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2007年6月 の投稿

アダムの旅

カテゴリー:未分類

著者:スペンサー・ウェルズ、出版社:バジリコ
 もし全人類が同じ種に属しているのだとしたら、世界中に目がくらむほどさまざま肌の色や体型、体格をし、さまざまな文化を持った人々がいることは、どうやって説明がつくのか。いったい人類はどこで発生したのだろうか?
 もっともな疑問です。黄色人種がいて、黒人がいて、白人がいる。白人が世界でもっとも優れた人種だと昔も今も声高に言いたてる人々がいます。本当でしょうか?
 遺伝に働くもっとも基本的な力は突然変異だ。これがなければ、多型も存在しない。突然変異というのは、DNA配列に生じる無作為の変化のことで、一世代について一ゲノムあたり30という確率で発生する。つまり、今生きている人は誰でも、両親と自分とを区別するまったく新しい突然変異を30個もっていることになる。突然変異は無作為に起こる。突然変異は細胞分裂の過程で生じた複写エラーによって生じる。
 すべての現代人の母系祖先「イブ」は15万年前、アフリカで暮らしていた。そして、哺乳類では、X染色体とY染色体が一つずつしかない不均等な染色体をもっているのは男性である。この本は、アダムとは誰だったのかを追求しています。
 Y染色体には対になる組換え可能な染色体がないので、組換えは起こらない。Y染色体はミトコンドリアのゲノムと同じく、混ぜ合わせられることなく、世代から世代へと永遠に引き継がれていく。
 Y染色体は、人類の多様性の研究の研究にもっとも有益な手段を集団遺伝学者に提供する。その理由の一つとして、分子の全長が1万6000ヌクレオチドしかないミトコンドリアDNAと違って、Y染色体は5000万ヌクレオチドと巨大であることがあげられる。だから、Y染色体には、過去に突然変異が起きたかもしれない場所が多数存在する。
 研究の結果、Y染色体系統がもっとも早く分岐したのはアフリカであることが分かった。この男性から今日生きているすべての男性がY染色体を受け継いでいる。その彼はなんと5万9000年前に生きていた。「イブ」の推定年代より8万年もあとだったのである。
 現生人類は、少なくとも6万年前まではアフリカにいた。類人猿の最古の化石は2300万年前のもの。類人猿が1月1日に現れたとすると、現生人類は12月28日まで出現せず、大晦日まではアフリカを離れない。人類がアフリカを離れて世界中に散らばっていったのは、地球上の生命の歴史や進化の中ではほんの一瞬のことに過ぎない。
 人間は1万年ほど前に突然、狩猟採集生活から定住生活に移行した。この変化は、世界のさまざまな地域でほとんど同時に同じ現象として発生した。
 インドでY染色体を調べると、階級間でミトコンドリアDNAの相違よりもY染色体の相違のほうが多く出現する事実は、男性が自分の階級に常にとどまっていたのに対して、女性は違う階級に移動できたことを示している。
 アメリカ先住民のほとんどの血液型はO型であるが、これは氷河期のシベリアを通って旅するあいだに、A型とB型が消えてしまったから。
 Y染色体系統のほうがより高い率で失われる理由として考えられるのは、少数の男性が生殖行為の大半を行うからだ。富と社会的地位を受け継いだ息子たちが、次の世代でも生殖行為の大半を行う者となる。子どもをもうけて子孫に遺伝子を伝える人の数は決して平等ではない。
 いま地球上にいるすべての男性の祖先である「アダム」は5万年前に東アフリカの地溝を出発し、インド洋を経て東南アジアから日本に到達している。
 中近東からヨーロッパに入ったのは3万年前のコースと1万年前のコースがある。アメリカ半島へは、1万年前にベーリング海峡を渡って到着した。
 Y染色体のなかにある遺伝子マーカーを調べて、現生人類がいつころ、どのようにして世界各地へ広がっていったかを明らかにできるという本です。まことに、地球上の人類はみな兄弟姉妹だということがよくよく分かりました。

吉備の弥生大首長墓

カテゴリー:日本史(古代史)

著者:福本 明、出版社:新泉社
 岡山に楯築(たてつき)弥生墳丘墓というのがあります。この楯築という珍しい名前は、桃太郎伝説の下地にもなったという温羅(うら)伝説によります。温羅が城を築いて人々を襲うので、考霊天皇は皇子を派遣して退治しようとする。温羅と対峙して防御するために石の楯を築いた。これが楯築神社に今もある立っている巨石である。たしかに、写真でみると、かなりの巨石が立っています。
 楯築弥生墳丘墓も、都市化の波に洗われて、すぐ近くまで民家がたち並ぶようになりました。そして、給水塔がつくられることになったのです。ところが、給水塔によって墳丘墓の全部が破壊されたわけではありません。突出部の列石は保存されています。
 想定復元された楯築弥生墳丘墓の全容がカラー画像となっています。中心は円形になっていて、上下に長方形の突出部がくっついています。円丘部分は40メートル、突出部を含めると80メートルとなります。かなりの大きさで、弥生墳丘墓としては最大です。
 墳丘墓の中央に木棺がありました。木材は腐朽して残っていませんが、棺の底に朱が敷かれていました。今も鮮やかな赤色を放っています。厚さ1センチ、総重量32キログラムもありました。「途方もなく膨大な量」だと指摘されています。
 朱というのは、水銀の化合物である硫化水銀のこと。天然には辰砂(しんしゃ)と呼ばれる鉱物として存在する。この朱の産地がどこであるかは、まだ特定できていない。中国や朝鮮から搬入された可能もある。
 朱の役割は、引き継ぐべき首長の霊を復活させ、その霊力を高めるために使用されたもの。鎮魂のための道具立てとして大量の朱が用いられたと考えられる。
 この棺内から、鉄剣一口と三連の玉類が出土しました。翡翠(ひすい)の勾玉(まがたま)、瑪瑙(めのう)の棗玉(なつめだま)、碧玉(へきぎょく)の管玉(くだたま)です。
 円丘部の斜面にめぐらされた二重の列石と、その間を埋める円礫、そして墳頂部に立ち並べた巨大な立石群、周囲に敷かれたおびただしい数の円礫は、墳端から見上げると、そびえ立つように見えただろう。いやがうえにも神聖さと首長の偉大さを強調したと思われる。たしかに巨大な墳丘墓であることが写真と図版でよく分かります。
 岡山は日本文明発祥の地だと口癖のようにいつも言っていた同期の弁護士(山崎博幸弁護士)のふくよかな顔を思い出しました。

ブランドの条件

カテゴリー:社会

著者:山田登世子、出版社:岩波書店
 幸いなことに、わが家はブランド現象とはまったく無縁です。私はコンビニと同じようにブランドも嫌いなのです。
 ブランド現象とは、贅沢の大衆化である。かつては、遙かな高みにあった高級品が、 20代の女の子にも手の届く品となって、ごく身近にある。贅沢と大衆が見事な「結婚」をとげている。
 もともと、ブランドは大衆の手に届かない奢侈品だった。貴族財であるものを一般大衆が持つのは、ミスマッチなのだ。だから、今でもフランスやイギリスの財力のない若者がブランド品を持つことはありえない。エルメスもルイ・ヴィトンも、ブランドの起源をさかのぼると、必ずそれは一握りの特権階級のための贅沢品である。だから、その「名」は晴れがましいオーラを放ち、惹きつけてやまない。
 モードとブランドは相反するものである。エルメスのバッグがあこがれを誘うのは、手が届きにくく、近づきがたいものだからだ。ブランドとは、本質的にロイヤル・ブランドのこと。扱う商品が高級品なのは、顧客が王侯貴族だからであって、ブランドとはもともと貴族財なのである。だから、贅沢品であるのは当然のこと。
 エルメスとルイ・ヴィトンは、王侯貴族を顧客にして今日の繁栄を築いてきた。永遠性と貴族性を志向するブランドだ。
 2002年、ルイ・ヴィトンは東京の表参道店をオープンさせた。前夜から1000人以上の客が列をつくった。オープンした一日だけで一億円の売上げを計上した。
 こりゃあ、日本人って間違ってますよね。これって、まさに格差社会の象徴でしょうね。
 この日、行列をつくった人たちの頭に、今の日本に、一日を何枚かの百円硬貨で過ごす、月に数万円しかつかえない生活を送っている人々が無数にいることなんて想像もできないことでしょう。
 日本人女性の44%、およそ2人に1人がルイ・ヴィトンを持っている。日本全国の所持者は2000万人とも3000万人とも言われている。
 ルイ・ヴィトンって、そもそも自分が持つものじゃないのよね。そう、召使いに持たせるものなのよ、あのトランクは。
 これは、ウジェニー皇后の言葉。ウジェニーは、奢侈品産業を育成するというナポレオン3世の意を受け、政治的任務として贅沢にこれ務めた。
 エルメスのバッグは、すべて職人によるハンドメイド。一つ一つ造った職人が分かるようになっている。修理に出すと、担当した職人が自ら直すシステムだ。しかし、その職人の名前は表舞台には出てこない。
 どうして、日本人って、アメリカと同じでブランドが好きなのでしょう。虚栄心をみたすためか、貴族の幻想にひたりたいのか、私にはとても理解できません。

写楽

カテゴリー:日本史(江戸)

著者:中野三敏、出版社:中公新書
 ご存知、東洲斎写楽は、江戸時代の浮世絵師。寛政6年(1795年)から7年にかけての、わずか10ヶ月ほどに百数十点の役者絵と数枚の相撲絵を残し、忽然と姿を消した。その写楽の正体を追求する本はたくさんありますが、著者は写楽が阿波藩士の斎藤十郎兵衛であることを立証します。
 なるほど、ここまではっきり断言されたら、そうだろうなと思わざるをえません。
 天保15年(1844年)の『浮世絵類考』に「俗称斎藤十郎兵衛、居、江戸八丁堀に住す。阿波侯の能役者也」とある。さらに、文化・文政期に成立した『江戸方角分』にも写楽が八丁堀地蔵橋住と書かれている。そして、八丁堀切絵図には、阿波藩能役者の斎藤与右衛門がいたことも判明した。そこで、与右衛門と十郎兵衛とが同一人物なのか、そしてその人物が浮世絵師であるのかが問題となる。
 「重修猿楽伝記」と「猿楽分限帳」によると、斎藤家は代々、与右衛門と十郎兵衛とを交互に名乗ってきた家柄であることが分かる。つまり、親が与右衛門なら、子は十郎兵衛であり、孫は与右衛門となる。
 大名抱えの能役者の勤めは、当番と非番が半年か1年交代であり、謎の一つとされた写楽の10ヶ月だけの作画期間は、その非番期間を利用したものとみると納得できる。
 さらに、江戸時代に築地にあった法光寺が、今は埼玉県越谷に移転しており、そこの過去帳に寛政期の斎藤十郎兵衛の没年月日が発見された。そこには、「八丁堀地蔵橋、阿波殿御内、斎藤十郎兵衛、行年58歳」とある。
 「方角分」が写楽の実名を空欄にしたのは、写楽こと斎藤十郎兵衛が、阿波藩お抱えの、たとえ「無足格」という軽輩とは言え、歴とした士分であったことによる。
 役者絵というものは士分の者の関わるべからざる領域であり、たとえ浮世絵師であろうとも、志ある者にとってはそれに関わることを潔しとしないというのが江戸の通年であった。10ヶ月も小屋に入りびたって、役者の生き写しの奇妙な絵を描いている写楽という絵師が、実は五人扶持切米金二枚取りの無足格士分で、阿波藩お抱えの能役者斎藤十郎兵衛であることを知悉していたからこそ、あえて、その実名を記さなかった。
 十郎兵衛自身の口から、我こそは役者絵描きの写楽にて御座候ということは、口が裂けても言えることではなかった。公辺に知れたら、自身の身分を失うだけではすまず、ひいては自らの上役、もしかすると抱え主である藩主にまで、その累が及ぶやもしれない事態であった。なーるほど、そういうことだったんですか・・・。
 ここまで論証されると、写楽とは誰かというのは、今後は単なる暇(ひま)人お遊びにすぎないように思えますが、どうなんでしょうか・・・。

モグラの逆襲

カテゴリー:社会

著者:残間里江子、出版社:日本経済新聞出版社
 あまり感心しないタイトルの本です。それでも、サブ・タイトルが「知られざる団塊女の本音」となっているので、同世代の女性たちが今どんなことを考えているのか知りたくて呼んでみました。意外にまじめな本でした。
 団塊は専業主婦率がもっとも高い世代である。自ら望んでそうなったのではなく、社会が彼女らを受け入れなかった。一生を捧げたはずの結婚生活で得たものは、くたびれた夫と今なお寄生する子どもたちだけ。
 2007年春、団塊モグラ女たちは長い冬眠から目覚めてしまった。このままここで朽ちてしまうのだけはいやだ。長い冬ごもりから飛び出して、春風にあたろう。ここまで来たら捨てて惜しいものはないし、怖いものもない。軽やかに飛ぶためなら、夫一匹捨てるくらいのことは簡単だ。
 おおっ、怖い・・・。私なんて、夫一匹、捨てられてしまいそう。
 団塊男たちのリタイアが迫っている。40年も企業社会につながれていた男たちの縄がほどかれ、一斉に家庭に戻ってくる。戻り方次第では、とんでもない日々になるわけで、妻たちは戦々恐々だ。
 団塊世代が結婚して10年から15年目あたりの離婚数は3万2000組だった。結婚して30〜35年たった最近の離婚数は6000〜7000組。つまり、問題のある夫婦は既に離婚ずみなのだ。
 夫婦は感性だの価値観だのという抽象的なことで別れてはおらず、離婚の具体的な理由は、お金、女(男)、暴力の三要素に集約される。離婚を切り出すのは7割が妻側から。
 離婚を意識して、完遂するまで平均して3.5年かかっている。
 今の夫は別れたいけど、危害は加えないし、喋るぬいぐるみだと思えば、まあ、いいかなと思ってガマンしてる。
 ヒャー、こんなに思われているんですか・・・。何だか、背筋がゾクゾクしてきました。
 団塊の女は他の世代に比べて学歴を重視する人が多い。とりわけ、息子の学歴は、とても気にする。
 団塊世代はお見合い結婚が多数派だった。しかし、1995年以降は9対1で恋愛結婚が圧倒的多数になっている。だから、その機会に恵まれないと、いつまでたっても結婚できないわけですね。お見合い用の写真をいつも持ち歩いている世話好きのおじさん、おばさん族というのは今ではすっかり姿を見ません。
 女は独りでは何もできないと男に思わせることこそが、「サブ」や「副」として生きていくための基本マニュアルなのである。女は夫に相談する前にとっくに決めている。ただ下手に主張すると、あとでもめたときに面倒だし、おだやかに手に入れるためには簡単に口にしないようにしているだけのこと。
 よほどの偏屈でもない限り、団塊世代は「テレビが家にやってきた日」のことを覚えている。私の家には小学四年生のころ、年の暮れにテレビがやってきました。『ひょっこりひょうたん島』や『ふしぎな少年』の「時間よ、止まれ」という叫び声があがると全員がそのままの姿勢で固まってしまうシーンも、よく覚えています。
 日本の妻たちは、夫に忍従を強いられているように思っている人が少なくないが、世界に冠たる銀行振込制度が家庭に入り込んで以来、時間とお金の両方の裁量権を発動できるという意味で、日本の妻は世界最強と言われている。
 日本の女性が昔から強かったことは、戦国時代の宣教師(ルイス・フロイス)の目撃談や江戸時代の『世事見聞録』などでも明らかです。銀行振込制度の前から、日本では妻が一家の財布を当然のように握っていました。
 私の周囲を見まわしても、実にたくましい女性ばかりのような気がします。むしろ、いろんな意味で弱いのは男ではないでしょうか。

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