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2007年5月 の投稿

沖縄シュガーローフの戦い

カテゴリー:日本史(戦後)

著者:ジェームス・H・ハラス、出版社:光人社
 沖縄戦初日のアメリカ軍の上陸日はL(ラブ)デイと名づけられ、1945年4月1日。日本軍の反撃はまったくなく、予定より早く目的地に到着していった。
 アイスバーグと名づけられた沖縄進攻作戦は、54万8000人の将兵と1500隻の艦船を動員する計算だった。攻撃実施初日の兵力18万2000人というのは、1年前のノルマンディー上陸作戦のDデイを7万5000人も上まわっている。
 日本軍の第32軍司令官は牛島満中将であり、その副官で参謀長の長勇少将は、短気で攻撃的な性格だった。大酒飲みで女好き、盲目的な愛国主義者で先導的な性格だったから、牛島司令官の手に余ることも多かった。
 ところが、1945年5月12日から18日までの一週間、沖縄の首里攻防戦の西端にある小さな丘をめぐる争奪戦で、アメリカの第六海兵師団は2000人をこえる戦死傷者を出した。最終的に丘を占領するまで、海兵隊は少なくとも11回の攻撃をおこなった。中隊は消耗して、すぐに小隊規模になり、さらに消耗して分隊規模になり、最後はシュガーローフ上で染みこむように消えていった。
 沖縄戦は太平洋戦争を通じてもっとも血みどろの戦いだった。82日間の戦闘でアメリカ軍の陸上兵力は7612人が戦死、行方不明、3万1312人が負傷、2万6211人が戦闘疲労症となった。海上兵力のほうも4320人が戦死、7312人が負傷した。
 第六海兵師団だけでも戦死傷者は8227人にのぼり、3人に2人が戦列を離れた計算になる。
 アメリカ海兵隊は高さ15メートルから20メートル、長さ270メートルしかないシュガーローフと名づけた貧相な丘を乗り越えることができなかった。この丘にはトンネルや坑道が複雑に張りめぐらされており、人員や物資を地上に出ることなく補給することができた。この丘にいた日本軍は一個中隊規模でしかない。しかし、すぐに豊富な予備兵力で増員できる体制にあった。しかも、陣地は重装備されていて、迫撃砲45門と擲弾筒29門が配備されていた。地形は防御側にきわめて有利。攻撃側は、さえぎるものが何もなく、丸裸で丘に接近しなければならない。
 太平洋戦線のアメリカ海兵隊には、夜間戦闘の絶対的掟があった。それは、動くものはすべて撃て、夜に動きまわるのは、すべて日本兵だ、というもの。
 シュガーローフの丘の上では、日本軍とアメリカ海兵隊の兵士たちの手榴弾合戦が続いた。メジャー一等兵は、戦車の残骸にいた日本兵の断末魔の悲鳴を聞いて、気分が少し楽になった。やつらも生身の人間だということが初めて実感できたからだ。
 日本兵は、アメリカ兵にとって生身の人間だとはおもわれていなかったわけです。爆弾をかかえて戦車に飛びこんでくる姿を見たら、たしかにそんな気になるのでしょうね。今のイラクと同じで、日本軍は自爆攻撃を常套手段としていたのです。
 食欲のある兵士は、ほんの一握りで、多くの兵士はタバコを吸いながら、Dレーションバーと呼ばれていた栄養食のフルーツ・チョコレートバーをかじっていた。そのため、前線勤務の兵士は例外なく体重が減り、平均7〜10キロはやせた。消化器系の不調にも悩まされ、下痢でげっそりするか、便秘でお腹がパンパンするか、どちらか。中間はなかった。
 シュガーローフでの前線勤務を経験すると、死は生きることよりも普通となっていった。死の多くは劇的ではなかった。ある兵士は突然、ベルトのあたりのシャツを手でまさぐり出した。そのまま座りこむと、ゆっくり横にもたれかかるようにして倒れ、そのまま死んだ。かなり遠方から飛んできた銃弾が背中にあたり、腹部から出ていったのだ。
 この本では、敵である日本軍の兵士を高く評価しています。次の狙撃兵の描写は、まるでスターリングラードの戦闘の様子を描いたような内容です。
 日本軍の狙撃兵は冷徹に選択された死の恐怖をアメリカ兵に味あわせた。狙撃兵は、きわめて忍耐強く、神業としか思えない選択眼で将校を見きわめていた。将校か通信兵を狙撃するため、一般の歩兵には目もくれずやり過ごした。そのため、将校は身につけている階級を示すあらゆる勲章や装備を隠した。将校で45口径の拳銃ストラップを肩からかけていたら、瞬時に射殺された。必ず眉間か胸のど真ん中を狙う。一発で即死した。狙撃兵による戦死傷者の中でもっとも多かった階級は中尉。ある将校は着任して15分で死んでしまった。シュガーローフ周辺での戦闘における将校の戦死傷率は平均60〜75%。大隊長3人と18人の中隊長のうち、11人が戦死ないし負傷した。当初から作戦に参加した中尉のうち、最後まで残ったのは、ごくわずかだった。
 多くのアメリカ海兵隊員は日本兵の姿を見ることなく死んでいった。日本兵はひたすらタコツボや洞窟、銃眼のなかで忍耐づよく待っており、アメリカ兵がその射界に入ってきたときだけ射撃した。
 日本兵はガニ股で飛びはねながら猿のように金切り声を上げたり、ブタのように鳴いたりするやつらだと思っていたが、実際に見ると目は落ち着きはらっており、まさにオレたち海兵隊員と同じ顔つきをしていた。これはアメリカ海兵隊の軍曹の言葉です。
 日本兵はきわめて統制のとれた集団だった。よく訓練され、統制のきいた陸軍兵士で、とくに士気の高さと身体能力の高さは特筆すべきだと海兵隊の活動報告書に書かれた。
 日本軍の兵士は、つねに頑強で機知にとんだ戦法で戦い、絶対に投降しなかった。
 この本が単なる戦記と違うところは、戦場でたたかえなかった兵士たちのことがきちんと描かれているところです。私なんか臆病者とののしられてしまうのは必至ですが・・・。
 精神の緊張状態は多くの兵士にとって、耐えられないものだった。
 頑強でたくましい大男の海兵隊員が、いざ最前線に行くと、泣き叫びながら戻ってくる。戦闘疲労症だ。あらゆる部隊が戦闘疲労症の渦に飲みこまれた。肉体的な極限状態のなかで、人間としての尊厳を守ろうとした場合に発症した。戦闘疲労症になる若い兵士は、とくに自責の念を感じているようだった。精神の崩壊は、肉体的な極限状態に、恐怖心と良心の葛藤が引き金となって発症した。相当数の兵士が二度と戦うことができなかった。
 日本軍はシュガーローフにおいて、反射面陣地と呼ばれる構築手法を多用した。これは、アメリカ軍側に相対する斜面には兵士を極力配置せず、反対側の斜面に主陣地を構築し、敵が頂上部に到達するのを待って攻撃する手法。この長所は、圧倒的な火力を有するアメリカ軍から直接的な攻撃を受けず、近距離に接近するまで兵力を温存し、かつ自軍の配備状況をアメリカ軍から察知されにくい効果があった。
 これって硫黄島でとられた戦法に似てますよね。沖縄戦において、圧倒的兵力の差があるアメリカ軍に対して局地的には互角以上の戦いをしていたというと意外な感じがします。硫黄島のような戦闘が沖縄本島でも繰り広げられていたことを初めて認識しました。
 ちなみに、シュガーローフというのは沖縄都市モノレールのおもろまち駅付近の小高い丘で、今は頂上に排水タンクがたっているところです。この本を読み、現地に立って激戦の状況を偲んでみたくなりました。戦争の残酷さを今の私たち日本人は忘れ過ぎているようです。

IKEA、超巨大小売業、成功の秘訣

カテゴリー:ヨーロッパ

著者:リュディガー・マングブルート、出版社:日本経済新聞出版社
 北欧デザイン、垢抜けたセンスの安い家具として、世界中で売り出しているIKEA躍進の秘密を探った本です。
 創業者は若いころナチス・ヒトラーの信奉者でした。それはヒトラー死亡まで続きました。祖母の影響だったようです。11歳のときから商売をしていたというのも驚きです。種物商から種を買い付けて、近辺の農民に売って歩き、本当にお金をもうけたというのです。信じられませんが、どうやら本当の話のようです。
 IKEAは、世界33ヶ国に230店を展開する。多国籍企業なのだ。2005年度のイケアの総売上高は148億ユーロ。イケアのカタログは1億6000万部。世界一だ。創業者イングヴァル・カンプラードは世界屈指の億万長者の一人であり、総資産は230億ドル。
 祖父母はドイツのザクセン地方からスウェーデンに移住した。祖父はやがてスウェーデンへの移住が失敗だったと絶望し、銃で自殺した。しかし、祖母は開き直ってがんばった。
 カンプラートは高等商業学校に在学中のころ商売を始めた。万年筆をつくっているパリの会社に500本を注文して、スウェーデン中を売り歩いて成功した。
 28歳のとき、大きな家具展示場を開設して家具を売り出し、大あたりした。初日に 1000人のお客が行列して並んでいた。
 カンプラートは、カタログのテキストを自分で書いた。マーケティングのプロだった。なにより人心掌握にたけていた。売れはじめると、イケアは、ポーランドで家具製造をはじめた。
 カンプラート自身には、美的感覚はまったくなかった。自分で無粋な人間だと言った。いくらデザインが最高でも、人々がそれを買えなければ、何にもならないじゃないか。
 イケアは家具販売にキャッシュ・アンド・キャリーの原則をもち込んだ。お客は商品を買って、お金を払い、すぐ自分で持ち帰る。そして自分で組み立てる。
 イケアの家具は、明るい自然な色。イケアの戸棚は開け広げで、実に軽やか。イケアは生意気な若者のイメージをまとうようになった。
 スウェーデンの人々は、長くて暗い冬を家の中にしばりつけられて過ごすから、明るく優しい感じの材質を好み、シンプルで直線的なデザインを求めた。壁や天井に明るい色調を用いることで、光を最大限にとり入れる。鮮やかな色彩の家具に接すると、人は自分は若くてエキサイティングな人生を過ごしているような気分になるものだ。
 ところが、アメリカでイケアは苦戦した。イケアのヒット商品は、アメリカ人の生活習慣にあわなかった。
 イケアは原則として品質第一とは考えていない。日常の要求に数年こたえればそれでいいというのがイケアの基本方針。それ以上の耐用性は求めない。大事なのは使い勝手がいいということ。だから書棚の表面は、台所の調理台のように頑強である必要はなく、質もほどほどでいい。人目につかない部分には安い材料をつかう。家具を頻繁に取り替えましょうとイケアは宣伝する。
 値段の安さがイケア成功の第一要因だとすると、第二の要因はデザインである。文句なく魅力的なデザインだ。イケアはただの家具店ではない。ここはライフスタイルを学ぶ場所でもある。
 なーるほど、一度、イケアの家具を見てみたい、使ってみたいものだと思わせる本でした。
 大型連休はじっとおとなしく庭の手入れなどをして過ごしました。枯れたチューリップの地上部を刈り取り、雑草を抜いて、初夏にそなえました。今は、アイリスから濃紫色のアヤメそして黄色いカキツバタの花が咲いています。アクロステンマの白にピンクの筋の入った花に目が魅かれます。クレマチスは相変わらず次々と咲いてくれています。濃紫色の花弁が見事です。赤紫色の金魚草もいいですね。サクランボの実を食べにヒヨドリがやってきます。庭にヒマワリのタネを置く台をつくってみました。どんな小鳥が来てくれるか楽しみです。

日本帝国陸軍と精神障害兵士

カテゴリー:日本史(戦後)

著者:清水 寛、出版社:不二出版
 徴兵制とは、その時代の国家目的にそって、戦時あるいは平時の軍事的必要度にみあうだけの兵力を、国民の中の壮丁(兵役義務の年齢に達した男子)の中から、強制的に集めるための制度であった。
 徴兵制度の歴史とは、広範な免役要件に対して、いかに制限を加えていくかという過程であり、同時に、免役条項を活用しての徴兵忌避、さらには強制徴兵制そのものに反対する運動を強力に抑えこんでいく過程にほかならなかった。
 明治期の軍隊の中には、かなりの低学力の兵士が送りこまれた。日露戦争を経たあたりから、無(低)学力兵士の問題が軍隊内部でも顕在化しはじめていた。
 明治35年(1902年)、陸軍懲治隊条例が制定された。懲治隊に入れられた入営前の非行・犯罪のあった者の中に、実は、思想犯もいた。社会主義を鼓吹する言動が問題となり、改悛の情なき不良兵士とされたのである。
 その中の一人である森川松寿は、幸徳秋水・堺利彦らの平民社に共鳴し、社会主義宣伝の冊子を販売する伝道行商に従事していた。森川は、兵役は国民の義務ではない、兵役は恥とするところ、戦争は罪悪だと公然と述べていた。
 偉い人ですね。なんと、17歳のころから活動していたといいます。
 徴兵忌避をする者が少数ではあったが、存在した。身体を毀傷し、疾病を作為し、また詐称したとして摘発された者が1918年に578人、1931年に474人、1935年に145人いた。
 日本が敗戦したときの動員兵力数は716万人。当時17〜45の日本男子は1740万人だったから、その4割以上が軍に動員されていた。1945年6月、義勇兵役法が制定され、男子15〜16歳、女子17〜40歳の全員が義勇兵役の対象に組みこまれた。
 1923年、陸軍懲治隊は、陸軍教化隊と改称された。陸軍となっているが、海軍兵も対象としていた。教化隊のなかにも思想要注意兵がいた。総員778人のうち8人が該当者であり、一般教化兵と隔離された。
 教化隊に編入された兵士は累計で1000人。このうち原隊に復帰したのは、6.2%(55人)のみ。あとは、満期除隊した。
 この本は千葉県市川市にあった国府台陸軍病院という精神病院の患者の実情を明らかにしています。そこでは、戦争神経症が研究されています。当初、ヒステリー患者とされていました。大戦中、ヒステリー患者は、ほぼ一貫して全精神神経疾患患者の10%前後であり、平均すると11.5%と高率だった。
 たとえば、その発症原因として加害行為についての罪悪感というものがあった。
 山東省で部隊長命令で部落民を殺したことがもっとも脳裏に残っている。とくに幼児をも一緒に殺したが、自分にも同じような子どもがいたので、余計にいやな気がした。
 ヒステリー性反応としては、その場で卒倒するケースが多いが、夢遊病者のように動きまわり、無意識のうちに離隊・逃亡することも少なくなかった。
 医師が戦争神経症に接して驚いたことは、ヒステリーの多いこと。目が見えない、耳が聞こえない、立ち歩きができないといったあらわな症状をもっていた。
 日本陸軍兵士における戦争神経症を研究した貴重な労作です。自他ともに認める軟弱な私などは、徴兵されて戦場に駆り出されたとしたら、真っ先にヒステリー症つまり戦争神経症にかかり、足腰が立たなくなること必至です。誰だって突っこめという号令に従って行動して無意味に戦死するなんてことになりたくはありませんよね。

シルクロードと唐帝国

カテゴリー:中国

著者:森安孝夫、出版社:講談社
 唐が漢民族王朝でないという著者の主張に、思わず椅子からずっとこけ落ちそうになりました。唐には、東魏、西魏分立時代から中国に巨大な経済的負担をかけた突厥人もいれば、商人として活躍したソグド人もペルシア人も、あるいは高仙芝や慧超のような朝鮮人も、阿倍仲麻呂や藤原清河や井真成(いのまなり)のような日本人もいた。彼らは、すべて漢語をしゃべれた。しかし、それをもって「漢化」したとか、唐が異民族を受けいれたのは唐の度量が大きかったからだというのは、後知恵の中華思想にすぎない。
 唐帝国創建の中核を担った異民族は朝卑系集団である。これは定説だ。
 唐建国の中心は朝卑系漢人と匈奴の一部であった。著者は、唐の真の建国は618年ではなく、突厥を打倒した630年であるとします。
 唐は、漢人王朝ではなく、拓跋(たくばつ)王朝であった。すなわち、タクバツ可汗に率いられた唐帝国が、軍事力によって突厥・鉄勒を包含するトルコ世界を制圧したのである。
 唐って、当然、漢民族がうちたてた王朝とばかり思っていましたが、違うんですね。驚きました。
 唐の前、隋の煬帝のとき、回転式スカイラウンジや数千人が入れる超大型テントなどをつくって突厥人の度肝を抜いたというエピソードがあるそうです。それがどんなものなのか、想像もつきませんが、今みても、あっと驚くようなものだと思います。
 618年に、長安で李淵が皇帝として即位したとき、唐王朝は東突厥の臣属国であったといっても過言ではない。そのころ唐は、まだ隋王朝のあとを狙う群雄の一つに過ぎず、多くの敵をかかえていた。
 父である高祖・李淵から実権を奪った李世民は、まず皇太子となり、2ヶ月後には太宗として即位した。突厥が大軍を率いて中国に侵入してきたのを太宗は迎え撃ち、撃退した。
 唐は、自らが異民族の出身であることを、少なくとも初唐・盛唐までは自覚していた。ところが、安史の乱をはさんで中唐になると、唐は急速に内向的になり、中華主義に陥っていく。安禄山は、ソグド系突厥人であった。
 安史の乱以降、唐は自前で軍事力を調達する武力国家から、お金で平和を買う財政国家へと変身した。そのとおりなのだが、いわば別の国家とは呼ぶべきではない。うーん、そうなんですかー・・・。
 私もシルクロードに一回だけ行ったことがあります。ウルムチからトルファン、そして敦煌です。ここに大変な文化・文明があったことを、この目で見て実感しました。
 この本ではシルクロードは単なる通過点ではなく、大変な文化・文明があったことが強調されていますが、まったく異論ありません。問題は、ここにいたソグド人が中国大陸の支配層としても登場していた時期があったという事実です。遺跡から発掘された文書が詳細に解説されているのを読むと、なるほどとうなずかざるをえません。
 シルクロードと中国文明の関連について、大きく目を見開かされる本でした。学者って、すごいですね。私と同世代です。つい大きな拍手を送りたくなりました。

パチンコの経済学

カテゴリー:社会

著者:佐藤 仁、出版社:東洋経済新報社
 日本の食品スーパーは1万8500店。パチンコ店は1万5000店。えーっ、多い。パチンコ業界は30万人が働く巨大な産業。
 先日、トイレ休憩で久しぶりにパチンコ店に入りました。私も司法試験の受験生だった学生のころは、図書館へ行く前にちょっと寄り道してパチンコ店に入り、たまには景品でチョコレートなんかをもって帰って友だちにプレゼントしていました。いまのパチンコ店は、トイレなんてピカピカ、きれい過ぎるほどです。スロットマシーンの前にはずらり老若男女が並んで坐っていました。空いている席がないほど埋まって、みんな真剣に盤面を見つめています。ただ、久しぶりにパチンコ店に入ると、あの騒音がたまりません。頭がおかしそうになって早々と退散しました。
 パチンコ業界の年間売上は28兆7000億円。パチンコ人口は1710万人。パチンコ機とパチスロ機とを合わせて490万台の遊技機がある。
 パチンコホール企業数は7000社、遊技機メーカーは50社。日本人の一年間のレジャー支出は80兆900億円なので、パチンコの占める比率は36%。
 パチプロは、一般に月10〜20万円、パチスロで20〜30万円かせぐのが可能だ。それには時間がたっぷりあり、遊技に関する情報収集に熱心で、フットワーク軽く動けることが条件だ。ただし、長くしていると健康を損ない、ひいては人格も失いかねない。うむむ、よく分かる指摘です。
 現在のパチンコ機は長くて1年、短ければ2〜3ヶ月で撤去されるという短期の入れ替えサイクルになっている。お客はピーク時の3150万人から、半減している。しかし、売上は減っていない。単位時間あたりの消費金額を増やして粗利益の絶対額を維持しようとしている。
パチンコ人口は10年後(2015年)は1270万人となり74%に減り、15年後(2020年)には1130万人と66%になると予測されている。その大きな理由は加齢現象。なるほど、パチンコが面白いといっても、最近の若者を大々的に呼びこめるものではないということなのでしょうね。
 日本のパチンコは面白すぎるのでギャンブル依存症の温床となっている。
 ひゃあー、そうだったんですか。知りませんでした。借金まみれになった人のうち、少なくない人々が、このギャンブル依存症です。なかなか抜け出せない病気です。でも、決してあきらめてはいけません。

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