法律相談センター検索 弁護士検索
2007年3月 の投稿

きよのさんと歩く江戸六百里

カテゴリー:日本史(江戸)

著者:金森敦子、出版社:バジリコ
 山形の鶴岡に住む女性(きよの)が江戸・伊勢・奈良・京都見物の旅に出かけました。文化14年(1817年)のことです。31歳のきよのさんは、夫と2人の子どもを自宅に残し、同伴者の男性と荷物持ちの下僕と三人の旅です。
 夫も、その前に25歳のとき、長野・名古屋・伊勢・京都・四国・江戸・日光の124日間の旅をしています。だからでしょうか、妻の旅行には同行しませんでした。
 きよのさんは鶴岡の裕福な商家の家付き娘でしたから、この旅行に思う存分にお金をつかうことができました。普通は一日一朱というのが旅費の目安です。一両あれば16日間の旅が出来るという時代でした。
 江戸も後期になると、多くの女性が関所手形も持たずに旅立つのが普通になっていた。きよのさんは、108日間の旅の記録を残しました。それを解説つきで再現したのが、この本です。本当に昔から日本の女性って強かったんですよね。それがよく分かる旅の本です。
 江戸時代、宿場の飯盛女が売春することを禁じるお触れが何度も出されている。禁止しても守られなかったからこそ、何度も繰り返し禁令が出された。宿場の繁栄を飯盛女が担っているという現実があった。
 きよのさんたちには、彼女らは自分の身を売ることで家族を養っているのであって、賤しいことをしているという意識は少なかった。売春をやっきになって取り締まろうとしたのは為政者である。
 きよのが江戸で一番楽しみにしていたのは歌舞伎の見物だった。当時の芝居は明け方から日没まで上演していた。だから芝居茶屋を通して飲食し、用便もしていた。きよのさんたちは、5人で一両二朱もかけている。
 江戸では鶴岡藩の上屋敷の元締役所を訪れ、数々の御馳走を受けている。これは、きよのさんの商家が藩に多額の献金をしていたから。
 きよのさんは吉原に出かけて、遊女を見物している。また、江戸の呉服屋で、一七反もの買い物をし、さらに日本橋で本を一冊も購入した。俳諧と狂歌の本だ。
 きよのさんは現金をもち歩いたのではなく、前もって送金していた。
 江ノ島では210文もかけて、お昼に魚料理を食べた。
 伊勢参宮では、御師宅で豪華な食事の接待を受けた。一人一人に見事な鯛や伊勢海老が出て、お酒も飲み放題。伊勢見物には専用の案内人がついた。奈良でも京都でも、きよのさんは旅籠屋の主人に頼んで案内人(ガイド)つきで見物した。
 きよのさんは南禅寺門前の茶屋で名物の豆腐を食べ、お酒を飲んだ。これは私も経験しました。
 江戸時代といっても、封建制度の中で忍従を強いられた女性ばかりではなかった。
 きよのさんはいたるところでお酒を飲み、五重塔のてっぺんまで勇ましく登っていった。誰もきよのさんを非難することはなかった。きよのさんが江戸の吉原を見物し、大坂新町で遊女をあげても奇異とは思われなかった。
 いやあ、実に自由奔放な旅行です。現代人にきよのさんを真似できる人がどれだけいるでしょうか・・・。

トビウオは何メートル飛べるか

カテゴリー:生物

著者:加藤憲司、出版社:リベルタ出版
 まず、答えから。トビウオは、最大400メートルも飛べるそうです。飛行速度は時速55キロ。7〜8秒間は飛べます。羽を鳥のようにバタバタさせるのではなく、長短4枚の羽を目一杯に広げてグライダーのように滑走する。
 サンマもトビウオの仲間なので、1メートルくらいは飛びはねる。
 ただし、この本はトビウオのことだけを書いてた本ではありません。魚類全般についての百科全書みたいなものです。
 魚は、高齢になっても成長は止まらない。コイは養殖すると70年以上も生きる。一般に魚の体温は、ほとんど周辺の水温と同じ。しかし、カツオとマグロなど外洋を広く回遊する魚は、恒温動物のように周囲の水温よりも10度以上高い体温を保っている。
 氷点下の海にすむコウリウオは体液の中に凍結防止物質があり、不凍液状態になっている。すごーい。
 キンギョは水温が10度以下の冬にはエサをあまり食べない。5度以下になると冬眠状態になる。冬眠前にたっぷりエサをやって脂肪を蓄えさせる。それで冬の3ヶ月の寒さに耐え、春になってたくさんの良質な卵を産む。
 魚屋で魚を買うときには、目玉を見る。眼球の表面に張りがあり、濁りのないものが新鮮。目が血走って濁っているものは鮮度が落ちている。エラブタを開けて、中のエラが鮮やかな赤い色をしているものは間違いない。
 ほとんどの魚にはウキブクロがある。これが肺の原型となっている。
 魚の目の水晶体は球形でとても固い。人に比べて、はるかに近視。
 コイの口ヒゲには味蕾(みらい)があり、エサを探すときの味覚センサーになっている。コイは、甘い、塩辛い、酸っぱい、苦いの四感覚を識別できる。
 水中で暮らす魚は主な呼吸はエラでしており、鼻は呼吸につかっていない。
 サケやマスの鼻の穴に栓を詰めてしまうと、母川に回帰する割合はぐっと低くなる。
 魚は泳ぎながら眠っているそうです。戦争中、行軍の兵士が歩きながら眠っていたという話を思い出します。人間にとっての極限状態に追いこまれたのですね。
 他の先進諸国が食糧自給率を向上させているのに、日本は低下する一方だ。日本の漁獲量は半減している。水産物の国内自給率は60%になってしまった。
 なんでもアメリカ頼みの日本です。自動車を輸出できたらいい。農産物なんて海外から輸入すればいいんだ。政府はこんな考えのようです。それでは日本の将来が本当に心配です。安心して食べられるものは、やっぱり近くでとれた農産物ですよね。
 私は釣りが好きでした。風のない穏やかなクリークの水面をじっと目つめ、ウキがピョコピョコ沈んでいくのを見るのが何より好きでした。これは、幼いころ父がフナ釣りに連れていってくれたことから来た好みでもあります。短気な父に釣りは似合っていたのでしょう。ゆったりかまえているように見える釣り人には、実は短気な人が多いというのは逆説的真実です。

雷神の筒

カテゴリー:日本史(中世)

著者:山本兼一、出版社:集英社
 織田家鉄炮頭(てっぽうがしら)橋本一巴(かっぱ)の物語。
 火縄銃が種子島に伝来して11年。織田鉄炮衆は200挺もそろえていた。先日読んだ本によると、火縄銃が種子島に初めて伝来したのか、本当のところは確証はなく、そのころ、九州各地に一斉に鉄炮が伝来してきたのではないかということでした。要するに、海の彼方から西洋製の鉄炮が伝来してきたというわけです。種子島の沖には川より流れのはやい黒潮があり、それに乗れば種子島から堺までわずか4日。種子島は海の宿場町。奄美・琉球はもとより台湾、福建、浙江はては呂宋やポルトガルの連中までやってくる。
 先日の新聞に、種子島では、この新説に対して大いに異論を唱えており、近くシンポジウムを開くとのことです。
 この本では鉄炮となっています。鉄炮一挺の相場は10年でずいぶん下がって、銭50貫文。米にして百石(こく)。武具というより、珍奇な玩具のたぐい。そんな高価な鉄炮を集めて喜んでいるのは、九州の大名のほかは足利将軍義輝くらいのもの。九州では実戦に鉄炮がつかわれ、大隅国では鉄炮による初の戦死者も出た。
 日本人は器用ですから、伝来してきた鉄炮を分解して、たちまち大量生産をはじめました。近江の国友村は、琵琶湖の北東にある小さな村だが、数十軒の鉄炮鍛冶がある。この国友村こそ、鉄炮製造の一大メッカだった。さまざまな大きさと形の鉄炮が試作されていった。
 世界で最初に黒色火薬を発明したのは、おそらく10世紀の中国人。硝石に硫黄と炭を粉にして混ぜると、すばやく着火、燃焼する。
 火薬をつくるうえで欠かせない塩硝は尿にふくまれる硝酸アンモニウムと珊瑚を焼いた炭酸カリウムを硝化菌というバクテリアのはたらきで硝酸カリウム(硝石=塩硝)に変成させた。
 鉛玉がそろえられないため、陶製の玉(陶弾)をつくった。土を選び、釉薬を加減して硬く焼きしめると鉛玉と同じように発射できた。甲冑(かっちゅう)への貫通力もある。
 織田軍と武田軍の長篠の戦いのとき、三段撃ちは実戦と違うという指摘がなされています。鉄炮は、設楽原に1000挺、鳶ヶ巣山を襲った別働隊に500挺。あわせて1500挺と推測しています。
 ただ、この本は従来の通説にしたがって今川義元が敗死した田楽狭間(でんがくはざま)について、狭い谷としていますが、これは間違いと思われます。実際には小高い丘の上に今川義元の本陣はあり、織田軍は、そこへ正面突破をかけたのです。小説であっても歴史物を書く以上、学説の動向をきちんとふまえておかないといけません。
 日本は明に日本刀を輸出した。一振(ふり)、二振の単位ではなく、束にして一把(ぱ)、二把の単位で数えた。値のいいときは、日本で一振八百文から一貫文の刀剣が明では五貫文で売れた。享徳2年(1453)から天文16年(1547)までのあいだに、113万8000振の日本刀が中国に輸出された。
 鉄炮伝来以来の戦(いくさ)の変容と、それを担った鉄炮衆の存在に目が見開かされる面白い小説でした。

我ら、マサイ族

カテゴリー:アフリカ

著者:S.S.オレ.サンカン、出版社:どうぶつ社
 1971年に出版された本です。現在のマサイ族にそのまま通用するか分かりませんが、先にマサイ族と結婚した日本人女性の本を読んだので、この本も読んでみました。
 少年たちは割礼式を受けると、青年として一つの入社組(エイジ・グループ)に組織される。青年が下級青年から上級青年へ昇級するときには、エウノトと呼ばれる青年昇級式がある。
 予言師は、戦争と襲撃を支配している。
 マサイは、他のマサイを殺したときだけ、殺人の罪に問われる。マサイ以外の人を殺しても、マサイの社会では、その咎を受けることはない。殺人の罪に対しては、男を殺したときには49頭の牛で償われるべきだと考えられている。
 女を殺したときの定めはない。それは、日常また戦争において、マサイが女を殺すことは伝統的にありえないとされていることによる。男が女を殺すと、不幸に見舞われ、社会的立場をなくしてしまうと考えられている。
 男が誤って女を殺したときには、贖罪の儀式をして、自らの汚れを拭って清める。そして、賠償として48頭か28頭の羊が死者の父親か親族に支払われる。
 父親が死ぬと、まず長男が父親の遺産と債務のすべてをいったん引き継ぐ。あとで、遺産と債務を弟や異母兄弟に配分する。
 母親の遺産は、末息子が全部を相続する。これは母親の老後の面倒をみるのは末息子の義務とされていることによる。
 息子のなかで遺産の相続人として明示されているのは、長男と末息子の二人だけ。ほかの息子には相続権が明示されていない。しかし、たいてい、父親から数頭の牛を生前に分与してもらっている。娘には相続権がない。娘しかいないときには、娘に私生児をうませて、男の子が生まれたら、その子を自分の実子とみなして相続人とする。
 マサイは、野生動物の肉を口にすることを禁止されている。マサイが食べるのは家畜肉のみ。
 戦いで捕虜になって連れていかれたときを除いて、マサイの女性は、他民族の男性とは結婚しない。マサイの男は、他民族の女性と結婚する。ただし、マサイの男性は、女性に割礼を施す習慣のない民族とは通婚しない。
 マサイの妻は、夫と同じ年齢集団に所属する男性のなかから好きな男性を選び、寝床を共にし、子どもをもうけることが許されている。このような婚外交渉によって生まれた子どもは、彼女の夫の子どもとして社会的に認知される。ただし、マサイの女性は、男性を厳しく選択しているし、十分な交際をして愛をたしかめない限り、男性と同衾することはない。
 マサイ族のことを、少しですが、知ることができる本です。

古代史の流れ

カテゴリー:日本史(古代史)

著者:上原真人、出版社:岩波書店
 列島の古代史・全8巻の第8回目の本です。大宝2年(702年)の遣唐使が自らの国を「日本」と名乗るまで、日本列島に形成されていた国は、東アジア世界では「倭国」と認識されていた。
 政治連合(倭国連合)全体を「ヤマト政権」、その盟主として中枢を担った政治勢力を「ヤマト王権」と呼んで区別する。
 ヤマト王権は、畿内南部地域を基盤とする。「やまと」の地域には、三輪山の西麓を中心に古墳時代前期でも古い段階の巨大な前方後円墳が集中している。
 箸(はし)墓古墳(280メートル)、西殿塚古墳(234メートル)、外山茶臼山(とびちゃうすやま)古墳(208メートル)、メスリ山古墳(250メートル)、行灯(あんどんやま)古墳(242メートル)、渋谷向山(しぶたにむかいやま)古墳(310メートル)の順に3世紀中葉すぎから4世紀中頃にかけて営まれた。これはヤマト政権の盟主、すなわち倭国王の墓ということになる。
 箸墓古墳は、260年前後に造営された。卑弥呼の没年は247年前後なので、箸墓古墳が卑弥呼の墓である可能性はきわめて高い。そうすると、卑弥呼の後継者である壱与の墓として西殿塚古墳が考えられる。
 うむむ、ここまでしぼって特定されているのですねー・・・。
 ヤマト政権の盟主墓は、奈良盆地東南部から同北部の佐紀古墳群をへて大阪平野へ移動している。大阪平野への倭国王墓の移動は、大阪平野の勢力が倭国王の地位についた結果にほかならない。
 5世紀の後半に、畿内の王と地方の首長との関係が大きく変化した。それまで「王」と称していた倭国王が5世紀後半になって、「大王」を称するようになった。
 地方の首長層は、直接、畿内の大王に仕えるのではなく、大王の下で特定の職掌を分担する中央豪族とその職掌を通じて密接につながっていた。
 6世紀の継体王統は、近江・尾張など畿内東辺の勢力が大きな役割を果たした。それまで畿内南部の大和・河内の勢力に押さえられていた摂津の勢力が、畿内東辺の勢力と提携して王権を掌握した。
 ところが、継体は、即位してから20年間も大和に入ることができず、山背など淀川水系を転々としていた。大和に入ることができたのは、それ以前の王統の血を受け継ぐ仁賢大王の娘・手白香皇女と結婚し、入り婿の形でヤマトの王統につながることができたから。
 古墳時代の倭国には夫婦合葬の風習はなかった。渡来人集団では夫婦合葬だったが、倭人集団では違った。妻は死ぬと、里方の父の墓などに合葬されるのが一般的だった。つまり、同族関係が合葬の原理だった。
 うへーっ、そうなんですか・・・。昔の日本では、夫婦は死んだら別々のお墓に入っていたのですか・・・。知りませんでした。最近、そういうのが増えているそうですが、先祖がえりなのですね。
 8世紀末ころの日本の人口は540〜590万人程度だった。
 天平7年(735年)ころ、五位以上の位階をもつ官人は、天皇に親しく仕えつつ国政を領導する「マヘツキミ」で、8世紀はじめに150人いた。ところが、天平末年から人数が増えて200人ほどになり、その後は300人台で推移した。
 奈良朝では、事務決裁は口頭でなされていた。下級者が文書内容を読申し、上級者が口頭で「宣」を下す。これが読申公文(どくしんくもん)という、律令制本来の決裁方式だった。ところが、文字文化が浸透していったので、決裁者が文書を黙読し、次々に決裁を下していく新しい方式に変わった。これを申文刺文(しんぶんしぶん)という。どちらも私の知らない用語でした。古代史の研究は相当すすんでいるようです。

福岡県弁護士会 〒810-0044 福岡市中央区六本松4丁目2番5号 TEL:092-741-6416

Copyright©2011-2025 FukuokakenBengoshikai. All rights reserved.