見るのもいやだ。今まで負けて帰ったことはないのに、今度は負けて帰る。この結果がどうなるか、見てろよ」
 いやあ、ひどい裁判干渉の言葉です。三蔵は裁判のとき、次のように言った。
 「もはや、わが国法により処断せらるるのほかなし。ただ、願わくは、わが国法により専断せられ、なにとぞロシア国におもねるようなことなく、わが国の法律をもって公明正大の処分あらんことを願うのみ」
 津田三蔵は西南戦争に従軍して負傷している。それは、田原坂の戦いではないが、そのときの功績によって勲七等を受け、百円が下賜された。いずれにしても、10年間の兵役に従事したあと、三蔵は警察官になった。
 西南戦争で死んだ兵士を悼む記念碑の前にロシア人が立った。そして、皇太子歓迎の花火の音が西南戦争のときの戦場の光景を三蔵に思い出させ、凶行にかりたてていった。
 津田三蔵の大津事件の真相が、三蔵自身の手紙などから明らかにされていく過程は、ゾクゾクするほどの面白さです。
 このとき日本で負傷したロシアのニコライ皇太子は23歳。そして、50歳のときに皇帝を追われ、レーニン治世下のソ連で一家もろとも銃殺された。
 いろいろ知らなかった事実を知ることができました。
(2007年3月刊。1680円)

選挙の裏側って、こんなに面白いんだ!

カテゴリー:社会

著者:三浦博史・前田和男、出版社:ビジネス社
 三浦博史は「保守」系の選挙プランナーとして、200近い選挙に関わってきた。前田和男は、民主党の辻恵弁護士の当選など、「革新」系の数十の選挙に関わった。
 2007年の東京都知事選で三浦は石原陣営の選挙参謀として、前田は浅野陣営の「勝手連」として対決した。
 いま、日本の選挙の投票率は、統一地方選挙で5割以下、今度の参院選でやっと6割近い。これではいけない。勝っても負けても選挙は面白い。みんなで行こう、投票所へ。
 私も、これには大賛成です。日本もフランス並みに8割の投票率にならないとダメですよね。私は、つくづくそう思います。
 選挙にお金がかかるのは常識だ。事務所の維持費や人件費などで、月200万円としても、3年で7200万円かかる。自民党の中堅代議士は、事務所とスタッフの維持だけで月500万円以上が必要だとしている。だから、一般には年に1億円、3年の準備期間をおくと3〜4億円ということになる。
 選挙運動では、革新といえば中高年、いまだに年寄りが中心にすわって、世代交代がすすんでいない。自民党保守系のほうが世代交代が早く、いまでは30〜40代が中心になっている。選挙は若手が生き生きしているところが強い。
 有権者は、好感がもてるから入れた、顔で選んだというケースが多い。年配の女性は圧倒的に若い男性が好きだし、年配の男性は若い女性を好む。そして、年配の人に人気のある若い候補は、男女問わず選挙に強い。かわいげがあって、けなげで、母性・父性本能をくすぐるような若い候補が選挙に強い人材だ。
 自民党は電通一本に頼らず、フラップジャパンという独立系のPR会社も採用した。民主党は電通Y&Rと博報堂が担当。
 候補者の演説も、声をつぶすような絶叫は忌み嫌われる。というのも、人は、はったりや嘘を言うときには、声が大きくなる。それを有権者は知っているからだ。
 候補者の話は変える必要はない。自分の得意なものを自分の言葉でくり返して話す。これが一番。民主党にはセクシーな候補者が多い。よくよく調べると、自民党から出たかったけれど、出れなかったので民主党にまわった。それで自民党も反省して公募制をとった。
 なーるほど、自民党も民主党も政策的にはまったく変わらないということですね。
 やたらと人がうろうろしている騒々しい選対は実は弱い。強い選対ほど、人が出払っていて事務所のなかは閑散としている。うむむ、そうなんですか・・・。にぎやかなほうがいいものだとばかり思っていました。
 街頭宣伝でウグイスよりもカラス(男声)のほうが受けが良い場合も出てきた。昼間、外にいるのは女性のほうが多いときには、男性の声で呼びかけたほうが効果的。
 革新陣営の選挙は、若い層を大切にしない選挙、自己満足の選挙をやっている。若い人をとりこみたいのなら、ブログ対策やIT対策をもっとすればいい。
 日本の若い層に革新はいない。
 うむむ、そう言われたら、たしかにそうなんですね。トホホ・・・。反省させられました。
 28日の夜は帰宅する途中に月食を目撃しました。不気味な紅い月でした。夜、寝る前にベランダに望遠鏡を出して再び皓々と明るさを取り戻した満月を眺めました。月のあばたが本当によく見えます。噴火口やら、谷や川などです。私の真夏の夜の楽しみです。ふと気がつきました。天空に大きな物体があるのに、なぜ落ちてこないんだろう。昔の人は、この疑問をどう解決したのだろうかって・・・。天空を眺めていると、いろんなことが思われます。そして、そのうち心安らかに眠ることができます。ありがたいことです。
(2007年6月刊。1300円+税)

現代中国の産業

カテゴリー:中国

著者:丸川知雄、出版社:中公新書
 中国のテレビメーカーの競争力は急速に高まっている。第一に、中国の主要なテレビメーカーの生産管理能力が向上し、品質が向上した。抜きとり検査の合格率も1995年には97%になった。第二に、比較的限られた種類のテレビを大量生産することで生産を効率化し、部品の大量購入によって調達価格を抑えている。第三に、中国メーカーは、たとえば、従業員2万人のうち1万人が営業担当、というくらいに販売を重視し、販売網やサービス網の構築の面で日本メーカーに差をつけた。
 今、中国メーカーは普及品のテレビ、日系メーカーは高級品のテレビの市場というように、棲み分けている。
 中国の家電メーカーは基幹部品を日系メーカーなどに完全に依存している。家電製品の核心技術は基幹部品に集約されていると言ってよいので、中国メーカーがこれを外部に依存していることは、家電製品の技術革新の担う態勢ができていないことを意味する。その点で中国メーカーは、技術でも日本メーカーを激しくキャッチアップし、部分的には凌駕しているサムスンやLGなどの韓国メーカーとはまったく違い、技術競争を最初から棄権している。中国企業は技術のフォロー、つまり技術が成熟してきて日本や韓国などのメーカーが基幹部品や技術の外販にふみ切るのを待ちかねる役に徹している。
 パソコンは今や衣料を上回る中国の最大の輸出品目になった。2001年に台湾政府が台湾の企業に対して大陸でのノートパソコン生産を解禁して以来、上海市から江蘇省蘇州市にいたる地帯に台湾のDOMメーカー(他社ブランドのパソコンを開発・生産するメーカー)が退去して進出し、世界のノートパソコンの6割以上がここで組み立てられている。
 中国のパソコン市場では、ブランドなしのパソコン(中国では兼容機と呼ぶ)の存在感がとても大きい。2003年の中国市場の40%を占めているという推測がある。中国全土のインターネットカフェが購入した218万台のパソコンの87%が兼容機だった。
 中国では、他社からエンジンを購入する自動車メーカーが少なくない。エンジンを作ってさえいない自動車メーカーも多数存在する。中国の自動車産業は、世界の自動車産業の常識からおよそかけ離れている。
 中国企業の企業戦略は、第一に、積極的に他社の力を利用し、産業のなかで取りかかりやすい分野から参入する。第二に、基幹部品を他社から購入する場合でも、複社調達を行うことで特定メーカーへの依存を避け、自立性を確保する。
 中国の経験は、政府が産業の垂直分裂をおしすすめることで、自国企業の参入を促進できることを示している。
 台湾政府は、半導体の受託生産に特化した工場を設立し、半導体産業を設計専業や製造専業の企業でも参入できるものに変えた。それまで半導体産業は、設計から製造まで垂直統合できる大企業だけのものと思われていた。しかし、今や台湾は世界有数の半導体生産国に躍進し、このビジネスモデルが中国にも移転している。
 中国は、いつのまにか世界資本主義の中心に躍り出ようとしているのだろうか。
 中国の企業と産業政策について目が開かされた思いのする本でした。ここでは不十分な紹介に終わっていますが、大変勉強になった本なので、とても断片的で申し訳ありませんけれども、紹介させていただきました。      (2007年5月刊。780円+税)

記憶力を強くする

カテゴリー:人間

著者:池谷裕二、出版社:講談社ブルーバックス新書
 脳は頭蓋骨という堅い容器に囲まれ、外の世界から堅固に隔てられている。身体のほかの場所には見られない独特の構造。脳の重さは、体重のほんの2%を占めるだけなのに、酸素やグルコース(ブドウ糖)などのエネルギー源は全身の20〜25%も消費する。
 脳は1000億個の神経細胞(ニューロン)によって複雑な働きを営んでいる。
 世界の総人口が今60億人をこえたところなので、それよりも1桁以上に大きい。
 1個の神経細胞の直径は10〜50ミクロン。これは髪の毛の太さの2分の1から10分の1の太さに相当する。それが1000億個もぎっしりと詰まっているわけである。
 ひとつの神経細胞が、1万個の神経細胞と神経回路をつくっている計算になる。しかも、個々の神経細胞は、1分間に数百個から数万個も連絡をやりとりしている。
 神経細胞は増殖しない。そして、死んだ神経細胞は二度と復活しない。一日に数万個も死んでしまう。自然に死んでいく神経細胞のほとんどは脳の中で必要とされていなかった神経細胞である。
 1000億個もある神経細胞のうち、人が意識的に活用できる細胞の数は10%にも満たない。
 人の海馬には、1000万個の神経細胞がある。目、鼻、手、耳、舌などのさまざまな感覚の情報が海馬に入力され、そこで統合されている。いつ、どこで、何を見て、何を聞き、何を感じたかといった材料を総合的に関連づけて「経験」という記憶をつくる。これがエピソード記憶になる。
 神経細胞は突起を伸ばす。それは自分の仲間を探すため、ついには、仲間と出会い、神経細胞は、互いに神経繊維で結びつく。1万個の神経回路が1000億個もある。
 神経回路に流れるのは電気。しかし、その実体は、イオンである。電子ではない。ナトリウムイオン(金属イオンである)が流れることで電気信号が伝えられる。
 電気回路では電子が電線にそって流れるので、光と同じ速さで流れる。しかし、神経細胞では、ナトリウムイオンの流れることによるので、1秒間に100メートル程度。それでも、これは新幹線の速度に匹敵する速さではある。
 シナプス伝達をみてみると、シナプス間隙の距離は20ナノメートル。髪の毛の   4000分の1ないし5000分の1ほどしかない。非常に狭いすき間である。
 電気信号は、シナプスにおいて、いったん神経伝達物質という科学信号に翻訳される。そして、この化学信号は、シナプスの受け手にある受容体チャンネルによって、再び電気信号に戻される。このように、シナプスでは、電気信号→化学信号→電気信号と変わる。これを1000分の1秒という恐ろしいほど速いスピードによる。
 ひとつの神経細胞に3万個ものスパインがある。樹状突起が他の神経細胞とシナプスをつくっている場所。1個のスパインは1万分の1ボルトのシナプス電位をつくり出す。だから100個以上のスパインが全開に活動して、ようやく活動電位をおこす判断がくだされる。つまり、神経細胞は、100個以上もの入力情報を受けとってようやく目を覚ます。
 それほど慎重である。この慎重さこそが神経細胞に備わった大切な性格である。
 生命という不可思議な現象を研究すればするほど、見えてくる答えは、生物とは物理化学の法則に素直にしたがう構造物であるという事実である。
 なーるほど、やっぱり唯物論が正しいのですね。
 神経回路の変化こそが記憶の正体なのである。記憶とは、神経回路のダイナミクスをアルゴリズムとして、シナプスの重みの空間に、外界の時空間情報を写しとることによって内部表現が獲得されることである。
 脳は記憶容量を確保するため、いろいろやりくりしながら神経細胞を使い回す。この神経細胞の使い回しという脳の「宿命」こそ、記憶のあいまいさの元凶なのである。
 不断では覚えられないようなことでも記憶できるように助けるのが扁桃体の役割。興味をことにもってのぞめばものごとをすんなりと覚えるられるようになる。つまり、自分が感動していれば、脳は自然にそれを覚えてくれるのだ。
 感動する心を失ってはいけない。感動する心を失ったら、何ごともなされない。
 作家のサン・シモンのこの言葉は真理なのである。ふむふむ、なーるほど、ですね。
 ひとつのことを記憶すれば、自然と、ほかのことの法則性を見いだす能力も身につく。記憶には相乗効果がある。したがって、多くのことを記憶して使いこなされた脳ほど、さらに使える脳になる。つかえばつかうほど消耗して故障するようなコンピューターとちがって、脳はつかえばつかうほど性能が向上する不思議な記憶装置である。
 努力と成果は比例関係にあるのではなく、累乗関数の関係にある。いまは差があっても、努力を続けていれば、いつか必ず天才たちの背中が見え、そして彼らを射程距離内にとらえることができる。こうした成長パターンを示すのが脳の性質である。たとえ効果が目に見えなくとも、つかえばつかった分だけ着実に、能力の基礎が蓄積されていく。私も、ときどき悲観しそうになります。いつになったらフランス語がペラペーラと話せるようになるかしらん・・・、と。でも、そのとき、いつかきっと効果が現れるから、もっとがんばろう、という著者のコトバを信じて毎日、毎朝、フランス語の聞きとり、書きとりを続けています。もう、30年になりますが・・・。
(2001年1月刊。980円+税)

さようならを言うための時間

カテゴリー:社会

著者:波多江伸子、出版社:木星舎
 死に直面した新しい友人を支え、見守り、そして友人は死んでいくという悲しい話なのですが、読後感はとても爽やかです。一陣の風が心を吹き抜け、そのあとにほんわかとした温もりを感じさせるものが残ります。そんな不思議な本です。
 オビの文章が、この本の特色をよくあらわしていますので、紹介します。
 41歳、弁護士、ある日突然、治癒不能の肺がんとわかったとき、彼は古い友人にメールした。ライフステージの最後の時間を自分で選択するために・・・。
 彼が計画した、みんなに別れを告げるためのやさしい時間、家族と友人たちが支えた、不思議に明るいホスピスライフ・・・。
 主人公は北九州市で活躍していた渡橋俊則弁護士です。私も面識がありました。弁護士には珍しく穏やかな人柄だなという印象をもっていましたが、この本を読んで、ますます、その感を深くしました。
 渡橋さんは、ある日突然、手術不能の肺がんだと宣告されます。そして、先輩である久保井摂弁護士に相談します。セカンド・オピニオンを得るためです。
 死ぬこと自体については、恐ろしいという気持ちはない。強がりでもなんでもなく、ただ、両親を悲しませることになるのが申し訳ないだけ。
 私は、生きているあいだに何かをなしとげよう、何かを残そうといった気持ちはもたずに生きてきた。人生に価値のある人生、価値のない人生といった区別はないのだろう。
 とびっきりに楽しいこと、うれしいことなどは、それほどなくてもいいから、辛いこと、悲しいこと、痛いこと、苦しいことなどのなるべく少ない、平坦な、穏やかな人生を望んできた。はらはら、どきどき、わくわくするようなことはとくに望まず、ただ、春先に昼寝をしている猫のような、ゆったりとした穏やかな気持ちで過ごして生きたいと思ってきた。生を受け、与えられた寿命まで生きる、それでいいと思う。精一杯生きるのではなく、与えられたままにただ生きればいいんだと思う。
 うむむ、私にはとてもこんな境地に到達できそうもありません。私がこうやって文章を書いているのも、この地球上に存在したという証しを、せめてひっかき傷ほどのものでもいいから残したい、そんな秘やかな願望にもとづきます。いずれは星くずになって消滅してしまう、ちっぽけな物体かもしれませんが、そして存在自体もたちまち忘れ去られてしまうのでしょうが、なんとか私という人間が存在したという痕跡だけでも残せないか、と願っているのです。渡橋さんのような明鏡止水の境地は、まだまだ今の私にはとても無理です。
 渡橋さんは、自分では痛みは弱いと言っていたが、実はまれにみる辛抱強い人で、かなりの苦痛でも表情も変えずに黙ってガマンしていた。食欲は最後までまったく衰えず、ひどいウツ状態になったり、投げやりになって周囲の人にあたりちらすというメンタルな問題もなかった。
 渡橋さんは、ホスピス病棟、緩和ケア病棟に入院して42日で亡くなった。これは平均的な日数。ホスピスでの時間を十分に楽しめた理想的な期間だろう。渡橋さんを精神的に支える「チームわたはし」が十分に機能していたことを、この本はあますところなく明らかにしています。チームのみなさんの献身的な努力に頭が下がります。
 入院した当初は、胸水がたまっていて呼吸困難がひどく、最悪の場合は、あと一週間と思われていた。ところが、思いがけず小康を得て、天使の時間と呼ばれる不思議に明るいホスピスでの交流の期間がひと月近く続いた。
 ビールは一日平均1ダース、客人があればワインの栓が抜かれ、日本酒や泡盛も追加され、まるで居酒屋のような状況になった。渡橋さんも、ベッドに座って酸素呼吸しながら、仲間たちの歓談する様子を黙ってうれしそうに眺めていた。体調のよいときには、渡橋さんもビールをグラスに一、二杯はつきあった。
 たくさんの弁護士が常連として登場します。北九州の横光、角南、石井、福岡の久保井、宮下、そして東京の内野の各弁護士たちです。そして、たくさんの女性が次々に病室へやってきたのです。
 横光弁護士は、「ここはハーレムか?」と絶句したといいます。「おとなしい渡橋に、ガールフレンドがこんなに一杯おったんか・・・」と。
 渡橋さんの食欲が落ちなかったのは、化学療法しなかったこと、どんな状況でも平常心を保とうとする精神的な強さと健やかさ、消化器や脳にがんが転移しなかったこと、緩和ケアがうまくいったこと、など幸運な条件が重なったことによる。
 渡橋さんが化学療法もふくめて積極的な治療をまったくしなかったことについて、問いつめる友人に対して久保井弁護士は、次のように説明した。
 渡橋君はね、セカンドオピニオンを求めて、本当に入手できる限りの膨大で正確な情報を集めて、考えに考えた結果、こうすることを決めたの。治療のために入院したり、副作用に苦しむ時間を、もったいないと思ったわけ。決していいかげんな気持ちや投げやりな気持ちで、この道を選んだわけではないの。
 うむむ、そうなんですよね。なかなか出来ないことですが・・・。余命6ヶ月ないし12ヶ月と診断されてから、しっかり情報を集め、ついに自分で決断し、一切の積極的治療をしなかったわけです。渡橋さんは亡くなる直前まで外出してお店でワインを口にしていました。1ヶ月前には石垣島へ旅行もしています。
 私の尊敬するI弁護士も、医療分野の第一人者ですが、同じようなことを言っています。下手に手術して副作用で苦しむより、貴重な余生だと割り切って海外旅行ざんまいするなど、好き勝手な日々を過ごすのが一番だ、と。これには私もまったく同感です。
 心にしみいる、本当にいい本でした。肩から力がすっと抜ける爽快感があります。
 タイトル、表紙、本文の構成、そして挿入された幸せそうな渡橋さんの写真、どれをとっても素敵な本でした。こんないい本を読ませていただいて、ありがとうございます。心よりお礼を申し上げます。
(2007年7月刊。1680円)

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